2020年3月14日土曜日

拾い読み日記 164

 
 一日中、家にいた。本を読んだり、ごはんをつくってたべたり、窓から外をながめたり、珈琲をのんだり、かんがえごとをしたり、昼寝したり。
 雪? と知り、ねていた部屋の窓を開けると、たしかに雪が降りしきっていた。木にも雪がつもるかな、と思い、南側の部屋にうつって外をみると、もう雪は、やんでいた。手品をみたような気持ちで、窓を閉めた。

 メアリアン・ウルフ『デジタルで読む脳、紙の本で読む脳』(大田直子訳、インターシフト)を読んでいる。
 はじめからよんでいて、ちょっと間があいて、読めないかもな、とうしろのページを開いたら、ひきこまれて、またもどって、よんでいる。

 私たちだれもが、自分はどんな読み手、書き手、考え手なのかを、確認しなくてはなりません。(p274)

 140字以上の文章の読み書きに不安を感じ、思考力と忍耐力の低下を実感して、ツイッターをやめたので、この言葉には、共感した。(今は、日記以外の文章が書けるのか、不安なのだけれど。)
 よりふかくいきるために、だけでなく、民主的な社会であるために、それぞれの人がしずかな時間を持ち、本を読み、ものをかんがえること。パソコンもスマホもない世界にもどることは、むずかしいけれど、どうにかしたいと思っている。
 読み進めながら、ツイッターにおけるさまざまな「炎上」の理由は、ツイッターそのものではないか、と思えてきた。
 
 この日記を読んでいる人は、どんな読み手、書き手、考え手なのだろうか。知ることはできないけれど、その人が、必要なぶんだけ、しずかな時間を持つことができていたら、いいと思う。