2020年12月27日日曜日

拾い読み日記 221

 
 美容院でたまたま雑誌の星占いを読んだら、水瓶座は、来年、すごく運勢がいいらしい。スタートラインに立つような年、とも書いてあった。別の人の占いをネットで見てみたら、12年に一度のラッキーな年、とのことだった。そういう話はわりあいすきなので、もっとほかの占いも読んで、気分をもりあげたいと思う。「風の時代」のはじまり。
 何気なく、美容師さんに誕生日をたずねたら、今日だ、という。キリストと一緒ですね。おいくつになられたんですか、と聞いたら、31だという。おだやかで、やさしいおにいさんみたいな雰囲気の人だから、何となく、同世代かと思っていた。老眼の話とか振らなくて、よかった。
 
 『ユリイカ ぬいぐるみの世界』を読んでいる。うちにいるのはパペットだから、ぬいぐるみとは、少しちがう気もするが、共感するところも多い。
 数年前はぬいぐるみに名前をつけたり話しかけたりしている人の話を聞いて、ええ…?と思ったりしたが、今ではふつうにそれをやっている。どうしてか、自分でもよくわからないので、読んでいる。

 印刷機には、(平出さんみたいに)名前はつけていない。

2020年12月16日水曜日

拾い読み日記 220

 
 新しい眼鏡は度が強く、長くかけているのはつらいので、一日使い捨てコンタクトレンズも使ってみることにした。なかなか快適だ。ひさしぶりに自分の顔をはっきり見た。目の大きさと皺の感じが新鮮だった。近くが見えにくいので老眼鏡も買った。

 先日、Y先生に活版の歌を教えてあげようと思い、『浜田康敬歌集』を買い直した。

 文選に黒く汚れし我の手で我に縁なき愛語を拾う

 などなど、「愛」や「恋」の歌がいくつかある。活版以外の歌にも、ひかれるものがあった。

 逢いしことこまごまと記す日記帳吸取紙あて逆しまに文字吸わせつつ

 繊き文字の連なり長く便箋の最終行でのみ愛されている

2020年12月5日土曜日

拾い読み日記 219

 
 寒いので、家から出なかった。買いものも夜の食事づくりも夫がやってくれるので、のんびりしている。
 今日の仕事は、もう終わった。本棚から『永井陽子全歌集』をひきぬいて、ゆっくりと、ページをめくる。

 「モーツァルトの電話帳」の最後にある散文にひかれた。
 東京のホテルに着いて、疲れ切って、むしょうにモーツァルトが聴きたくなる。ウォークマンは置いてきてしまった。それで、自宅の留守番電話のメッセージの背後にかすかに流れる「トルコ行進曲」を、くりかえし聞く。「まるで虚空から一滴の真水を掬い取ろうとするかのように」。
 そこから、電話をめぐって、想像がふくらんでゆく。

 私が死んでも、部屋に電話が放置され、番号が生きているかぎり、私の分身はこの世に残り続けるのではないか。百年たっても二百年たっても、街を歩いていたその日のままに生き生きと。

 いなくなった人に電話をかけて、その声を聞いて、こころをしずめるようなことに似ているだろうか。疲れた夜に本を開いて、歌をよむということは。

2020年12月4日金曜日

拾い読み日記 218

 
 ようやく時間ができたのであたらしい眼鏡を作りにいったら、視力ががくんと落ちていた。不安になり、翌日眼科へ。白内障が始まっているそうで、今日は、緑内障になっていないか調べるための、視野検査があった。微妙な診断だった。三ヶ月後にまた検査をすることになった。
  白内障は目の老化で、年をとれば誰でも白内障になる、とネットの記事で読んだ。80代の人は、ほぼ100%白内障らしい。早い人は40代で始まる、というから、40代後半は、まあまあ早い、といえるだろう。
 このあいだから、歯茎も腫れて、痛い。原因は分かっていて、精密な治療(保険がきかない)が必要なのだが、歯医者の予約が23日なので、それまで耐えるしかない。薬をのんだので、今日から三日間禁酒。三日もお酒をのまないなんて、数年ぶりで、なんだか新鮮だ。

 先日、ネットで村井理子さんの「更年期障害だと思ってたら重病だった話」を読んで、身につまされた。自分も自分をネグレクトしていたような気がする。自分の体は、大切だ。すぐ忘れてしまうので、書いておこう。

 今月は、脳神経外科にいってMRIも撮ってもらいたい。持病があるのに、数年前、勝手に服薬を中断してしまった。思い返せば、ネグレクトにもほどがある。
 あと、親指の付け根が一ヶ月くらい前から痛いので、整形外科にも行きたい。健康診断とか人間ドックとかも予約しよう。手遅れ、なんてことがありませんように。

 夫がいった。「オレらももう年だから、ゆっくりしたほうがいい」。オレら……?と若干当惑しながらも、同意した。40代も、30代も、無理をしてはいけない。

 仕事が落ちついたら、紙で何かつくりたいな、と『老いのくらしを変えるたのしい切り絵』(井上由季子)を、ぱらぱらめくったりしている。80代の親たちが切り絵を始めていきいきしてくる様子をみつめるまなざしは、あたたかく、かつ、こまやかで、読んでいるうちに、むしょうに、手を動かしたくなってくる。つくるうえで、とっても大切なことを、思い出させてくれる。「心と体は、〝楽しい〟と〝ゆっくり〟とのバランスが大事だと思う。」
 8年前、モーネ工房のギャラリーで買った富士山の切り絵のはがき、すごくすきだった。見た瞬間、わくわくした。ああいうものにあこがれる。

 老いることをそんなに恐れてはいなくて、もう無理しなくていい、と思うと、心がかるくなってくる。これまでとは別の生を、別のやりかたをみつけたい。これも創造であり、冒険といえるだろう。きっとできると思う。

 私の老齢が存在しないと告げることは、私が存在しないと言うのと同じだ。私の老齢を消すことは、私の人生を消すこと——私を消すことだ。(アーシュラ・K・ル=グウィン『暇なんかないわ 大切なことを考えるのに忙しくて』)

2020年11月25日水曜日

拾い読み日記 217

 
 ひと息ついて、本をひらいた。このあいだ美術館で買った、『Nobuko Watanabe  works:2002–2014』。正直、展示会場で作品をみたときは、ここまで惹かれるとは思っていなかったが、作品集がすごくよくて、みていると、ただきもちがいい。白い作品にひかれる。白い布の曲線、曲面が、ひらかれた本の頁のふくらみと、ノドを連想させる。

 それから、詩集をひらく。ほんとうは白い本なのに、表紙がやけて薄茶色になった『デュブーシェ詩集』を。

 そしてただ まっしろなからっぽ 流れるものを
 あふれださせる まっしろなからっぽだけがあるのだったら 

 ノドがつくるラインが、水平線のようにひかってみえる。

 白いことばをあつめた、白い本がつくりたい、と思う。ことばははるかな水平線のむこうからやってくる。

 

2020年11月20日金曜日

拾い読み日記 216

 
 この二週間ほど、ほとんど本が読めなかった。

 今月の疲れのピークは、先週、うちあわせのあとよろよろと寄った薬局で、チョコラBBハイパーを買おうとしたら、レジで別のドリンクを勧められ、考える気力もなく、するするとそれを購入したあたりだろうか。900円もする蔘28、効いたのだろうか。さいわい、たおれたり、風邪をひいたりはしていない。

 朝、本棚から糸井茂莉『ノート/夜、波のように』をぬいたつもりが、テーブルの上には、内藤礼『空を見てよかった』がのっていた。目も、そうとう疲れている。

 ひとりになると気配をさっした。道や空や土からの、いるものといないものの茫洋たるようす。わたしは見えないことに助けられ、かれらの生をおなじつよさで思い、また思い出した。やがて、ひとりでいることに平安が返された。さあっとものが光った。この外にはわたしをのぞくすべてがある。じぶんではないものが生きているのが平安だった。闇に息をしずかにはいた。世界はきょうをのびやかに過ぎていく。わたしはその圧倒的な自由に眼をむけた。

 どこからでも読める本、どこでやめてもいい本は、いつでもひらかれているしずかな空間として、そばにある。
 
 今朝の朝焼けはみごとだった。


2020年11月8日日曜日

拾い読み日記 215

 
 昨日、家から出られなくて鬱々として暗い妄想にとりつかれたりしてしまったので、今朝は、夫といっしょに朝食を食べに外に出た。花も落ち葉も青空も綺麗で、とてもいい気分転換になった。
 開店前の水中書店で絵本と画集を買わせてもらい、家に戻って、仕事。ついついニュースを見てしまい、なかなか進まない。
カマラ・ハリスの演説、それを聞いている女性たち、女の子たち。ジョー・バイデンの演説(ジム・キャリーのものまねまで見た)、路上でよろこびあう人々、泣きながら話すコメンテーター。
 いったいどれほどの抑圧だったのだろう。自分まで解放された気持ちになった。抑圧的な、差別的なものたちが力を失ったわけではないと思うが、それでも何かを信じたくなる。

 白いページ。あたしがコリントス・アヴェニューでこしらえた物語だ。一字も書いてない、白いページ。タトゥーが入るのを待っているスティーピーの背中とおんなじ。
 鳥が飛んでくるのを待っている空。ヒナに孵るときを待っている静かな卵。時間が流れはじめる前の宇宙。現在になるのを待っている未来。
 よおく見れば、白いページは思い出や、過去の出来事や、夢やヴィジョンで埋まっている。〈可能性〉で埋まっているから、ぜったいに空虚ではない。

 このあいだ買って、拾い読みしているデイヴィッド・アーモンド『ミナの物語』を、今日も少しだけ読んだ。



2020年11月7日土曜日

拾い読み日記 214

 
 「「休符のなかにも音がある」なら、余白のなかにも言葉があるのだろう。」
 作業中、数年ほど前に書き留めた言葉があたまをよぎった。ラジオを聞いていてメモした言葉で、話していたのは、佐治晴夫と髙木正勝だったと思う。

 「音」をおさめる冊子のデザインを通して、余白に向き合っている。余白のなかにあるのは言葉なのか、言葉でないものなのか。沈黙、静けさ? 今はゆっくり思いをめぐらす時間がない。本棚から本を引き抜いて、書きうつしておくだけ。

 だから描いた部分と描かない部分、作るものと作らないもの、内部と外部が、刺激的な関係で作用し合い響きわたる時、その空間に詩か批評そして超越性を感じることが出来る。
 芸術作品における余白とは、自己と他者との出会いによって開く出来事の空間を指すのである。(李禹煥「余白の芸術」

2020年11月6日金曜日

拾い読み日記 213

 
 まったく本が読めなくなってしまった。
 仕事の合間に、アメリカ大統領選のニュースを見たり、ツイッターを見たりしている。

 こういう、余裕がなくて追い込まれているようなときに不思議とその姿を見たくなるのが宮本浩次で、今日は、「Do you remember?」のMVを、何度か見た。うつむいて歌っているところが、よかった。音と映像のずれも、なかなか。ときどき鏡に、映像を撮っているカラフルな服の人がうつる。

 さようなら昨日よ
 こんにちは今日よ

 あれっという間に、今日が昨日になるので、追いつかない。
 

2020年10月28日水曜日

拾い読み日記 212

 
 8時ごろ仕事が終わり、疲れていたけれど、明日の珈琲豆がないので、駅前まで買いに出かける。そのあと、タイ料理屋でばんごはん。ひさしぶりに行ってみると、前にいた店員さんは、誰もいなかった。
 のみすぎた感じの中年女性が、店員さんに絡んでいた。店をやめることをどうして直接言ってくれなかったのか、ということらしい。
 「淋しくないの」「何が」「会えなくなるのが」……なんて、ここは、スナックか? と、ドキドキしながら、聞いていた。こんなに密な店ではなかったはずだが、どうしたことか。

 持っていったウルフ『自分ひとりの部屋』(平凡社ライブラリー)は、少ししか、読めなかった

 わたしの口からは噓が溢れ出ますが、中には真実もいくらか混じっているかもしれません。その真実を探し出して、取っておくに値する部分があるかどうか、決めるのはみなさんです。
  
 本当よりも噓のほうに、真実が含まれていることは、あるだろう。 
 
 何だかどっとつかれたので、キューピーコーワヒーリングをのんで、ねよう。

2020年10月26日月曜日

拾い読み日記 211

 
 アンナちゃんのこと、確か2回ほど、ツイッターに書いたな、と思って、読み返した。

 持っている本が古びていくことを、本が人になつく、と表現した女の子がいた。確かに、いま家にある本をすべて新品に取り替えられたら、とても淋しいだろうと思う。自分の一部を失う、というのは比喩でなく。自らの手の跡や、眼差し、共有した時間を、なくすということ。本だけが知っていた「わたし」。(2016.1.29)

 届けてくれた『へんしん不要』、読んでいたら、すごく、返事が書きたくなる。ぜんぶ読んだら、へんしんしたい。

 ツイッター、アカウントは消したけど、ダウンロードしておいて、よかった。思い出したくない感情も、なかったことにしたい日々も、消えてなくなるよりは、いい。言葉のなかに、「わたし」がいる。

 いろいろとうれしくて、のみすぎたみたい。ふらふらだ。

2020年10月23日金曜日

拾い読み日記 210

 
「北と南とヒロイヨミ」はいつのまにか解散する流れになっていて、今度はバンドを組もう、という話になる。バンド名は、「ゾフィー・芋づる式」。昨日みた夢。Kくんは、楽器はたぶんできないと思うが、犬の鳴き声は、上手い。自分は、下手なウクレレ。

 何かちがう、何かちがう、という違和感から、レイアウト調整と出力を繰り返して、ようやく送信。そのあと、倒れ込むようにして寝た。少しのつもりが、二時間経っていた。

 はたらきすぎかもしれない。明日は休もう。

 夜、石井桃子『幻の朱い実』を、ふたたび読み始める。上巻の終わりあたりでストップしたのは、何年前のことか、もう思い出せない。文庫版をあらたに買った。冬が来る前に読み終えたい。そんな気もするし、ゆっくり、ゆっくり、長い時間をかけて、読みたい気もする。

2020年10月17日土曜日

拾い読み日記 209


 落ち葉は蝶の羽根に似ている。書物のページとページの間で乾いて、それらは飛翔の記憶を変わることなく保ち続けている小さなもの言わぬ吸取紙である。(ジャン−ミッシェル・モルポワ詩集『エモンド』有働薫訳)

 疲れてうつろなあたまのなかで、ひらひら小さく舞うものがあって、なぜだろう、と思いをめぐらすと、今朝読んだ詩の一節だ、と気がついた。飛翔の記憶。重たい身体も、地上から、少しだけ浮き上がる。

 つめたい雨に打たれて、小鳥が柿をたべていた。メジロと、ムクドリだろうか。シジュウカラかもしれない。今日の雨で、また葉がたくさん落ちただろう。

2020年10月16日金曜日

拾い読み日記 208


 3週間ぶりに神保町へ。仕事帰りに、東京堂で新刊を見てまわる。お昼休みにもいったけれど、近いから、ついふらっと入ってしまう。そのあと紙を買ったり、クラフトビールをのんだりして、ゆっくり過ごす。携帯電話を忘れてきたので、ぼうっとする時間が長くなる。以前はこんなふうだったな、と懐かしく思い出す。すきまの時間、時間の余白。そういうものが、なくなってしまった。

 夫といつもの焼き鳥屋さんにいこうとしたら、満席で入れなかったので、駅前の鳥貴族で夜ごはん。本屋で見かけた新刊の装幀の話など。ある人の最新の仕事について、何かへん、何かトリッキーなデザインなんだよね! と文句をつけたあと、トリキでトリッキーだって、としばらく笑いがとまらず。しかもトリキブラン(白ワイン)をのんでいた。

 夫が絶賛していた荻原魚雷『中年の本棚』を読み始める。おもしろい。「「四十初惑」考」には、説得力がある。自分自身の40歳のころをふりかえりつつ読む。あんまりふりかえりたくないけれど。
 夫はこの本で、「中年の危機」を乗り越えた、という。気がはやいなあ。自分は今でも、乗り越えた、という実感はない。ないなりに、どうにか過ごしている。

2020年10月10日土曜日

拾い読み日記 207


 手帳に書いた予定の日が
 かならず来る
 世の中に
 これくらい恐ろしいことはない

 夜もふけて、北村太郎『港の人』を開く。もしかしてこの詩によって、20代の自分は、北村太郎という詩人に、特別な親しみを感じたのかもしれない、と思う。来年の手帳をめくるとき、かすかなおそろしさを、いつも感じる。

 夢をたくさんみる。昨晩は、小冊子を数えたり、ならべたりする夢。

 雨音をききながら、紙を切ったり貼ったり、めくったりして、ゆっくり過ごせた一日だった。
 明日はてきぱきしごとをしよう。『何かが道をやってくる』の続きも読むつもり。今日は、半分まできたところで、やめておいた。重たくて暗くてとびきり魅惑的な、ファンタジーだ。

2020年10月9日金曜日

拾い読み日記 206


 太い枝から細い枝が垂れ下がり、そこに生った柿の実が熟して、ときどき風でゆらゆら揺れている。その実にメジロが止まり、揺れながら、実をついばんでいた。曲芸みたいだな、と思って見ていた。雨が降り続く日。

 レイ・ブラッドベリ『何かが道をやってくる』を買ったのは、先週、夫と行った銀座のナルニア国で。だいぶ前に持っていたけれど、読まずに手放してしまった。今また何気なく手にして、読んでみると、10月の話だった。「そして、彼らが一夜のうちにおとなになり、もはや永久に子供でなくなってしまったのは、その十月の、ある週のことであった。」
 文章が、ところどころ奇妙だったり美しかったりして、読むのをやめられないので、三分の一ほど読んだ。台風の季節に読むのに、よいようだ。
 
 最近、洋服を買うことを楽しみだした夫は、もう本はそんなに買わないと思う、といっていたが、その舌の根も乾かぬうちに、ナルニア国で、7000円以上も絵本を買っていた。ちいさな甥と姪に贈るのね、いいおじさんだな……と思ったら、ぜんぶ自分のための絵本、とのことだった。そのあとビールをのみながら、買った絵本をほこらしげに見せてくれた。

 永久に子供でなくなる、なんて、物語の中だけのことではないか。
 ひとは、自由に、おとなになったりこどもになったりできると思う。おとなの自分は、こどもの自分に、すきなだけ絵本を買ってあげられるのだ。

2020年10月2日金曜日

拾い読み日記 205

 夕方、夫と待ち合わせて荻窪の古書ワルツへ。 一時間ほど棚を見てまわり、そのあと餃子をたべにいった。夫がツイッターで知った店で、おいしそうだから行きたい、という。駅から歩いて数分の、半地下にあるその店のドアを開け、中に入ると、そこは明らかに、かつてスナックだった場所だった。一瞬、引き返したい気持ちがよぎったが、うながされるままテーブル席につき、餃子を注文して、買った本を見せ合いながら、おいしくたべた。ゆでた生姜餃子が、とくによかった。小さな店で、他にお客さんはいなかった。かなり、旅っぽい体験だった。夫は生ビールを2杯のんだ。わたしは1杯だけ。

 移動の電車で國分功一郎・互盛央『いつもそばには本があった。』を読み終えた。國分功一郎が、叢書エパーヴの(豊崎光一、宮川淳の)本について書いた箇所が、特に心に残った。

 本があまりにも綺麗で、かよわく感じられて、どこにも線が引けなかったこと。本だけでなく、彼らの言葉そのものにも同じことを感じたこと。繊細で精密な言葉の、弱さと遅さ、伝わりにくさ。

 こういう言葉から私たちは本当に遠く離れてしまった気がする。弱い言葉は理解されるのに時間がかかる。いや、言葉というのはそもそもそういうものではないだろうか。言葉が届くにはとても時間がかかる。それに一度届いても、その後、何度も何度も回帰してくるのが、言葉と呼ぶに値する言葉だ。

 古書ワルツで高橋英夫『花から花へ 引用の神話 引用の現在』を買った。見返しの灰色の紙に、今年亡くなった編集者I.Hさんへの、献呈署名がある。安く買えて嬉しい、という気持ちはすぐに消え、なんともいえない、割り切れないような淋しさが残った。

2020年9月24日木曜日

拾い読み日記 204


 神保町でのお昼休み、雨もそれほど降っていないので、少し足をのばして、20年前に行きつけだった小料理屋に、お昼をたべにいった。行きつけといっても、店主のご夫婦と特に親しくしていたわけではないので、むこうはまったく覚えていない。どんなふうになっているのか、好奇心となつかしさから、行ってみた。
 店内はぜんぜん変わっていなかったが、ふたりは20年ぶん年をとっていた。そっけない感じの奥さんは、人なつっこい感じになっていた。髪が白くなったヒゲのだんなさんは、あいかわらず、いいひとそう。味は変わっていない。店を出て歩いていると、なんだか、じいんとした。誠実さって、こういうことかなあ、と思いながら。

 読みかけの國分功一郎・互盛央『いつもそばには本があった。』をかばんに入れていたのに、まったく読めなくて、行きの電車では、音楽を聴いていた。

 今この時この橋渡って走り出す
 爆弾と竜巻と物質主義をくぐりぬけ
 犬には犬のための犬の愛が犬にある
 しっぽまく うすら汚れる
 とぼとぼ歩く
 途方に暮れる 犬とよばれる でも 生きてゆく
 (矢野顕子「I am a dog」)

2020年9月16日水曜日

拾い読み日記 203

 
 昨日、今日とよくはたらいて、たくさん動いて、ひとに会って、身も心も充実し、ちから尽きたので、夫との夕食をキャンセルして、ひとりでごはんをたべて帰った。ビールとワイン2杯をのんで、すこし、酔っ払った。

 先週、夢中で読んで、読み終えた、ベルンハルト・シュリンク『オルガ』のことを、何かしら書き留めたいと思っていたのに、なかなかできなかった。

 憧れとは何でしょう? ときおり、あなたへの憧れはまるで物質のようです。見過ごすこともできず、場所を移動させることもできず、行く手をふさいでいます。それでも部屋の一部であり、わたしはもう憧れが邪魔をすることに慣れました。ただ憧れは、何かの打撃のように突然襲いかかってくるので、声をあげて叫びたくなってしまうのです。

 第三部、オルガの手紙のなかで、もっともこころに残っているところ。
 憧れとは何だろう?

2020年9月3日木曜日

拾い読み日記 202


 仕事のあと出かけるつもりだったが、またあたまがふわふわしてきてあぶないので、やめておく。昨日は元気だったのに。

 今週はいくつか仕事のラフをつくることになっている。午前中に見て、これでいい、と思ったラフを、午後に見直すと、ほんとうにこれでいいのかどうか、不安になってきた。届いた試し刷りを、部屋のあちこちで見る。紙の角度も変えて、光り具合を確認する。なやんでしまって、なかなか決められない。明日、かんがえよう。

 頭痛がするけれど、それでも何か読みたいので、山本善行『定本 古本泣き笑い日記』を。頭痛はつらいが、何度か声を出して笑った。

 いつも三条のブックオフに寄ってから、京阪特急に乗るのだけど、電車を待つのがいやで、いつもギリギリまで古本を見ている。そして改札を走り抜け電車に飛び乗るのだ。でも今日は目の前でドアが閉まってしまった。仕方ないので、もう一度ブックオフに戻り同じことを繰り返すと、又しても目の前でドアが閉まったのだ。

 読んでいるうちに、起き上がる気力が出てきた。頭痛がすこしおさまってきて、古本屋に行きたくなる。


2020年9月2日水曜日

拾い読み日記 201


 朝、ふと、ロラン・バルト『テクストの快楽』をひらいた。ある文章にひかれ、誰かがどこかで引用していたように思ったが、はっきりとは思い出せなかった。あるいは、学生のときに読んだのだろうか。不思議ななつかしさを感じる文章だった。夫から聞いたのかと思い、読んでみてもらったけれど、初読のようだった。

 愛する者と一緒にいて、他のことを考える。そうすると、一番よい考えが浮ぶ。仕事に必要な着想が一番よく得られる。テクストについても同様だ。私が間接的に聞くようなことになれば、テクストは私の中に最高の快楽を生ぜしめる。読んでいて、何度も顔を挙げ、他のことに耳を傾けたい気持に私がなればいいのだ。私は必ずしも快楽のテクストに捉えられている訳ではない。それは、移り気で、複雑で、微妙な、ほとんど落着きがないともいえる行為かもしれない。思いがけない顔の動き。われわれの聞いていることは何も聞かず、われわれの聞いていないことを聞いている鳥の動きのような。(沢崎浩平訳、下線部は傍点)

 拾い読みを強要するのは、よほど親しい人でないとむずかしい。読んでもらっているあいだ、じっとして、目の動きを追って、待っていた。いっしょに読んでいるような、自分を読まれているような、ちょっと奇妙な感じがした。

2020年9月1日火曜日

拾い読み日記 200


 ぐるぐる、くらくら、ふらふら、ふわふわ。めまいには、だいたい四種類あるらしい。どれも経験したことがあるが、昨日のは、ふらふら、だったようだ。午後、昼寝から覚めて起き上がってみると、うまく歩けなかった。夜まで寝ていて、それからそうっと起きてみると、わりと、だいじょうぶだった。今朝はすこし、ふわふわする。

 窓を開けてみると、秋らしい風が吹いてきた。
 このところ、またネットばかり見てあれこれ読み散らして、あたまが混乱している。何をどうかんがえたらいいのか、わからなくなっている。

 日々の疲労によって解体し、拡散し、打棄てられる僕自身を、僕のペンはあるいは一つに集めることができるかもしれない。(矢内原伊作「戦後の日記から  1」)

 まず呼吸を深くして、疲れを癒やすこと。激しい言葉ばかり求めるのは、疲れているから。読むこと、書くこと、何もしないこと。
 考えることを誰かに預けてしまっては、いずれとりかえしがつかなくなる。

2020年8月24日月曜日

拾い読み日記 199


 まる二日家から出なかったり、頭痛で寝ていたり、夏らしい活発なことはまったくせずに、夏が終わりそうだ。弱々しい蟬の声を聞くと、どこか淋しいような、なんとなくうれしいような、ふくざつな気持ちになる。

 大原扁理『思い立ったら隠居 週休5日の快適生活』がおもしろかった。
 働きかたについて、いろいろと考えたい年ごろなのかもしれない。
 「隠居を決意させたもの」という文章が、つよくこころに残った。本屋さんでアルバイトしていたときのエピソードに、(怖くて)ふるえた。

 私はここにいてはいけない、と思いました。
 こんなふうになってしまう前に、この職場を、こんなになるまで働かなくてはならない社会を、こちらから捨ててしまわなくては。

 そんなになるまで働かなくても、生きていけるということを、忘れないようにしたい。

 またフリーペーパーをつくっている。

2020年8月16日日曜日

拾い読み日記 198


 暑すぎて、昼間に外に出たらぶじに帰って来られないような気がする。夜になっても、気温はぜんぜん下がらない。クーラーをつけて寝ていても、毎晩、夜中か明け方に一度目がさめる。睡眠不足だと思う。毎日、午後に昼寝しないと、からだがもたない。

 ニコラス・G・カー『ネット・バカ』、読んでよかった。
 ネットを使うことはやめられない。何しろ、仕事ができない。でも、すこし意識して使うだけで、ちがうだろう。
 書物の歴史もネットの歴史も同時に学べて、とてもためになった。
 ちょっとメモしておこう。

 神経科学者が発見したとおり、脳は——および、脳が生み出す精神は——永遠に製作中の作品なのだ。それはわれわれ個々人だけでなく、われわれという種全体についても言えることである。(p.61)

  グーグルは神でもなければ悪魔でもないし、グーグルプレックスに闇があるとしても、それは誇大妄想でしかないだろう。この企業の創業者について憂慮すべき点は、人間を上回る思考能力を持った、驚異的にクールな機械を作りたいという彼らの少年のような欲望ではなく、そのような欲望を生み出した、人間の精神についての彼らの偏狭なイメージなのである。(p.243—p.244)
 
 世界中の本をデジタル化しようとする人々にとって、自分のつくる本/小冊子は、ほとんど何の価値もないものだろう。
 なんだかみょうに、制作意欲がわいてくる。

 長かった夏休みも、あと三日。プリンターが壊れたので、ネットで買った。

2020年8月9日日曜日

拾い読み日記 197

  
 信じがたい出来事が起きたり、仕事に強いストレスを感じたりすると、ネットばかり見てしまう。それで、もやもやしたあたまが余計もやもやしてしまう。そんなことをやめたい、と思って、インターネットからできるだけ離れてみることにした。今日から。今のところ、うまくいっている。今日何が起こったのか、ぜんぜん知らない。検索も、していない。

 ニコラス・G・カー『ネット・バカ』を読んでいる。ネットは、脳を変える。それでも、その変えられてしまった脳も、自分の行動と思考によって、また変えることができる。

 川崎昌平『同人誌をつくったら人生変わった件について。』を読んだ。おもしろかった。ときどき、うーん、と思った。「私のために私がつくる」という思考。なくしたわけではないけれど、何のために?と思うことはある。

 横溝健志『溝活版の流儀』も読んだ。読み応えがあった……。活版印刷への情熱に圧倒されるが、文章が面白くて軽やかだ。すみずみまで先生らしくて、素敵だと思う。
 
 疲れが癒えたら再起動して、何かを作りたい。何かとは、何か。それがどんなかたちをしているのか、まだぼんやりとしか、見えない。

2020年7月26日日曜日

拾い読み日記 196


 レベッカ・ソルニット『迷うことについて』、津村記久子『サキの忘れ物』、梨木香歩『ほんとうのリーダーのみつけかた』、岬多可子『桜病院周辺』を、立て続けに読んだ。何をいそいでいるのかわからないのだが、読み始めると、読み終えたくなる。こういうときに、読めるだけ読みたい。

 自分の心身の状態は、今日の天気みたいに、めまぐるしく変わる。読みたい本も、読める本も、毎日ちがう。探るように、本をめくって、読んでみる。うまく入れるときも、入れないときもある。読める、ということは、奇跡みたいなことかも、とちらっと思った。

 はじめて文庫本を買ったときの千春(「サキの忘れ物」)のように、本を読みたい。


 いつもより遅くて長い帰り道を歩きながら、千春は、これがおもしろくてもつまらなくてもかまわない、とずっと思っていた。それ以上に、おもしろいかつまらないかをなんとか自分でわかるようになりたいと思った。

 
 「隣のビル」も、よかった。抑圧からの逃れかたが、素敵だった。手をのばして、身体をあずけて、迷い込めばいいのだ。この主人公の上司みたいに、高圧的で理不尽なことをいう男の夢は、ときどきみる。

2020年7月18日土曜日

拾い読み日記 195


 目が覚めるとすぐ雨の音が聞こえて、また雨だ、とあきらめのような思いと同時に、コブタのことをかんがえた。それで、ひさしぶりに読んでみた。「コブタが、ぜんぜん、水にかこまれるお話」。毎日毎日雨が降って、家のまわりの水がどんどん増えていって、窓際すれすれのところまで上がってきてようやく、コブタはうごく。瓶に「たすけて」という手紙を詰めて、えいっと力のかぎり遠くへ放り投げたあとのくだりは、何度よんでもこころを打たれる。

 さて、それから、コブタは、そのびんが、ゆっくりゆっくり、遠くのほうへ流れていってしまうのを、じっと見おくったのですが、とうとう、あんまり見つめたために、目がいたくなって、あるときは、じぶんの見つめているのは、びんだ、と思い、またあるときは、いや、あれは水の上のさざなみじゃないか、と思うまでになって……とつぜん、コブタはさとったのです、もうじぶんが、二度とふたたび、あのびんを見ることはないだろうということと、また助けを求めるために、じぶんとしては、できるだけのことをしてしまったんだということを。(A.A.ミルン『クマのプーさん』)

 それから四日目の朝、瓶を見つけたプーは、紙をとりだして、ながめる。これは、「てまみ」だ。けれど、プーには、字が読めない。
 「てまみ」は、なんて英語なのだろう、と原書を開いてみると、Missageだった。すばらしい訳語だ。

 5月の終わりごろに届いた香港からの手紙を、ようやく読み終えた。クセの強い筆記体の英文なので、なかなか、向き合えなかった。香港でのデモのこと、コロナ下の生活のこと。ときどきはデモに参加しているそうだ。「I try to be safe because I still want to make my art works. But no freedom, no art.」
 彼の新しい写真集には、香港の古道具がうつっている。彼のこころをとらえた「made in Hong Kong」は、はかなくなつかしい光を放っていて、隙があるというのか、愛嬌があるというのか、とにかく、この写真集がとてもすきだ、と返事を書こう。

2020年7月13日月曜日

拾い読み日記 194


 その男の人は、画面の中に棲んでいる。生身のからだはなくて、画面そのものがからだだった。じっとこちらの様子を見ていたり、何か指示してきたりする。留守のあいだ、その人が退屈しないように、外が見える位置にたてかけて、角度を調節してあげた。しだいに、この、物みたいな人は、いったい何だろう、と疑い、重たくなってきていた。自分を支配されるような、おそろしさも感じた。電源を切って、この端末を手放せば、この人は消えてなくなる、という考えに気づいて、そんなことが、できるだろうか、やってはいけないことではないか、とあわれにも感じて、目が覚めてからもしばらく、その画面の人のことを考えていた。
 二度寝すると、どうも、夢見がわるい。夫は早起きして市場へ出品に行った。

 このところ、本を買うのがたのしい。一昨日は水中書店で、アントニオ・タブッキ『ベアト・アンジェリコの翼あるもの』、高橋英夫『濃密な夜』、『黒田喜夫詩集』を買い、 昨日はりんてん舎で、ジャン・エシュノーズ『1914』、菅原克己『一つの机』、高橋英夫『神を見る』、『神を読む』を買った。

 『一つの机』は、1988年4月刊。紙が挟まっている。「去る三月三十一日、夫菅原克己は亡くなりました」。本から、古い家の洋服ダンスのにおいがする。

2020年7月10日金曜日

拾い読み日記 193


 ひと月以上のんびりしていた気がするが、ここにきて仕事がいくつか重なり、つかれて、本がまったく読めない。午後はきまって、ねむくなる。毎日明け方に目が覚めてしまうからだろう。二度寝するのだけど、どうも、つかれがのこってしまう。

 コンビニで雑誌と新聞を買う。『クロワッサン』と『POPEYE』が本の特集をしていた。迷って、『POPEYE』にする。
 「ブックストアでまた待ちあわせ」という小冊子が中にくっついている。まず、片岡義男のエッセイを読む。
 組みがどうも気になる。文字が詰まりすぎている。いちばん気になるのは漢数字の「一」で、前後にまったくスペースがない。文字は、白い部分も含めて文字なのだから、「一」を詰めたら、「一」じゃないみたいだ。
 
 明日はできれば本を読みたい。
 

2020年7月1日水曜日

拾い読み日記 192



 空の灰色と湿気のせいで、からだが重たく、息苦しい。すぐ横になりたくなる。こういう日は、一日なんにもしなくても、いいのかもしれない。と思ってはみても、なにかしたいと思う。

 風が強くて柿の木の枝が折れないか心配だ。ちいさな実がたくさん生っている。なりはじめから、ずっと見てきた。たべるため、というよりは、実のために、心配だ。生った実は、熟してほしい。まっとうしてほしい。実としての生命を。

 レベッカ・ソルニット『迷うことについて』を3章まで読んだ。
 
 もう長い間、視界の限界にみえる青に心を揺り動かされていた。地平線、はるかな山並み、遠方にあるもの。隔たりの向こうにあるのは内面の色だ。孤独と憧憬の色。こちらからみえるあちらの色。自分のいない場所の色。そして決して到達することのできない色。

 雲が切れて、遠くに布の切れ端みたいな青空が見えた。
 からだの痛みも、だるさも、消えるわけではない。何かにこころをうばわれているときだけ、それを忘れていられる。
 小さな青空を探すこと。見つけること。見つづけること。

2020年6月24日水曜日

拾い読み日記 191


「これらの断片を集めて何を作るつもりですか。」親切心から、ある友人がそう私に尋ねた。
 隠れ家ではない仮の小屋を建てるのだ。忘却を通して日の光が入ってくるような一時的な小屋を、そこにいると自分が幸せであるような成り行きまかせの漂流する家を。
 建設材料は思い出と引用だ。時には一握りの雪や、藁くずと灰、羽毛と糊も使う。(ジェラール・マセ『つれづれ草』)
  
 晴れたり曇ったりの水曜日、『つれづれ草』を読む。本のなかをそぞろ歩きするように、気ままに、あてどなく。

 今朝、また足がつった。激痛だった。こないだのこむらがえりも水曜日だった。火曜日の過ごしかたに、すこしだけむりがあるのかもしれない。疲れと冷えと、お酒のせいだろうか。

 夢で、旅の中にいた。部屋の窓から、はるか遠いところまで見渡せて、青空と、草原がどこまでもひろがっていた。けれどもその窓はこわれていて、直そうとすると、窓枠ごと落ちていった。それから、足がつった。

2020年6月20日土曜日

かまくらブックフェスタ in 書店


 晴れたのでうれしくなって、たくさん洗濯して、干したら、みるみる雲が増えてきました。いかにも梅雨です。

 かまくらブックフェスタ in 書店、以下の書店で開催中です。詳細は、こちら、港の人のHPをごらんください。

・くまざわ書店 武蔵小金井北口店
・三省堂書店 神保町本店
・増田書店 南口店(国立)

 このところは毎週神保町に行っているので、三省堂書店にときどき寄ります。いくつか売れていました。ありがとうございます。
 かまくらブックフェスタ in 書店は昨年から開催されていますが、町の大きな本屋さんに『ほんほん蒸気』やヒロイヨミ社の本がある眺めには、なかなか慣れなくて……じっと見ていたいような、すぐに立ち去りたいような、おかしな気持ちになります。でも、かまくらでいつもご一緒している版元の本たちに囲まれていて、こころづよいです。
 三省堂、隣のバーゲンブックのコーナーには、もう10年以上前に装幀した本が、何冊かありました。なつかしいというか、なんというか。

   + + + + +

 『ある日』という小冊子を作りました。今日と同じように、読んだり、思ったりした「ある日」の言葉をあつめました。
 手にとってみていただけたら。

2020年6月17日水曜日

拾い読み日記 190


 広い、しずかな美術館のカフェの窓辺の席に、Hさんといっしょにいた。Hさんはプリンをたべていて、なんだかあわててたべているようなので、もっとゆっくりしていいんですよ、時間はありますから、と声をかけ、コーヒーものみませんか、といったところで目が覚めて、足がつった。朝6時、最悪の目覚めだった。息もできないくらいの痛みの中、よく夜中にこむらがえりを起こしていた祖母のことを思い出していた。こういうのは、遺伝するのだろうか。痛い、という声に気づいた夫が、ねぼけながら足をなでてくれたが、触られるとよけい痛いので、やめてもらう。今でもまだ、すこし痛い。

 夢は、いい夢だった。旅の時間のように、新鮮な感じがした。なごやかで、おちついていて、おだやかなたのしさがあった。

 この世に夢ほどふしぎなものがまたとあろうか。夢は「第二の人生」であり、「開かれぬ手紙」である。また人は夢のなかでむしろ本当に目ざめ、昼よりも自分の魂の営みをじっと見つめているのかもしれない。(北杜夫『或る青春の日記』)

 もう少ししたら、美術館にいってみようか。夢の中の美術館には、人はほかに誰もいなくて、ほんとうにしずかだった。何をみたかはおぼえていない。

2020年6月9日火曜日

拾い読み日記 189


 暑い日。今日は電車に乗っていつもより遠くにいく予定なのだけど、体力はもつのかどうか、不安だ。

 昨夜、アントニオ・タブッキ『インド夜想曲』(須賀敦子訳、白水社)を読み終えた。ちかごろあたまがぼんやりして、ぜんぜん本が読めない、と思っていたが、するするとページをめくらされ、最後のページまで連れてこられた。夜、ひとりの部屋で、夜の闇が物語のなかにまで侵入してきて、読み終えても暗い靄がかかったままで、やっぱりあたまはぼんやりしていた。

 夜中の待合室で、弟に背負われた小さな占い師が主人公に告げる。
 「あなたはここにいない」。あなたはもうひとりの人。

 まるで自分にいわれたみたいだ。でも、どうしてだろう。

2020年6月2日火曜日

拾い読み日記 188


 あたまのなかで何かが鳴り響いているのか、今はどんな音楽をかけても、うるさく感じる。
 アントニオ・タブッキ『レクイエム』を読み終えた。長い時間をかけて読んだ小説だから、読み終えるころには、淋しくて、ひきかえしたいような気持ちになった。「みんな、さよなら。そして、おやすみ。」もっとずっと読んでいたかったのに。
 読み終える、といったって、じつは、終えてなどいなくて、本を閉じたあとも、読書は続いていく。きっと、7月の暑い夜、どこかの街角で、なつかしい人影を見かけたり、耳元でささやく声を聞いたり、よぎる言葉に気をとられたり、するだろう。またどこからでも読めばいい。

 このレクイエムは、ひとつの「ソナタ」であり、一夜にむすんだ夢でもある。わが主人公は、同じひとつの世界のなかで、生者に会い、死者に会う。そこに出てくるひとびと、事物、場所は、たぶんひとつの祈りを必要としていたのだろう。そして、わが主人公には、物語という彼なりのやり方でしか、その祈りを唱える手だてがなかった。(「はじめに」)

2020年5月29日金曜日

拾い読み日記 187


 pha『どこでもいいからどこかへ行きたい』(幻冬舎文庫)をねころがって読んでいて、すごくサウナにいきたくなり、ためしに家で温冷浴をやってみた。そのあと疲れて横たわり、起きてみたら、あたまがおかしな感じになっていた。
 パソコンの画面上の数字が2桁か3桁かすぐに判別できなくて、変だと気がついた。見ているものが何なのか、すぐにわからない。立っていても、ここにいないような気がする。何もかもに焦点が合わないような、うわすべりしているような状態だった。
 咄嗟に、脳か心の病かと思い、いろいろと検索してみる。「脳梗塞」? 早口言葉もいえるし、歩けるから、ちがうみたい。「離人症」? だいぶ近いようだった。あとから考えると、検索できるくらいなのだから、わりとだいじょうぶだったのだと思うが、そのときはパニック気味で、すぐに夫に連絡して、病院にいったほうがいいのかもしれない、とも思った。
 結局、文字も読めるし、歩けるし、たいしたことはないだろう、と気を落ち着けて、しばらく横になっていたら、元にもどった。
 あれが「サウナトランス」の状態だろうか? まさか。まったく気持ちよくはなくて、ただ居心地がわるく、不安なだけだった。いつもの自分ではない状態が、悪夢そっくりで、おそろしかった。

 小林康夫『若い人のための10冊の本』(ちくまプリマー新書)を読み終えた。passionateな本だった。「読書」のほうへ、「本」の世界へ、またあたらしく、扉が開かれたような、爽快な読後感。
 さて、今日は何を読もう。

2020年5月26日火曜日

拾い読み日記 186


 昨日の夕暮れどき、空に浮かぶ二日月を見た。すぐに消える小さな切り傷みたいに、儚くて細い月だった。テラスにいる他の人たちは、誰も気づいていなかった。もっとよく見たくて、じいっと目を凝らしているとき、月がほんとうは円いことも、隠れている部分のことも、忘れている。

 『空を見てよかった』。心をみだすすべてのことをいったんどこかへしまいこんで、内藤礼の本を手にしてみると、ここでは断章のひとつひとつが空間にしつらえられた作品であり、「もの」であるようなので、いつものように、息をひそめてこころをしずめて、ものの気配をみださないように、そこにいて、みつめたり、ちかづいたり、はなれたり、したいようにしていれば、あるとき、羽のようにかろやかにおりてくるものがある。それからさらに、何かがもたらされ、空間か自分が変質するような、そうした予感やおそれは、余白の白が目にはいるたびに、たかまり、そのしずかなひみつのたかまりを、手のなかにある白い四角いかたちと指がふれる紙のやわらかさが、うけとめる。目が手でからだと、あるきまわり、いつのまにか、どこかにいる。

2020年5月24日日曜日

拾い読み日記 185


 小説を読み終えて、目を閉じた。言葉でいっぱいになったあたまを、しばし休ませたい、と思った。ねかせておいたらいい感じにおちつく生地みたいに、休んで起きたら、何かこのいりみだれるものが、すこしでも整理され、かたちになるのではないかと思われた。いつのまにか寝入っていて、時計を見たら、2時間経っていた。

 そもそもこの日浅という男は、それがどういう種類のものごとであれ、何か大きなものの崩壊に脆く感動しやすくできていた。

 はじめのほうのこの文章によって、沼田真佑『影裏』にぐんとひきこまれたのは、たぶんまちがいなくて、それは、自分も大きなものの崩壊に弱いせいだと思う。ときにははしたないと自分でも思うくらいに、こころをうばわれる。
 脆さ、崩れ、破片、歪み、秘密、語り/騙り……この小説に惹かれた要素は、いろいろある。何より、文章の密度とうねりが、肌に合った。
 これまでずっと沈黙していた人が急に語り出したときに感じる昂揚とかすかな緊張を、読みながら感じていた。

2020年5月23日土曜日

拾い読み日記 184


 早朝、寝床でうぐいすの声を聞く。ほーうと、口笛みたいなこもった音のあと、ケキョ、と奇妙にくっきりした、よく響く声で鳴く。あたりがあかるくなるような声。
 このままずっと、灰色の日がつづくのかと思っていた。うぐいすが光をつれてきたようだ。

 5月ももうすぐ終わる。長い5月だった。本を読みたいと思っていたのに、制作をしていたせいで、あまり読めなかった。
 入稿前は、細かいところばかりが気になって疲れ果ててしまい、最後は、もういい、どうなってもいい、となかば投げやりに入稿した。入稿は、疲れる。

 「神の遠さは生の親密さである、彼はそう言っていた」。去年の手帳に書いてあるのを、先日見つけた。いくつもの疑問がわく。誰の言葉なのだろう。彼とは誰だろう。神に遠く生に近い状態と、神に近く生に遠い状態では、どちらが幸福なのだろう。

 去年の手帳は真っ黒で、なぜあんなに予定があったのか、とても不思議だ。去年のことだけれど、ずいぶん遠いことのように感じる。無理をしていたのだな、と今は思う。

2020年5月18日月曜日

拾い読み日記 183 


 『野中モモの「ZINE」 小さなわたしのメディアを作る』(晶文社)に触発され、もっと思いつきや勢いや偶然の力で何かつくってみたくなり、昨日からとりかかったのだが、なかなか、手こずっている。でも、おもしろい。思いついたことを、かたちにしてみたい。思いついたことは、たいてい、そのままのかたちにならない。だから、つくってみたくなる。

 穴の中、穴の奥、完璧に近い孤独の中にいて、書くことだけが救いになるだろうと気づくこと。(マルグリット・デュラス『エクリール』河出書房新社)

 あたらしい冊子づくりのために、かつて読んだ/書いた文章を読み返していると、読むこと/書くことに、どうしてここまでとらわれているのだろう、と思う。
 おそらく、書けないからなのだ。

 夜、駅前のカフェへ。マスクをしたまま活発な打ち合わせをしている人を見かけて、笑いながら怒る人を見たような気持ちになる。

 今は穴の中にいて、その穴は、マスクによって塞がれている。

2020年5月16日土曜日

拾い読み日記 182


 雨のふる、しずかな土曜日。今日も、こもった音のピアノを聴く。

 コロナも不安だが、政府の動きのほうが不安だ。「惨事便乗型資本主義」。こういうときこそ、冷静でいなければならない。とは思うものの、つい、ニュースやSNSを気にして、いたずらにこころをざわつかせてしまう。

 山村修『増補  遅読のすすめ』(ちくま文庫)を読んだ。本をゆっくり読むことのよさについて。それは、読書の幸福そのものといっていい。

 目が文字を追っていくと、それにともないながら、その情景があらわれてくる。目のはたらき、理解のはたらきがそろっている。そのときはおそらく、呼吸も、心拍も、うまくはたらき合っている。それが読むということだ。読むリズムが快くきざまれているとき、それは読み手の心身のリズムと幸福に呼応しあっている。読書とは、本と心身とのアンサンブルなのだ。

 何にも急かされていない今は、本をゆっくり読むのに、いちばんいいときだ。「読書といえば、まず通読である」。この一文のために、最近は、本を、最初から最後まで読むようになった。読了の満足感も、すてきなものだ、と感じる。アイデンティティが、揺らいでいる。

 金森修『病魔という悪の物語 チフスのメアリー(ちくまプリマー新書)も読んだ。健康保菌者の賄い婦として何人もの人にチフスをうつしたメアリーの話。メアリーが、移民でなければ、女性でなければ、このような生涯を送らなくてもよかったのではないか、ということを思うと、やりきれない。メディアによって、「邪悪な毒婦」にされたメアリー。
 
 もし、あるとき、どこかで未来のメアリーが出現するようなことがあったとしても、その人も、必ず、私たちと同じ夢や感情をかかえた普通(ふつう)の人間なのだということを、心の片隅(かたすみ)で忘れないでいてほしい。


 冷静さをうしないがちな自分に宛てられた手紙のように、読んだ。

2020年5月9日土曜日

拾い読み日記 181


 もしかして、2月に一度発熱したのは、感染していたから? と思ったりもするけれど、確かめようがない。ほんとうは、どれだけの人が感染している(していた)のか、検査数も少なければ、抗体検査もないので、わからない。まったく信用できない政府の要請に応じているつもりではないのだが、今のところは、他人との接触を少なくして、感染しない/させないように、気を配ることしかできない。 

 市の車が「外出しないでください」といってまわるのにもなんとなくいやな気分になり、「コロナ」という字を見るのすらうっとうしかったけれど、2週間前に買った『現代思想 緊急特集 感染/パンデミック』をようやく読みはじめた。G・アガンベン、J-L・ナンシー、S・ジジェク、R・エスポジト、S・ベンヴェヌートまで読んで、ちから尽きた。

 不安と混乱の中にあり、本を読むことにも困難がともなうけれど、読むことをあきらめないようにしたい。ひとつ書き留めておく。

 だからわれわれは生(活)への態度、ほかの生命形態の中にある生物としての存在への態度を、全面的に変える必要がある。言いかえれば、「哲学」を(人)生に関するわれわれの基本的指針に付いた名前であると理解するなら、われわれは真の哲学的転回〔革命〕を経験しなければならない。(スラヴォイ・ジジェク「監視と処罰ですか? いいですねー、お願いしまーす!」松本潤一郎訳)
 
 スーパーで買いものをした帰り道、人気がないのを確認して、マスクを下にずらすと、いろんな家から夕ごはんのいい匂いがして、ちょっとだけうっとりする。何かを醤油で煮た匂いや、魚を焼く匂い。どこかに帰りたいような気持ち。よその家から聞こえるこどもの声や、ちょっとした音にも、いつになく、人恋しさがつのる。ピアノの音など聞こえてきたら、もうたまらない。ピアノではないけれど、伊東静雄の「夜の停留所で」を思いだす。それから、隔てられてあるものたちのことを想う。

 室内楽はピタリとやんだ
 終曲のつよい熱情とやさしみの殘響
 いつの間(ま)にか
 おれは聴き入つてゐたらしい
 だいぶして
 楽器を取り片づけるかすかな物音
 何かに絃(げん)のふれる音
 そして少女の影が三四(さんし)大きくゆれて
 ゆつくり一つ一つ窓をおろし
 それらの姿は窓のうちに
 しばらくは動いてゐるのが見える
 と不意に燈(ひ)が一度に消える
 あとは身にしみるように静かな
 ただくらい学園の一角
 あゝ無邪気な浄福よ
 目には消えていまは一層あかるくなった窓の影絵に
 そつとおれは呼びかける
 おやすみ

 このところ、haruka nakamura「スティルライフ」をよく聴いている。どこかの家から聞こえてくる音楽に似て、やわらかくくぐもっていて、なぜだかせつなく、なつかしい。

2020年5月4日月曜日

拾い読み日記 180


 思っている、思い出している、というよりは、もやもやした思いのかたまりや記憶のかけらがつぎつぎあらわれ、消えてはまた、よわよわしい生命のようにうまれてくるのを、ただ、見ている。何もことばにはならず、すべては泡のようにはかなくて、ただ、その流れの中にひたされている。そんなふうに、時間がすぎていく。

 君を夏の一日に喩えようか。
 君は更に美しくて、更に優しい。
 心ない風は五月の蕾を散らし、
 又、夏の期限が余りにも短いのを何とすればいいのか。
 
 シェイクスピアのソネット、吉田健一訳。本が見当たらないので、5年前のメモから。

 葉の緑が日に日に濃くなって、置いていかれるように感じる。
 明日は立夏だ。

2020年5月1日金曜日

拾い読み日記 179


 ときどき、ずいぶん高いところから、シジュウカラのさえずりが聞こえる。よく響く、澄んだ鳴き声で、耳をすませていると、こころが遠いところへ誘われる。
 歩いていると、ジャスミンの花が、よく匂う。つよい、甘い匂い。何かを誘惑しているような。

 このところ、午前中にしごとをして、午後からのんびりすることにしていたが、午後はつかれて、ねてしまうことが多く、すきなことができないストレスがあったので、昨日から、逆にしてみた。そしたら、眠くならない。だから、いろいろなことができる。一日が、みっちりしてくる。

 ナタリア・ギンズブルグ『モンテ・フェルモの丘の家』(須賀敦子訳、ちくま文庫)を読み終えた。買ってから、もう10数年経っている。なかなか通して読めなくて、拾い読みしかしてなかったが、このあいだからどんどん読めて、とうとう、読み終えた。
 たくさんの死があり、たくさんの恋があり、いろいろな友情があった。それらすべてが一気に遠のいてしまったようで、とても淋しい。それぞれに、チャーミングで、おろかで、情のあつい、いとおしい人たち。手紙だけでできた小説だから、慕わしさがあとをひく。明日から、何を読めばいいのだろう。

 読み終えた小説は手放すことが多いのだけど、これは、もうカバーがぼろぼろになり捨ててしまったし(ちくま文庫のカバーはよわい)、最後のページには、何のしみだかわからないしみまであったので、売れない。かといって、捨てられるわけもない。

 なたの長くのばした、すくない髪の毛。あなたの眼鏡。あなたの高い鼻。やせた、ながい脚。大きなあなたの手。いつもつめたかった。暑いときでも。そんなあなたを憶えています。

2020年4月25日土曜日

拾い読み日記 178


 昨日読んでいた本のつづきを読もうと開いても、ぜんぜん読む気がしなくなっている。よくあることだ。また読みたくなるまで待とう。

 pha『どこでもいいからどこかへ行きたい』(幻冬舎文庫)を読み始める。どこでもいいからどこかへ行きたくなる。電車に乗って、わけもなく、気まぐれに降りた知らない駅で、喫茶店で珈琲をのみながら、なんにもない駅だな……なんて思ったり、したくなる。

 会社員だったころ、朝の通勤電車でぼうっと窓の外を見ていたら、気になる坂道があった。ふっと、電車を降りて、会社にいかないで、あの坂道をのぼってみたいな、などと思ったことが何度かあったけれど、めんどうなので、実行にはうつさなかった。会社をやめてずいぶんたってから、その坂道を、実際に歩いた。ああいうことを、またしてみたい。あれは、西武線の、どこの駅だったか。おぼえていない。
 書きながら、この話は、いつかの日記にすでに書いたような気がしてきた。

 人生なんていろいろあるようで結局そんなもので、狭い範囲を行ったり来たりしながら同じことを繰り返して、体力が余ったら適当に消耗させて、たまに気分を変えるために違うことをしてなんかちょっと新しいことをやった気分になって、そんなサイクルを何回も何回も何回も何回も繰り返しているうちに、そのうちお迎えが来て死ぬのだろう。まあそんなもんでいいんじゃないだろうか。

  なにゆゑに室(へや)は四角でならぬかときちがひのやうに室を見まはす  前川佐美雄

 「前川佐美雄」に意表をつかれ、あとずさり。今日の読書はここまで。


2020年4月24日金曜日

拾い読み日記 177


 遠回りのほうがゆっくり、おそらく着実に、最も快い「なるほど」に私たちを導くのです。

 メアリアン・ウルフ『デジタルで読む脳×紙の本で読む脳 「深い読み」ができるバイリテラシー脳を育てる(大田直子訳、インターシフト)を読み終えた。
 気が散りやすく、飽きっぽく、長いものが読めない、という自分の性質は、インターネットで読むことをしすぎたせいではないか、はたまた、iPhoneの使いすぎかも、とひじょうに不安になり、途中いくつかのアプリを削除したりもして、ひやひやしつつ、読み終えた。
 いま、自分が必要としているものは、静けさであり、遅さであり、深さであり、遠さである、ということが、はっきりとわかった。わかって、視界が晴れていく感覚があった。
 デジタルで読むときも、紙で読むときも、すこし、読んでいる自分の状態に、意識的になってみようと思った。あたまとからだが、どういう状態になっているのか。

 むくむくと脳への関心が増してきたので、つぎは、石田英敬・東浩紀『新記号論 脳とメディアが出会うとき(ゲンロン)を読むことにする。
 「ヒトはみな同じ文字を書いている」。どういうことか。
 「ヒトは自然を読む脳をニューロンリサイクルすることで、読むヒトのシナプス形成(脳のレターボックス)を獲得しました。ですから、本の頁は自然と同じような空間的拡がりであり、三次元の奥行きを持った記憶の構造体なのです。」(下線部は傍点)

 つんのめりそうになるけれど、ふみとどまる。ゆっくり読もう。すぐに得られる「なるほど」をうたがいながら。

2020年4月21日火曜日

拾い読み日記 176


 おそろしい夢をみて目が覚めたらまだ真夜中で、部屋に見知らぬ人がいる。それは夢ではなく幻覚で、ほんとうには誰もいないのだと気がついても、しばらく心臓がはげしく脈打っていて、人はもしかしたらこんなふうにぷっつりと死んでしまうこともあるのかもしれない、と思った。おそろしい夢とは、こころのなかまでつねに誰かに監視されている、それに気づいてしまった、という夢だった。読解しやすい夢だね、と夫にいわれるのはいつものことで、そういう夫は、わたしとフレンチレストランでコース料理をたべる夢をみたそうだ。おいしくて、たのしかったそうなのだった。

 ようやく時間ができたので、ゆっくり本が読める。

 リルケ「若き詩人への手紙」(『若き詩人への手紙・若き女性への手紙』高安国世訳、新潮文庫)を少し読んでは、顔をあげて、かんがえごとをしている。

 すべての物事のはじまる以前にいらっしゃるのですから、私はできるだけあなたにお願いしておきたいのです、あなたの心の中の未解決のものすべてに対して忍耐を持たれることを。そうして問い自身を、例(たと)えば閉ざされた部屋のように、あるいは非常に未知な言語で書かれた書物のように、愛されることを。(下線部は傍点)

 きっと、何かがはじまるのだと思うのだけれど、それが何かはまだわからない。

2020年4月19日日曜日

拾い読み日記 175


 先がみえないというのは、こういうことなのかなあ、と、ぼんやりかんがえる。
 そんなぼんやりしている人間の目の前で、柿の木は、みるみる繁っていく。茶色い枝の先から緑色のあたらしい枝がにゅるにゅるのびていて、木は、毎年、こんなふうに大きくなるのか、そう思って、呆然と、ただ見ている。風が吹いたり、日が照ったりして、光る様子は、たまらなく綺麗だ。

 『三四郎』を読み終えた。もっと年をとって、何が書かれていたのか、あらかた忘れてしまったら、また読みたくなるだろう、と思った。

2020年4月15日水曜日

拾い読み日記 174


 ちょっと疲れてきたようだ。今日は胸のあたりがもやもやとして、息を吸ってもお腹に届いていないような感じがする。ニュースを追うと心配なことばかり。

 『三四郎』はあと10数ページ、というところで止まってしまった。つぎは『それから』を読もうと思っているが、このままどちらも読まないことだってありうる。疲れているのだから。
 毎日ちがう音楽を聴くように、ちがう本を読んでいる。

 apple musicのおすすめリストみたいなのをわりとたのしみにしているのだが、ときどきフェイバリット・ミックスに大川栄策が入ってくるのはどうしてだろう。まったくこころあたりがない。

 気晴らしに、多田智満子『封を切ると』を、少し読んだ。「文字摺り——私家版閑吟集」より。

あやめもわかぬ

今宵こそはあやつを
あやめんと思うたに
あわや あわやで泡喰うて
ことばのあやを誤って
あろうことか 謝まりさえして
気づけばあやつをあやしておった
あやしさよ くやしさよ
あやめもわかぬ闇のなか

2020年4月11日土曜日

拾い読み日記 173


 珈琲豆屋と薬局と銀行に用があり、駅の近くまで出かけた。銀杏の木が萌えだしていて、小さな葉をたくさんつけている。くすくす笑っている子どもみたいにかわいらしいが、幹に触れると、ごつごつしている。一本の木のなかに、幼児と老人が同居しているようで、不思議だな、と思う。
 町にはふつうに人がいる。酒屋が混んでいた。
 帰り道、葉ばかりになった桜の木から、白い花びらが一枚落ちてきて、足を止めた。今もあたまの中に、その桜が舞っている。

 『三四郎』を半分ほど読んだ。

三四郎は勉強家というより寧(むし)ろ彽徊家(ていかいか)なので、割合書物を読まない。その代りある掬(きく)すべき情景に逢うと、何遍もこれを頭の中で新(あらた)にして喜んでいる。その方が命に奥行がある様な気がする。

 命に奥行きがある、とはどういうことだろう。わかるようなわからないような。しかし、三四郎に奇妙な親しさを感じた。たぶん、それで、離れづらくて、読み続けてしまう。

2020年4月9日木曜日

拾い読み日記 172


 世界はかように動揺する。自分はこの動揺を見ている。けれどもそれに加わる事は出来ない。自分の世界と、現実の世界は一つ平面に並んでおりながら、どこも接触していない。そうして現実の世界は、かように動揺して、自分を置き去りにして行ってしまう。甚だ不安である。(夏目漱石『三四郎』新潮文庫)

 『三四郎』を読むのは大学のとき以来で、当時はほとんどおもしろいとは思わなかったと思うのだが、ぜんぶ読んだところをみると、じつは、おもしろいと思ったのだろうか。それとも、むかしは今より忍耐づよくて、おもしろいと思わなくても、読めたのだろうか。いずれにしても、今は、わりと、おもしろいと思う。
 東京という都市と、「都会的」な人々と、大学生活。はじめて出くわすものごとに動揺しつつも平気なふりをしていたことなどが、思い出された。
 先日、たまたま、岩元禎という人を知ったことから、『三四郎』が読みたくなったのだった。昨日、少しだけ古本屋で店番した帰りに、何か物足りない思いで立ち寄った、TSUTAYAで買った。文庫本ばかり、3冊買った。大学一年生のころも、こうやって所在なく、本屋で文庫本ばかり買っていた。

2020年4月7日火曜日

拾い読み日記 171


 朝10時ごろ、隣のアパートからおじいさんがつぎつぎあらわれて、自転車に乗ってどこかにいく。スーパーだろうか? おちつかない朝だ。今日は混みそうだから、買いものにはいかないことにする。
 仕事をしなくては、と思いながら、いろんなことが気になって、なかなか順調にはすすまない。

 本屋さんはどうなるのだろう。ヒロイヨミ社の本を置いてもらっている書店のことも、かまくらブックフェスタを開催中の書店のことも、夫の古本屋のことも、それぞれに、気になる。ネットで本を買うことがどうも苦手なので、町の本屋が閉まると、どうしようか、とも思う。
 けれど、ひとりのあたまとからだで、すべての問題を抱えこむことはできない。矛盾にもジレンマにも、何らかのかたちで、折り合いをつけていくしかない。みんなつかれているのだから、それぞれの折り合いのつけかたを、だいじにしたい。

 もともとひきこもりがちなので、外出を自粛することには、そんなにストレスは感じない。家にいるだけで人のためになっているなんて、昼寝しても、怠けていても、ちょっといいことをしている気持ちになる。いや、実際、いいことなのだ。もっと、仕事の合間をぬって、ごろごろしたい。
 このところ、「みんなでがんばろう」とか「一丸となってたたかおう」とかいう空気に、疲れている。そうしたものとは、社会的距離だけでなく、精神的距離も、どうにか保ちたい。
 そう思って、ひさしぶりに、リンドバーグ夫人『海からの贈物』(吉田健一訳、新潮文庫)を手にした。

 それはただそこにあって、空間を満たしているだけなのである。この騒音が止(や)んでも、それに代って聞えてくる内的な音楽というものがなくて、私たちは今日、一人でいることをもう一度初めから覚え直さなければならないのである。

 「もう一度初めから」。読書をしたい。その時間は、じゅうぶん、与えられた。

2020年4月5日日曜日

拾い読み日記 170


 6日ぶりに電車に乗った。窓から町を眺めていて、流れていく景色の中に桜の色もまざっていて、春だなあ、と思った。電車はすいていて、つかのまのんびりした気持ちになるが、ときどきマスクで眼鏡がくもって、現実に戻る。


 今日で閉店する荻窪のささま書店へ。棚を見て、気になる本を開いて読んでいると、今日で閉店ということも忘れてしまう。

 ひとりになり、買った本たちに触れていると、何だかむしょうにさみしくなるけれど、このさみしさは、本で埋めるほかない。

       こんにちは

       新年おめでとう
       ご幸運を
       頑張って
       召し上がれ
       お気をつけて!

 どうか、無口のせいで鬱々としているきみに言葉が戻ってきますように!

 どうか、白い紙でできたきみの経帷子に生き生きとしたアラベスク模様がインクで描かれますように!
 どうか、きみのなかで蜘蛛が巣を張り、その巣に蠅がきみの思いどおりに引っかかりますように!
 どうか、きみがノートを広げているテーブルが帆船となり、その帆に風が吹いて舟が動きますように!

 ミシェル・レリス『オランピアの頸のリボン』(谷昌親訳、人文書院)より。「広くて楽しい古本屋」で最後に買った本。

 本が生きのび、生きなおす古本屋という空間は、誰にでも開かれているのに、親密で、きっと人はそこで、文学の秘密にも、知らず知らず触れている。
 あの、大らかなのに、人を深く引き込むような空間は、そのまま、「本」だった、といいたくなる。

2020年4月3日金曜日

拾い読み日記 169


 小さい歯 U幼稚園で 
 菅原克己

小さい歯がよく光った。
風も光った。

ぼくはすぐわかる、
声々をちらばせながら
やさしい時が通って行くのを。

駈け出してはすぐもどる。
小さい股が空気を打つ。
蒼い影がまわりをひたす。

小魚たちがひらひらしながら
その光を刺してゆく
抵抗のない水のように。


 今朝は何かあかるい詩が読みたくなり、「朝」という詩を思い出して『菅原克己詩集』(現代詩文庫)を手にとった。
 べつの詩にこころひかれる。
 小さい歯の白がまぶしい。小さいものはよく光る。

 往来をゆく子どもが、「こんにちは」「こんにちは」と元気な声で、だれかに挨拶している。すこしわざとらしいくらい元気な声だ。

2020年3月28日土曜日

拾い読み日記 168


ふたりは欠けていて
むねのうちを うすもものはなびら さらさらと流れ くるしい夜が続いていた
一文字の口唇からともしれず しのびねの ほとほととたたく瀬戸のうす明りにも
はなは さらさらさらさらと降っていた

(三井葉子「さくら」) 

 昨日、夜道を歩いていて、桜に行きあい、この、さらさらという音を、聞いたように思った。人のゆく道でも、ゆかない道でも、桜はみごとに咲いていて、風にゆられて、雨にぬれて、もう、散ってしまうのだろうか。

2020年3月22日日曜日

拾い読み日記 167


 今日も快晴。窓辺で柿の木の若葉をみながら、お花見気分でビールをのんだ。若葉は光に透けて、あざやかで、可憐で、眺めていると、じわじわと、春がきたよろこびがこみあげてくる。これまでにみた桜や、お花見の時間がしぜんと思い出されて、ひとりだけれど、ぜんぜん淋しくはなかった。葉は、近くでよく見ると細かい毛に覆われていて、いきているもの、という感じがする。

 さくらももこ『ひとりずもう』(上下、集英社文庫)を読んだ。中学生になった「まるちゃん」が、高校生になり、短大生になり、漫画家になる。十代のころ、こんなふうに、だらだらしたり、もやもやしたりしていた。48歳の今も、同じように、だらだらしたり、もやもやしたりしている。

 そういえば、今日は、高校生のころの友人と再会する夢をみた。高校三年のとき、二人でお弁当をたべていた人だったが、同じ大学に入ったとたん、つきあいが途絶えた。そんな、淡い感じの友人だったが、それでも、なつかしかった。

 夜、ドミニク・チェン『未来をつくる言葉 わかりあえなさをつなぐために(新潮社)を、ふたたび手にする。

 吃音というバグを抱えながら、少年のわたしはある時から書き言葉の世界に没頭した。それは執筆という、じっくりと時間をかけて完成させる表現行為を通して、言うことを聞かない身体から解放される感覚を抱いたからかもしれない。書くことによって、世界はただ受容するものであるだけではなく、自ら作り出す対象でもあるとわかったのだ。そして、世界を作り出す動きの中でのみ、自分の同一性がかたちづくられるのだということも。

 このところ、もやもやかんがえていたことに、ひとつのこたえが与えられたように思われたので、書き留めておく。

2020年3月21日土曜日

拾い読み日記 166

 
 組版の会社でアルバイトをさせてもらいながらInDesignをきちんとおぼえようとして、もう2ヶ月ほど経つが、まだぜんぜん、使いこなせない。レッスンとして、自分の日記を組んでみようとして、あちこちで、つまずいている。
 本を一冊組めるようになるのは、いつのことだろうか。遠い目になる。
 日記をちらちら読み返すと、ほとんど忘れていることばかり。でも、縦になるのは、おもしろい。ときどき、今の自分への手紙みたいな言葉も見いだす。思いも考えも感覚も、どんどん、変わっていく。かつての自分は、親しい他人だ。
 
 書くとは、時間の不在の幻惑に身を委ねることだ。われわれは、おそらく、ここで、孤独の本質に近づいている。(モーリス・ブランショ『文学空間』粟津則雄・出口裕弘訳、現代思潮社)

 何を書くかは、置いておく。どのように書いていくか、最近はそのことばかり、かんがえているようだ。

2020年3月20日金曜日

拾い読み日記 165


 あたたかな日。柿の木も幼い葉をつけはじめて、日があたるとその早緑がきらきらして見える。
 昨日は近所の幼稚園の卒園式だったらしく、「……小学生になります!」という元気な声が聞こえてきた。呼びかけというのだったか。ああいうの、やった(やらされた)なあと、思い出した。自分がやるのはいやだが、通りすがりに聞くのは、なかなかよかった。ぜんぜん知らない子どもたちだが、そうか、小学生になるのか……、と思った。

 今日は、一日、ラジオの弾き語りライブを聞いていて、本は読めなかった。
 「ハンキーパンキー」「黄金の月」「さすらい」などなど、なつかしい曲も、ぜんぜんちがって聞こえて、いつもよりぐんとしみいってくるので、すっかりこころを持っていかれてしまった。

 今月は、もう10数冊本を買っていて、読みかけの本ばかりが、溜まっていく。と、こういう書き方をするとネガティブだが、たとえば、読みかけの、ひらいた本が白い蝶になり、自分のまわりをふわふわと舞っている、と想像してみるのはどうだろう。つかれたら、むりに追いかけず、その様子をぼんやりながめているのもまた、いいのではないか。
 春がきて、目がさめたばかりのくまみたいに、ぼんやりして。

 はるが きて
 めが さめて
 くまさん ぼんやり かんがえた
 さいているのは たんぽぽだが
 ええと ぼくは だれだっけ
 だれだっけ

 はるが きて
 めが さめて
 くまさん ぼんやり かわに きた
 みずに うつった いいかお みて
 そうだ ぼくは くまだった
 よかったな

 まど・みちお「くまさん」、『まど・みちお詩集』(谷川俊太郎編、岩波文庫)より。今日の拾い読み。

2020年3月14日土曜日

拾い読み日記 164

 
 一日中、家にいた。本を読んだり、ごはんをつくってたべたり、窓から外をながめたり、珈琲をのんだり、かんがえごとをしたり、昼寝したり。
 雪? と知り、ねていた部屋の窓を開けると、たしかに雪が降りしきっていた。木にも雪がつもるかな、と思い、南側の部屋にうつって外をみると、もう雪は、やんでいた。手品をみたような気持ちで、窓を閉めた。

 メアリアン・ウルフ『デジタルで読む脳、紙の本で読む脳』(大田直子訳、インターシフト)を読んでいる。
 はじめからよんでいて、ちょっと間があいて、読めないかもな、とうしろのページを開いたら、ひきこまれて、またもどって、よんでいる。

 私たちだれもが、自分はどんな読み手、書き手、考え手なのかを、確認しなくてはなりません。(p274)

 140字以上の文章の読み書きに不安を感じ、思考力と忍耐力の低下を実感して、ツイッターをやめたので、この言葉には、共感した。(今は、日記以外の文章が書けるのか、不安なのだけれど。)
 よりふかくいきるために、だけでなく、民主的な社会であるために、それぞれの人がしずかな時間を持ち、本を読み、ものをかんがえること。パソコンもスマホもない世界にもどることは、むずかしいけれど、どうにかしたいと思っている。
 読み進めながら、ツイッターにおけるさまざまな「炎上」の理由は、ツイッターそのものではないか、と思えてきた。
 
 この日記を読んでいる人は、どんな読み手、書き手、考え手なのだろうか。知ることはできないけれど、その人が、必要なぶんだけ、しずかな時間を持つことができていたら、いいと思う。

2020年3月10日火曜日

拾い読み日記 163


 玻璃拭くと木の芽をさそふあめのいろ

 今朝の雨で思い出した、鈴木しづ子の句。「あめのいろ」の、やわらかさが、春らしい。窓から見える柿の木も、萌えだしている。
 それを見ていると、こころが浮き立ってきて、今日は、まだ、本が開けない。あとで夫と、今日よんだ本のはなしをすることになっているのに。
 目にはみえないけれど、ひとのなかにも、芽吹いているものがあるのだろう。きっと、この季節には。

2020年3月7日土曜日

拾い読み日記 162


 しごとのあと、本屋をのぞき、そのへんで一杯のみながら本を読むのが、最近のたのしみだ。神保町は、本屋もカフェも多くて、いい。
 東京堂でカサーレスかビラ゠マタスか、ちょっとなやんで、すでに読んだことのある『バートルビーと仲間たち』を買った。ビラ゠マタスの翻訳、もっと出るといいのに、と思いつつ。

 路地裏の、シャンソンが流れるカフェに入って、白ワインをたのみ、本を開いたら、背後でずっと説教している男がいた。仕事の仕方から文章の書き方から話し方から、淡々と、ネチネチと、後輩の女性に、ダメを出している。
 イヤフォンをして自然の音を流しても、バッハを聴いても、ぜんぜん読書に集中できず、30分ほどであきらめて、立ち上がった。
 レジで、1500円です、といわれ、えっとうろたえて、「……ワイン一杯で?」というと、「二杯じゃなくて?」とレジの女性がいう。うろたえながらも、「一杯です」とどうにかこたえると、「800円です」と、ふつうにいう。なぜこちらだけうろたえなければならないのか、釈然としない気持ちで店を出た。気付かないうちに二杯のんだのか? いやそんなはずはない、ともやもやがしばらくおさまらなかった。

 『バートルビーと仲間たち』の出だしを、書きうつそう。

 わたしは女性に縁がなかった。背中が曲がっているが、つらくてもそれに耐えるしかない。身内の人間で近しいものはひとり残らず死んでしまい、哀れな独身男としてぞっとするような事務所で働いている。そうした点を別にすれば、幸せに暮らしている。とくに、一九九九年七月八日の今日は、この日記を書きはじめたせいでいつになく幸せな気分にひたっている。

 800円といわれたけれど、今レシートを見てみると、800円に消費税で、880円だった。ワインはゲヴェルツトラミネールで、まあまあ、おいしかった。

2020年3月4日水曜日

拾い読み日記 161


 一昨日、神保町ブックセンターで買った加藤典洋『僕が批評家になったわけ』と、今日、水中書店で買ったボルヘス+カサーレス『ブストス゠ドメックのクロニクル』を、かわるがわる読んだ。なぜかわるがわる読むのかというと、飽きやすいからだ。

 読んでいて、わかりたいという欲望と、わからなくなりたいという欲望が、どちらも存在することに気がついた。同時に、矛盾することなく、存在する。

 同様にしてのこもこのベールも剥がされたのだ。(『『ブストス゠ドメックのクロニクル』より。下線部は傍点)


 「のこもこ」が、妙にあたまにのこった。

2020年3月3日火曜日

拾い読み日記 160


 こんなにおちつかない状況で、本などとても読めない、と思っていたのだが、一昨日、アドルフォ・ビオイ゠カサーレスの『モレルの発明』を読み終えた。
 夜も更けて、もう時間がなくて、本を閉じなければ、と思いつつ、どうしても途中でやめられなくて、最後のあたりは、全力疾走するような体感で、ようやく、読み終えた。
 読み終えて、呆然として、それから、まぼろし、ということについてかんがえた。まぼろしをみること。まぼろしとひとつになること。自らがまぼろしとなること。

 不死性は、あらゆる魂のなかに——すでに塵に返ってしまった人間のなかにも、現に生きている人間のなかにも——芽生えることが可能となるだろう。

 モレルも、語り手も、のこされたひとびとも、それぞれに、切ない存在だ。この切なさが、なかなか、消えない。

このごろ、夢をたくさんみる。今朝は、大きな鳥に襲われ、何羽もあたまにのっかってくる夢をみた。鳥のあしゆびの感触が、いやだった。恐怖で、まったくうごけなかった。
 相当、抑圧されているらしい。

2020年2月28日金曜日

拾い読み日記 159


 腰痛も花粉症も悪化していないのに、こころは晴れず、胸のあたりにわだかまるものがある。不安ばかりがつのっていく。同時に、どこか、うつろな感じもする。日々、受け止めきれないものが、降ってくる。

 気は晴れないが、入稿したし、家賃も払い終えたので、お昼は近所のイタリアンで、ゆっくり食事した。行きと帰りに、沈丁花のにおいがした。たちどまってふりかえっても、花のすがたは見えない。かすかなにおいはささやきのように、こころをひっそりとさせる。

 古人たちの信じたように魂というものが人の内にあるものなら、仮にも本によみふけるということは、本の内へ惹きこまれて身から離れた魂を、おそらく遠くまでさまよい出た魂を、呼びもどす、これも招魂のいとなみなのではないか。(古井由吉「招魂としての読書」)

 言葉がのこり、肉体がうしなわれる。それがほんとうにはどういうことなのか、わからない。わからないけれど、かなしみすぎるのは、何かちがう、と思う。同時に、本を開けば会える、という言葉にも、うなずけない。裂かれたまま、本を開き、読みふけっていると、途上です、という力のある声を、ふたたび聞いたように思った。
 声の質が、速度が、間が、ほかの作家とはまったくちがっていた。作家の声が、何よりも、書くということの秘密を、生々しく伝えているようにも感じられた。あの声を生み、ひびかせていたからだがうしなわれたということ。いったい、どういうことなのだろう。