2026年9月2日水曜日
2026年8月31日月曜日
拾い読み日記 377
8月31日。曇天の下、高いところから人気のないプールを見守るひとのすがたが目にとまる。その日焼けしてひきしまったうつくしい肉体を、終わろうとしている夏が、もてあましているようだった。
すこし日が出てあかるくなってから、泳ぎにいった。水がつめたかった。7月1日のプール開きの日も、こんなふうに水はつめたかった。
水にもぐった瞬間は、いつでも、アナーキーな気分になる。どうなってもいい、と思う。水につけるとむくむくふくらむ紙の花みたいに、たのしさがわあっとひろがる。今日は泳いでいるときに、からだがさかなのようにしなる感覚があって、水にのって、いつまでも泳げる気がした。からだが、水のなかで、水のリズムでうごいていた。
家に帰ってすこしねむってから、本を読んだ。「そしてわたしの主要な闘いは、「シニフィアン」の勝利のため「シニフィアン」の崇高なるエロチスム、その衝動と解放のためなのです」*。ロラン・バルトのように、ロラン・バルトを読むことができたら、と思う。水のなかで、水のように泳ぐこと。
*「ロラン・バルトとの対話」(蓮實重彦『批評あるいは仮死の祭典』せりか書房)
2026年8月30日日曜日
首都
オーストリアの作家、ローベルト・メナッセの『首都』(福間具子訳、法政大学出版局刊)の装訂をしました。本について、くわしくはこちらをごらんください。9月3日発売予定です。この小説のことや、装訂のことは、あらためて、書く予定です。編集は、『パリ散歩』『ながい窖』と同じく、法政大学出版局の赤羽健さんです。
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装訂した本の刊行記念イベントが開催されますのでお知らせします。
・手塚治虫『ながい窖』(法政大学出版局)復刻記念トークイベント
「1970年の手塚治虫——『ながい窖』が描いた日本社会」
本浜秀彦×林晟一 司会進行:赤羽健
日時:9月6日(日)17:00〜18:30
会場:西荻のことビル2F 西荻シネマ準備室(今野書店主催)
会場参加:2200円 配信参加:1650円
詳細はこちら
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・松井裕美『掌の美術論』刊行記念トークイベント
「美術と魔術——みる、さわる、ずれる」
松井裕美×井奥陽子
日時:9月6日(日)15:00〜16:30
会場:本と珈琲の店 UNITÉ(三鷹)
会場参加:1980円 配信参加:1320円
詳細はこちら
2026年8月26日水曜日
幻化
その絵をみたあとでは、にんげんの世界を遠く感じた。とても暑い日だった。気持ちをふるいたたせて、美術館にいった。慣れない場所につかれはて、帰りの電車で空席をみつけて腰をおろし、目を閉じて、まなうらにのこされた絵を、ずっとみていた。ちいさな子が目の前で大声をだしても、どこか遠いところから聞こえるようで、ちっともうるさく感じなかった。
山口華楊「幻化」では、2匹の狐が輪をえがくように跳ねて、あそんでいる。からだが、ぼうと白くひかっている。なずなや野罌粟や、さまざまな草花がやわらかく茂っている。しっとりと湿っている。まぼろしが、たしかに、目のまえに「ある」こと、絵という「もの」になって、そこにあることに、おどろき、言葉をうしなった。止められた時のなかで、永遠にまわりつづけるいきものたちは、みるものを、その世界へまねいて、帰そうとしない。
帰り道、空を見上げて、夕暮れの雲の色や、月のひかりに、あそぶ狐のまぼろしをみた。そこ(ここ)にある、はるかなものたちのすべてに、その絵は似ている。それは、遠いむかしから、ひとびとがみてきたものたちだから、だから、絵のまえに立ったとき、この時を待っていたような、絵に待たれていたような、そんなふしぎなあたたかさにつつまれたのかもしれなかった。
2026年8月23日日曜日
海辺の一日
というのも、体験された出来事は有限であり、少なくとも体験というひとつの領域に包みこまれているのに対し、追想される出来事は、その前後に起こった一切の事柄に対する鍵にほかならないがゆえに、限界をもたないのだ。(ヴァルター・ベンヤミン「プルーストのイメージについて」)
追想される出来事の無限性。エドワード・ヤン「海辺の一日」に、ここまでこころを囚われるのはどうしてだろうかと、ふいによみがえるワンシーンとたわむれるように日を過ごしながら、かんがえるともなくかんがえつづけていて、偶然よんだ言葉を手がかりに、この状態から抜け出してみたいと思った。
追想という行為の終わりのなさ。彼女は、その女性と別れてから13年のあいだに起きた出来事を想起して、語ることで、それらと、ふたたび、出会いたかったのかもしれない。彼女の兄は最期にいった。「僕は心からこの世界ともう一度知り合いたい」。
「それから?」とうながすひとのまなざしの優美なこと。口をつぐんで遠くをみているようなひとの睫毛が、かすかに震えていたこと。
回想のなかの回想のシーンがはじまったとき、からだにちいさなしびれがはしり、わずかにこみあげてくるものがあったが、自分でもその意味がわからなかった。少女に愛おしさのようなものを感じた。彼女がのちに味わう痛みを知っているから? あるいは、追想の果てしなさに、その迷宮性に、ただ、打ちのめされていただけのようにも思える。
映画をみおえて、彼女たちが生きた時間と、自分が生きた時間を重ねて、終わりのない追想の時間がはじまる。あの日は、映画をみたあと、にぎやかな中華料理屋で、Mと興奮して話しつづけ、ふたりとも、のみすぎ、たべすぎた。隣では若い男女が大勢で飲み食いしていて、うるさいので、わたしたちは大声で話しあった。それら前後に起こったこともふくめて、のちの日に、さまざまに、くりかえし、「海辺の一日」を思い出すことになるだろう。
2026年8月19日水曜日
拾い読み日記 376
本をひらいてよんでいて、ふと文字列から目がそれて、自分の手が目にとまり、その老化におどろくことがある。こんなにしわが多かったかと。日に焼けて、みずみずしさもない。つかいこまれた道具にもみえる。これはほんとうに自分の手なのか、と思いつつ、こんなことを思うのはどうしてだろう、とか、そもそも手とはなになのか、とかんがえたりもしている。
小長谷清実の「指はイモ虫」という詩をよんだ。窓辺で椅子に座り、何かを思い出そうとして混乱し、カーテンをつかんだ指が、イモ虫になぞらえられている。イモ虫が「寒天状のカーテン」のなかでうごいている。
寒天のなかで無意味にのたうつ
その背その腹のいやらしさ
無意味さといやらしさのみ
指の先からジンジンひびいてくる
わたしは少し疲れているのだろうか
気にかかるのはイモ虫だけだ 自分のことだけだ
イモ虫なんか一匹もいない
椅子にすわってカーテンをいじっている中年のおじさん
この最終行に、とても惹かれる。指という「もの」、あるいはイモ虫という他者にこころをうばわれていたのが、ふと我にかえって、その「我」がまた他者としてあらわれる、といえばいいのだろうか。
目を落とすと、不恰好な自分の指が目にはいる。イモ虫の指。それらがもぞもぞうごいてキーボードを叩き、文字があらわれる。イモ虫が無意味に本のうえを這い、紙をめくる。いいことではない、いやらしいことをしているのだ、と中年のおばさんが、かんがえはじめている。
2026年8月17日月曜日
40年前の虫について
夜おそく、へとへとになって家に帰りついて、ドアを開けてMにただいま、といったとき、ずいぶんひさしぶりに会った気がした。たった一泊二日の旅から帰ってきただけなのに。とても遠いところまでいってきたのだ、おそらく40年前までいって、帰ってきたのだろう。
みんな、どんな55歳になったのかなあ、という興味もあって出掛けてきた。どうしてあの子がこんなふうになったのだろう、という好奇心から、やや、あぶない目にもあった。しかしその瞬間、その人のいきいきした部分にふれられて、それは、かならずしも、わるいことではなかった。いきいきしたものを、すっかりうしなったのかと思っていたから。
なつかしい人と話していると、その人の今の顔のなかにむかしの面影をみることになり、そこからさまざまによみがえる記憶があって、あたまが、いっぱいになった。彼ら彼女らの「今」を知りたかったが、彼ら彼女らのなかにのこる過去の自分のことも、知りたかった。そのころの自分がどんな人間だったか、よくわからない。おそらく、中学生になっても、まだ、ものごころが、ついてなかった。
自分は、まじめで、無口で、反応がちょっとへんな中学生らしかった。授業中、とつぜんパン!と手をはたいて虫をころしたよね、といわれた。もちろんそんなことは、まったくおぼえていない。それでも、その虫は、蠅だったのか、蚊だったのか、妙に、気になっている。ひょっとしたら、そのような奇矯な行動をとることで、自己を、表現しようとしていたのか?
帰りの新幹線で「linger」を聴いた。Royel Otisのカバーのほうが、乾いている感じですきだ。Do you have to let it linger? 40年前のことと一昨日のことを、すこしのあいだひきずったら、「今」にもどって「これから」に目をむけたい。今は、まだ、ひきずっていてもいい。
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