2026年8月23日日曜日

海辺の一日


 というのも、体験された出来事は有限であり、少なくとも体験というひとつの領域に包みこまれているのに対し、追想される出来事は、その前後に起こった一切の事柄に対する鍵にほかならないがゆえに、限界をもたないのだ。(ヴァルター・ベンヤミン「プルーストのイメージについて」)

 追想される出来事の無限性。エドワード・ヤン「海辺の一日」に、ここまでこころを囚われるのはどうしてだろうかと、ふいによみがえるワンシーンとたわむれるように日を過ごしながら、かんがえるともなくかんがえつづけていて、偶然よんだ言葉を手がかりに、この状態から抜け出してみたいと思った。

 追想という行為の終わりのなさ。彼女は、その女性と別れてから13年のあいだに起きた出来事を想起して、語ることで、それらと、ふたたび、出会いたかったのかもしれない。彼女の兄は最期にいった。「僕は心からこの世界ともう一度知り合いたい」。

 「それから?」とうながすひとのまなざしの優美なこと。口をつぐんで遠くをみているようなひとの睫毛が、かすかに震えていたこと。

 回想のなかの回想のシーンがはじまったとき、からだにちいさなしびれがはしり、わずかにこみあげてくるものがあったが、自分でもその意味がわからなかった。少女に愛おしさのようなものを感じた。彼女がのちに味わう痛みを知っているから? あるいは、追想の果てしなさに、その迷宮性に、ただ、打ちのめされていただけのようにも思える。

 映画をみおえて、彼女たちが生きた時間と、自分が生きた時間を重ねて、終わりのない追想の時間がはじまる。あの日は、映画をみたあと、にぎやかな中華料理屋で、Mと興奮して話しつづけ、ふたりとも、のみすぎ、たべすぎた。隣では若い男女が大勢で飲み食いしていて、うるさいので、わたしたちは大声で話しあった。それら前後に起こったこともふくめて、のちの日に、さまざまに、くりかえし、「海辺の一日」を思い出すことになるだろう。

2026年8月19日水曜日

拾い読み日記 376


 本をひらいてよんでいて、ふと文字列から目がそれて、自分の手が目にとまり、その老化におどろくことがある。こんなにしわが多かったかと。日に焼けて、みずみずしさもない。つかいこまれた道具にもみえる。これはほんとうに自分の手なのか、と思いつつ、こんなことを思うのはどうしてだろう、とか、そもそも手とはなになのか、とかんがえたりもしている。

 小長谷清実の「指はイモ虫」という詩をよんだ。窓辺で椅子に座り、何かを思い出そうとして混乱し、カーテンをつかんだ指が、イモ虫になぞらえられている。イモ虫が「寒天状のカーテン」のなかでうごいている。

 寒天のなかで無意味にのたうつ
 その背その腹のいやらしさ

 無意味さといやらしさのみ
 指の先からジンジンひびいてくる

 わたしは少し疲れているのだろうか
 気にかかるのはイモ虫だけだ 自分のことだけだ

 イモ虫なんか一匹もいない
 椅子にすわってカーテンをいじっている中年のおじさん

 この最終行に、とても惹かれる。指という「もの」、あるいはイモ虫という他者にこころをうばわれていたのが、ふと我にかえって、その「我」がまた他者としてあらわれる、といえばいいのだろうか。
 目を落とすと、不恰好な自分の指が目にはいる。イモ虫の指。それらがもぞもぞうごいてキーボードを叩き、文字があらわれる。イモ虫が無意味に本のうえを這い、紙をめくる。いいことではない、いやらしいことをしているのだ、と中年のおばさんが、かんがえはじめている。

2026年8月17日月曜日

40年前の虫について


  夜おそく、へとへとになって家に帰りついて、ドアを開けてMにただいま、といったとき、ずいぶんひさしぶりに会った気がした。たった一泊二日の旅から帰ってきただけなのに。とても遠いところまでいってきたのだ、おそらく40年前までいって、帰ってきたのだろう。

 みんな、どんな55歳になったのかなあ、という興味もあって出掛けてきた。どうしてあの子がこんなふうになったのだろう、という好奇心から、やや、あぶない目にもあった。しかしその瞬間、その人のいきいきした部分にふれられて、それは、かならずしも、わるいことではなかった。いきいきしたものを、すっかりうしなったのかと思っていたから。

 なつかしい人と話していると、その人の今の顔のなかにむかしの面影をみることになり、そこからさまざまによみがえる記憶があって、あたまが、いっぱいになった。彼ら彼女らの「今」を知りたかったが、彼ら彼女らのなかにのこる過去の自分のことも、知りたかった。そのころの自分がどんな人間だったか、よくわからない。おそらく、中学生になっても、まだ、ものごころが、ついてなかった。

 自分は、まじめで、無口で、反応がちょっとへんな中学生らしかった。授業中、とつぜんパン!と手をはたいて虫をころしたよね、といわれた。もちろんそんなことは、まったくおぼえていない。それでも、その虫は、蠅だったのか、蚊だったのか、妙に、気になっている。ひょっとしたら、そのような奇矯な行動をとることで、自己を、表現しようとしていたのか?

 帰りの新幹線で「linger」を聴いた。Royel Otisのカバーのほうが、乾いている感じですきだ。Do you have to let it linger? 40年前のことと一昨日のことを、すこしのあいだひきずったら、「今」にもどって「これから」に目をむけたい。今は、まだ、ひきずっていてもいい。

2026年8月11日火曜日

拾い読み日記 375


 「みた」ことについて書いていると、それが「あった」ことを巻きこんで、ころがり、ふくらんでいくので、とりあえず、ついていくことにした。記憶のスクリーンがカーテンに変貌して、ゆらゆら揺れはじめる。無数の襞からあらわれてきたものを、みなかったことにはできない。虚が実をよみがえらせ、実は虚のなかにあらたな生を見出した。そのことで虚も、ゆれうごいているようだった。そうなってみると、虚であるか実であるかは、もはや、どうでもいいことに思われた。

 朝からジャック・デリダ『絵葉書 Ⅰ』を読んでいた。頁をめくれば熱いうねりを感じる。わけもわからずに、首をつかまれ本のなかに投げ入れられたようになって読みつづける。

 書物を読み終えたとき、その書物の数々の声のひとつが君に、何か次のようなことを囁くと仮定してごらん、「おいで(アリーヴ)」と私が言い続けていたそのたびごとに、私はあなたのことを思っていたのです、でもそれは偶然に起きる(アリーヴ)事故のことでも、生じる(アリーヴ)来事のことでも、到着する(アリーヴ)あるいはしない手紙のことでもなくて、あなたのことなのです。あなたに(傍点)期待している何かを、ではなくて(……)ただただあなたを、到来するあなた、到来するものであるあなた、私に到来するものであるあなた、到来からだけ私へと到来するものであるあなたを、思っていたのです。

 顔をあげて、息をついた。やわらかな頰のようなしろい紙の肌に、自分のてのひらを重ねて、幾度かなでてみる。きっと、行間からあふれでるものを、とどめようとして。

2026年8月10日月曜日

Gという男


 傷心のGという男をはげますために、ひたすら、あたまや背中や頰をなでていた。彼はなにかをうしなったらしかった。とりかえのきかないなにか。必要としていただれか。その喪失をつかのまでもわすれるために、彼はひとの肌をもとめていた。うつくしく繊細だが、どこかおろかなところのある男で、もう中年といっていい年齢なのに、まるで幼児のように、ひととの距離感がはかれないあやうさを持っていた。そしてそのあやうさが、Gの魅力のひとつでもあった。

 彼がもとめていたのは、わたしの肌、手のひらや指だけでなく、声の肌や、言葉の肌でもあるのだった。だから、彼のからだをさすりながら、声をかけることもわすれなかった。そんなふうに自分のすべてをさしだすことに、どこか、陶酔するような感覚があった。いつまでも、こうしていてもいい、と思った。もしかしたら、彼のうつくしさと繊細さに、ひかれていたのかもしれない。

 だいじなものをみせてあげる、といわれてドアの外で待っていると、Gが持ってきたのは、犬のぬいぐるみだった。ショコラとかなにか、あまったるい名前がついていた。よくみると、ぬいぐるみのあたまが人形になっている。つぶらなひとみとつるんとした肌を持つ、可愛らしいおんなの人形で、それをみたとき、これか、と思った。これだったのか。彼に起こるすべてのもめごとの理由を目の前にして、さとった。わたしは彼をはげましていたのではなく、あまやかしていただけだった。

 それは、あまり、ひとにみせないほうがいいと思う、とちいさな声でつたえて、路面電車に乗って、家に帰った。つぎつぎあらわれては消えてゆく景色をながめながら、Gはこれからも、ひとをはげしくすきになったり、とつぜんきらいになったりするのだろうな、とぼんやりかんがえていた。

2026年8月8日土曜日

本を開く感じで


 明け方の空に、真珠色の雲がうかんでいた。あわい桃色がまじっていて、まだ、夢のなかにいるようだった。なにかがあった、というおぼろげな記憶しかない夢のなかに。蟬の声と鳥の声を、しばらく聞く。空を横切る鳥の影が見えて、ある男のくぐもった声が、あたまをよぎった。なあ、空飛ぶのってどんな気持ちだ? 「動物と話す感じで人に話しかける男」が気になって、昨日、ついみてしまった動画のなかで耳にした台詞だった。
 人と話す感じで動物に話しかけることはあるが、逆は、なかった。人と話す感じでぬいぐるみに話しかけることはあるし、ぬいぐるみと話す感じで人に話しかけることもある。本に話しかけることはないが、人に話しかける感じで本を開くことはあるし、本を開く感じで人に話しかけることも、きっとある。

 どんな本がすき? たまに人に聞くけれど、聞く前から、あらかた答えはわかる気がする。人は愛する本に、くりかえし読む言葉に似てくるものだ。顔に書いてある。顔が書いている。以前は、そう思っていた。しかし近ごろは、「顔が書いていない」人も多いみたいだ。
 だから、わかった気にならないで、気になる人には、たずねてみようと思う。ねえ、どんな本がすき? 本を読むのって、どんな気持ち?

2026年8月3日月曜日

あおむけの蟬


 ドアを開けて外に出ると、階段のまんなかであおむけになっている蟬がいた。「あんた……なんでこんなところで……」。つい声をかけてしまう。あとからかんがえると、蟬に「あんた」はへんだったし、なんだか、よっぱらって家にたどり着けずに階段で寝てしまった人に対する口調みたいだった。誰かに踏まれないように、羽をつまんで端に移動させようとすると、びびびびといって動き出し、飛び去ったので、うわあっ!と声が出た。しばらくのあいだ、動悸が止まらなかった。
 「わたしたちが身体を持っているのは、〈いまここ〉によりいっそう付着するためにではなく、場を変え、時間を変え、空間を変え、形態を変え、物質を変えることができるためである。」(エマヌエーレ・コッチャ『メタモルフォーゼの哲学』) ねむっていた蟬は、めざめて、どこへ向かったのか。やみくもで、ふらふらしていて、まるで、あれは、自分をみるようだった。よわよわしいけれど、たしかにそれは、ひとつの生命の力であって、その変化のエネルギーが、指のさきから一気にながれこんできたせいで、まだ、どきどきしている。