2020年9月2日水曜日

拾い読み日記 201


 朝、ふと、ロラン・バルト『テクストの快楽』をひらいた。ある文章にひかれ、誰かがどこかで引用していたように思ったが、はっきりとは思い出せなかった。あるいは、学生のときに読んだのだろうか。不思議ななつかしさを感じる文章だった。夫から聞いたのかと思い、読んでみてもらったけれど、初読のようだった。

 愛する者と一緒にいて、他のことを考える。そうすると、一番よい考えが浮ぶ。仕事に必要な着想が一番よく得られる。テクストについても同様だ。私が間接的に聞くようなことになれば、テクストは私の中に最高の快楽を生ぜしめる。読んでいて、何度も顔を挙げ、他のことに耳を傾けたい気持に私がなればいいのだ。私は必ずしも快楽のテクストに捉えられている訳ではない。それは、移り気で、複雑で、微妙な、ほとんど落着きがないともいえる行為かもしれない。思いがけない顔の動き。われわれの聞いていることは何も聞かず、われわれの聞いていないことを聞いている鳥の動きのような。(沢崎浩平訳、下線部は傍点)

 拾い読みを強要するのは、よほど親しい人でないとむずかしい。読んでもらっているあいだ、じっとして、目の動きを追って、待っていた。いっしょに読んでいるような、自分を読まれているような、ちょっと奇妙な感じがした。