2022年12月31日土曜日

New Year Greetings in 書肆みず盛り

 


 年明け、6日にオープンする書肆みず盛りで開催される「New Year Greetings」展に参加します。
 書肆みず盛りの山下桂樹さんとは、ギャラリーみずのそらでのNew Year Greetings展を、2010年から2013年まで、いっしょに運営していました。いまは盛岡で活動していらっしゃいます。
 あたらしい場所でのあたらしい年賀状展に参加できて、うれしく思います。どうぞお近くの方は、足をお運びいただけたら。DMもデザインしました。くわしくは、こちらをごらんください。

 どうも、今年が終わることを実感できない、2022年の大晦日です。軽く掃除をして、俳句を書きうつしたりして、ゆっくりゆっくり過ごしています。
  

2022年12月30日金曜日

拾い読み日記 285

 
 昨夜、喫茶店で、ある夫婦を見かけて、それは何でもない光景なのだが、思いだしたのは、武田百合子の文章だった。妻を愛してない男は、正月三が日はイヤだろうな、というもので、それは、真理だろうな、という気がする。夫を愛してない妻も、きっと正月も、年末も、イヤだろう。いっしょにいても少しもおもしろくない(けれどもいっしょに過ごさざるを得ない)ふたりのために、スマホというものは、つくられたのかもしれない。
 喫茶店で新聞を読んだ。今年を振り返る一枚のなかに、一台の霊柩車にスマホを掲げて写真を撮ろうとする人々の姿をうつしたものがあった。いつだったか、優勝パレードか何かを撮ろうとする無数の手をうつした写真を見たときもそらおそろしかったが、その写真はそれ以上に、こわいような気持ちにさせられた。これは、過剰な反応なのだろうか。

 吉祥寺でよい展示をふたつみた。手で刷られたもの、手で作られたもの、手で描かれたもの。そういうものに力をあたえられる。
 薄暗いお店で、絵は、はっきりとは見えなかったけれど、ただだまって絵のある空間にいるだけで、ある精神に触れられる、ということもあるだろう。帰りに公園でみた冬の木々や月の光とあわせて、記憶しておきたい。それから、水鳥が水にもぐったあとにしずかにひろがった、波紋のことを。

 まもなく今年が終わる。今あたまに残っているのは、先日読んだ水村美苗の文章だ。「第十一夜」(『日本語で読むということ』)
 
 不意に、ものを書いて来たことの罪の意識が自分を襲つた。言葉は死者の眠りを妨げ生者の世界に連れ戻す。生者のこの世とのつながりを奪ひ、死者の世界へと連れ去る。淋しい魂はいづれの世界にも入れずに漂ふのであつた。
 すると其の女が口を開いたやうに思へた
「悲しまないで下さい。あなたの罪は私の救ひでした」

 一昨日、NさんとKさんと映画の話をした。黒川幸則監督の「にわのすなば」がどんなふうによかったか、という話。ふしぎな映画だった。最初は何を見せられているんだろう、と思ってしまったのだが、だんだんひきこまれて、最後は、終わるのが淋しくて、別れの感触が、からだのなかに残された。ラストシーンが素晴らしかった。
 映画のことを思い返せば、主人公とともに、映画そのものがどこかへ漂っていくようで、そういう映画をみることではじめて、気がつくこともあるだろう。映画について、映画をみることについて、みたあとに映画を思うことについて。
 Nさんは、のみはじめると帰るのが苦手になるタイプの人で、そこはあの主人公に似ているし、自分にもそういうところはある。もう一杯のみたいといったが、あそこで同意していたら、たぶん彼は、帰れなかった。

2022年12月28日水曜日

2022/12/28

 


2022年12月23日金曜日

2022/8/15

 

2022年12月22日木曜日

2022/11/30


2022年12月3日土曜日

拾い読み日記 284


 ある本を文字どおり読むことの奴隷となってはなりません。本にはその字面以外の生命があります。(『ロラン・バルト著作集9 ロマネスクの誘惑』)

 読めないいいわけをするために、本を読んでいるわけではないのだが、と思いながら、うつしておく。

 たとえば、身体的な理由で、本がまったく読めなくなったとしたら、本をすべて手放すか、どうか。想像してみる。こたえは出なくても。