2022年3月20日日曜日

16年目

 
 SUNNY BOY BOOKSでの「春の手紙」、ぶじに終了しました。
 お店で、オンラインで、見てくださったみなさま、どうもありがとうございました。

 木が芽吹いて、花も咲いて、ものごともうごきだす春ですが、いまは、ねむくてねむくてたまりません。ゆっくりやすんで、また、つくりたいものをつくろうと思います。
 16年目、と書いたけれど、いまは、その数字をゼロにもどして、あたらしく、はじめたい気持ちです。
 
 SUNNY BOY BOOKSという、あかるくひらかれた場所に、あらためて感謝します。

 最後に座右の一節を。

どこかへ出かけようが、出かけまいが、目的地へつこうが、ほかのところへいってしまおうが、それともまた、どこへもつくまいが、ぼくらは、いつもいそがしい。そのくせ、これといって、特別のしごとがあるわけじゃない。そして、一つのことをやってしまうと、また、なにかやることがある。だから、それをやりたきゃ、やるもいいさ。だけど、やらないほうが、まだいい。ねえ、きみ、ほんとに、けさ、なにもすることがないんなら、いっしょに川をくだって、一日ゆっくり、あそんでいかないか?ケネス・グレアム『たのしい川べ』石井桃子訳(岩波書店)より)

2022年3月10日木曜日

拾い読み日記 270

 
 え、と思うほど、それはちいさかった。種みたいなもの、花みたいなもの、うつわみたいなもの、糸、透ける布、これは、ひとの爪? いや、そんなわけはなくて、なにか、ささやかな、なにかの痕跡。
 ぼうぜんとしていたと思う。ちかよってみたり、はなれてみたりした。そっと、それらをふきとばしてしまわないように、しずかに。そのものの大きさと、とりまく景色がすこし変わった。あたらしく、あらわれつづけているようだった。
 それがなにかはわからないままに、これはじぶんのためにつくられたのだ、ということは、わかった。ここに、いまいる、わたしのために。これまでいきてきて、ようやく、ここにやってきた、わたしのために。きっと、いわわれて、いのられている。
 もっといろいろなことを、たくさん、ふかく、感じたかったけれど、できないうちに、時間がきた。うながされ、身をかがめ、それらとわかれた。

 帰りに入ったカフェで、持ってきた白い本をひらこうとしたが、近くの席で数名のやり手っぽい人たちが、自動車業界におけるSDGSの話をしていて、そのはきはきした声がやけによく聞こえるので、読めなかった。

 今日のなごりに、白くて四角い石みたいなおもたい本を買って帰って、駅に着いて、いきつけのお店でひらこうとしたが、隣で若い男女が、奨学金の返済や自己破産の話をしていたので、気になって、読めなかった。

 帰り道、沈丁花の花がにおって、夜道がきよらかなものになった。

 このところ、じぶんのための精神的な居場所を、じぶんの手でつくることについてかんがえていたけれど、それは、遍在するものなのかもしれない。つくろうとして、つくれるものではないのかもしれない。

2022年3月7日月曜日

「春の手紙」はじまりました




 SUNNY BOY BOOKSでの展示「春の手紙」、ぶじに、はじまりました。

 今回つくったのは、まず、『はるのこと』というちいさな冊子です。春の言であり、春の事です。歳時記から、春の季語をえらんで刷りました。季語だけでなく、春の句からえらんだことばもはいっています。のたりのたり(春の海)とか、ぽたりぽたり(椿が落ちる音)とか。
 ひらがなだけの冊子です。ひらがなにひかれていることについては、『水草』2号に書きましたので、あわせてよんでいただけたらいいなあと思います。ひらがなは、余白が多いし、曲線が多いし、意味もぱっとつかみにくいところが、すきです。
 自分で活字を組んで、半紙に刷りました。帯みたいなケースがついていて、ピンクか、水色か、黄色(黄緑色?)から、えらんでもらえます。
 ばたばたと、制作に追われてしまい、今もあたまが、うまくはたらきません。展示のためにつくった、ほかのものについては、おいおい、また書いていけたらと思っています。

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 最近、窓からみえる木に、よくヒヨドリがやってきます。姿のみえないほかの鳥と、さえずりを交わして、聞いたことのない鳴き方をして、気をひいているみたいで、とても、かわいらしいのです。ちなみに、「さえずり」は、春の季語です。

 昨日は、ほんとうにひさしぶりに、たくさんねむって、ひといきつく時間ができたので、本をひらいて、片山廣子の「鳥の愛」というエッセイを読みました。ちいさないきものによせる深い愛情に、いつ読んでも、こころうたれます。ちいさな、はかないいきもの、というのは、何も小鳥だけのことではなくて。
 
 電車に乗つてから明るい心で私は念じた、野の鳥と籠の鳥をまもつて下さる神様、どうぞ人間も、苦しんでる人も悦んでる人も守つて下さい、どこにゐても。(『新編  燈火節』より)

 制作に集中するために、知ることも、かんがえることも、想像することも、休んでいました。自分にも、世界にも、うまく関われていない感じがします。思いはことばにならず、祈りかたもわからず、今は、できるだけこころをしずめて、紙を折ったり、綴じたりしています。
 〈本〉や、ことばや、詩人が、信仰の対象ではないけれど、では、そうではなくて、なんだろう、ということを、最近かんがえています。

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 感染症対策として、オンラインでも、あたらしい本や展示したものをごらんいただけます。
 (サニーチームのみなさま、テキパキとうごいてくださり、ありがとうございます)
 
 なかなかお目にかかることはかなわないかもしれない3月ですけれど、手紙を書く/手紙が届くために必要なのは、何よりも、距離ではないか、と思っています。だから、ちょうどいいのかもしれません。近すぎると、手紙は、書けません。

 また、書けたら書きます。