2022年12月31日土曜日

New Year Greetings in 書肆みず盛り

 


 年明け、6日にオープンする書肆みず盛りで開催される「New Year Greetings」展に参加します。
 書肆みず盛りの山下桂樹さんとは、ギャラリーみずのそらでのNew Year Greetings展を、2010年から2013年まで、いっしょに運営していました。いまは盛岡で活動していらっしゃいます。
 あたらしい場所でのあたらしい年賀状展に参加できて、うれしく思います。どうぞお近くの方は、足をお運びいただけたら。DMもデザインしました。くわしくは、こちらをごらんください。

 どうも、今年が終わることを実感できない、2022年の大晦日です。軽く掃除をして、俳句を書きうつしたりして、ゆっくりゆっくり過ごしています。
  

2022年12月30日金曜日

拾い読み日記 285

 
 昨夜、喫茶店で、ある夫婦を見かけて、それは何でもない光景なのだが、思いだしたのは、武田百合子の文章だった。妻を愛してない男は、正月三が日はイヤだろうな、というもので、それは、真理だろうな、という気がする。夫を愛してない妻も、きっと正月も、年末も、イヤだろう。いっしょにいても少しもおもしろくない(けれどもいっしょに過ごさざるを得ない)ふたりのために、スマホというものは、つくられたのかもしれない。
 喫茶店で新聞を読んだ。今年を振り返る一枚のなかに、一台の霊柩車にスマホを掲げて写真を撮ろうとする人々の姿をうつしたものがあった。いつだったか、優勝パレードか何かを撮ろうとする無数の手をうつした写真を見たときもそらおそろしかったが、その写真はそれ以上に、こわいような気持ちにさせられた。これは、過剰な反応なのだろうか。

 吉祥寺でよい展示をふたつみた。手で刷られたもの、手で作られたもの、手で描かれたもの。そういうものに力をあたえられる。
 薄暗いお店で、絵は、はっきりとは見えなかったけれど、ただだまって絵のある空間にいるだけで、ある精神に触れられる、ということもあるだろう。帰りに公園でみた冬の木々や月の光とあわせて、記憶しておきたい。それから、水鳥が水にもぐったあとにしずかにひろがった、波紋のことを。

 まもなく今年が終わる。今あたまに残っているのは、先日読んだ水村美苗の文章だ。「第十一夜」(『日本語で読むということ』)
 
 不意に、ものを書いて来たことの罪の意識が自分を襲つた。言葉は死者の眠りを妨げ生者の世界に連れ戻す。生者のこの世とのつながりを奪ひ、死者の世界へと連れ去る。淋しい魂はいづれの世界にも入れずに漂ふのであつた。
 すると其の女が口を開いたやうに思へた
「悲しまないで下さい。あなたの罪は私の救ひでした」

 一昨日、NさんとKさんと映画の話をした。黒川幸則監督の「にわのすなば」がどんなふうによかったか、という話。ふしぎな映画だった。最初は何を見せられているんだろう、と思ってしまったのだが、だんだんひきこまれて、最後は、終わるのが淋しくて、別れの感触が、からだのなかに残された。ラストシーンが素晴らしかった。
 映画のことを思い返せば、主人公とともに、映画そのものがどこかへ漂っていくようで、そういう映画をみることではじめて、気がつくこともあるだろう。映画について、映画をみることについて、みたあとに映画を思うことについて。
 Nさんは、のみはじめると帰るのが苦手になるタイプの人で、そこはあの主人公に似ているし、自分にもそういうところはある。もう一杯のみたいといったが、あそこで同意していたら、たぶん彼は、帰れなかった。

2022年12月28日水曜日

2022/12/28

 


2022年12月23日金曜日

2022/8/15

 

2022年12月22日木曜日

2022/11/30


2022年12月3日土曜日

拾い読み日記 284


 ある本を文字どおり読むことの奴隷となってはなりません。本にはその字面以外の生命があります。(『ロラン・バルト著作集9 ロマネスクの誘惑』)

 読めないいいわけをするために、本を読んでいるわけではないのだが、と思いながら、うつしておく。

 たとえば、身体的な理由で、本がまったく読めなくなったとしたら、本をすべて手放すか、どうか。想像してみる。こたえは出なくても。

2022年11月29日火曜日

拾い読み日記 283

 
 フリードリヒ・キットラー『書き取りシステム 1800・1900』を読んでいたら、気になる引用があった。リルケ『マルテの手記』の一節のようで、本棚にある岩波文庫版を取り出して、開いてみた。めんどうだけど、探してみるか、と目を落とすと、すぐに見つかった。というか、そこにあった。それで、朝からひとりでもりあがる。わたしの拾い読み力、すごくない? とじまんしてまわりたいが、こういうことは、ほかのひとにはあまりおもしろくないことなのだな、と、夫の反応をみて、わかった。
 こういう偶然は、何回経験しても、新鮮に、はっとする。うれしい。偶然は、神のやることだ、とノヴァーリスは書いている。偶然とは、無神論者に下される恩寵にひとしいものにちがいない。というのは、種村季弘の言葉。

 『マルテの手記』をうつしておこう。

 ここに夜ごとに祈った言葉を自分の手で書き写してある。僕はその言葉を書物のなかに見つけて、それを書き取ったのである。いつもそれを身近に感じ、自分の言葉のように自分の手で書いておくためであった。僕はその言葉をもう一度ここへ写そう。この机の前にひざまずいて書こう。読むだけよりも長くつづき、一語一語が永続し、消えるのに手間どるからである。
 
 読むことが祈りであるということ、そのことがうまくのみこめない。
 書いていないから、かもしれない。書くとはどういうことか、ますます、わからなくなっている。ただ入力している(させられている)だけの気がしている。だから、キットラーを読んでいるのだ。
 
 柿の葉がきれいな黄色になって、風に吹かれて散っていく。その様子を、窓を開けたり閉めたりして、飽きることなく眺めている。

2022年11月23日水曜日

拾い読み日記 282


 いたずら書きがすきで、昨日の朝も、猫の絵をそのへんの紙に描いていた。描くのはいつも顔ばかりだが、その日はふと、からだも描いてみようかなと思い、てきとうにペンを走らせていたら、それを見ていた夫が、本棚から『11ぴきのねことあほうどり』を取り出して、テーブルに置いた。見て描いたら? というので、見て描いてみる。あほうどりのたくさんいる島に着いた猫たちが、うれしそうに歩いている絵だ。みんな、いい顔をしている。とても愛らしい。 
 見て描いていると、いつものように、すらすら描けない。線がのびのびしない。ただ、てきとうに手をうごかしているのが、すきなのだ。どうでもいいが、描と猫は字が似ている。
 今朝は、猫でないものを描こうとして、アオさんという絵本の馬を描こうとしたが、ぜんぜん、だめだった。知っているものを描けるか、というと、まったくそうではないのだった。あたまと手は、それほどに遠い。

 描けるものをてきとうに描く手みたいに、気楽に、のんきに、本を読んでいる。読みたいときに、読みたいように、読んでいる。何が読みたいかは、本棚の前に立つまでは、わからない。なりゆきまかせ。いきあたりばったり。手がのびた本を、読んでいる。
 最近、あたらしい本ばかり読んでいたら、息ぐるしくなるな、と思った。読みたい本も、読まなければと思う本も、どんどん出てくるから、とてもおいつかない。伝えようとする力が強い、と感じる本が多くて、心は動くのだが、「今」に閉じ込められている気がしてしまって、すこし、くるしかった。

 ほんとうは、誰からも遠い場所で、本を読みたい。ひとりで本を読む。本を読むためにひとりになる。ひとりになるために本を読む。遠いもの、はるかなもの、あるのかないのかわからないもの。そうしたものの存在を感じられないと、ふじゆうな気持ちになる。

 あのころの孤独な魂は
 あんな陰気なみずうみを、
   楽園になしえたのでした。(『ポー詩集』より)

 雨の音と同じくらい音量をしぼったラジオから、むかしのアイドルの歌が流れていて、意外にそれが、わるくない。すきでもきらいでもない、かすかになつかしい、そんな音楽。うるさくなくて、ここちよい。雨の音が強くなれば、話し声も歌も、遠のいていく。

 


2022年11月11日金曜日

はるなつあきふゆ/ある日


 
 森雅代さんの作品展「はるなつあきふゆ」のDMをデザインしました。
 森さんとは、『冬の木』『雨の日』『窓の韻』をいっしょにつくってきまして、今回の展示でも、森さんの銅版画とヒロイヨミ社が刷った詩があわさった、ちいさな冊子がご覧になれます。ちいさい、というか、ミニマルな冊子です。ごらんいただけたら、うれしいです。11月27日から12月4日まで、つぎのカーブにて開催されます。

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 先日おしらせした新刊『ある日』2と3、以下のお店で取り扱ってもらっています。よろしくおねがいいたします。

〈宮城〉

〈東京〉
SUNNY BOY BOOKS
Title

〈埼玉〉

〈愛知〉

〈大阪〉

〈奈良〉

〈広島〉

〈山口〉

〈沖縄〉

  
    +   +   +   +   +   +   

 最近は、日記がぜんぜん書けなくなってしまいましたが、元気にやっています。
 筋トレをはじめたり、組版の講座にいったり、ドラマ(サイレント)をみたり、あちこち出かけたりしています。本はあんまり、読めていません。一昨日は、旧知の編集者、竹中さんが企画された「アナキズムのひろば」にいってきました。高島鈴さんと成田圭祐さんの話、すごくよくて、そのあと、一緒にいったひととのみながら話してたらけっこうもりあがり、だいぶよっぱらってしまいました。

 また本が読めるようになったら、日記を書きたいと思います。

2022年11月1日火曜日

ある日




 先月、あたらしい本をつくりました。
 前につくった『ある日』のつづき、『ある日  2』と『ある日  3』です。
 この本は、みたもの、よんだことば、おもったことの記録です。過去に書いた日々の記録をランダムにあつめてきて、一年のながれにそってならべました。
 時系列ではないので、日記の本、というわけではなく、かといってフィクションでもなく……日付のある散文集、というのが、いちばん近いような感じがします。とはいえ、どういう本なのか、あいまいにしておきたい、というのが正直な気持ちです。というのは、自分でも、よくわからないからです。
 ぜんぶ読まなくてもいい本、どこから読んでもいい本を、つくりたいと思っていました。シンプルに、拾い読みのための小冊子として、すきなところだけ読んでもらえたら、と思います。
 まだ出荷中ですので、おちつきましたら、取扱店をおしらせします。

 ことしも東久留米市立図書館の開催する図書館フェスにて、「ひとハコ図書館」の館長になりました。「羽ばたくページの図書館」、おとずれていただけたらうれしいです。
 ほとんど本が読めなかった10月ですが、集中して本のことをかんがえているときは、実際に本にさわっているような、みたされる感覚があって、とてもおもしろかったです。

2022年9月24日土曜日

洋書まつり


 10月に東京古書会館で開催される洋書まつりのポスターとフライヤーをデザインしました。
 
 アルファベットをモチーフとして、本のようなかたちをつくりました。文字から〈本〉ができないものかと、あれこれ試していて、たまたまできたかたちです。たまたま、ということに、いま、妙にひきつけられています。

 ことばがわからなくても、洋書に触れると、こころが弾みます。じぶんの場合は、ことばがよくわからないからよけいに、レイアウトや紙の風合いなど、デザインに目がいきます。

 20年ほど前はじめて海外に行ったとき、ロンドンの本屋さんでどぎまぎしながら本を買ったら、店員さんが、enjoy.といって、にこっと笑いながら本を手渡してくれました。本屋さんの名前も買った本のタイトルもすっかり忘れてしまったけれど、あの店員さんのことばとかろやかな雰囲気は、おぼえています。(びっくりしたから)

 読めても読めなくても、本をもっとたのしめたらいいなあ、と思います。
 洋書まつり、参加店など詳細はこちらに。
 水中書店もはりきっていますよ。

2022年9月17日土曜日

拾い読み日記 281

 
 ひさしぶりに椋鳥が来た。椋鳥が来ると、たべられる、と思ってしまう。秋が深まり、柿が色づくと毎日のようにやってきて、あきれるほどの貪欲さで実にくらいつく姿を、毎年みている。まだ実は青いのに、飛んで来るなんてめずらしいことだ。下見にやってきたのかな、と思って観察していたら、なにかついばんでいる様子がある。口元に、オレンジ色のひらりとしたものがみえた。どうやら、枝から落ちて赤くなった実をたべているようだった。なんて鳥だ……と思ってにらんでいたら、夫が、挑発にのらないで、と笑いながらいった。

 蟬もやってきた。ふらっと飛んできて、鳴かずにじいっとしている。みていても、いつまでも鳴かない。日に透けた羽がセピア色をしている。もう、飛ぶ力も鳴く力も、残っていないようにみえた。秋の蟬をみていたら、冬の蜂の句を思い出した。

 冬蜂の死にどころなく歩きけり  鬼城

 蟬は、いつのまにかいなくなっていた。羽の音もしなかった。しずかな蟬の行方を思って、しんとした気持ちになる。
 
 宮野真生子・磯野真穂『急に具合が悪くなる』を読んでいる。年をとり、おとろえたり、あちこち悪くなったりして、でもそんななかでどのように自分のしごとをつづけていくか。ふたりの言葉に導きのようなものをもとめて読み始めた。読み始めてすぐ、そんな他人ごとみたいに読める本ではないな、とわかった。

 つねに不確定に時間が流れているなかで、誰かと出会ってしまうことの意味、そのおそろしさ、もちろん、そこから逃げることも出来る。なぜ、逃げないのか、そのなかで何を得てしまうのか、私と磯野さんは、折り合わされた細い糸をたぐるようにその出逢いの縁へゆっくりと(ときに急ぎ足で)降りながら考えました。(宮野真生子「はじめに」より)

 もしかしたら自分は、出会ってしまったものたちから逃げつづけてきたのではないか、という思いがよぎって、ひやっとして、すぐにその考えを打ち消した。
 

2022年9月14日水曜日

本とビールの旅

 
 飛行機にはできれば乗りたくない、とは思いながらも、飛行機に乗って、遠くの町に出かけてきました。たくさんの本屋さんを訪ねました。

 熊本では、汽水社、橙書店、長崎書店へ。
 福岡では、ブックスキューブリックと本のあるところajiroとナツメ書店へ。
 山口では、ロバの本屋へ。
 広島では、READAN DEATへ。

 どのお店もそれぞれにすばらしくて、居心地がよくて、本の居心地もよさそうで。本屋さんって、やっぱりすごくいいものだなあ、と思いました。本屋さんで本を買うことのよろこびを、たっぷり味わえました。
 そういえば、本屋じゃないけど、熊本のさかむらにも古本がありましたよ。ひさしぶりの坂村さん、やっぱりおもしろかったです。
 
 しかし、移動がはげしかった。3泊4日では、きびしい旅程でした。
 帰ってきて、ぐったりして、ひとつ仕事を終えて、今ようやく買ってきた本をぱらぱらめくる時間ができました。

 もうこんなハードな旅はできないかもしれない、と思っています。せっかくなので、zineかフリーペーパーか、つくりたい気がしているのですが、できるかどうかは、まだわかりません。こうしてブログに書いてしまったら、もういいか、と思ってしまいそうなので、くわしい話は、またいずれ。

 とりあえず、熊本に着いて最初にのんだビールの写真をあげておきます。

 

 

 

2022年8月26日金曜日

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2022年8月16日火曜日

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2022年8月10日水曜日

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2022年8月9日火曜日

拾い読み日記 280


 彼の歌声は、真夜中の電話みたいだ。とてもシャイな人が、小さな声で話しかけてくるような近さと、すぐに消えてしまいそうな不安定な魅力がある。細い線でのみ、彼と繋がっている。「わたしたち」の背後にひろがる闇が見える。彼がほんとうはどういう人間なのかは、どうでもいい。歌と声だけで十分だ。そのような声を持つ人は、ほかにいないから。  

 書く「私」は、生きている「私」の変身したものーーある種の文学的な目標と義務に対応して特殊化し、レベルアップしたもの。自分の本を作るというのは、些細な意味でしか、真実性がない。私の実感としては、そうした本は、私を媒介として、文学によって作られている。私はその(文学の)召使いにすぎない。(スーザン・ソンタグ「ひとりでいること」)  

 この一節を読んだときからずっと何かが引っかかっている。
 読者としてのわたしは、書く「あなた」に関心がある。書かれたもののなかに生きる「あなた」について、「あなた」が身を捧げた文学について、知りたいと思う。現実に生きている(生きていた)「あなた」が、どうでもいい、というわけではないのだが、強い関心を抱けない。そうした態度を、不遜だ、薄情だ、と咎める人もいるかもしれない。でも、「あなた」はきっと、そうは思わない。
 思い出したのは、作ったものと作った人間の印象の違いを指摘されたときの居心地の悪さ。わたしはわたしにふさわしいものをつくるべきなのか? わたしがつくったものにふさわしいわたしであるべきなのか? せっかく変身しようとしているのに。
 生きているほうの「わたし」は、できれば陰に隠れていたい。わたしがつくるものも、にぎやかなところより、しずかな空間を必要とする。

 新しいカメラで、こころみに、本を撮った。「文学によって作られている」ような本に対するとき、束の間ではないよろこびと、なぐさめが得られる。 




2022年8月7日日曜日

2022年8月6日土曜日

2022年8月5日金曜日

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2022年8月4日木曜日

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2022年8月3日水曜日

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2022年7月16日土曜日

拾い読み日記 279

 
 夢でたくさんのひとに会ったので、すこしくたびれている朝。今日も空は灰色で、閉じ込められている感じがする。光がほしい。

 制作のため、毎日自分の書いた言葉を読む、それにも疲れてきている。作りたいという意欲をなくさないうちに入稿してしまいたい。

 引用した箇所を探そうとして全五巻の全集をめくっていって、なかなか見つからなくて、もうどうしようか、とあきらめかけているときに開いたページの、目を落とした行に、探していた言葉があった。はっとして、顔をあげる。心臓をギュッと摑まれたような感覚。いや、そこになにか特別な意味を見出してしまうような人間だから、こういうことをやっているんだろうな、とも思う。もちろん、こんなことはただの偶然だということはわかっている。だが、本にあそばれているようで、うれしい

 この詩人はただ詩或は単に言葉と一しよにゐたかつた。日常の生活は不断の地獄の連続であり、ものを書くときだけがたのしい日曜日である、と。言葉と一しよにゐるだけでよい。このとき、もう嘘もほんたうもおなじやうに、彼にとつて真実なのだ。

 立原道造の手紙から。

 日常の生活を地獄だと感じてはいないが、本を読むのは、「出口」を求めているからではないのか、と最近思いいたった。であるならば、何かしら、そこから出たいような場所にいる、ということだろうか。それもなんだかちがう気がする。
 「通路」といったらどうだろう。この世界と、この世界ではない世界との。

 こんなことをかんがえてしまうのも、ただ最近の、重たい空の色のせいかもしれなくて、もし今日が晴れて暑い夏の日だったら、ぜんぜんちがうことを書いていた気もする。

2022年6月24日金曜日

本をひらくと(の続き)




 狩野岳朗さんとつくった『本をひらくと』、 手元の在庫ものこり少なくなりまして、あらためて、お求めくださったみなさまに、お礼もうしあげます。
 えほんやるすばんばんするかいしゃでの展示のあとに、お取り扱いいただいているお店は、以下です。遅ればせのお知らせとなりましたが、どうぞよろしくお願いいたします。

〈宮城〉

〈長野〉


〈埼玉〉

〈愛知〉

〈奈良〉

〈広島〉

〈山口〉

〈愛媛県〉

〈福岡〉


 いつになく、お読みいただいた方からのご感想もいただいたりして、うれしいです。お店の方が、それぞれのことばで紹介してくださっているのも、とてもありがたく、うれしいねえ、ときのう狩野さんと話していました。
 本の本も、絵本も、またつくってみたいなあ、と思っています。

 
追伸 12月の打ち上げでみんながちょっとずつ音読してくれたのも、(あのときははずかしかったけれど)よい思い出

2022年6月12日日曜日

拾い読み日記 278


 右腕の付け根あたりがいままでにない感じで痛むので、いつもの整体にいったのだが、なかなかよくならない。それで、電車に乗って遠くの整体にいった。背中で筋違いが起きているようで、それでへんに腕が痛むらしい。いろいろたずねられる。床で寝ましたか? いそがしいんですか? いずれにも、いいえ、とこたえる。
 ひとつ、思い当たることといえば、夫の誕生日の前祝いの日にのみすぎて、その晩はすごくねぐるしかった、ということだ。グウとかゴウとか、ガ行のいびきも、かいていたらしい。そういわれても、しんじられない。こんど録音しておいて、とたのんでおく。
 思い返せば、その日あたりから、からだのぐあいがわるかった。でも今は、よくなりつつある。そう感じられる。だから、多少痛みはのこるが、さほど気にせずにいられる。
 のみすぎないようにしたいけれど、ときどきは羽目をはずさないと、どこかで大きなあやまちをおかす気もする。

 また『ある日』をつくろうとしていて、この10年ほどのあいだに書いたものを読み返していた。書いたことば、書かれたことばにわけいっていくような作業。まるで夢のなかにはいっていくようだ。だんだん、くらくらしてくる。いったい何をやっているのだろう、と思う。それだからおもしろいのだ、とも思う。

 きみの指に展かるるまでほのぐらき独語のままの封書一通  横山未来子

 かつて書き留めておいた短歌を読み返して、〈手紙〉に、〈本〉に思いを馳せる。
 画面上の言葉には、仄暗さがない。つねにひらかれているから。〈手紙〉に、〈本〉に、ここまでこころをとらえられるのは、それらが必然的にはらんでしまう暗さのためかもしれない。

2022年6月3日金曜日

拾い読み日記 277


  文体が身体になじんできたためか、どこででもよめるようになり、外でも家でも『感受体のおどり』をよんでいて、ちょうどはんぶんまできたところで、手をみた。本をよんでいる自分の手のなかに本があって、左手にはこれまでよんだページが、右手にはこれからよむページがある。手の指で、その束がはさまれている。紙の束であり、時間の束でもある。どれくらいかかってここまできたのかは、だいたいわかる。どのくらいでおわるのかは、今はまだわからない。すすんでいけば、右手の束が減っていって、尽きたところで、おわる。気が変わったり、なにかが起きたりして、尽きないかもしれない。
 
 40回目の誕生日に、一抹の感慨とともに、折り返しかな、とつぶやいたことを思い出した。あれはべつに、半分まできた、という思いからではなかった。たぶん、おわりがみえてきた、ということだった。おわりのほうに、あたまが向いた、ということだ。

 この小説がおわること、よみおわることが視界にはいり、ここですこしやすんで、ただ、紙の束をながめていたい気もする。しかし、よみおわるとは、どういうことだろう。
 
 束がばらばらになりページからことばが放たれて、おりおりにそのことばを、本をひらかずしてよんでいくような本がある。「塊まりであれば壊すことができる。しかし、あらゆる場所に存在していたら、根こそぎになどできようか」、というユゴーの小説の一節がよぎったので書き留めておいて(ミシェル・ビュトール『レペルトワールⅡ』より)、よみながら、あたまは、「本」に、本という「もの」のほうにふれていって、はたしてこんなふうで、よみおえられるのだろうか。かなり、混乱している。

2022年5月27日金曜日

拾い読み日記 276


  ききなれない鳥の声がするので窓を開けてベランダに出てみると、手をのばせば届きそうなくらい近くの枝にヒヨドリがやってきて、ひと鳴きした。ピョーだったか、ピヤアーだったか、奇声みたいな囀りに、びくっとする。あたまに日があたり、さかだった毛やみひらいた目や鋭利な嘴が、強くひかった。したしみの表現だったのか、威嚇だったのか、たぶんどちらでもないと思うが、しばらくのあいだ、鳥の殺傷能力についてかんがえさせられた。

 黒田夏子『感受体のおどり』をよみすすめる。本の重さが気になりつつ、でもつづきがよみたいからかばんに入れてきたのに、外ではぜんぜんよめなかった。ことばがはいってこないし、ひびいてこない。つかれていたせいだろうか。家にもどり、すこしねむり、あたまもからだも軽くなってからでは、よむことができた。それに、部屋のなかでよむことは、思ったより、おおきいことなのかもしれない。よむときには、からだのなかだけでなく、部屋ぜんたいが、ことばをひびかせるための空間になる。ほかにひとのいない部屋のほうが、ことばは、よくひびく。

こういうおもいを,ひらめく葉うらのほの白さのようなものを,まだ書いたことがなかったとかんがえた.目ざましいものではなくてかすかなものを,他をしのぐものではなくて他がこぼすものを,あらしめること,あらしめようと目ざすことが,私のおぼろな手さぐりの遠いこたえになりそうだとふいにさとった.(「第77番」より)

 帰りの道で、みたもののことを思いだした。ほわほわした綿毛のような葉がいっぱいついた木で、みあげたとき、羽がそのまま木になりかわったように感じられ、からだもすこし浮くようだった。木の名前はしらない。

 この小説をよみはじめてから、思うこと、感じること、思いだすことのひとつひとつが、それまでとはちがう重さを持つようになり、身のうちにおさめておくとかさばるので、すぐさま書きことばに変えたくなる。ひとつの小説をよみつづける、とらわれるということは、あやういことだと思った。日記がいくらでも書ける、ということの異常。ほかの本たちが遠のいていく、代わりがきかない、という点においても、読みふけることは恋いしたうということによくにている。


2022年5月24日火曜日

拾い読み日記 275


  ひかる葉、かげる葉、みないちよう
に風にふかれてゆれていて、ときにはその、さらさら、ざわざわいう音が、波の音にも聞こえる。一瞬、まぼろしの海があらわれる。ずいぶん前にも、こんなふうに、こんなきもちで、木をずっとながめていたことがあった気がするが、それがいつのことなのかわからない。

 黒田夏子『感受体のおどり』を、すこしずつ、よんでいる。よむことには、時間が要る、ということを、知ってはいても、わすれていて、またあたらしく、知りつつある。本を知ってから手にとるまでの月日があり、よめるかどうか、ためらう時間があり、ようやくとびらをひらいて、よんではやめ、よんではやめ、よみがたさに辟易し、それでも、すこしずつよみすすめていくと、いつしか、はりめぐらされている網にかかった動物みたいになった。とらわれて、ふらふらと、不自由に、いきつもどりつしている。

私が受けいれたくなかったのは,そうじどうぐから地球の自転速度にいたることごとくであり,それらをこばまないどころかあとから来るすべての者にもこばませまいとする世界の卑しさのことごとくであって,いくらかましにしようとかどれとどれだけ変えたいとかではなかったから,そのとりとめのなさが見かけをもとりとめなくしていて暗さや険しさを刻まなかったのかもしれないが,そのためにしばしば敵から身かたかと誤読された.(「第29番」より)

 受けいれたくないものにたいして、みずからはどのようにふるまってきたか、そのあまさ、そのよわさを思いしらされ、ひりひりもするが、よむのをやめたくないと思う。
 このことばのひとつひとつ、語のえらびかた、おきかた、ながれかた。スタイル。すべてに、すじのとおった、拒否と反抗の精神をみるようだ。
 「わたし」のためらいやとまどいや嫌悪に、いちいち、ゆれている。ないことにしてきた、微細な、あまたの思いたちが、めざめて、うごきだす。快と不快が交錯する。
 
「わたし」とは、いったいだれ? このひとは、どのような生を(どのように恋を)いきるのだろうか。いきたのだろうか。せつじつに知りたくて、今日も、すこし、よむ。

2022年5月22日日曜日

拾い読み日記 274

 
 あいかわらず、Snow Manの動画をときどきみている。気になるひとについて、どれだけのことを知るべきなのか、適切な分量というのはあるのだろうと思うが、ほしいままにしておくと、いくらでも、どこまでも知ることができる。これが、沼にはまるということなのだろうか。愛着は増すけれど、飽きるのもはやいかもしれない。いまはまだ、飽きてはいない。DVDは、買わないと思う。

 ある動画で、お寿司をおいしそうにたべる、まだ幼さののこるラウールくんが、そのようすをじいっとみているみんなに伝えていた。ひとつぶひとつぶのイクラたちが、ぼくに、積極的にはいってくれる。
 その日のおひるは、お寿司屋にいった。中落ち、うに、かんぱち、アナゴ、ほか、すきなものをすこしたべ、ビールも一杯だけのんで、ぼうっとしたあたまで、思った。ラウールくんのことばづかい、けっこうすきだなあ、と。サーモンのお寿司をぱくっとたべて、うっとりしつつ、ぼくが、なくなっちゃう、といっていた、あのことばも、なかなかよかった。
 
 ひさしぶりに遠出をした。知らない町を歩くと、目が切り取った風景のひとつひとつが、イクラのひとつぶひとつぶみたいに、自分のなかに、積極的にはいってくる。それらのほとんどすべては、いまではもう、思い出せない。ただ、あたらしいものがはいってきて、それにのっとられて、自分が消えていたような感覚がのこる。からだがすきとおって、目だけになって、さまよっていたような感じ。
 知らない町の本屋さんをたずねて、知らなかった本を買った。ちいさな旅の日。
 
 たずねたのは、昨年からとりひきのある、川越の本屋さん、つまずく本屋ホォルで、買った本は、グザヴィエ・ド・メーストル『部屋をめぐる旅 他二篇』と、乾久美子+東京藝術大学乾久美子研究室編著『小さな風景からの学び』の2冊。
 どちらも、本をめくりながら、たのしい妄想がひろがり、読んでいるようで、読んでいなくて、どこまでも逸れていく自分がいた。
 何を読んでいるのか。何を書きたかったのか。逸れても、見失っても、かまわないということ。「なぜならわたしの主題は最も予期せぬときに自ら帰ってくるものだと気づいたからだ。」(『部屋をめぐる旅 他二篇』より)

 いいなあ、と思う本屋さんに、ヒロイヨミ社やananas pressの本があるのは、かたじけなくも、うれしいことで、これから2冊の本を手にするたびに、この日のできごとのあれやこれやを、思い出すことになるのだろう。記憶はかけらになって、栞みたいにはさみこまれて、ひらくたびに、それらと出会う。

2022年5月13日金曜日

拾い読み日記 273

 
 この10年ほど、テレビのない生活をしている。若い俳優やアイドルの顔も名前もほとんどわからないが、2年くらい前に夫がSnow Manのことを教えてくれて、それから、ふたりでときどきダンスの動画を見たりしていた。そろっていて、いいね。かわいいね。とかいいあいながら。集団で、そろっていたり、がんばっていたり、たのしそうにしていたりする様子をみていると、こころがなごむ。「11ぴきのねこ」みたいだな、と思う。
 9人もいて、背の高いラウールくん以外、とてもおぼえられそうにない、と思っていたのに、いつのまにか、全員の顔や名前だけでなく、趣味や特技まで知ってしまった。ザリガニ釣りが得意、とか、円周率が100桁いえる、とか、べつに知る気もなかったのに。
 ある動画で、ライブへの意気込みを聞かれたメンバー何人かが、「爪痕を残したい」といういいかたをしていて、へんなの、と思った。爪痕を残す、といったら、被害をあらわすときとか、悪い意味で使うものだと思っていたら、最近は、印象づける、みたいな意味でも使われているらしいのだった。
 それで、20代のときに読んだ詩の一節が、あたまをよぎった。

 人はたったひとつの自分の一生を生きることしか出来なくて
 あといくつかの他人の人生をひっかいたくらいで終わる
 でもそのひっかきかたに自分の一生がかかっているのだ
 それがドタバタ喜劇にすぎなかったとしても

 谷川俊太郎「午前二時のサイレント映画」より。この詩が載っている『世間知ラズ』という詩集は、刊行されたころに買ったけれど、手放して、ずいぶん経っていた。それを、3月にSUNNY BOY BOOKSで見つけて、なんとなく、また読んでみたいな、と思って買った。

 「そもそも人生には、目的なんてない。人生は続くこと、それ自体に意味があるのです」。このあいだサニーでもらってきた「AFTER2025」というフリーペーパーに、ティム・インゴルドのインタビューが載っていて、近ごろ考えていることと通い合うところがあったので、本棚にある『生きていること』を手にとってみた。読むかどうかは、まだわからない。

2022年5月7日土曜日

拾い読み日記 272


 このあいだまでくたくたで、何も作る気がしない、ましてや仕事など、と思っていたのに、今朝は目ざめた瞬間から、やる気がみなぎっていて、あふれそうだった。
 いったい何があったのだろうか。昨日、三軒茶屋で、ことばを交わしたひとびとのおかげかもしれない。それとも、たまたま出くわした「テル子女神像」(怖かった)のご利益?なのだろうか。からだも軽い気がする。

 千葉雅也『現代思想入門』を読んだ。思想についての本、というよりは、生き方の本として読んだ。過剰で、虚ろで、もやもやしていて、いいかげんなじぶんでも、この先もどうにか生きていけそう、という気分になった。

 世界は謎の塊ではない。散在する問題の場である。

 もっと書き留めておきたいが、今日はこれだけ。
 
 次につくる本のタイトルを思いついた。
 窓を開けて木を見ていると、すぐ近くにシジュウカラやメジロがやってきて、いい日だなあ、とうれしくなった。

2022年5月6日金曜日

さざえ尻まで


 詩集をデザインしました。
 『さざえ尻まで』(思潮社)という、新井啓子さんの本です。さざえ尻、というのは、くるくる曲がりくねっていて、しだいに細くなる道のこと。
 詩をよんだときに感じた、色や、温度や、手ざわりが、本のかたちにあらわれていたら、うれしく思います。
 装画は鈴木いづみさんです。編集は藤井一乃さん。ありがとうございました。

 


2022年4月16日土曜日

拾い読み日記 271

 
 ようやく、本が読めるようになった。
 本を作ったり、売ったり、デザインしたりしていて、そのことに追われて、疲れはてて、ほとんど、本が読めなかった。読めない、書けない。ものを考える時間もない。

 買っておいたスーザン・ソンタグ『他者の苦痛へのまなざし』を読む。

 われわれの同情は、われわれの無力と同時に、われわれの無罪を主張する。そのかぎりにおいて、それは(われわれの善意にもかかわらず)たとえ当然ではあっても、無責任な反応である。戦争や殺人の政治学にとりまかれている人々に同情するかわりに、彼らの苦しみが存在するその同じ地図の上にわれわれの特権が存在し、或る人々の富が他の人々の貧困を意味しているように、われわれの特権が彼らの苦しみに連関しているのかもしれない——われわれが想像したくないような仕方で——という洞察こそが課題であり、心をかき乱す苦痛の映像はそのための導火線にすぎない。

 日々の労働に追われて、刺激にばかり反応して、本を読む気力をうばわれるのは、あやういことだ。(それは少し前の自分だ。)
 ラジオから中森明菜の歌う「スローモーション」が聞こえてきて、窓の向こうでは若葉がきらきら光っていて、読みたい本がたくさんあって、いまは土曜のお昼で、もうそろそろこの画面の前から立ち去りたいと思っている。立ち去る前に、パソコンの電源を切るだろう。見たくないことから目を背けるために、ではなく、理解も想像もできないものに近づいて、考え続けるために。
 
 

2022年3月20日日曜日

16年目

 
 SUNNY BOY BOOKSでの「春の手紙」、ぶじに終了しました。
 お店で、オンラインで、見てくださったみなさま、どうもありがとうございました。

 木が芽吹いて、花も咲いて、ものごともうごきだす春ですが、いまは、ねむくてねむくてたまりません。ゆっくりやすんで、また、つくりたいものをつくろうと思います。
 16年目、と書いたけれど、いまは、その数字をゼロにもどして、あたらしく、はじめたい気持ちです。
 
 SUNNY BOY BOOKSという、あかるくひらかれた場所に、あらためて感謝します。

 最後に座右の一節を。

どこかへ出かけようが、出かけまいが、目的地へつこうが、ほかのところへいってしまおうが、それともまた、どこへもつくまいが、ぼくらは、いつもいそがしい。そのくせ、これといって、特別のしごとがあるわけじゃない。そして、一つのことをやってしまうと、また、なにかやることがある。だから、それをやりたきゃ、やるもいいさ。だけど、やらないほうが、まだいい。ねえ、きみ、ほんとに、けさ、なにもすることがないんなら、いっしょに川をくだって、一日ゆっくり、あそんでいかないか?ケネス・グレアム『たのしい川べ』石井桃子訳(岩波書店)より)

2022年3月10日木曜日

拾い読み日記 270

 
 え、と思うほど、それはちいさかった。種みたいなもの、花みたいなもの、うつわみたいなもの、糸、透ける布、これは、ひとの爪? いや、そんなわけはなくて、なにか、ささやかな、なにかの痕跡。
 ぼうぜんとしていたと思う。ちかよってみたり、はなれてみたりした。そっと、それらをふきとばしてしまわないように、しずかに。そのものの大きさと、とりまく景色がすこし変わった。あたらしく、あらわれつづけているようだった。
 それがなにかはわからないままに、これはじぶんのためにつくられたのだ、ということは、わかった。ここに、いまいる、わたしのために。これまでいきてきて、ようやく、ここにやってきた、わたしのために。きっと、いわわれて、いのられている。
 もっといろいろなことを、たくさん、ふかく、感じたかったけれど、できないうちに、時間がきた。うながされ、身をかがめ、それらとわかれた。

 帰りに入ったカフェで、持ってきた白い本をひらこうとしたが、近くの席で数名のやり手っぽい人たちが、自動車業界におけるSDGSの話をしていて、そのはきはきした声がやけによく聞こえるので、読めなかった。

 今日のなごりに、白くて四角い石みたいなおもたい本を買って帰って、駅に着いて、いきつけのお店でひらこうとしたが、隣で若い男女が、奨学金の返済や自己破産の話をしていたので、気になって、読めなかった。

 帰り道、沈丁花の花がにおって、夜道がきよらかなものになった。

 このところ、じぶんのための精神的な居場所を、じぶんの手でつくることについてかんがえていたけれど、それは、遍在するものなのかもしれない。つくろうとして、つくれるものではないのかもしれない。

2022年3月7日月曜日

「春の手紙」はじまりました




 SUNNY BOY BOOKSでの展示「春の手紙」、ぶじに、はじまりました。

 今回つくったのは、まず、『はるのこと』というちいさな冊子です。春の言であり、春の事です。歳時記から、春の季語をえらんで刷りました。季語だけでなく、春の句からえらんだことばもはいっています。のたりのたり(春の海)とか、ぽたりぽたり(椿が落ちる音)とか。
 ひらがなだけの冊子です。ひらがなにひかれていることについては、『水草』2号に書きましたので、あわせてよんでいただけたらいいなあと思います。ひらがなは、余白が多いし、曲線が多いし、意味もぱっとつかみにくいところが、すきです。
 自分で活字を組んで、半紙に刷りました。帯みたいなケースがついていて、ピンクか、水色か、黄色(黄緑色?)から、えらんでもらえます。
 ばたばたと、制作に追われてしまい、今もあたまが、うまくはたらきません。展示のためにつくった、ほかのものについては、おいおい、また書いていけたらと思っています。

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 最近、窓からみえる木に、よくヒヨドリがやってきます。姿のみえないほかの鳥と、さえずりを交わして、聞いたことのない鳴き方をして、気をひいているみたいで、とても、かわいらしいのです。ちなみに、「さえずり」は、春の季語です。

 昨日は、ほんとうにひさしぶりに、たくさんねむって、ひといきつく時間ができたので、本をひらいて、片山廣子の「鳥の愛」というエッセイを読みました。ちいさないきものによせる深い愛情に、いつ読んでも、こころうたれます。ちいさな、はかないいきもの、というのは、何も小鳥だけのことではなくて。
 
 電車に乗つてから明るい心で私は念じた、野の鳥と籠の鳥をまもつて下さる神様、どうぞ人間も、苦しんでる人も悦んでる人も守つて下さい、どこにゐても。(『新編  燈火節』より)

 制作に集中するために、知ることも、かんがえることも、想像することも、休んでいました。自分にも、世界にも、うまく関われていない感じがします。思いはことばにならず、祈りかたもわからず、今は、できるだけこころをしずめて、紙を折ったり、綴じたりしています。
 〈本〉や、ことばや、詩人が、信仰の対象ではないけれど、では、そうではなくて、なんだろう、ということを、最近かんがえています。

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 感染症対策として、オンラインでも、あたらしい本や展示したものをごらんいただけます。
 (サニーチームのみなさま、テキパキとうごいてくださり、ありがとうございます)
 
 なかなかお目にかかることはかなわないかもしれない3月ですけれど、手紙を書く/手紙が届くために必要なのは、何よりも、距離ではないか、と思っています。だから、ちょうどいいのかもしれません。近すぎると、手紙は、書けません。

 また、書けたら書きます。

2022年2月17日木曜日

春の手紙



 来月開催予定の展示のお知らせです。

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ヒロイヨミ社「春の手紙」

2022年3月5日(土)—3月17日(木) ※月・金休み
12
20時(最終日18時まで)

目黒区鷹番2-14-15

(状況により変更になる場合もあります。ご来店の際のお願いごともありますので、お越しの際は、お店のHPをご確認ください)

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〈春〉と〈手紙〉をモチーフとした新作や『水草』(水中書店+ヒロイヨミ社)2号を販売します。
 あたらしい冊子は、ちいさくて、やわらかで、『ephemeral』よりephemeralです。
 『水草』春号では、詩人の川島雄太郎さん、画家の大平高之さんに参加していただき、詩、俳句、エッセイ、という内容です。前号とはまたちがった雰囲気の冊子になりそうです。
 
 写真は、4年前の3月に展示をしていた言事堂で撮った、小さな紙に刷ったエミリ・ディキンスンの詩です。川名澄編訳『わたしは誰でもない エミリ・ディキンスンの小さな詩集』では、こういう訳です。

 口にだしていうと
 ことばが死ぬと
 ひとはいう
 まさにその日から
 ことばは生きると
 わたしがいう

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 昨年、展示の話をSUNNY BOYのたかはしくんからいただいて、はじめて冊子をつくってから、2022年の春で、ちょうど15年、ということに気がつきました。
 あの春に思い立って、ぺなぺなの黄色い冊子をプリントゴッコでつくって、よかったなあと思います。作業はつらかったし、不安だったし、反応がほとんどないのもさみしかったけれど、あの春から、いろいろなことがはじまったからです。
 ひさしぶりにその、はじめてつくった冊子を開いてみたら、50歳の自分には、刷り色が薄くて文字は読みにくいし、紙は薄すぎる気がしたし、もう今だったらぜったいにつくれない(つくらない)ものでした。でも当時は、やみくもで、ひっしでした。はかないもの、かろやかなものに、自分をこんなふうに、賭けたのだなあ、と思いました。
 本文の読みにくさはおいといて、表紙の黄色はやっぱりやけにあかるくて、春のうれしさとまぶしさを、思い出しました。
 15年経ったけれど、まだこれからも、はじまることばかりだと、きっと春の前だから、素直に、そう感じています。

 まだまだ状況は見通せませんので、どうぞ無理はなさらず、気がむいたら、お越しください。

 おだやかであかるい春が、はやく来ますように。


 追伸 DMが届いてもあまりプレッシャーに感じないでくださいね

 追伸2 届かなくても、よろしくおねがいします

2022年2月5日土曜日

拾い読み日記 269

 
 何年か前、吉祥寺の地下のお店でお茶をのもうとしたら、たまたま知っているひとが絵の展示をしていた。ちょっと不思議な物語が絵になったみたいで、おもしろくみていたが、気になることがあった。展示のタイトルが「億劫」というのだった。はて、億劫? 絵とどういう関係が? と思い、画家にタイトルの由来をたずねたら、じつは、絵を描くのが億劫なときがあって、といわれた。

 文を書くことも、すごく億劫に感じることがある。それでも、誰にたのまれたわけでもないのに、書いている。書くことがすき、というよりは、読むのがすきだから、かもしれない。日記を読み返すことは、おもしろい。
 昨日読んだマルグリット・デュラスの言葉を書き留めておこう。

 わたしのモデルとなる存在、いいかえれば、わたしのなかに秘められている作家としての存在が、わたしにたいして、わたしの人生を物語る。いまこうしてお話ししているこのわたしは、そこで語られる物語の読者なのです。マルグリット・デュラス 生誕100年 愛と狂気の作家』)
 
 すべての人が書いている、とデュラスはいう。紙に書いたり、ブログに書いたりしなくても、誰もが書いている。
 自分のまわりの限られたことしか記憶できないし、書くことができない。限られているということは、ある意味で、すでに、虚構であって、つまり日記がたのしいのは、自分が、作者にも、読者にも、語り手にも、作中人物にもなれるから、だろう。自分が複数になる。複雑になる。

2022年1月30日日曜日

拾い読み日記 268


 書かないでいると、書けなくなる。どうやって、どうして、書いていたのか、よく、わからない。言葉が遠くにある感じ。話すときは、言葉を意識していない。書くときにはじめて、「言葉」が迫ってくる。そうしたら、言葉が、うまく、使えなくなる。使う、というようなものでなくなる。
 書けないときは読めないときで、このところ、まともに本が読めない。読めないときは、やみくもに、目についた本を開くことになる。ジャック・デリダ『盲者の記憶』は、夫の本棚から。ディドロの手紙が引用されていて、奇妙に惹かれ、そこばかり読んだ。

 (……)闇のなかで書くのはこれが初めてです。この状況は私に、とても優しい想いをいくつも吹きこんでくれるはずです。それなのに、私が感じるのはたった一つ、この闇から出られないという想いです。あなたの姿をひとときでも見たい、その気持ちが私を闇に引き留めます。そして私は話し続けます、書いているものが文字の形をなしているかどうかもわからずに。何もないところにはどこにでも、あなたを愛していると読んでください。

 何もわからなくても、書いたり、作ったりを、続けてみようと思う。いつか、何か、今はわからないことが、わかるかもしれないから。

 今朝、二度寝の前の妄想のなかで、本のページの白い部分が布みたいにおおきくひろがり、やわらかく波うちながら降りてきて、自分をすっぽりとつつんでくれた。


2022年1月16日日曜日

拾い読み日記 267

 
 先月から通いはじめた整体の効果がではじめたようで、腰痛がなくなった。まだ、背中の張りを感じることはあるが、以前よりは、だいぶ、軽くなった。はじめてからだの凝りを感じたのは20歳のころだから、ずいぶん、不調とのつきあいは長い。50歳になろうとして、よくなる、なんてことがあるのだ。

 「名付けようのない踊り」を踊る人の声をラジオで聞いた。聞き始めたら、終わりまで聞きたいと思わせる、何かがあった。声の、深さ、だろうか。とても低いところで響いている。
 言葉が苦手だった、とその人は言った。読んだ本に何が書いてあったか、忘れても、たしかに自分の肉になった。そういう読書をしてきたと。本棚の写真を見た。書庫にただよう雰囲気は、その人の、顔に、からだに、よく似ている。
 
 部屋の本棚をみまわす。これらの本たちと、自分のからだは、どういう関係にあるのだろうか。

2022年1月7日金曜日

拾い読み日記 266


 何の疲れかわからない疲れを感じつつ、本棚の前に立って、目にとまったガートルード・スタインの本を取り出した。

 しゃりしゃりこおったくりーむ、こおるかのじょの湯気、こおるかのじょのしゃりしゃりこおったこおりの海のすばらしくて、ぬきんでていってしまった先立ってぬきんで送られた。(ガートルード・スタイン『地理と戯曲 抄』より)

 何もやる気がしない、と思っていたけれど、何か書く気になってこうして書いているのは、言葉が言葉を呼ぶからだろうか。言葉が言葉を呼ぶ。去年のおわりにみた『偶然と想像』の台詞で聞いた気がする。あの作家は、ある作家を思い出させた。べつに、ぜんぜん似てはいないのに。

 今朝、柿の木に鳩が来て、雪の上をしゃりしゃり音をたてて歩いていた。