2026年7月25日土曜日

拾い読み日記 373


 まちがった方向に進んでいたらどうしようかと、ときどき不安になりながら、作業を進める。まちがっていたら、指摘してもらえばいいのだから、今は、先に進むしかない。

 このところ、ほとんど本が読めなくて、淋しい。しんそこ、たよりない。だから今日は、本棚に手をのばして、『クレーの日記』を、少しだけ読んだ。
 
 記録され分類されたものは、生気を失う。いつまでもこんな環境に身をおくことは不可能だ。こんなことでは、自分を失ってしまう。
 いつか、何もない場所に跪き、不在に深く心を奪われなければならない。

2026年7月24日金曜日

わたしのオバケ


 形象であたまがいっぱいになる。さまざまな色やかたちや線が、それらがつくりだすイメージが、つかのまくみあわさって、はなれて、うかんで、ながれていく。またすぐにやってくる。うごいて、おどって、うたっている。たわむれている。それを、ずっとみている。きいている。ついていこうとする。ふれようとしてみる。つかれる。なにも、きめられない。ことばはまったくあたまにはいってこない。それでもことばとはなれたくない。それらはすべて、ことばによってあつまってきた形象だからだ。ことばのようで、ことばでないもの。それはわたしを、ことばの外へ、つれだしてくれる。ことばによるかんがえの外へ。
 
 「絵は描く人それぞれのオバケ」(清宮質文)。わたしのオバケは、このあたまのなかの漂流状態から、ぶじに、ぬけだすことができるだろうか。

2026年7月21日火曜日

拾い読み日記 372

 
 愛は「与える」ものでも「受け取る」ものでもない。それは、関係の中で起こり、私たちを変え、揺さぶり、境界を超えさせる事象である。そこには安心だけでなく、不安も含まれる。理解と誤解、近さと距離、支えることと支えられることが、絶えず入れ替わる。その不安定さを抱えたまま、共にあろうとすること。そこにこそ、愛の現実がある。(稲原美苗『障害と生きることの現象学』

 この本は、ロマン主義なんだよ! という國分功一郎の声が、よかったなあ、と思い出している。実感がこもっていた。ロマン主義者に、ぜひ読んでほしい。ひとを愛するとはどういうことか、考えずにはいられないひとに。ひとを愛しすぎてしまうじぶんを、どうしたらいいのか、わからないひとに。
 稲原さんを目の前にすると、その透き通った、愛にあふれた「気」に、ふれられて、涙が出てしまった。人の「気」に感応しやすいので、ときどきは、そのせいで、ねこんでしまう。

2026年7月20日月曜日

拾い読み日記 371


 500ページ近い小説のゲラを、10日間ほどかけて、読み終えた。毎日、あと何ページ残っているか確認しながら、遠い目的地までゆっくり歩いていくように、読んできた。読み終えた瞬間、ある感慨があった。感動していた。とてもいい小説だったから。そして、それが終わってしまったから。同時に、一枚のペラペラの紙(ゲラ)をもって感動している自分が、なんだか、おかしいなと思った。手応えのあるものを受け取った。その手応えがほしかった。小説を読み終えることにとって、本を閉じるという行為が持つ意味は、おおきいのではないかと思う。そして、小説を読むことにとって、ページをめくるという行為が持つ意味についても、考えてみたい。ものがたりが「もの」であることのよさ。

 昨日、本のしごとをしているともだちとのんでいて、装幀の話になり、松浦寿輝『巴』(講談社文芸文庫)のカバー表1の画像をみたその人が、「ロボットパルタじゃん!」といった。え、何それ。みてみると、確かに、ちょっと似ていた。「巴」がフリーズしたロボットにもみえてくる。この文字のかたちと、小説世界は、どうかかわっているのか。まったく関係がないのか。たしかめてみたい気もする。ひょっとしたら、読みすすめていくと、この「巴」の文字が、目覚めて、うごきだすなんてことが、あるのだろうか。

 せっかくなので、ロボットパルタのアニメをみた。カクカクしたかたちでカクカクうごき、不明瞭なことばを話すパルタが、すっかりすきになった。主題歌も、よかった。「きみのためなら こわいことでも たのしいことに なんでもかえちゃう」。ともだち思いの、けなげなパルタ。


2026年7月17日金曜日

むげん


 数年前に知って、ふしぎな曲だ、と感じ、もう何十回も聞いている「むげん」(崎山蒼志 with 諭吉佳作/men)の歌詞を、眠る前にぼんやり思い出していたら、ふと、これは胎児の歌ではないか、と思った。「くらい せまい あたたかい 顔を洗う水 踊る 踊る 蹴る きづいて ほしい」。お腹のなかにいるいきものが感じていることは、何だろうか。じぶんは何を感じていただろうか。どうして忘れてしまったのだろうか。というか、ほんとうに忘れてしまったのだろうか。

 昨日、プールで泳いでいるとき、水底いっぱいにひろがってゆれる光のもようを見ていたら、とつぜん、意識はつながっている、と感じた。つながっている、もしくは、溶けあっている。意識、しかし、誰の? わたしと「あなた」の? 人間と世界の? いまとむかしの? よくわからないままに、こわばっていたものが、やわらかくほどけていくようだった。意識のなかに、他者がすでに存在すること。そしてたましいのなかにも他者が、いや、たましいそのものが他者であること。

 私が魂を持つのではなく、私は魂の保管所なのである。(西郷信綱『古代人と夢』(下線部は傍点

 ステージで、ここにいないひとの声と歌う崎山蒼志の孤独。この世にひとりとりのこされた人間の(身体の)、癒やしようのない淋しさをみているようで、胸がくるしくなる。

2026年7月15日水曜日

球とたましい

 
 はじめての場所で、はじめてのひとたちと球を打ち合う。
ちいさな声で話す白髪の女性がいた。20歳ほど年上だろうか。その中身、なんですか? 水筒の飲み物についてほかのひとにたずねられて、緑茶です、とこたえると、横から、お茶の色とユニフォームの色が合っていますね、と、ちょっとおもしろいことを、その女性は言った。趣味のよさと品のよさを感じさせる、ひかえめな口調だった。すこし言葉を交わしただけで、そのひとがどういうひとなのか、わかる。それはたぶん錯覚だけれど、ある程度、あたまのなかに、その人物像ができあがる。

 彼女と打ち合ってみると、いきなりバックサイド深いところに速いロングサーブが来て不意をつかれる。そのサーブでバック側に意識を向けさせて、フォア前の短いサーブでこちらを揺さぶろうとする。相手にまったく隙をあたえない、勝つための卓球だった。そして少しでも球が浮いたら、びっくりするくらい力強いスマッシュが飛んできた。ラケットの振り方に、殺気すら感じた。さっきまでのあのやさしいひとは、どこにいったの? 人間の多面性におどろきながら、初対面の相手にこんなにも「全力」をぶつけられることのよろこびを、全身に感じた。強打を決められてうれしくなったのは、はじめてかもしれない。

 それは、おそらく、身近な者たちには見せることのないはげしさであるだろう。球によって、奥にひそむものが飛び出してきたのだ。あの球にこめられていて、わたしを強く打ったものは、彼女の「たましい」だったのではないか。そんな気がしてならない。わたしには、まだ、あのような球を打つことができない。

2026年7月14日火曜日

拾い読み日記 370

 
 君は私に、君も、未知のひとりの死者に向けて書いている(私はそのことをますます確信している)、そして私がその死者の代わりをなしている、と言う。だから、君はあらかじめ私を殺している(確かに私は、死刑宣告を待つように、君の合図を待つことがよくある)、けれども、君はまた生を返してくれる。私たちはとても特異な亡霊を相手にしているのだろうか、それとも、それは往復書簡すべての運命なのだろうか、君はどう思う?(ジャック・デリダ『絵葉書  Ⅰ』)

 死者の代わりになってくれそうな相手に、もし出会ったとしたら。その人との距離を保つことが重要なのではないか。手紙を書きつづけるためには。読む気もなく開いたページから、突然問いかけられて立ち止まる、あわただしい朝。
 外に出かけよう。真夏の光にたえられるかどうか、すこし不安だ。