2020年5月16日土曜日

拾い読み日記 182


 雨のふる、しずかな土曜日。今日も、こもった音のピアノを聴く。

 コロナも不安だが、政府の動きのほうが不安だ。「惨事便乗型資本主義」。こういうときこそ、冷静でいなければならない。とは思うものの、つい、ニュースやSNSを気にして、いたずらにこころをざわつかせてしまう。

 山村修『増補  遅読のすすめ』(ちくま文庫)を読んだ。本をゆっくり読むことのよさについて。それは、読書の幸福そのものといっていい。

 目が文字を追っていくと、それにともないながら、その情景があらわれてくる。目のはたらき、理解のはたらきがそろっている。そのときはおそらく、呼吸も、心拍も、うまくはたらき合っている。それが読むということだ。読むリズムが快くきざまれているとき、それは読み手の心身のリズムと幸福に呼応しあっている。読書とは、本と心身とのアンサンブルなのだ。

 何にも急かされていない今は、本をゆっくり読むのに、いちばんいいときだ。「読書といえば、まず通読である」。この一文のために、最近は、本を、最初から最後まで読むようになった。読了の満足感も、すてきなものだ、と感じる。アイデンティティが、揺らいでいる。

 金森修『病魔という悪の物語 チフスのメアリー(ちくまプリマー新書)も読んだ。健康保菌者の賄い婦として何人もの人にチフスをうつしたメアリーの話。メアリーが、移民でなければ、女性でなければ、このような生涯を送らなくてもよかったのではないか、ということを思うと、やりきれない。メディアによって、「邪悪な毒婦」にされたメアリー。
 
 もし、あるとき、どこかで未来のメアリーが出現するようなことがあったとしても、その人も、必ず、私たちと同じ夢や感情をかかえた普通(ふつう)の人間なのだということを、心の片隅(かたすみ)で忘れないでいてほしい。


 冷静さをうしないがちな自分に宛てられた手紙のように、読んだ。