2023年9月20日水曜日

エア メイル

 


 まだすこし先ですが、11月23日(いいふみの日)から12月3日まで、都立大のギャラリーQuantum Gallery & Studioで、ananas pressの「エア  メイル」展を開催します。
 「エア  メイル」展は、2017年に香港ブックアートフェスティバルに参加する際につくった『Letters from Reiko  19751984』を、日本の人にもぜひ見てもらいたい、と思って、名古屋のコロンブックスで開催したのがはじまりです。
 たしか、香港の宿で、日本でも展示したいねえ、どこで展示するのがいいかなあ、と相方のaとだらだら話し合っていて、そうだ、コロンブックス! と思い立ち、湯浅さんに持ちかけて、展示させていただいたのでした。そのあと、コロンでの展示を見てくださったCaloの石川さんからのお声がけで、大阪でも開催しました。東京でも見てもらえたら、と思いながら、なかなかいい場所が思いつかず、5年も経ってしまいました。
 くわしいことは、追って、お知らせしたいと思います。

 つづけて、お知らせです。
 詩人の真名井大介さんからお誘いをいただき、11月2日に、本屋・生活綴方で、「わたしの本を自らの手でつくる」というテーマで、真名井さん、いぬのせなか座の山本浩貴さんといっしょに話をします。
 話、できるんでしょうか。わかりませんが、こちらも、くわしいことは、追って……。

 洋書まつり、今年は10月20日〜21日に開催されます。今年も、ポスターとチラシをデザインしまして、来週には刷り上がってくる予定です。ヒロイヨミ社の、今の、本への想いが、あらわれているような気がします。なんとなく、ですが。


追伸 卓球(ふたたび)はじめました

2023年9月1日金曜日

拾い読み日記 291

 
 おととい泳ぎにいって、今日もまた泳ぎにいった。今日は、筋トレにいくつもりだったのに。
 20年近く泳がないでいたのに、なぜこんなに頻繁に泳いでいるのかといえば、窓からプールが見える、たぶん、ただそれだけの理由で。こんな単純さで、すべてのことは進んでいく。進んでいくとよい。

 プールから、ときどき、窓を見た。もうひとりの自分が、こちらを眺めている。涼しい部屋で、お茶をのみながら。水のなかにいるたのしさも、水底の光も、泳いだあとの気だるさも知らずに。手で、足で、ひっしに水をかけば、ことばがなくなる。あたまが空になる。その、たとえようもない、自由な気分も知らずに。

 Think of the longest trip home.
 Should we have stayed at home and thought of here?
 Where should we be today?

 長い家路を考えてごらん。それとも ずっと
 家に居て ここを想った方がよかったかしら?
 今日 私たちは どこにいよう?

 エリザベス・ビショップの「旅の問い」(小口未散訳)。午前中、どうしてだろうか、旅先にいるような心のはずみを感じて、読んだ詩。

 水からあがって着替えているとき、ちいさな男の子の声を聞いた。「顔つけると、たのしいんだね」。そうだよ、と若い母親がこたえる。はじめて水に顔をつけることができた子どもに、またひとつできることがふえたね、という。

 その子どもの声が、しばらく胸のなかで響いていた。それは、この夏に聞いた、もっともうつくしい声ではなかったろうか。

 夕方のプールに風が吹いて、からだが冷えた。夏が終わるんだなあ、と思った。

2023年8月27日日曜日

拾い読み日記 290


  手術するかな、どうなるかな、とぼんやりかんがえながら、窓のむこうの、プールで遊ぶおとなやこどもを眺めていると、うらやましいようなまぶしいような気持ちになるが、しかし自分だって、昨日の夕方には、あそこで泳いでいた。

 4日前には、夫と泳ぎにいった。水泳部だった夫は、クロールでかろやかに泳ぐ。海水パンツがとても似合う。水泳帽を取ると、長い、ぬれた前髪が顔にかかって、なんだかいい感じ。ふだんの5割増しでかっこいいよ、というと、あいまいな表情で、胴が長いから海パンが似合うんだ、という。たしかに、彼の胴は長い。目に見えているより、長い。毎朝、その背中に薬を塗っているから、よく知っている。

 手術するような病気も、全身麻酔もはじめてだから、不安のあまり、たくさん情報をあつめてしまって、つかれた。その手術は、医者がいうように、めずらしくない、むずかしくない手術のようだった。体験記もいろいろと読んだ。それでも、おそろしいものはおそろしい。おなかに穴を開けられるなんて。

 決して、医者を信用していないわけではない。担当医は、30代だろうか。声は大きいが、威圧感はない。重みもない。どちらかといえば、いいひとだと思う。あのひと、いいひとなんだけど、声が大きいのよね、とか、いわれそうなタイプ。手術するかどうか、迷っていたら、とりあえずは手術のためのくわしい検査を、という流れになる。

 ずっと読みすすめられなかった上田三四二『うつしみ』を手にした。病を得て、死を覚悟して、大きな手術を受け、その直後のくだりが、とくに心に残り、しかし理解できるような、できないような、つかみがたさがある。口からではなく、点滴によって潤されるからだについて、著者は、つぎのように書く。
 
(……)要するに私はこの直接的な補液の手段に——そのような手段によって養われながら身動きもならず横たわっている自分の身体に、生物というよりもむしろ物理的な自然を感じたのである。
 
 ひとりのからだとは、装置によって生かされる、ひとつの物であるということ。自分のからだをまるごと人にゆだねることができたら、そのことが、実感として、わかるのだろうか。そうしたらなにか、変わるだろうか。自分のからだを人にゆだねる、というのは、自分のからだからの解放であり、自分のこころからの解放でもあるのだろう。つかのまであったとしても、それは、こころにとらわれ、からだのうちに閉ざされたものにとっては、大きな体験である。恐れのなかに、すこしの好奇心がまじりはじめたのは、この本のおかげである。

 夫に、うまく泳ぐコツをいくつか聞いた。水を掻くときに、のばした手が曲がらないようにすること。進む方向に指をぴんとのばして泳ぐと、はやく進むそうだ。一本の棒きれになった気持ちで泳ぐといいよ、という。棒きれの気持ちで泳ぐことは、むずかしいが、おもしろくて、くたくたになるまで泳いでも飽きない。

2023年8月13日日曜日

拾い読み日記 289


 あたりまえのことだが、引っ越しをすると、さまざまなことが変わる。たべる場所、くつろぐ場所、ねむる場所。毎日見る景色、使う道具の位置、話す声の響きかた、流しの高さ、部屋の匂い、周囲の物音、風のながれ方、そのほか、気づいていないこと、気づいていても言葉にできないこと。たくさんの、いろいろなことが変化して、ようやくそれらに、身体が慣れてきた。
 まともに読んだり、書いたりすることもできなくなっていた。本棚に並べた本たちに、まったく心が動かなくて、手にとる気力もなくて、そうなってみると本という物は心を重くするばかりで、すべて売り払いたいような気持ちにもなった。

 しかし、戻ってきた。
今日は、なんとなく目にとまった、中島敦『南洋通信』(増補新版、中公文庫)を読んだ。暑さで頭が働かない、と書く中島敦だが、遠のいてしまった本の世界を、うとましく思うことはない。遠い南の地で、かつての書斎の風景を、いとおしそうに思い起こす。

 (……)アナトール・フランス全集(英語の)の朱色の背に、陽のあたっていたのなんかもなつかしいな。精神的にも、もうオレはアナトール・フランスからまるで遠く離れて了った。妙な人間になりはてたよ。釘本からも手紙が来て、何か、書くように言って来たが、こちらは書くどころの騒ぎじゃない、サイパンへ来て、多少涼しい風が吹くので、少し本でも読んでみたい気が起った位のところだ。原稿を書くなんて、何処か、よその世界の話のような気がする。そういう意味の返事を釘本に出してやったよ。それでもね、パラオにはないが、サイパンには、岩波文庫を(ほんの少しだけど)並べている店が一軒あるんだよ。それだけでも、いささか頼もしい気がしたよ。(1941年12月2日 中島たか宛書簡)

 書けないつらさと苦しみは、ほかの手紙にも書いてあって、それは読んでいて、胸が痛くなるほどの強さだった。

2023年7月23日日曜日

拾い読み日記 288

 
 ほとんどといってよいほどある本から別の本へとたえず飛び移っているのは、退屈せずに一気に読み通すことができないからだ。同様に、じつに頻繁にわたしが意見を変えるのは、ある見方にすぐ飽きてしまい、本能的に、そして退屈で死なないように、それとは正反対の見方を余儀なくされるか、——それとも、ただ単なる知的怠惰と考えが浅いせいであるか、そのどちらかだ。いずれにせよ、矛盾についての神秘的な考えはもうなくなってしまった……(『ミシェル・レリス日記  1  1922−1944』)

 退屈で死なないように、本から本へ飛び移り、家から家へ飛び移る。転居にともなう作業はキライだが、転居そのものは、すきだ。
 パートナーとは、人生における気分転換の重要性についての思いは一致しているが、さすがにお金が貯まらないので、今度住むところは、できれば長く住みたいね、と話し合っている。だが、どうなるだろう。

 3分もいたら熱中症になりそうな屋根裏部屋から、少しずつ在庫を降ろし、梱包する。どうにか、この世から去る日までには、在庫がなくなっているといいよなあ、と思う。いや、そんなことは考えなくてもよくて、最後までつくりたいものをつくっていればいい、とも思う。

2023年7月19日水曜日

水中書店




水中書店のあたらしいショップカードをつくりました。
リソグラフ印刷で、水の色と若葉の色をかさねてみました。
店頭で手にとっていただけたら、うれしいです。

2023年7月16日日曜日

拾い読み日記 287


 転居にともなう雑務に心身ともにつかれ、このところ、横たわってぐだぐだしている時間が多かったが、ようやく、気力が回復したみたいだ。

 武田花写真集『猫・陽のあたる場所』を開いて眺める。猫たちは、撮られることをまったく意に介していなくて、どうでもいい、という顔をしている。その顔を、たまらなくすきだと思う。かわいい、という言葉は似合わない、クールな猫たち。撮るものと撮られるもののあいだの距離が、ここちよい。

 刊行が1987年で、あとがきに、「ここに写っている風景は、今はほとんどありません」とあるので、おそらく、40年以上前の猫と風景を、見ていることになる。1990年に上京した自分が目にしたはずもない風景なのに、せつないくらい、なつかしいと感じる。今はもういない猫。消えてしまった風景。なくなったものは、とりかえしがつかない。それでも、こうやって、なつかしみつづけることはできる。

 ページに目を落としていて、ひらめきのように、あるかんがえがうかんだ。それは、自分の心をしばっているのは、自分なのではないか、ということで、それまで、しばられているとも感じていなかった気がするのに、奇妙なことだが、ともかく、そのしばりが、いままさに、ほどかれていくような解放感をあじわった。

 今度の引っ越しは、かぞえてみると、10回目になる。窓からの眺めと別れることだけが、すこしさみしい。バッサリ切られてから、夏草のような速さでのびつづける木。

 あたらしい生活、すなわち、あたらしい生が、はじまる。そんな気持ちでいる。