2020年3月28日土曜日

拾い読み日記 168


ふたりは欠けていて
むねのうちを うすもものはなびら さらさらと流れ くるしい夜が続いていた
一文字の口唇からともしれず しのびねの ほとほととたたく瀬戸のうす明りにも
はなは さらさらさらさらと降っていた

(三井葉子「さくら」) 

 昨日、夜道を歩いていて、桜に行きあい、この、さらさらという音を、聞いたように思った。人のゆく道でも、ゆかない道でも、桜はみごとに咲いていて、風にゆられて、雨にぬれて、もう、散ってしまうのだろうか。

2020年3月22日日曜日

拾い読み日記 167


 今日も快晴。窓辺で柿の木の若葉をみながら、お花見気分でビールをのんだ。若葉は光に透けて、あざやかで、可憐で、眺めていると、じわじわと、春がきたよろこびがこみあげてくる。これまでにみた桜や、お花見の時間がしぜんと思い出されて、ひとりだけれど、ぜんぜん淋しくはなかった。葉は、近くでよく見ると細かい毛に覆われていて、いきているもの、という感じがする。

 さくらももこ『ひとりずもう』(上下、集英社文庫)を読んだ。中学生になった「まるちゃん」が、高校生になり、短大生になり、漫画家になる。十代のころ、こんなふうに、だらだらしたり、もやもやしたりしていた。48歳の今も、同じように、だらだらしたり、もやもやしたりしている。

 そういえば、今日は、高校生のころの友人と再会する夢をみた。高校三年のとき、二人でお弁当をたべていた人だったが、同じ大学に入ったとたん、つきあいが途絶えた。そんな、淡い感じの友人だったが、それでも、なつかしかった。

 夜、ドミニク・チェン『未来をつくる言葉 わかりあえなさをつなぐために(新潮社)を、ふたたび手にする。

 吃音というバグを抱えながら、少年のわたしはある時から書き言葉の世界に没頭した。それは執筆という、じっくりと時間をかけて完成させる表現行為を通して、言うことを聞かない身体から解放される感覚を抱いたからかもしれない。書くことによって、世界はただ受容するものであるだけではなく、自ら作り出す対象でもあるとわかったのだ。そして、世界を作り出す動きの中でのみ、自分の同一性がかたちづくられるのだということも。

 このところ、もやもやかんがえていたことに、ひとつのこたえが与えられたように思われたので、書き留めておく。

2020年3月21日土曜日

拾い読み日記 166

 
 組版の会社でアルバイトをさせてもらいながらInDesignをきちんとおぼえようとして、もう2ヶ月ほど経つが、まだぜんぜん、使いこなせない。レッスンとして、自分の日記を組んでみようとして、あちこちで、つまずいている。
 本を一冊組めるようになるのは、いつのことだろうか。遠い目になる。
 日記をちらちら読み返すと、ほとんど忘れていることばかり。でも、縦になるのは、おもしろい。ときどき、今の自分への手紙みたいな言葉も見いだす。思いも考えも感覚も、どんどん、変わっていく。かつての自分は、親しい他人だ。
 
 書くとは、時間の不在の幻惑に身を委ねることだ。われわれは、おそらく、ここで、孤独の本質に近づいている。(モーリス・ブランショ『文学空間』粟津則雄・出口裕弘訳、現代思潮社)

 何を書くかは、置いておく。どのように書いていくか、最近はそのことばかり、かんがえているようだ。

2020年3月20日金曜日

拾い読み日記 165


 あたたかな日。柿の木も幼い葉をつけはじめて、日があたるとその早緑がきらきらして見える。
 昨日は近所の幼稚園の卒園式だったらしく、「……小学生になります!」という元気な声が聞こえてきた。呼びかけというのだったか。ああいうの、やった(やらされた)なあと、思い出した。自分がやるのはいやだが、通りすがりに聞くのは、なかなかよかった。ぜんぜん知らない子どもたちだが、そうか、小学生になるのか……、と思った。

 今日は、一日、ラジオの弾き語りライブを聞いていて、本は読めなかった。
 「ハンキーパンキー」「黄金の月」「さすらい」などなど、なつかしい曲も、ぜんぜんちがって聞こえて、いつもよりぐんとしみいってくるので、すっかりこころを持っていかれてしまった。

 今月は、もう10数冊本を買っていて、読みかけの本ばかりが、溜まっていく。と、こういう書き方をするとネガティブだが、たとえば、読みかけの、ひらいた本が白い蝶になり、自分のまわりをふわふわと舞っている、と想像してみるのはどうだろう。つかれたら、むりに追いかけず、その様子をぼんやりながめているのもまた、いいのではないか。
 春がきて、目がさめたばかりのくまみたいに、ぼんやりして。

 はるが きて
 めが さめて
 くまさん ぼんやり かんがえた
 さいているのは たんぽぽだが
 ええと ぼくは だれだっけ
 だれだっけ

 はるが きて
 めが さめて
 くまさん ぼんやり かわに きた
 みずに うつった いいかお みて
 そうだ ぼくは くまだった
 よかったな

 まど・みちお「くまさん」、『まど・みちお詩集』(谷川俊太郎編、岩波文庫)より。今日の拾い読み。

2020年3月14日土曜日

拾い読み日記 164

 
 一日中、家にいた。本を読んだり、ごはんをつくってたべたり、窓から外をながめたり、珈琲をのんだり、かんがえごとをしたり、昼寝したり。
 雪? と知り、ねていた部屋の窓を開けると、たしかに雪が降りしきっていた。木にも雪がつもるかな、と思い、南側の部屋にうつって外をみると、もう雪は、やんでいた。手品をみたような気持ちで、窓を閉めた。

 メアリアン・ウルフ『デジタルで読む脳、紙の本で読む脳』(大田直子訳、インターシフト)を読んでいる。
 はじめからよんでいて、ちょっと間があいて、読めないかもな、とうしろのページを開いたら、ひきこまれて、またもどって、よんでいる。

 私たちだれもが、自分はどんな読み手、書き手、考え手なのかを、確認しなくてはなりません。(p274)

 140字以上の文章の読み書きに不安を感じ、思考力と忍耐力の低下を実感して、ツイッターをやめたので、この言葉には、共感した。(今は、日記以外の文章が書けるのか、不安なのだけれど。)
 よりふかくいきるために、だけでなく、民主的な社会であるために、それぞれの人がしずかな時間を持ち、本を読み、ものをかんがえること。パソコンもスマホもない世界にもどることは、むずかしいけれど、どうにかしたいと思っている。
 読み進めながら、ツイッターにおけるさまざまな「炎上」の理由は、ツイッターそのものではないか、と思えてきた。
 
 この日記を読んでいる人は、どんな読み手、書き手、考え手なのだろうか。知ることはできないけれど、その人が、必要なぶんだけ、しずかな時間を持つことができていたら、いいと思う。

2020年3月10日火曜日

拾い読み日記 163


 玻璃拭くと木の芽をさそふあめのいろ

 今朝の雨で思い出した、鈴木しづ子の句。「あめのいろ」の、やわらかさが、春らしい。窓から見える柿の木も、萌えだしている。
 それを見ていると、こころが浮き立ってきて、今日は、まだ、本が開けない。あとで夫と、今日よんだ本のはなしをすることになっているのに。
 目にはみえないけれど、ひとのなかにも、芽吹いているものがあるのだろう。きっと、この季節には。

2020年3月7日土曜日

拾い読み日記 162


 しごとのあと、本屋をのぞき、そのへんで一杯のみながら本を読むのが、最近のたのしみだ。神保町は、本屋もカフェも多くて、いい。
 東京堂でカサーレスかビラ゠マタスか、ちょっとなやんで、すでに読んだことのある『バートルビーと仲間たち』を買った。ビラ゠マタスの翻訳、もっと出るといいのに、と思いつつ。

 路地裏の、シャンソンが流れるカフェに入って、白ワインをたのみ、本を開いたら、背後でずっと説教している男がいた。仕事の仕方から文章の書き方から話し方から、淡々と、ネチネチと、後輩の女性に、ダメを出している。
 イヤフォンをして自然の音を流しても、バッハを聴いても、ぜんぜん読書に集中できず、30分ほどであきらめて、立ち上がった。
 レジで、1500円です、といわれ、えっとうろたえて、「……ワイン一杯で?」というと、「二杯じゃなくて?」とレジの女性がいう。うろたえながらも、「一杯です」とどうにかこたえると、「800円です」と、ふつうにいう。なぜこちらだけうろたえなければならないのか、釈然としない気持ちで店を出た。気付かないうちに二杯のんだのか? いやそんなはずはない、ともやもやがしばらくおさまらなかった。

 『バートルビーと仲間たち』の出だしを、書きうつそう。

 わたしは女性に縁がなかった。背中が曲がっているが、つらくてもそれに耐えるしかない。身内の人間で近しいものはひとり残らず死んでしまい、哀れな独身男としてぞっとするような事務所で働いている。そうした点を別にすれば、幸せに暮らしている。とくに、一九九九年七月八日の今日は、この日記を書きはじめたせいでいつになく幸せな気分にひたっている。

 800円といわれたけれど、今レシートを見てみると、800円に消費税で、880円だった。ワインはゲヴェルツトラミネールで、まあまあ、おいしかった。

2020年3月4日水曜日

拾い読み日記 161


 一昨日、神保町ブックセンターで買った加藤典洋『僕が批評家になったわけ』と、今日、水中書店で買ったボルヘス+カサーレス『ブストス゠ドメックのクロニクル』を、かわるがわる読んだ。なぜかわるがわる読むのかというと、飽きやすいからだ。

 読んでいて、わかりたいという欲望と、わからなくなりたいという欲望が、どちらも存在することに気がついた。同時に、矛盾することなく、存在する。

 同様にしてのこもこのベールも剥がされたのだ。(『『ブストス゠ドメックのクロニクル』より。下線部は傍点)


 「のこもこ」が、妙にあたまにのこった。

2020年3月3日火曜日

拾い読み日記 160


 こんなにおちつかない状況で、本などとても読めない、と思っていたのだが、一昨日、アドルフォ・ビオイ゠カサーレスの『モレルの発明』を読み終えた。
 夜も更けて、もう時間がなくて、本を閉じなければ、と思いつつ、どうしても途中でやめられなくて、最後のあたりは、全力疾走するような体感で、ようやく、読み終えた。
 読み終えて、呆然として、それから、まぼろし、ということについてかんがえた。まぼろしをみること。まぼろしとひとつになること。自らがまぼろしとなること。

 不死性は、あらゆる魂のなかに——すでに塵に返ってしまった人間のなかにも、現に生きている人間のなかにも——芽生えることが可能となるだろう。

 モレルも、語り手も、のこされたひとびとも、それぞれに、切ない存在だ。この切なさが、なかなか、消えない。

このごろ、夢をたくさんみる。今朝は、大きな鳥に襲われ、何羽もあたまにのっかってくる夢をみた。鳥のあしゆびの感触が、いやだった。恐怖で、まったくうごけなかった。
 相当、抑圧されているらしい。