2020年2月28日金曜日

拾い読み日記 159


 腰痛も花粉症も悪化していないのに、こころは晴れず、胸のあたりにわだかまるものがある。不安ばかりがつのっていく。同時に、どこか、うつろな感じもする。日々、受け止めきれないものが、降ってくる。

 気は晴れないが、入稿したし、家賃も払い終えたので、お昼は近所のイタリアンで、ゆっくり食事した。行きと帰りに、沈丁花のにおいがした。たちどまってふりかえっても、花のすがたは見えない。かすかなにおいはささやきのように、こころをひっそりとさせる。

 古人たちの信じたように魂というものが人の内にあるものなら、仮にも本によみふけるということは、本の内へ惹きこまれて身から離れた魂を、おそらく遠くまでさまよい出た魂を、呼びもどす、これも招魂のいとなみなのではないか。(古井由吉「招魂としての読書」)

 言葉がのこり、肉体がうしなわれる。それがほんとうにはどういうことなのか、わからない。わからないけれど、かなしみすぎるのは、何かちがう、と思う。同時に、本を開けば会える、という言葉にも、うなずけない。裂かれたまま、本を開き、読みふけっていると、途上です、という力のある声を、ふたたび聞いたように思った。
 声の質が、速度が、間が、ほかの作家とはまったくちがっていた。作家の声が、何よりも、書くということの秘密を、生々しく伝えているようにも感じられた。あの声を生み、ひびかせていたからだがうしなわれたということ。いったい、どういうことなのだろう。