2022年6月24日金曜日

本をひらくと(の続き)




 狩野岳朗さんとつくった『本をひらくと』、 手元の在庫ものこり少なくなりまして、あらためて、お求めくださったみなさまに、お礼もうしあげます。
 えほんやるすばんばんするかいしゃでの展示のあとに、お取り扱いいただいているお店は、以下です。遅ればせのお知らせとなりましたが、どうぞよろしくお願いいたします。

〈宮城〉

〈長野〉


〈埼玉〉

〈愛知〉

〈奈良〉

〈広島〉

〈山口〉

〈愛媛県〉

〈福岡〉


 いつになく、お読みいただいた方からのご感想もいただいたりして、うれしいです。お店の方が、それぞれのことばで紹介してくださっているのも、とてもありがたく、うれしいねえ、ときのう狩野さんと話していました。
 本の本も、絵本も、またつくってみたいなあ、と思っています。

 
追伸 12月の打ち上げでみんながちょっとずつ音読してくれたのも、(あのときははずかしかったけれど)よい思い出

2022年6月12日日曜日

拾い読み日記 278


 右腕の付け根あたりがいままでにない感じで痛むので、いつもの整体にいったのだが、なかなかよくならない。それで、電車に乗って遠くの整体にいった。背中で筋違いが起きているようで、それでへんに腕が痛むらしい。いろいろたずねられる。床で寝ましたか? いそがしいんですか? いずれにも、いいえ、とこたえる。
 ひとつ、思い当たることといえば、夫の誕生日の前祝いの日にのみすぎて、その晩はすごくねぐるしかった、ということだ。グウとかゴウとか、ガ行のいびきも、かいていたらしい。そういわれても、しんじられない。こんど録音しておいて、とたのんでおく。
 思い返せば、その日あたりから、からだのぐあいがわるかった。でも今は、よくなりつつある。そう感じられる。だから、多少痛みはのこるが、さほど気にせずにいられる。
 のみすぎないようにしたいけれど、ときどきは羽目をはずさないと、どこかで大きなあやまちをおかす気もする。

 また『ある日』をつくろうとしていて、この10年ほどのあいだに書いたものを読み返していた。書いたことば、書かれたことばにわけいっていくような作業。まるで夢のなかにはいっていくようだ。だんだん、くらくらしてくる。いったい何をやっているのだろう、と思う。それだからおもしろいのだ、とも思う。

 きみの指に展かるるまでほのぐらき独語のままの封書一通  横山未来子

 かつて書き留めておいた短歌を読み返して、〈手紙〉に、〈本〉に思いを馳せる。
 画面上の言葉には、仄暗さがない。つねにひらかれているから。〈手紙〉に、〈本〉に、ここまでこころをとらえられるのは、それらが必然的にはらんでしまう暗さのためかもしれない。

2022年6月3日金曜日

拾い読み日記 277


  文体が身体になじんできたためか、どこででもよめるようになり、外でも家でも『感受体のおどり』をよんでいて、ちょうどはんぶんまできたところで、手をみた。本をよんでいる自分の手のなかに本があって、左手にはこれまでよんだページが、右手にはこれからよむページがある。手の指で、その束がはさまれている。紙の束であり、時間の束でもある。どれくらいかかってここまできたのかは、だいたいわかる。どのくらいでおわるのかは、今はまだわからない。すすんでいけば、右手の束が減っていって、尽きたところで、おわる。気が変わったり、なにかが起きたりして、尽きないかもしれない。
 
 40回目の誕生日に、一抹の感慨とともに、折り返しかな、とつぶやいたことを思い出した。あれはべつに、半分まできた、という思いからではなかった。たぶん、おわりがみえてきた、ということだった。おわりのほうに、あたまが向いた、ということだ。

 この小説がおわること、よみおわることが視界にはいり、ここですこしやすんで、ただ、紙の束をながめていたい気もする。しかし、よみおわるとは、どういうことだろう。
 
 束がばらばらになりページからことばが放たれて、おりおりにそのことばを、本をひらかずしてよんでいくような本がある。「塊まりであれば壊すことができる。しかし、あらゆる場所に存在していたら、根こそぎになどできようか」、というユゴーの小説の一節がよぎったので書き留めておいて(ミシェル・ビュトール『レペルトワールⅡ』より)、よみながら、あたまは、「本」に、本という「もの」のほうにふれていって、はたしてこんなふうで、よみおえられるのだろうか。かなり、混乱している。