2020年2月28日金曜日

拾い読み日記 159


 腰痛も花粉症も悪化していないのに、こころは晴れず、胸のあたりにわだかまるものがある。不安ばかりがつのっていく。同時に、どこか、うつろな感じもする。日々、受け止めきれないものが、降ってくる。

 気は晴れないが、入稿したし、家賃も払い終えたので、お昼は近所のイタリアンで、ゆっくり食事した。行きと帰りに、沈丁花のにおいがした。たちどまってふりかえっても、花のすがたは見えない。かすかなにおいはささやきのように、こころをひっそりとさせる。

 古人たちの信じたように魂というものが人の内にあるものなら、仮にも本によみふけるということは、本の内へ惹きこまれて身から離れた魂を、おそらく遠くまでさまよい出た魂を、呼びもどす、これも招魂のいとなみなのではないか。(古井由吉「招魂としての読書」)

 言葉がのこり、肉体がうしなわれる。それがほんとうにはどういうことなのか、わからない。わからないけれど、かなしみすぎるのは、何かちがう、と思う。同時に、本を開けば会える、という言葉にも、うなずけない。裂かれたまま、本を開き、読みふけっていると、途上です、という力のある声を、ふたたび聞いたように思った。
 声の質が、速度が、間が、ほかの作家とはまったくちがっていた。作家の声が、何よりも、書くということの秘密を、生々しく伝えているようにも感じられた。あの声を生み、ひびかせていたからだがうしなわれたということ。いったい、どういうことなのだろう。

2020年2月25日火曜日

かまくらブックフェスタ in 書店


 「かまくらブックフェスタ in 書店」のお知らせです。
 現在、聖蹟桜ヶ丘駅のくまざわ書店桜ヶ丘店で開催中です。北と南とヒロイヨミも、参加しています。『ほんほん蒸気』2〜5号、『北と南』、『窓の韻』、『十二か月のことば』など、ぜひ手にとってごらんいただけたら、うれしいです。3月上旬まで開催とのことです。
 くわしくはこちら、港の人のホームページをごらんください。


2020年2月24日月曜日

拾い読み日記 158


 一昨日あたりから花粉症がひどくなり、つらい。鼻が詰まり、集中できず、本も、ほとんど読めない。

 ラジオのヴィオラ特集を聞いていたら、流れてきたバッハの曲に、強くひきこまれた。「おお人よ、汝の罪の大いなるを嘆け」という曲だった。細川俊夫編曲、今井信子(ヴィオラ)、R.ペンティネン(ピアノ)。音楽は、ときどき、おだやかにうねり、ひかり、ゆらめきながれる水となって、こころをとらえ、みたす。すこしだけ、目がにじんだ。罪をおかして、悔いあらため、ようやく赦しを得たひとみたいに、神妙に、耳をかたむけていた。
 聞き終えて、音源を探しだし、また聞いてみたのだが、最初に聞いたときの感情は、もう、うしなわれていた。

 「ああ、きこえなくなった。」ネズミは、がっくりうしろへよりかかりながら、ため息をつきました。「とても美しくて、ふしぎな、ききなれない音だった。こんなに早くきこえなくなるんなら、いっそ、きかなければよかった。なんだか、ぼくの胸に、苦しいほどのあこがれの気もちを起こさせてしまったのだ。もう一度、あの音をきいて、そして、いつまでもきいていたい。いまは、それだけが、ぼくののぞみだ。ああ、またきこえる!」(ケネス・グレーアム『たのしい川べ』)

 「苦しいほどのあこがれの気もち」は、ふだんは眠っているが、うつくしいものに触れると、目覚める。自分のもののようで、自分のものでないような、その気持ち。
 日記を書いているうちにあたまをよぎった『たのしい川べ』を、本棚から取り出して、書きうつした。音楽からみちびかれた、今日の読書。なぐさめとしてのことば、ものがたり。

2020年2月19日水曜日

拾い読み日記 157


 私は望遠鏡に目を当て、あの女性読者に照準を合わせる。彼女の目と本のページの間を白い蝶が舞っている。たとえ彼女がどんなものを読んでいようと今彼女の注意を惹いているのはあの蝶であることは確かだ。書かれていない世界の極地はあの蝶の中にあるのだ。私の目指すべき結果はなにか明確で、静謐で、軽やかなものだ。(イタロ・カルヴィーノ『冬の夜ひとりの旅人が』)

 扇状にひろがる羽みたいな雲、風にゆれる白い花びら。白いものばかりに目がいくのは、そこに、白い頁のまぼろしをみているからなのだろうか。

 昨日は、ハマスホイの絵をみた。不安は感じなかった。ただ気持ちがよかった。身体の奥からほどけていく、甘いような、痺れるような感覚は、どこからくるのだろう。おおきな静けさに触れられて、一瞬なにもかも遠のいていって、こういう体験を、ずっと待っていたように思った。

2020年2月16日日曜日

拾い読み日記 156


 また、本の処分をした。この機会に蔵書をすべて把握したくなり、本棚の整理をはじめてみたら、おもしろいのだが、ぜんぜん終わらない。夫に引き継ぐと、夢中になって整えている。朝、本棚は、生まれ変わったようになっていた。見ていると、また、どんどん、手を入れたくなる。本棚は、ふしぎな、いきものだ。並べ替えるたび、あたらしい繋がりができる。あたらしい可能性が生まれる。この関係の網の目のただなかで、何を読んでもいい。どこからでも、どこかへいけそうだ、と思う。

 ポール・オースター『空腹の技法』を読んだ。「エドモン・ジャベスとの対話」より、エドモン・ジャベスの言葉。

 岸に寄せてくるのは波じゃない。一回ごとに海全体が寄せ、海全体が引くんだ。決して単なる波ではない、つねにすべてが寄せ、つねにすべてが引く。これこそ私のすべての本にある、何より根本の動きだ。すべてはほかのすべてとつながっている。そこでは海が、すべての面で問われる——その深さにおいて、動きにおいて、あとに残していく泡において、岸辺に残していく華奢(きゃしゃ)なレースにおいて……一瞬一瞬、どんな小さな問いのなかでも、本全体が戻ってきて、本全体が引いていくんだ。(下線部は傍点)

 たちまち、あたまに海のイメージがひろがって、心地よくなり、本を開いたまま伏せて、一時間ほど眠った。あらわれては消える、華奢なレースの文字たち。海と本が、眠りのなかで、たゆたっていた。

2020年2月14日金曜日

拾い読み日記 155


 昨日も今日も、春のようにあたたかい。人も、動物も、姿かたちのないものも、穴から出てくるあたたかさ。冬のあいだは淋しい柿の木に、ときどき鳥がくる。窓を開けると、ヒヨドリが思いがけず近くにいて、はっとした。目は合っていないのに、逢った、という感覚がのこった。
 宮沢賢治「春と修羅」の序を読んだ。

 たゞたしかに記録されたこれらのけしきは
 記録されたそのとほりのこのけしきで
 それが虚無ならば虚無自身がこのとほりで
 ある程度まではみんなに共通いたします
 (すべてがわたくしの中のみんなであるやうに
  みんなのおのおののなかのすべてですから)

2020年2月12日水曜日

拾い読み日記 154


 夜は平気だったのに、目覚めると腰がまた痛くなっている。ふとんがわるいのか? 何となく、痛み止めは飲まずに我慢した。10時になるやいなや、「ゴッドハンド」に電話。12時に予約が取れて、仕事に向かう夫といっしょに家を出た。目についたもの、思いついたこと、昨日のこと、これからのこと。いろんな話をして、笑って、たのしいときは、痛みのことはほとんど忘れている。

 治療のあと、ぼんやり歩き出すと、ブックオフが通りの向こうに見えた。せっかくなので、立ち寄った。夢中で棚を見ているときも、痛みのことを忘れている。すでに新刊で買ったジェラール・マセ『つれづれ草』が、ⅠもⅡも、2冊ずつあって、何で? と思った。ロジェ・グルニエ『書物の宮殿』を買った。「書くこと(エクリチュール)は、ひとつの生きる理由なのだろうか?」。

 そのあと、喫茶店で読んでいると、座っているのがだんだんつらくなってきて、席を立った。その店は、草森紳一さんがよく行っていたという店なので、永代橋にいこうかな、ともちらっと思ったが、ちょっと歩くのでやめておいて、深川不動尊へ。お参りしたあとおみくじを引いたら、大吉だった。
 治りますように。

2020年2月11日火曜日

拾い読み日記 153


 腰痛で、あんまり本が読めない。湿布と痛み止めでときどき痛みは落ちつくけれど、座っていると、しだいに、じっとしていられなくなる。歩いているほうがまだ気が紛れるし、そのほうが腰にはいいらしい。
 整形外科の帰り、ジュンク堂でジョルジュ・ペレック『考える/分類する』と、エンリーケ・ビラ=マタス『パリに終わりはこない』を買った。
 『パリに終わりはこない』は、一度読んで手放したのだが、また読みたくなったので、また買った。
 読んでみると、ほとんどのことを忘れていることがわかる。はっきりとおぼえているのは、日記に書きうつしたところ。「紳士、淑女の皆さん、当時の私はさまよえる悪夢のような人間でした」。
 読むことは、夢をみることに似ている。何かを書きのこさないと、読んだことすら忘れてしまう。

2020年2月9日日曜日

拾い読み日記 152


 昨日、整体にいったが腰はあんまりよくならず、寝ても座っても痛いので、今日は鍼を打ってもらうため、駅の近くの鍼灸院までよろよろ歩いていった。かなり痛かったが、終わったあとはからだが軽くなり、ふつうに歩けるようになった。しかし、帰って、寝て起きたらまた痛みが出た。いったい、どうなるのだろう。
  
 アントニオ・タブッキ『レクイエム』は、いつから読み始めたのかおぼえていない。そして、いつも、どこまで読んだのか忘れてしまう。だから、いつまでも読み終わらない。今日も、ほとんど、読めなかった。おもしろいのかつまらないのかも、とうにわからなくなっているので、読むのをもうやめようか、とも思うのだけど、そうきっぱりと決めてしまうこともできない。ふらふらと、もやもやと、読書は続いていく。たぶん、それでいいのだろう。夢のはなしだから。

 『西脇順三郎詩集』も、すこし読んだ。「えてるにたす」。

 曖昧なオブジエで
 エニグマをつくり
 それが何を象徴するか
 考えたくない
 シムボルの世界に
 さまようことは
 オヂュセイのペネロペー
 のエポスのホメーロス
 もうどこかへ帰ろう

2020年2月7日金曜日

拾い読み日記 151


 三日前、腰痛を治そうと、とある部分をかたくてまるいものでぐいぐい押したのがよくなかったようで、痛みが増してしまった。しごとのあと、疲れと、痛みと、寒さで、こころぼそくなり、ふとんをしいて乾燥機であたためつつ、からだを横たえた。ねたような、ねないような、つかのまの休息。寝室のちいさな本棚に、『ウンベルト・サバ詩集』があった。

 つらいと
 おもう。そうなってほしい
 とおもうだけ、おもうように
 なってくれない。

 本をてきとうに開いてよむのがすきなのは、そこにささやかな自由があるからだと思う。どこから入ってもいい部屋。勝手に通路をつくっていい空間。
 
 何かを成した、という実感のない日には、ただ、ひとつの詩をよんだ、ということだけを、だれかに、知らせたくなる。
 
 ほんとうなら、ゆっくりと
 起きて、
 生活が、聞きとれぬほどの囁きみたいに
 しか入らない
 部屋がほしいのだけれど。彼女を待っている
 のは、ふんわりとしたアームチェアと本が一冊。
 それから、おしゃべりでない
 考えがひとつ。

 よんだのは、ウンベルト・サバ「三枚の水彩画」より、「2 カッフェラッテ」。
 散文ではあじわえない、改行による空白と変則的なリズムが、ゆっくりとしか歩けないいまの自分に、合っている。つかえながらよむこと。歩くこと。かんがえること。

2020年2月4日火曜日

拾い読み日記 150


 昨日は電車が遅れ、しごとにまにあわないかと思ったが、新宿で乗りかえたので何とか間に合った。中央線はけっこう遅れる。焦りはじめると、本も読めないし音楽も聴けない。新宿駅で、後ろを歩いている(とてもいそいでいる)男に舌打ちされた気がした。
 お昼休み、なんとなく気が向いて、むかし働いていた会社を見に行ったら、ビルはまだあって、介護の会社になっていた。いもやも、豆の木も、李白もないが、靴屋とドトールはまだあった。靴屋でちょっといい革靴を買って、うれしくてよく磨いていたことを思い出した。
 
 帰り、東京堂で『みすず』の読書アンケート特集号を買って、カフェで拾い読みした。ほとんどの本は読んでいないが、読みたい気持ちが高まることは、いいことだ。何でもいいから手当たり次第読みたい気持ち。どんな本を必要としているのかは、読んでみないとわからない。
 
 装幀案に悩んでいて、『ユリイカ』の菊地信義特集号をかばんに入れていったのだが、まったく開かなかった。こういうことはよくある。今朝になってかばんから出してみたら、すこし水に濡れていたので、夫に謝った。自分の本ならいいのだが、夫の本は、もっとていねいに扱ってあげたい。

2020年2月2日日曜日

拾い読み日記 149


 デヴィッド・L・ユーリン『それでも、読書をやめない理由』を読み終えた。

 読みながら、読むとはどういうことか、本とはどういうものか、あれこれかんがえた。「本を読むという行為はさまざまな形態のもとに存在し得る」。確かに、そう思う。それでも、自分が本のかたちにひかれるのは、なぜだろう。

 書き留めておきたいこと。蔵書がもたらす「時間のリアリティ」。文字だけではなく文学を解する脳。世界から離れ、静けさの中で、より広い対話に加わること。「わたしは、まるで夢の中にいるような状態に入っていく。」

 電子書籍で読みたいと思ったことはない。本に触れ、開き、ページをめくる行為から得られるよろこびを、失いたくないから。紙に刷られた文字がすきだから。画面の文字を追うのは、つかれるから。
 ほんとうは、理由はもっとあるはずなのに、書くことができなくて、もどかしい。
 この、はっきりと指さすことのできない「本」の魅力こそが、読書と制作の、動機のひとつでもあるだろう。

 今日の雲は、半透明のやわらかな毛布みたいで、とても気持ちよさそうだった。触れられたらなあ、と上ばかり見て歩いた。

2020年2月1日土曜日

拾い読み日記 148


 今日も快晴。洗濯洗剤が切れていたので、朝、近くのスーパーへ買いに出かけた。土曜日の朝の町はのんびりしていて、爽やかで、木や花を見上げながら歩いているだけで、幸福な気持ちになった。もう少し遠くまで歩いていきたくなったけれど、家に戻り、洗濯したり、皿を洗ったりした。
 日を浴びたコブシのつぼみが愛らしかった。細かいやわらかそうな毛で覆われていて、それが白く光っていて。日向で眠る猫のあたまを連想した。

 読みかけだったデヴィッド・L・ユーリン『それでも、読書をやめない理由』を、ふたたび手にした。もうすぐ読み終わりそう。
 シモーヌ・ヴェーユが引用されていたので、『重力と恩寵』を、少し読んだ。これは、読み終わることはなさそうな本だ。断章形式の本は、読み終えられないので、手放すことも、なかなかできない。歩いて、立ちどまって、見つめて。いったりきたりをくりかえす本。

 星々と花ざかりの果樹。完璧な恒常性と極度のはかなさは、どちらも同じように永遠の感覚を与える。