2026年7月20日月曜日

拾い読み日記 371


 500ページ近い小説のゲラを、10日間ほどかけて、読み終えた。毎日、あと何ページ残っているか確認しながら、遠い目的地までゆっくり歩いていくように、読んできた。読み終えた瞬間、ある感慨があった。感動していた。とてもいい小説だったから。そして、それが終わってしまったから。同時に、一枚のペラペラの紙(ゲラ)をもって感動している自分が、なんだか、おかしいなと思った。手応えのあるものを受け取った。その手応えがほしかった。小説を読み終えることにとって、本を閉じるという行為が持つ意味は、おおきいのではないかと思う。そして、小説を読むことにとって、ページをめくるという行為が持つ意味についても、考えてみたい。ものがたりが「もの」であることのよさ。

 昨日、本のしごとをしているともだちとのんでいて、装幀の話になり、松浦寿輝『巴』(講談社文芸文庫)のカバー表1の画像をみたその人が、「ロボットパルタじゃん!」といった。え、何それ。みてみると、確かに、ちょっと似ていた。「巴」がフリーズしたロボットにもみえてくる。この文字のかたちと、小説世界は、どうかかわっているのか。まったく関係がないのか。たしかめてみたい気もする。ひょっとしたら、読みすすめていくと、この「巴」の文字が、目覚めて、うごきだすなんてことが、あるのだろうか。

 せっかくなので、ロボットパルタのアニメをみた。カクカクしたかたちでカクカクうごき、不明瞭なことばを話すパルタが、すっかりすきになった。主題歌も、よかった。「きみのためなら こわいことでも たのしいことに なんでもかえちゃう」。ともだち思いの、けなげなパルタ。


2026年7月17日金曜日

むげん


 数年前に知って、ふしぎな曲だ、と感じ、もう何十回も聞いている「むげん」(崎山蒼志 with 諭吉佳作/men)の歌詞を、眠る前にぼんやり思い出していたら、ふと、これは胎児の歌ではないか、と思った。「くらい せまい あたたかい 顔を洗う水 踊る 踊る 蹴る きづいて ほしい」。お腹のなかにいるいきものが感じていることは、何だろうか。じぶんは何を感じていただろうか。どうして忘れてしまったのだろうか。というか、ほんとうに忘れてしまったのだろうか。

 昨日、プールで泳いでいるとき、水底いっぱいにひろがってゆれる光のもようを見ていたら、とつぜん、意識はつながっている、と感じた。つながっている、もしくは、溶けあっている。意識、しかし、誰の? わたしと「あなた」の? 人間と世界の? いまとむかしの? よくわからないままに、こわばっていたものが、やわらかくほどけていくようだった。意識のなかに、他者がすでに存在すること。そしてたましいのなかにも他者が、いや、たましいそのものが他者であること。

 私が魂を持つのではなく、私は魂の保管所なのである。(西郷信綱『古代人と夢』(下線部は傍点

 ステージで、ここにいないひとの声と歌う崎山蒼志の孤独。この世にひとりとりのこされた人間の(身体の)、癒やしようのない淋しさをみているようで、胸がくるしくなる。

2026年7月15日水曜日

球とたましい

 
 はじめての場所で、はじめてのひとたちと球を打ち合う。
ちいさな声で話す白髪の女性がいた。20歳ほど年上だろうか。その中身、なんですか? 水筒の飲み物についてほかのひとにたずねられて、緑茶です、とこたえると、横から、お茶の色とユニフォームの色が合っていますね、と、ちょっとおもしろいことを、その女性は言った。趣味のよさと品のよさを感じさせる、ひかえめな口調だった。すこし言葉を交わしただけで、そのひとがどういうひとなのか、わかる。それはたぶん錯覚だけれど、ある程度、あたまのなかに、その人物像ができあがる。

 彼女と打ち合ってみると、いきなりバックサイド深いところに速いロングサーブが来て不意をつかれる。そのサーブでバック側に意識を向けさせて、フォア前の短いサーブでこちらを揺さぶろうとする。相手にまったく隙をあたえない、勝つための卓球だった。そして少しでも球が浮いたら、びっくりするくらい力強いスマッシュが飛んできた。ラケットの振り方に、殺気すら感じた。さっきまでのあのやさしいひとは、どこにいったの? 人間の多面性におどろきながら、初対面の相手にこんなにも「全力」をぶつけられることのよろこびを、全身に感じた。強打を決められてうれしくなったのは、はじめてかもしれない。

 それは、おそらく、身近な者たちには見せることのないはげしさであるだろう。球によって、奥にひそむものが飛び出してきたのだ。あの球にこめられていて、わたしを強く打ったものは、彼女の「たましい」だったのではないか。そんな気がしてならない。わたしには、まだ、あのような球を打つことができない。

2026年7月14日火曜日

拾い読み日記 370

 
 君は私に、君も、未知のひとりの死者に向けて書いている(私はそのことをますます確信している)、そして私がその死者の代わりをなしている、と言う。だから、君はあらかじめ私を殺している(確かに私は、死刑宣告を待つように、君の合図を待つことがよくある)、けれども、君はまた生を返してくれる。私たちはとても特異な亡霊を相手にしているのだろうか、それとも、それは往復書簡すべての運命なのだろうか、君はどう思う?(ジャック・デリダ『絵葉書  Ⅰ』)

 死者の代わりになってくれそうな相手に、もし出会ったとしたら。その人との距離を保つことが重要なのではないか。手紙を書きつづけるためには。読む気もなく開いたページから、突然問いかけられて立ち止まる、あわただしい朝。
 外に出かけよう。真夏の光にたえられるかどうか、すこし不安だ。

2026年7月5日日曜日

拾い読み日記 369

 
 石井桃子『新編  子どもの図書館』(岩波現代文庫)を読みはじめる。石井桃子が1958年に自宅で開いた子どものための図書館「かつら文庫」の7年間の記録をまとめた本である。
 まえがきの一節を、どこかで読んだことはあった。その箇所を、中野重治が引用していることを、『市村弘正著作集  下巻』で最近知って、まえがき(の一部)だけでなく、本文も、ちゃんと読んでみよう、と思った。

 お知らせの立て札を立てたり、貸し出しカードを作ったり、本を準備したり、部屋をしつらえたり、手探りであたらしいことをはじめて、それがかたちになっていくさまに、わくわくする。通ってくる子どもの話すことや仕草や身振りや本を読むことで変わっていくようすが、たんたんと書き留められていて、そのおちついた語り口に安心する。

 さまざまな本と子どもたちのすがたが描かれている。父親から誕生日に買ってもらった図鑑の話を聞いて、今度見せてね、と帰り際にいったらすぐに重たくて厚い本をふうふういいながら持ってきた子どもの話が、すきだ。

 それは、とても茂ちゃんに読めるような本ではなかったのですが、かれは、お父さんやお母さんから聞いた説明をそら(下線部は傍点)でおぼえてしまっていたとみえ、その本をとりかこんだ中学生や私たちに、「ほら、この本のここ。××星。すごいだろ。ほら、△△星はここ。」と、自由自在にパタンパタンとそのページをあけて見せてくれたのです。(p.101)

 その子と本が、いきいきとうごいて、ひとつになって、なにかを伝えようとしている。こんなふうに、本をいきいきとさせることが、ほんとうに、本を愛するということかもしれない、と思った。

 私は、この本を書くにあたって、「これからの子どもは、いままでの子どもにくらべて、本を読まなくてもいいのか、または、本は読まなければいけないのか」という点では、「読まなければいけない」という立場をとりました。(「まえがき」より)

 中野重治は、このことに賛成する、と書いたあと、石井のこの文章の魅力について触れている。いさぎよく、美しく、そして「楽しい」という。たしかに、この書き方は、石井桃子というひとの、ほかのひととは異なるたぐいの「美しさ」、すなわち、きまじめさやつつましさやおもしろさ、それらをふくんだ独特の「間合い」をつたえるものだと思う。そしてそれらの美質は、本を読むことそのものの楽しさにもつながっているので、ただあとをついてまわりたいだけの子どものように、「これからの大人は、」といいかえたくなってしまう。

2026年7月1日水曜日

拾い読み日記 368


 一昨日、高橋源一郎『文学じゃないかもしれない症候群』の文庫版(朝日文芸文庫)を、水中書店で見つけて買った。単行本のほうを学生のときに持っていたのだが、それも拾い読みだったのだろう、読んだおぼえのない箇所が多かった。

 たとえば、「少数派としぐさ」。著者は書く。エドワード・サイードが見たジャン・ジュネのしぐさについて。加藤三郎が見たグループ(東アジア反日武装戦線「狼」)から脱落して死んでいった者たちの最後のしぐさについて。ひとりの東ドイツの反体制作家が見た油絵のなかのスターリンのしぐさについて。とりあげた三冊の本から、七つの言葉が導き出される。少数派、しぐさ、裏切り、暫定的、伝達、翻訳、反復。

 ことばが思考を正確に伝えることができると信ずる者がいる。だが、少数派はそれを信じない。ことばは人を裏切る。だから、少数派にとってことばはいつも暫定的だ。だが、それでも人は伝達を願う。なにによって? しぐさによってだ。なぜなら、しぐさはある特定の個人に属していてその意味を別の言葉に翻訳したりできないからだ。そして、翻訳できないものだけが、類型的な反復を免れるからだ。(p.179 )

 昨日の新聞で、「沖縄戦「集団自決」教科書記述の修正——執筆者の後悔」という記事を読んだ。2007年の第一次安倍政権下、文科省の教科書検定意見により「集団で『自決』を強いられた」という記述を「『集団自決』においこまれた」と修正した元高校教諭についての記事だ。意見撤回を求める沖縄県民大会に参加して帰ってきた、日焼けしたその人の教卓での「むせび泣き」、その姿を記憶していたひとりの生徒が、記者になって書いた記事だった。

 「私は私自身の言葉の選択によって裏切られる」(ジュネ)。だが、しぐさは「わたし」を裏切ることはない。意思で制御できないしぐさ、つまり身体から溢れてしまう、あらわれてしまうものを見つめる目と、見たものについて考えつづける力が、自分にあるのか、問われているようにも思われた。見ること。気づくこと。そしてそれを記憶すること。ひとのしぐさや身振りをうつす、白いスクリーンのような身体のイメージが浮かんだ。あるいは、そうしたものたちが生きる舞台としての身体。

 ひとは、よりよい方に、向かっているのかどうかわからないが、いや、向かっていないように見えるからこんなことを書いているのだろうが、いま、ヒューマニズムについて、身体の問題を抜きにして考えることができない。わたしは、わたしの身体を、わたしの感覚を、裏切っていないだろうか。これはかけがえのない「媒体」としての身体を、他者にひらいていくための問いでもある。

 先を考えずに書き始めて、途中で食事したり眠ったり泳いだりのんだりして、考えるともなく考えながら書き進め、まだ先にいきたい気がするが、ひとまずここでやめておく。今日は下半期のはじまり。あたらしいことがはじまりそうな予感がする。


2026年6月27日土曜日

拾い読み日記 367


 印刷された本のなかに避難所を見出し、そこで自律的な生を営んできた文字は、広告によって、情容赦もなく街頭に引きずり出され、経済的混沌という野獣のごとき他律の足下に引き据えられる。これが、文字の新しい形態にあてがわれた苛酷な教育課程である。
もう何世紀も前から徐々に横臥し始め、直立した碑銘から、斜面机に斜(はす)に寝そべった手稿へと格好を変え、とうとう書籍印刷という衣をきて寝転がってしまうまでにいたった文字は、そういう言い方をするなら、いままた、まったく同様に、ゆっくりと床から身を起し始めているのだ。すでに、新聞は水平よりもむしろ垂直の姿勢で読まれているし、映画と広告は、文字に、完全に独裁者的直立姿勢を強いている。そして、本など開こうものなら、たちまち、移ろいやすい、色とりどりの、喧嘩腰に喚きたてる活字の群れが、ぼくらの両眼の上に雨霰と降り注ぎ、本の持つ古代の静謐のなかに忍びこめるチャンスなど、微々たるものになってしまったこの節なのである。(『ヴァルター・ベンヤミン著作集10 一方通行路』晶文社) 

 今や、文字は、せわしなく流れていくものである。文字は垂直にも水平にも斜めにもなる。どこにでも入り込むし、いつのまにか忘れ去られる。光の明滅のように素早く、現れたり消えたりする。出し抜けにやってくる。気の向くままに公にできる。この手軽さによって失ったものは何だろう? そして、得たものは、失ったものより、よいものなのだろうか?

 難波優輝『本とは何か』を読み始める。読みやすいけれど、いそいで読まないようにしよう。途切れ途切れに読むことの重要性。一気に読んでしまうと、読んだことについて、ぼんやりとでもかんがえる時間が少なくなる。生活に、本の内容を、溶かしていく、もしくは、縫い込んでいく、そういう時間が大切なのだと思う。濃く深く、その本を読むために。自分だけの、忘れがたい、「読書パフォーマンス」にするために。