2021年4月30日金曜日

拾い読み日記 237


 『「利他」とは何か』を読んだあと、國分功一郎『はじめてのスピノザ 自由へのエチカ』を読んだ。とてもおもしろかったので、スピノザ『エチカ』(岩波文庫)を買ってみた。

 定理四八 精神の中には絶対的な意志、すなわち自由な意志は存しない。むしろ精神はこのことまたはかのことを意志するように原因によって決定され、この原因も同様に他の原因によって決定され、さらにこの後者もまた他の原因によって決定され、このようにして無限に進む。(下線部は傍点)

 意志の自由はなくても、自由に生きることはできる。自分をほんとうの意味で自由にする、そのやりかたを試してみたい。
 『はじめてのスピノザ』は、わかりやすく、親切な本だった。伝えたい気持ちの強さに、打たれた。

 最近、木に、ヒヨドリや鳩だけでなく、メジロがやってくるようになった。メジロは、声もからだも、とても小さくて、うごきがはやい。風のように飛び去っていく。鳩みたいに、木の上で小一時間もくつろいだりしない。白いアイラインがキュートな、なかなかクールな小鳥だ。

2021年4月24日土曜日

拾い読み日記 236

 
 本の資材見本を購入するため、ある町へ出かけていった。そこは、むかし乗り換えなどで利用していた駅なので、なつかしい気持ちもあって、用事が済んだあと、しばらくぶらぶらした。駅前の喫茶店も、無口な女性がやっていたお好み焼きバーも、見つからなかった。そこはなつかしい、しらない町だった。
 ときどき立ち寄っていた古本屋に、寄ってみた。入ってみると、雑然として、すべての本が、うすよごれて見える。ふだん水中書店の棚を見慣れているせいか、古本屋というのは、手をかけないとこうなるのか、と思い知った。まるで本の墓場のようで、どうにもさみしい気持ちになった。
 むかしはなかった白っぽいカフェに入ってみた。注文の際、ケーキはどのくらいの大きさですか? とたずねると、白衣を着た女性が、大きくも小さくもない大きさです、と応えた。アイスカフェオレはうすかったが、ロールケーキはおいしかった。

 帰りに本屋にいきたくなって、池袋のジュンク堂へ。本がきれいで棚がいきいきしていて、それだけで、うれしい。池袋は、大学生や高校生が多い。棚の前で男女の二人組がうだうだしている。カップルではないので、それぞれ好きかってに本を見たりはしない。棚の前でうわさ話をしていたりするので、じゃまだった。年をとって、こころがせまくなっているのかもしれない。
 国文学の棚や詩歌の棚で、装幀のバランスや箔押しの感じを見たりする。自分が装幀した本も、表紙が見えるように並べてあって、それも確認する。家で見る感じと本屋で見る感じは、ちょっとちがう。
 ずいぶんなやんだけれど、詩歌の棚から、岬多可子『静かに、毀れている庭』をえらんで買った。

 夕方の公園では、みんながピクニックしたり、外でのんだりしていて、祝祭感があった。
 
 夜は夫と晩ごはん。「休業要請」と「休業の協力依頼」をめぐって、あれこれ話した。いったい、なんなのだろう。結局、のみすぎたようだ。
 

2021年4月18日日曜日

拾い読み日記 235

 
 よく晴れて、風のつよい日曜日。木は、一日中、揺れていた。光りながら踊りくるう生きもののようで、目がはなせない。枝葉のあいだから、きれはしみたいな青空が見えた。

 今日の読書は『「利他」とは何か』。伊藤亜紗さんの章を読んだ。まわりに対して、どこかこわばっていた気持ちが、すこし、ときほぐされたようだった。

 古本屋さんで、ピーターラビットの絵本をまとめ買いした。この春、ピーターラビット愛が高まっている。ポターの描くどうぶつたちのからだは、しなやかで、やわらかそうで、さわってみたくなる。絵だけでなく、こんな音にも、動物たちのうごきがみごとにあらわれている。
 
 ぴた ぱた ぱたり ぱた、ぴた ぱた よたり ぱた!

 あひるが一列になってあるいてくる。それを3匹の子猫が見ている。あひるが猫の服を拾って着て、また同じ足どりで、しれっと帰っていくところが、よかった。「や、いいおてんきで。では、さようなら」

 この春、ピーターラビットのTシャツまで買ってしまった。どのように着こなせばよいのだろう。

2021年4月17日土曜日

拾い読み日記 234

 
 くもり、のち雨の土曜日。製本したり、装幀のラフをつくったり。思ったより早くおわったので、ゆっくり過ごす。ゆっくりが大事。

 蜂飼耳訳の『方丈記』を読んだ。現代語訳で読んでから、原文で。組みがいいのか、すらすら読める。あたまのなかに流れることばがここちよい。

 いづれの所を占めて、いかなるわざをしてか、しばしも此の身をやどし、たまゆらも心をやすむべき。

 これは、もっとも心をひかれた文章、というよりは、このところぼんやりかんがえていたこと、そのままだった。

 それから、大根を煮ながら、ギッシング『ヘンリ・ライクロフトの私記』を読み始める。以前持っていたのだが、昨日、買い直したのだった。このところの読書傾向のあらわれが、あまりにもわかりやすすぎて、じぶんでもどうかと思う。
 鴨長明と、同じことをいっている、と何度か思った。鴨長明は、アン・モロウ・リンドバーグと同じことをいっていた。

2021年4月14日水曜日

拾い読み日記 233

  
 遅く起きた朝、うちころされる夢をみた、と夫にいうと、そういう夢、よくみるね、とあっさり返される。たしかに、逃げまどう夢とか追いつめられる夢はよくみるけれど、最近はあまりみていなかった。夢のなかでうちころされて、しんだらしいけれど意識はあって、その、銃を持った男になにか仕返しして、こわがらせてやろう、と思ったことはおぼえている。
 気圧のせいか、季節のせいか、眠くて眠くてしかたがない。疲れているのだろうか。ときどき夫は、おれらも年だから、という。おれとおまえは年がちがうだろ、と思うが、あえていわない。

 昨日買った小津夜景『いつかたこぶねになる日』をすこし読む。すごくおもしろい。おもしろいのに、すこししか読めない。あした、また読もう。

 確定申告もぶじにおわり、ほっとして、いきつけのイタリアンへ。蛤と筍と春キャベツのクリームリゾットがおいしくておいしくて、誰かに、おいしいね、といいたくてたまらなかったが、ひとりなので、あたまのなかで、おいしい! おいしい!とさけんでいた。

 スマホをほとんど見なくなった。オセロが強くなりつつある。

2021年4月11日日曜日

拾い読み日記 232

 
 確定申告もぶじにおわりそうで、ほっとして、ひさしぶりにひとりで居酒屋に行ってみた。カウンターで、お刺身とビール。となりと席は離れているが、そうとうのんでいる女性がいて、うるさかった。ひとりでのんでいると、まわりの酔っ払いを、ひややかな目で見てしまう。なんてやばんで、げひんで、ばかっぽいのだろう、と。とはいえ、もし酔っ払ったじぶんがそこにいたら、きっと同じことを思うだろう。

 やってみたいことを思いついて、そわそわして、何も手につかない。スマホを見過ぎるのをやめて、ネットも控えめにしているのに、オセロのゲームをやりはじめたら、一時間以上経っていた。黒が白に、白が黒に、たえまなく裏返っていくさまが、おもしろい。たいてい大敗する。ときどき勝つ。10回に1回くらい。だからやめられないのかもしれない。あそばれているのか。

 山崎方代の歌集『迦葉』を開く。
 
 欄外の人物として生きて来た 夏は酢蛸を召し上がれ

 何者にもなりたくない、という思いに、歌がよりそってくれる。方代が尾形亀之助の詩を愛読していたことは、随筆集『青じその花』で知った。現代詩文庫を駅前の本屋でたまたま見つけて、感激しながら読んだそうだ。
 見えていなかったつながりを知ることは、おもしろいことだ。
 そういえば昨日は、生たこの刺身をたべた。

2021年4月5日月曜日

拾い読み日記 231

  
 ときどき拾い読みしていたが、最近は本棚にあることも忘れていたデイヴィッド・アーモンドの『ミナの物語』を、最初から読んでみようかな、と思いついて、読んでいる。ミナは、とても元気で、たのもしくて、素敵だ。ついていきたくなる。

 世界を見てごらん。においを嗅いで、味わって、耳をすまして、感じて、よく見る。ようく見るんだよ!

 本棚を増やして、本の整理をした。もっともっと片付けて、身も心もすがすがしくしたい。そしたらもっと、ようく見ることができるのではないか。

 まだ4月のはじめなのに、日に日に木が緑色になり、まるで初夏のようだと思う。