2020年5月9日土曜日

拾い読み日記 181


 もしかして、2月に一度発熱したのは、感染していたから? と思ったりもするけれど、確かめようがない。ほんとうは、どれだけの人が感染している(していた)のか、検査数も少なければ、抗体検査もないので、わからない。まったく信用できない政府の要請に応じているつもりではないのだが、今のところは、他人との接触を少なくして、感染しない/させないように、気を配ることしかできない。 

 市の車が「外出しないでください」といってまわるのにもなんとなくいやな気分になり、「コロナ」という字を見るのすらうっとうしかったけれど、2週間前に買った『現代思想 緊急特集 感染/パンデミック』をようやく読みはじめた。G・アガンベン、J-L・ナンシー、S・ジジェク、R・エスポジト、S・ベンヴェヌートまで読んで、ちから尽きた。

 不安と混乱の中にあり、本を読むことにも困難がともなうけれど、読むことをあきらめないようにしたい。ひとつ書き留めておく。

 だからわれわれは生(活)への態度、ほかの生命形態の中にある生物としての存在への態度を、全面的に変える必要がある。言いかえれば、「哲学」を(人)生に関するわれわれの基本的指針に付いた名前であると理解するなら、われわれは真の哲学的転回〔革命〕を経験しなければならない。(スラヴォイ・ジジェク「監視と処罰ですか? いいですねー、お願いしまーす!」松本潤一郎訳)
 
 スーパーで買いものをした帰り道、人気がないのを確認して、マスクを下にずらすと、いろんな家から夕ごはんのいい匂いがして、ちょっとだけうっとりする。何かを醤油で煮た匂いや、魚を焼く匂い。どこかに帰りたいような気持ち。よその家から聞こえるこどもの声や、ちょっとした音にも、いつになく、人恋しさがつのる。ピアノの音など聞こえてきたら、もうたまらない。ピアノではないけれど、伊東静雄の「夜の停留所で」を思いだす。それから、隔てられてあるものたちのことを想う。

 室内楽はピタリとやんだ
 終曲のつよい熱情とやさしみの殘響
 いつの間(ま)にか
 おれは聴き入つてゐたらしい
 だいぶして
 楽器を取り片づけるかすかな物音
 何かに絃(げん)のふれる音
 そして少女の影が三四(さんし)大きくゆれて
 ゆつくり一つ一つ窓をおろし
 それらの姿は窓のうちに
 しばらくは動いてゐるのが見える
 と不意に燈(ひ)が一度に消える
 あとは身にしみるように静かな
 ただくらい学園の一角
 あゝ無邪気な浄福よ
 目には消えていまは一層あかるくなった窓の影絵に
 そつとおれは呼びかける
 おやすみ

 このところ、haruka nakamura「スティルライフ」をよく聴いている。どこかの家から聞こえてくる音楽に似て、やわらかくくぐもっていて、なぜだかせつなく、なつかしい。