2026年10月24日土曜日

拾い読み日記 385


 ルシア・ベルリンが、活版印刷で自分の本を作ったことは知らなかった。「文学をデザインする——作家、印刷工になる」(『新しい人生』所収)というエッセイに、植字や印刷の作業をするなかで、書き方や、文体や、言葉への意識が変わったことが書かれていて、この作家への興味が、ぐんと高まった。

 活字を組みつづけるうちに、すばらしいことが起こりはじめた。ページそのもの、単語そのものに対して以前よりもずっと深い敬意をいだくようになったのだ。わたしはしだいに推敲をしなくなった……書き手の——その人物は植字工であるわたしとは別の人格になっていた——書き手のもともとの意図を信頼するようになったのだ。たとえば、もし“cool, cool water(冷たい、冷たい水)”という文章が出てきても、coolを片方取るということをしなくなった。わたしは書き手を信じた。銀色の鉛になったcool, coolを見たとき、それはたしかに水のように見え、水のように聞こえた。
 
 自分の場合は、自分の手で本をつくることや、活版で刷ることで、言葉に対する態度を、変えていきたかったのだと思う。こうして書いているときにも、鉛の活字で組まれ、刷られることを、あたまに置いていたい。すぐに消してしまえるようなことは、書きたくない。言葉に物質の重さをあたえることで、踏みとどまれるし、「異物」もしくは「他者」として、それと出会うことができる。

 来年で、ヒロイヨミ社は20年。ブックデザインの仕事をはじめて、25年。55歳になる。あたらしいやりかたで、あるひとの詩集を、つくろうとしている。決意して、というよりは、水が湧くように、やりたい、やってみよう、と思った。これまでやってきたことのすべてが、そこにそそがれるといいと思う。

  今日は、生まれてから20000日目の記念日なのだそうだ。数ヶ月前、あるトークイベントで知り合った同い年のひとが、メッセージで祝ってくれた。20000日、いきた。まだ、実感がわかない。実感がわくようなことでは、ないのかもしれない。とはいえ、うれしい。「20000」を実感するために、20000円を1円玉に両替することも、一瞬かんがえたが、それは、しないだろう。

2026年10月18日日曜日

拾い読み日記 384


 ぐっすりねむって、真っ白なノートのようにまっさらな気持ちでめざめた朝だった。窓からの光が、なにもかもをはらっていった。

 寝床で、水にうかぶ塵ほど不安定だったころに書いた言葉を読み返した。そのときにささえてくれたのは、本と、本をとおしてであった人たちで、10数年越しに、感謝の気持ちを念でおくった。それから、これまででもっともつらかった日に、願を掛けた「神さまのようなもの」に、願いをかなえてくれてありがとう、と胸のなかでつたえた。「わたしの神さまのようなもの」に、ふさわしいわたしであれたらいい。「わたしの神さまのようなもの」に、つかえることができたらいい。しかし、ただ、わたしがわたしでいることができたら、わたしがわたしのやりたいことをしていれば、きっと、「わたしの神さまのようなもの」は、よろこんでくれるのではないかと思う。

 そういう精神状態のときに手にとりがちな、メイ・サートンの本をよんだ。

 ぬいぐるみの動物たちでさえ、何かしらメッセージを伝えている。ひとつひとつのぬいぐるみには、ある人やある瞬間、愛する人との分かち合いなどの思い出がこもっている。今朝、これらのぬいぐるみが伝える無言のメッセージに耳を傾け、生きていてよかったとしみじみ感じた。そして三階に上がって小さな詩集を包装し、送り出すことのできる幸せを。(メイ・サートン『70歳の日記』)

 ぬいぐるみの動物たちと、本棚にある本たちのメッセージを、ひとつひとつ、書き留めることができたらな、と夢想した。特別な紙に、特別なペンで、しずかに、窓のそとを眺めたりしながら。


2026年10月15日木曜日

拾い読み日記 383

 
 それらの大きさや色や配置に悩み、こころみ、やりなおし、画面で、紙で、確認することをくりかえし、つかれはて、横になると、目にみえない敵とたたかったような徒労感がのこった。うつろだった。本に手をのばす気力はなかった。ねころがったまま、とくに知りたいわけでもない事のなりゆきを知ろうとしたが、やはり、よくわからなかった。

 ねながら、男子高校生が、川のほとりで、えんえんと会話するマンガを読んだ。このところ、ずっと、だるくてたまらないときに、読んでいた。1巻から7巻までは電子書籍で、最終刊だけは、紙の本を買って読んだ。紙のほうが、人や物や背景が真っ白でなく、自然な紙の色で、物質感がある。「そこ」に彼らが存在する感じ。「そこ」に自分もはいっていく感じ。紙はやわらかいし、まったいらでないし、裏がある。人間みがある。ページをめくった瞬間のこころの動きかたも、紙と画面では、ちがうと思った。台詞も、紙のほうが、ゆっくり読むことになる。画面では目で、紙では喉元で読んでいるようだった。

 もちろん、電子書籍のよさもある。暗いところでも読める。本を持つ力も、開く気力もないときでも、読める。すぐに読める。はやく読める。いや、ほんとうは、もっとゆっくり読みたかったのだった。だから、本を買った。

 ドラマや映画でも彼らを見てみようかと思ったが、できなかった。おもしろさを、感じられなかった。彼らのやりとりを、自分の間(ま)で、自分のリズムで、自分の(想像した)声で読むから、おもしろいのだ。つまり、マンガを読むことは、自分で自分のために演出する、ということでもあるのかもしれない。

「この川で暇をつぶすだけのそんな青春があってもええんちゃうか」。ねころがってマンガを読むぐらいしかできない時間があってもええんちゃうか。『セトウツミ』にすくわれた。

2026年10月12日月曜日

テクストと装訂 



 11月14日に、ロシア文学研究者の斉藤毅さんの著書『石原吉郎の詩の構造』(法政大学出版局)をめぐるトークが開催されます。斉藤毅さんと、編集の赤羽健さんと話しますので、よろしくお願いします。刊行から一年たって、あらためて、装訂した本とテクストに、このようなかたちでむきあえることは、とても、うれしいことです。ありがとうございます。口べたなので、何が話せるのかわからなくて不安ですが、斉藤さんにお目にかかれるのはたのしみですし、赤羽さんがいらっしゃるのでだいじょうぶ、と思っています。


〈テクストと装訂 『石原吉郎の詩の構造』をめぐる対話〉

斉藤毅 山元伸子 司会進行:赤羽健

日時:11月14日(土)19時—20時30分
料金:2000円
人数:18名
場所:詩をはじめる本屋 蒼枯
〒164-0003 東京都中野区東中野1-56-5ホシノビル2階

詳細・お申し込みは、こちら

2026年10月9日金曜日

マルケの海


 アルベール・マルケの絵をみていると、ゆっくりと、何かが、やってきた。ほんのりと、ものがあたたまるように、しあわせな気持ちになっていった。風景を、愛したひとの幸福。晴れの日も、曇りの日も、霧の日も、雪の日も。天気によって色合いが変わる景色に、目をみはり、その変化のすべてをいつくしむ、熱っぽいまなざしを感じた。じぶんが消えてしまっても、まだ、みている。そう思った。

 マルケの描いた水をみていると、色がたゆたいながら深まっていくようで、あまく不安な気持ちになった。夢幻的な水色に、身も心もひたされていき、あしもとがゆらぎだす。はるかなものがおしよせる。ああ、ずっと、海がみたかった、のかもしれないと、思う。海をみにいったら、きっと、マルケの海が、むしょうに恋しくなるだろう。

2026年10月4日日曜日

拾い読み日記 382


  彼女にとってだいじだったのは、人生に自分をむきだしに曝すこと、そうすることで、「傘なしに悪天候のなかにいるように」、人生がじかに彼女に降りかかるようにすることだった(「なにをしています? なんにも。生をわたしに雨と降りそそがせているのです」)。(ハンナ・アーレント『ラーエル・ファルンハーゲン』)

 生は、わたしにじかに降りそそいでいるだろうか。「生」を「人生」に変えて問うてみると、そのこたえは異なる気がしたが、どこがどうちがうのか。うまくいえないからこそ、そのちがいは、だいじなことのように思える。

 朝、光るうろこ雲をみた。真珠の飾りがついた毛布のような、きよらかさとやわらかさのある雲で、窓から、ベランダから、何度もみた。ひかりがおだやかに降りそそぐ。雲をみているひとにも、みていないひとにも。


2026年10月3日土曜日

『首都』の装訂について



 9月に刊行されたローベルト・メナッセの小説『首都』(福間具子訳、法政大学出版局刊)の装訂についてのエッセイを、法政大学出版局のnoteに書きました。