2021年5月29日土曜日

拾い読み日記 245

 
 美術館を出たあと、海を見にいこう、と思い立って、南の方にむかって歩いた。15分ほど歩くと公園があって、子どもたちがあそんでいた。野球場もあった。海のそばの野球場って、なんだかいいなあ、と古そうなスコアボードを見あげて思った。小高いところに出て、そこから海が見えるのかと思ったら、富士山が、ぬっとあらわれた。今までに見た富士山のなかで、いちばん綺麗だ、と思った。ぼうっとかすんで、光って。あそこに神さまがいる、と信じる人の気持ちもわかる。
 知らない町で、たくさん迷って、つかれていたので、海はいいか、と一瞬あきらめかけたが、気をとりなおして、また歩いた。

 ひさしぶりの海を前にすると、こころぼそい気持ちになった。なんで来たのかな。来てよかったな。気持ちも波みたいに、いったりきたりする。
 そういえば、最近、海の俳句を探して読んでいた。

 夏の海水兵ひとり紛失す  白泉

 5月の海では、波乗りの人が、あらわれたり消えたりしていた。

2021年5月27日木曜日

拾い読み日記 244

 
 『ニューヨークで考え中』がおもしろかったので、気になりつつもなんとなく手を出せずにいた近藤聡乃『A子さんの恋人』の1巻を3日前にふと買ってみたら、ものすごくおもしろくて、二日前に2巻から4巻までを買い、昨日5巻から7巻までを買い、すべて読み終えて、今は、ぼうぜんとしている。
 すでに完結している漫画は、あっという間に読んでしまえる。待つ時間がほとんどない。もっとはやく読んでいれば、次の巻を待つたのしみを味わうこともできたのに。長い時間をいっしょにすごすこともできたのに。
 とはいえ、読めてよかった。ともに語り合いたいので夫にも読ませたいが、今はいそがしいようだ。このへん読んでみて、おもしろいでしょう、とチラ見せしている。

 物語に夢中になるというのは、さらわれることに似ている。帰ってきたばかりで、ぼうぜんとしている。

2021年5月23日日曜日

拾い読み日記 243


 目ざめてすぐにこむら返りが起きて激痛のあまり息もできなかったが、ひさしぶりに晴れて、さわやかな日曜日だ。

 夢のなかで、たくさん旅をした。その新鮮な空気が、まだからだに残っているような気がする。

 数日前、香港から手紙が届いた。Please keep warm and safe.とある。warm? と思ったら、2月に書かれたものだった。届くのに3ヶ月もかかったということか。手紙も長い旅をするものだ。

  ベランダには朽ちた柿の花がいくつも落ちている。小さな実も落ちていた。指の先ほどの大きさだが、もうすでに、柿のかたちをしている。
 紫陽花も咲きはじめた。今年は、季節がめぐるのがはやい。

 ただ過ぎに過ぐるもの 帆かけたる舟。人の齢。春、夏、秋、冬。(『枕草子』)

 今日は、たくさん日の光をあびて、たくさん空の青を目にうつしたい。

2021年5月17日月曜日

拾い読み日記 242


 今朝は、7時ごろかな、と思って起きたら9時すぎだったのでびっくりした。あわてて夫を起こしにいった。

 このところ、鳩を見かけない。名前をつけたせいだろうか。今度きたら、ふつうにしていようと思う。さりげなく、あ、鳩だ、という感じで、じろじろ見るのはやめよう。

 階下にいる鳥のことを思っただけで、鳥がそれに反応して鳴いているようだ、と確か百閒の随筆で読んだ気がする。ほのぼのした話ではなくて、そのことに気がついた瞬間、ぞっとした、という話だったと思う。

 たっぷり水をふくんだ風が吹き荒れて、葉擦れの音が波の音のようだ。

 

2021年5月13日木曜日

拾い読み日記 241

 
 いつも木に来る鳩が、いつも同じであるようだ、と今日気がついた。首のところに細かい白黒のしましまがあって、おしゃれだな、と思っていて、それが目印になった。それで、名前をつけたくなった。鳩子、ポッポー、クルックー……。ろくな名前を思いつけなかったので、英語で鳩は、なんというのかしらべてみた。pigeon。ピジョン。フランス語でも同じ。イタリア語では、piccione。いい響きだ。ピッチョーネにしようと思う。ピッチョーネは、窓を開けてもしらん顔をしているときもあれば、目をパチパチさせて、すこし遠ざかるときもある。いつもだいたい同じ枝にいる。明日もやってきたら、うれしい。

 夫がシャツワンピースをためしに着てみたいというので、昨夜、あれこれ試着させてあげた。黒いワンピースを着ると、神父みたいに見えた。神父というか、神学生。ジャコメッリの写真みたいな。グレーのグレンチェックのワンピースも、グレーと白のストライプのワンピースも、なかなか似合っていた。下にジーンズをはいていたせいかもしれない。服は、着る人によって、変わるのだな、と思った。変わるのは、何も人だけではなくて。
 すごくたのしそうなので、自分もなにかそういうあたらしい試みをしてみたくなった。だが、べつに着てみたいものはない。身につけたくないものだけははっきりしている。ヒールのある靴と、ストッキング、きつい下着、などなど。押しつけられているような気分になるものは、すべて苦手だ。

 「全くです。画工だから、小説なんか初からしまいまで読む必要はないんです。けれども、どこを読んでも面白いのです。あなたと話をするのも面白い。ここへ逗留しているうちは毎日話をしたい位です。何ならあなたに惚れ込んでもいい。そうなるとなお面白い。しかしいくら惚れてもあなたと夫婦になる必要はないんです。惚れて夫婦になる必要があるうちは、小説を初からしまいまで読む必要があるんです」

 最近、『草枕』の一節をよく思い出す。

2021年5月12日水曜日

拾い読み日記 240

 
 伊藤亜紗『ヴァレリー 芸術と身体の哲学』を62ページまで読んだ。

詩が生まれるのは、作者と読者が「伝達」ではないしかたで結びつくときである。詩の創造とは関係の創造である。そのとき、どのような関係が創造されているのか。

 ここで、書き留めておきたい、と顔をあげた。部屋には静かな音楽が流れていて、パソコンの前に座る前に、本棚を眺めた。本を読んでいるとき、仕事をしているとき、食事をしているとき、話しているとき、ぼんやりしているとき、いつでも本棚がそばにある。本棚に並んでいる本たちを、しぬまでにぜんぶは読めないだろうなあ、と思った。そう思っても、あせりもさみしさも感じなかった。あきらめ、というわけでもない。

 歯医者で、歯の検査。あまりよくない結果を告げられる。しかしそれにも慣れてきた。
 

2021年5月9日日曜日

5月のおしらせ


 かまくらブックフェスタ in 書店、くまざわ書店武蔵小金井北口店にて開催中です。
三省堂書店神保町本店の2階でもはじまりました。
「北と南とヒロイヨミ」として参加していますので、よろしくお願いいたします。


 ananas pressのホームページ、2018年に制作した『making』をworksに入れました。

『現代詩手帖』5月号の「詩集偏愛図書館」に寄稿しました。

 
 ヒロイヨミ社の活動は、ことしもマイペースでやっていきます。展示の予定はありませんが、本はつくるつもりです。

 いまは、画家の友人といっしょに、本をテーマにした本をつくっているところです。
 夏あたりには、水中書店と『水草』2号をつくりたいと思っています。
 
 デザインのしごともしています。(何かありましたら)

 困難な状況がつづきますが、どうぞお元気で。
 どこかでお目にかかれたらさいわいです。

2021年5月8日土曜日

拾い読み日記 239

   
 よく晴れた日曜日。昼食をたべたあと本屋に寄って、『女の園の星』の2巻を買った。すぐ読みたいけれど、カフェのたぐいはどこも混んでいるような気がしていく気になれず、そのへんのベンチに座って、すこし読んだ。スーパーで食材とお酒を買い、帰り道、またそのへんのベンチに座り、すこし読んだ。
 
 昨日は、気圧のせいかからだがだるかったが、フリードリヒ・キットラー『書き取りシステム1800・1900』を開いてみた。ボリュームに圧倒され、あんまり集中できない。理解できないところも多い。文章がわかりにくい。読み進める、というよりは、うろつきまわる、みたいにして読んでいこう、と思う。
 フーコー「幻想の図書館」の引用に惹かれ、本棚から『フーコー・コレクション2 文学・侵犯』を探し出して、読んでみた。同じ箇所を読んでも、さほど惹かれず、あれ?と思った。しかし、そのあとにつづく文章を、何度か、目で追った。

 夢見るためには、目をつぶるのではなく、読まなければならない。ほんもののイマージュは、知識なのである。

 このところは落ちつかず、さまざまな情報にのまれ、不満も不安もいっぱいで、息苦しいような感じがする。何もかんがえたくないときは、パソコンでゲームをしている。オセロも五目並べも飽きたので、「落ちゲー」というやつ。かなり高得点を叩き出せるようになった。スマホでゲームをしている人が理解できない、と長らく思っていたが、今では、理解できなくもない。

 それでも、どうにかして、本を読みたいと思う。

2021年5月4日火曜日

拾い読み日記 238

 
 窓を開けると木の中にはいりこむような感じになる。ときどき鳩に会う。木の中にいる鳩は、ずいぶんくつろいで、羽づくろいしている。へんなかっこうをすることもある。孔雀みたいに羽を広げてみたり。一度鳴いているところをみた。すぐそこにいるのに、どこかよそから聞こえるような、ふしぎな声。路上で鳩を見かけてもときめくことはないが、木にいる鳩を見ると、うれしい。愛らしい。南桂子の絵みたいだ、と思う。
 
 このところ、吉田健一の『わが人生処方』を、拾い読みしている。

 ジイドの「背徳者」に主人公がどこかの公園でホメロスの数行を読んでその日はそれだけで充分だと感じたといふ一節がある。さうあるべきであつて言葉といふものにはそれだけの力があり、その余韻が響くだけの生活が、それは結局は生命力が自分になければ再び前に戻つてその方を手に入れることに専念すべきである。(「本を読む為に」)

 スマホはほとんど見なくなったけれど、まだ、文字を読みすぎている、と感じる。もっと余白がほしい。言葉を響かせるための余白が。