2021年7月16日金曜日

拾い読み日記 256


 梅雨明け。青空がひろがっても、なお心身を重たくするものたちがあって、それらをどうにか振りはらうため、『一つの机』という詩集から、一篇の詩をうつしておこう。

   夏の手帖に  菅原克己

 隣のこどもの
 声がする。
 ——行ッテマイリマス!
 はじけるような声だ。
 それから二時間もたつと
 また元気のいい大声が戻ってくるだろう。
 ——タダ今!
 彼は真ひるの二時間を
 どこの空間を駈け廻っていたのか。
  
 ぼくの部屋のまわりは
 緑が濃くて、
 ひるでも暗い。
 ぼくはそのなかで、
 ピカピカする
 夏のこどもを追いかける。
 
 おお
 光いっぱいの
 隣りの子の夏だ。
 いま野球帽をかぶった彼は
 どこにいるのか。
 年とったぼくの
 どのへんにいるのか。


 寝る部屋が通学路に面していて、朝と午後の、こどもたちのうるささに辟易している。大声はまだいいが、キエーッとかいう奇声には参る。ときどきは、かわいらしい会話も聞こえる。何味のかき氷がすき?とか。
 辟易しているが、元気なことには、安心もする。誰にも虐げられず、誰の顔色もうかがったりしていない、のびのびしたこどもたち。
 光のなかで、安心して、夏をすごせますように。

2021年7月11日日曜日

拾い読み日記 255

 
 昨日、宮下香代さんの展示を見に、蔵前の水犀へ。ゆらゆらゆれるモビール、和紙とワイヤーの繊細なオブジェ。風と光とたわむれる造形のあいだで、幸福な時間をすごした。かよさんには会えなかったが、展示のときに作家がいないと、実際に会えたときより、「会えた」感じがする。
 そのあと、蕪木という喫茶店にいってみた。すこし入りづらい、すみずみまでつくりこんだ空間だった。喫茶店というよりは、喫茶店という表現なのだった。どきどきしながら、ドアを開けて入った。薄暗くて、メニューが読めない。老眼鏡を忘れてきたことに気づいて、万事休す、とあせったが、どうにか念力で読んで、「琥珀の女王」というアルコール入りののみものをたのんだ。1000円。手持ちぶさたで、本や手帖をぱらぱらめくって過ごす。けっこう待たされたが、のみものはとても美味しくて、もう一杯のみたいくらいだった。

 6時半。いそいで駅に向かう。どこかで一杯やりたい。しかしなかなかお店が見つからなくてうろうろ。7時10分前になり、あせって、つかれて、何をやっているんだろう、と思う。それでも今日は、意地でも外でのもうと思い、ようやく、気楽な感じのお寿司屋を見つけて、入ってみた。常連の人たちが3人、それぞれに、仕切られたカウンターでのんでいた。その人たちの背中をみながら、ゆっくりのみくいしつつ、どことなく、旅情を感じていた。よく知らない町でのむことは、ほとんど、旅だと思う。かばんに入っていた文庫本(『動物と人間の世界認識』)は、ぜんぜん、読まなかった。老眼鏡がなかったから。

 今朝、桂川潤さんの訃報に接する。実感がわかない。朝刊でも見たけれど。いつもひょっこりあらわれる、その感じが独特だった。10年ほど前、みずのそらでの年賀状展に参加してもらったし、展示にもときどき来てくださった。数年前、近況を話したときの、すこし困ったような表情が何ともいえず、忘れがたい。すごく繊細で優しい人なんだな、と思った。人を緊張させない人だった。そういえば、あの日は展示「窓の韻」の初日で、舞い上がってのみすぎて、帰ってから気持ちがわるくなって、つらい思いをした。

 このふわふわした感じは、いつまでつづくのだろう。人が亡くなったことを聞くと、喪失感と淋しさにのみこまれる、同時に、自分もいずれ必ず死ぬ生きものであることを思い知らされるわけだが、それなのに、現実ではなく、虚構のほうに触れている感じがする。深い、暗い、巨大な穴のような虚構に。
 
「若かった頃に主人が誰か人の死に接して「人間が死ぬんやからなあ!」と、感慨深げに言っていたことを、私はよく思い出す。現に生きている人間が死ぬ、ということの言語に絶する不可解さを、そのとき主人は言ったのであった。」(高橋たか子「高橋和巳の七回忌」)
 
 上田三四二『うつしみ』からの孫引き。人間が死ぬという、不可解さ。しだいに、生まれたことも、生きていることも、不可解なことに思えてくる。

 急に空が暗くなり、雹が降ってきた。ものすごい音がする。まるで夢のなかにいるようだ。

2021年7月8日木曜日

拾い読み日記 254

 
 太田先生のお体とお顔は科学と芸術にささげてもやし尽くした体の残骸のようにガタガタした感じがする。長い年月の研究生活の荷にこごめられた肩を眺めながら科学者の忍耐、克己、努力を思い、深いしわの入ったお顔に、長い年月の間、あらゆる思想や感情にするどく、こまやかにヴァイブレイトした心琴の跡を見た。
 私もまた自分をもやしつくして、こんなにガタガタになって見たい、と妙なことを考えた。

 神谷美恵子『若き日の日記』より、太田先生=木下杢太郎にはじめて会った、その翌日の文章。木下杢太郎を読みたくなった。少しの詩と、植物の絵と、それぐらいしか触れてこなかった。

 昨日、InDesignをきちんと使えるようになるため、講習を受けにいった。12時間の講座のうち、半分が終わった。InDesignは、テキストや絵や写真などの素材を、ぼんぼかぼんぼかのっけていくもの、と最初に説明される。「ぼんぼかぼんぼか」がおもしろかったので、書きとめておいた。講座はとてもわかりやすくて、もう、ほとんど、使える気になっている。
 自分のなかの混沌としたものにかたちを与えるために、もっといろいろな、本をつくりたい。そのために、InDesignは、かなり役に立ちそうだ。

 梅雨の晴れ間に、初蟬の声を聞いた。

2021年7月6日火曜日

拾い読み日記 253

 
 本をひらいて読むことは、本をおとずれることだ。わたしが本をおとずれる。すると、本はわたしをおとずれる。わたしと本は、向かいあって、触れあって、手をつなぎ、輪をつくる。わたしと本、ほかにはだれも入れない小さな輪を。それぞれが、言葉をひびかせあう空間になる。

 砂利のような書く理由。言葉と戯れる。意味と闘う。砂利をつみあげ壁を作る。何も記録しない。何も描写しない。何も語らない。つみあげた砂利は崩れる。理由は崩れる。砂利だけ残っている。光がない。砂利を握り、重さを測っている。誰かいる。誰もいない。(宇野邦一『日付のない断片から』)
 
 今日も曇天。空気が重い。こんな天気、こんな湿度のときにしか、手にとらない本がある。
 青い実が落ちた音がした。小さな実なのに、落ちるとき、心臓にじかに響くような鋭い音がする。

2021年7月5日月曜日

拾い読み日記 252

 
 屋根裏で、仕事に必要な小冊子を探していたら、2年ほど前に使っていた綺麗な手製本のノートを見つけた。こんなの、持っていたことすら忘れていた。なつかしくて開いてみると、猫のスケッチや、そのころ惹かれた短歌や俳句が書き留めてあった。

 随いてくるたましひなればしかたなし日向をえらび移りゆく我は  斎藤史

 書きうつしておくと、いいなと思った。自分から自分へのメッセージみたいで。

 夕方、ヒグラシみたいな声で鳴くものがあった。ヒグラシでないことはわかったのだが、いったい何なのか、わからない。鳥? とあたりをつけて検索してみると、思いがけなく、蛙の声が、似ていた。カジカガエル、河鹿蛙と書く。「清流の歌姫」ともいわれるらしい。たしかに、うっとりするほど澄んだ声だった。はたして、こんなところにいるものだろうか。雨につられて、水辺から、やってきたのだろうか。