2021年6月30日水曜日

拾い読み日記 251

 
 中庭をはさんだ真向いの建物は、灰汁(あく)色の寒天のような雨の中で——雨の最中で、あるいは雨の、寒天状に光る無数の水の紐で出来た幕のむこう側で——死んだふりをしている動物のように見える。(金井美恵子/渡辺兼人「既視の街」)

 今日も曇り、のち雨。このところ、毎晩、夜中に目が覚める。なまあたたかいいきものがべったりからだにはりついていたみたいに、汗をかいていて、べつにわるい夢をみていたわけではないと思うが、からだがべたべたして、きもちがわるい。いや、おぼえていないだけで、おかしな夢をみていたのかもしれない。

 6月末日。2回目のZOOM打ち合わせ。税金と年金とガス代と電話料を払った。2021年の上半期が終わる。

2021年6月24日木曜日

寒天景色

 


 まもなくdessinで開催される小縞山いうさんと鈴木いづみさんの展示「寒天景色」のDMと作品集をデザインしました。
 展示について、くわしくはこちらをごらんください。

2021年6月21日月曜日

拾い読み日記 250

 
 カレー屋でカレーを待つあいだ、いつものように、新聞を読んでいた。林明子さんの『こんとあき』をめぐる記事があり、なにげなく読み始めたら、ある名前に目がとまった。「担当編集者で、後に夫になった征矢清さん(故人)」とある。
 帰ってから、『征矢泰子詩集』の年譜の一行を確認する。「一九六四年 みすず書房時代からの親友、征矢清と結婚。」 どうやら、同一人物らしい。征矢清さんは、児童文学作家でもあった。

 そんなわけで、ひさしぶりに征矢泰子の詩を読んだ。「六月のかたつむり」。せまりくるものにおしつぶされそうな今日、この詩をよめたことは、幸運だった。ひとつの詩が、ひとりのわたしに、あるとき、手紙のように届くということ。

 六月のあさ
 まだ海はとおい
 にびいろのそらのした
 やけつくすなはまの貝になりたい
 六月のかたつむりいっぴき
 どうどうめぐりのひびをせおって
 みじかいはるのなかもえつきたはなのあと
 ゆっくりと海をめざす
 きのうのあめにぬれたこのしたくらがり
 きららかなまなつの海へのあこがれに
 こえもなくからだあつくして
 六月のかたつむり あるきつづける

2021年6月20日日曜日

拾い読み日記 249

  
 ワンタン麺がたべたくてそのラーメン屋に行ったのに、券売機を見ると、ワンタン麺のボタンがない。白い紙で隠されている。メニューが変わったらしい。昨夜、その券売機の画像まで検索して見たくらい、ワンタン麺がたべたかったのに。かなりうろたえたが、いらっしゃいませといわれ、ひきかえすのもはばかられて、ワンタン麺ではないラーメンをたべた。麺はちょっとゆですぎのような気がしたが、まずいわけではなかった。でも、もう行かないと思う。

 午前中、岩佐なをさんの詩集『ゆめみる手控』をめくってみたら、ラーメンの詩があった。「そぎ」という詩。
 
 そぎとられた肉や
 釜で煮込まれた骨
 切りとられた葉物
 謎の朱いうずまき
 をおそれぬあまり
 いつくしみも捨て
 ああいいにおいと
 口走ってしまう罪
 をゆるしたまえ
 ラーメン

 うどんも、そばも、パスタも、フォーもすきだけれど、たべたくなって画像検索するくらいなのは、ラーメンだけだ。ラーメンの何が、そこまでじぶんをひきつけるのだろう。カロリーとか、塩分とかをかんがえると、すこし、背徳的な感じもする。あと、詩に描かれているような、野蛮な感じ。そこがいいのかもしれない。麺をすくってすするという行為も、ワイルドといえなくもないような。なるとのうずまきを、いつも、「の」みたいだ、と思う。

2021年6月16日水曜日

拾い読み日記 248

 
 ホン・サンスの『逃げた女』をみた。

 家を出た彼女は、「先輩」に会いにいく。そこで、話したり、食べたり、飲んだりして、たのしい時間をすごす。どこか不穏な出来事も起こる。彼女はみる。のぞきこむ。かいまみる。窓をあけて外をみる。それから、彼女は歩く。歩いている彼女は、なんとなくたよりなくて、どこかに向かっていても、あてもなくさまよい歩いている人みたいだった。
 映画館を出てまた歩き出した彼女は、手の中の小さな画面をのぞきこむ。それからふたたび、逃げ込むように、スクリーンの前に戻ってくる。海。エンドロール。
 彼女とともに、映画館にとりのこされたのだ、と思った。

 それにしても、映画をみた感じがしない。なんなのだろう。よくわからない。
 不安定な彼女と、不安定な自分が、たまたま会って、時間をすごした。おもしろかった。ときどき、退屈だった。まるで、ほんとうに人と過ごしているときみたいに。昂揚と、物足りなさと、なまあたたかい感じが残った。人と会うのはつかれる、言わなくてもいいことまで言ってしまうから。たしかそんなことを、彼女は言った。

 ふらふらした彼女は、いくつかの再会によって、何かをみつけたのだろうか。スクリーンをみつめる表情は、とても微妙で、複雑で、それだから、忘れがたい。

 帰りの電車で、『ヴァレリー文学論』を、すこしだけ読んだ。

2021年6月14日月曜日

拾い読み日記 247

  
 どうもこのところ、あたまがとっちらかっているような気がする。たくさんの本を、開いたり閉じたりしている。何を探しているのだろうか。

 一昨日、二羽の鳩が木にやってきた。二羽の鳩は、そっくりだった。いつも同じ鳩が来ているのでは、と思っていたが、それはロマンチックな妄想だった。目印にしていた首の縞々、それは雉鳩の特徴のひとつだった。そんなことも知らなかったのだ。半世紀近く生きてきたのに。

 読んでいるのは、ノーラ・エフロン『首のたるみが気になるの』、『永瀬清子詩集』、キャロリン・ハイルブラン『女の書く自伝』、北村紗衣『お砂糖とスパイスと爆発的な何か』など。
 もうすぐ50歳、と思うと、なんだか、不安にも憂鬱にもなったりするが、そういうものを感じていないふりをするよりは、じっくり向かい合って、まるめこんで、壁にでもぶつけて粉々にしたい。そして、のこされている時間を、たいせつなことに使いたい。

 日々に私の失うものを見つめて
 すべてのことを忘れがたいのです。
 自分の責任で冒険しようと心はつねにあせるのです。(永瀬清子「私は」)

2021年6月6日日曜日

拾い読み日記 246


 どの本を読んでも、はっとするときがときどきあって、そういうときは、たぶん、躁状態なのだろう。ひらいた本に自分がひらかれていくような感覚がある。さまざまな興味や関心や欲望が、自分のなかに眠っていることを知る。それらは、まとまることなく、ただひろがっていく。読書によって、自分を見いだす。同時に、自分を見失う。
 「私は読み、そして夢想に耽る……。してみれば読書というのは、ところかまわぬわたしの不在なのだ。読むというのは、いたるところに遍在することなのだろうか」ミシェル・ド・セルトー『日常的実践のポイエティーク』を読んでいる。ページからページへ、漂うように読んでいる。いや、読んでいる、ともいえないのかもしれない。

 柿の実が、青くて小さくてとてもかわいらしいので、その大きさを毎日確認している。