2026年3月29日日曜日

花の下

 
 桜を見に、近所に出かける。大勢のひとたちが集まっていた。ステージで踊るなんとかレンジャーによろこぶ子どもたちの姿を見ながらビールをのみ、そのあとは、麦屋節(富山民謡)。民謡を、年をとるにつれ、好きになる。うたのなかに生きている、むかしのひとびとに会えるから。

 すれちがう人の声を拾った。「ひとりでどこにでもいこうとしないで」。きつい口調で母親が子どもにいっていた。顔もしらない子どもに、こころのなかで話しかける。あっというまに、ひとりでどこにでもいける日がくるよと。
 
 それから、桜なんてどうでもいい、とばかりに野球をするひとたちを見た。バッターが打った球は一二塁間に転がり、ランナーもバッターもアウトになる。あんなきれいなゲッツー、久しぶりに見たわ。一塁ベースコーチの声にうなずきながら、家に帰る。

 それからベランダに椅子を出して、また桜を見た。思い出すこと、思い出すひとが多すぎて、感情をおさえられない。ひとりで花をみていると、毎年、そうなる。ひとりでいるときにしか、そうならない。それはようするに、「わたし」と桜がつくりだす、つかのまの映画のようなものなのか? 友だちがくれたはがきを読みかえす。

2026年3月28日土曜日

拾い読み日記 356


  満開の桜の気配を感じながら、家にいた。隣家のアンテナで、澄んだのびやかな声を持つシジュウカラが囀りはじめた。去年の6月に来た鳥の声に似ていた。むこうから日が射して、黒いちいさな影が囀りのたびにわずかに動く。おだやかな春の空気にくっきりとした輪郭をあたえるような声だった。
 
 ある本の扉のレイアウトをして、別の本の校正刷りを読み進め、出来上がったばかりの本をめくり、なにごとかを書きつけ、今日も気まぐれな読書はまったくできずに日が暮れていく。それでも、〈本〉にたしかに関われている、自分の手が〈本〉に触れている、というよろこびが、ときどき胸にきざす。

 手元にあるのは、読むためではなく、構成やレイアウトがどうなっているのか確認するための本で、ひさしぶりに書棚から抜き出してみると、背のピンクが吃驚するほど抜けていた。めくって、読んでみる。

 歴史はひとつの世界であり、だからこそ人は本のなかに入っていけるのだ。最後のシャンディは、自分の本は散歩できるもうひとつの空間だと考えている。(エンリーケ・ビラ=マタス『ポータブル文学小史』)

2026年3月24日火曜日

拾い読み日記 355

 
 桜が咲いて、欅が芽吹いた。このあたりの景色と空気が変わった。風のなかにほのかな甘い匂いがまじり、細かくふるえてやまないものたちの気配を、肌で感じる。いつのまに。いつもそう思う。巡りくるものを全身でうけとめるためには、身体のこわばりをほどかなければいけない。忘れていたやわらかさをとりもどすこと。
 
 読んだものに影響されやすい性質を、うまく使いたい。ソル・ルウィットの手紙の言葉は、よい呪文だ。「あなたの掌には何だってできる力がある」。こうして書き留めていて、気付く。近くにいる人が、前から言ってくれていたことだった。
 
 近ごろ、わるい夢をみなくなった。きのう近所で見かけたのは、小枝をくわえた鴉。桜の木を見上げる若い人。樹上の尾長。二羽いた。あの羽の色を、もっと近くで見たかった。

2026年3月19日木曜日

拾い読み日記 354

 
 ソル・ルウィット展「オープン・ストラクチャー」をみた。開かれた構造/作品、開かれたアイデアにふれることは、ここちよいことだった。緻密に設計され、完璧にレイアウトされている作品も、手で制作されているから、揺れやずれやぶれがあって、そこに、「温度」や、「風」を感じる。息ぐるしくない。その開放感は、ルウィットの、このような言葉にもあらわれているだろう。「アイデアは一度でも表されたなら、すべての人の共有財産になると信じている」。これらの作品=アイデアは、すでに、それらをみた(知った)、自分のものでもある、ということ。眺めのよい広場にいる気分になって、ゆっくり、みて、歩いた。

 「一万本のランダムな直線、長さ約4インチ(10㎝)、10フィート(300㎝)四方の枠内に描かれる」ウォール・ドローイングの前に立つ。見上げると、線はあたまから降りそそぐようだった。雨や雪に降られることはあるが、線に降られたのははじめてで、陶然とする。

 「エヴァ・ヘスに宛てた手紙」を、何度も読んだ。

 あなたを信頼している。たとえあなたが自分で自分を苦しめているとしても、あなたの仕事はとてもいい。いっそ「ひどい」仕事——思いつくだけの最悪な仕事をして、どうなるか確かめてみればいい。大事なのは肩の力を抜くこと。全部どうなっても構わない——世界に対して責任を背負うことはない——責任を背負うべきは、ただ自分の仕事だけだ——だから、そう「する」こと。(展示図録より)

 無数の、垂直な、まっすぐでない線が描かれた壁の前では、とりとめがない、とほうもない、と思った。はてしないものを目の前にして、言葉をなくした。エヴァ・ヘスの早逝を受けて構想されたというあの作品の無数の線が、このような手紙を読んだあとでは、エヴァ・ヘスへの、言葉にならない、おわりもない、追悼の文字のつらなりにも感じられる。
 そのような連想は、もちろん、自分が、縦書き(縦組み)の文字を読むことが多いからではあるだろう。あの数え切れない「線たち」に思いを馳せると、音もなく降りしきるものを身体に感じる。

2026年3月17日火曜日

拾い読み日記 353


 ふつかよい。あたまがおもたい。昨夜ぬぎすてた服のかたまりから居酒屋のにおいがして、げんなりする。たのしかった。しかし、またよっぱらって乱暴狼藉をはたらいた、という思いで、おちこむ。のみすぎないようにしよう、と何度もじぶんにいいきかせながら会にのぞんだのに、のみすぎた。「あなた、山賊みたいに笑いますね」。のみすぎた翌日にあたまをよぎる言葉だが、どの本で読んだのか、思い出せない。

 このところ、しごとばかりして、本のことばかりかんがえて、閉じこもっていた。昨日、バスから降りて、駅の階段を上るとき、こんなことでいいのだろうか、と思った。〈生〉をたのしんでいるのだろうかと。そのとき聞いていた音楽のせいかもしれなかった。森の奥から聞こえてくるような、ひそやかな響きを持つその声が、耳から身体にはいってきて、みずからの〈生〉をかえりみるように、うながした。

 流浪の終点は死である。ボストンバッグを一つ持って出掛ける。自分の部屋から出て行く。ベビーダンスや本棚から離れること、持っているものから離れるのだ。それから家族や友人や貯金通帳とも離れるのである。なんと素晴らしいことだろう、裸で生れてきたのに生きているうちにいろんなものが纏いついてしまう。それは、ダニだ。持ち物、家族、友人、ダニだよ、流浪はそのダニから離れることが出来るのである。(深沢七郎『書かなければよかったのに日記』中公文庫)

 「ダニ」が3回出てくるが、2回目の「ダニだよ」が、なんだかすごいと思った。この語にまとわりつかれてしまったのを振りはらおうとして、ここにうつす。


2026年3月13日金曜日

拾い読み日記 352


 しょっちゅうあたまがいっぱいになるので、しずめたくて、瞑想しよう、と寝床にはいれば(さむいから)、たいてい、ねてしまう。それで、いくらか、すっきりする。

 なにかをゼロからかんがえるときは、すっきりしていたほうがいい。なにもない、ひとつの空間としてのじぶんをイメージして、しずかになって、そこに、あらわれてくるものを待つ。あらわれたら、こわさないように、そっとつかまえる。よくみてみる。流れにまかせて、かたちにする。それをととのえる。つよいちからはいらない。

 倉数茂『私自身であろうとする衝動』の宮沢賢治論にみちびかれて、宮沢賢治の手紙を読んでいた。

 どうかもう私の名前などは土をかけて、きれいに風を吹かせて、せいせいした場処で、お互ひ考へたり書いたりしようではありませんか。こんな世の中に心象スケッチなんといふものを、大衆めあてで決して書いてゐる次第ではありません。全くさびしくてたまらず、美しいものがほしくてたまらず、ただ幾人かの完全な同感者から「あれはさうですね。」といふやうなことを、ぽつんと云はれる位がまづのぞみといふところです。(母木光宛、1932.6.19/『宮沢賢治全集9』ちくま文庫)

2026年3月8日日曜日

拾い読み日記 351


  向かいあってみると、その人の変化を感じた。20年前より、目のかがやきが増していて、まぶしかった。この人のなかにある、澄み切って、あかるいものがつたわってきた。「あこがれ」とやわらかなこころをうしなっていないのだ、と思って、うれしかった。年をとって、かたくなになっていく、そのことを、おそれている。

 ひさしぶりに、宇佐見英治さんの言葉を読みたい、と思い、『一茎有情』(志村ふくみさんとの共著)を手にした。

 わたしは知的な芸術家が好きです。しかし苦しむことを知っている本当に知的な芸術家は、常にsimpleであると信じています。辛抱強く、simpleで、敬虔であること。それはすぐれた漁師、よい百姓、とりわけ職人の持っている美徳です。芸術は人びとに語りかけるとともに、一本の草、一つの小石、空に浮ぶ雲にも語りかける仕事です。simpleでなければ、どうして草木に語りかけうるでしょう。

 自分をせかすものや、しばるものからはなれようとして、「ここ」にきた。それは、望むと望まざるとにかかわらず、関係のなかにいきる人間としては、何度も思い出す必要が、あることなのだった。