2022年2月17日木曜日

春の手紙



 来月開催予定の展示のお知らせです。

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ヒロイヨミ社「春の手紙」

2022年3月5日(土)—3月17日(木) ※月・金休み
12
20時(最終日18時まで)

目黒区鷹番2-14-15

(状況により変更になる場合もあります。ご来店の際のお願いごともありますので、お越しの際は、お店のHPをご確認ください)

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〈春〉と〈手紙〉をモチーフとした新作や『水草』(水中書店+ヒロイヨミ社)2号を販売します。
 あたらしい冊子は、ちいさくて、やわらかで、『ephemeral』よりephemeralです。
 『水草』春号では、詩人の川島雄太郎さん、画家の大平高之さんに参加していただき、詩、俳句、エッセイ、という内容です。前号とはまたちがった雰囲気の冊子になりそうです。
 
 写真は、4年前の3月に展示をしていた言事堂で撮った、小さな紙に刷ったエミリ・ディキンスンの詩です。川名澄編訳『わたしは誰でもない エミリ・ディキンスンの小さな詩集』では、こういう訳です。

 口にだしていうと
 ことばが死ぬと
 ひとはいう
 まさにその日から
 ことばは生きると
 わたしがいう

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 昨年、展示の話をSUNNY BOYのたかはしくんからいただいて、はじめて冊子をつくってから、2022年の春で、ちょうど15年、ということに気がつきました。
 あの春に思い立って、ぺなぺなの黄色い冊子をプリントゴッコでつくって、よかったなあと思います。作業はつらかったし、不安だったし、反応がほとんどないのもさみしかったけれど、あの春から、いろいろなことがはじまったからです。
 ひさしぶりにその、はじめてつくった冊子を開いてみたら、50歳の自分には、刷り色が薄くて文字は読みにくいし、紙は薄すぎる気がしたし、もう今だったらぜったいにつくれない(つくらない)ものでした。でも当時は、やみくもで、ひっしでした。はかないもの、かろやかなものに、自分をこんなふうに、賭けたのだなあ、と思いました。
 本文の読みにくさはおいといて、表紙の黄色はやっぱりやけにあかるくて、春のうれしさとまぶしさを、思い出しました。
 15年経ったけれど、まだこれからも、はじまることばかりだと、きっと春の前だから、素直に、そう感じています。

 まだまだ状況は見通せませんので、どうぞ無理はなさらず、気がむいたら、お越しください。

 おだやかであかるい春が、はやく来ますように。


 追伸 DMが届いてもあまりプレッシャーに感じないでくださいね

 追伸2 届かなくても、よろしくおねがいします

2022年2月5日土曜日

拾い読み日記 269

 
 何年か前、吉祥寺の地下のお店でお茶をのもうとしたら、たまたま知っているひとが絵の展示をしていた。ちょっと不思議な物語が絵になったみたいで、おもしろくみていたが、気になることがあった。展示のタイトルが「億劫」というのだった。はて、億劫? 絵とどういう関係が? と思い、画家にタイトルの由来をたずねたら、じつは、絵を描くのが億劫なときがあって、といわれた。

 文を書くことも、すごく億劫に感じることがある。それでも、誰にたのまれたわけでもないのに、書いている。書くことがすき、というよりは、読むのがすきだから、かもしれない。日記を読み返すことは、おもしろい。
 昨日読んだマルグリット・デュラスの言葉を書き留めておこう。

 わたしのモデルとなる存在、いいかえれば、わたしのなかに秘められている作家としての存在が、わたしにたいして、わたしの人生を物語る。いまこうしてお話ししているこのわたしは、そこで語られる物語の読者なのです。マルグリット・デュラス 生誕100年 愛と狂気の作家』)
 
 すべての人が書いている、とデュラスはいう。紙に書いたり、ブログに書いたりしなくても、誰もが書いている。
 自分のまわりの限られたことしか記憶できないし、書くことができない。限られているということは、ある意味で、すでに、虚構であって、つまり日記がたのしいのは、自分が、作者にも、読者にも、語り手にも、作中人物にもなれるから、だろう。自分が複数になる。複雑になる。