2026年4月30日木曜日

トラスト・ミー

 肌寒い4月の終わり。疲れて起きあがれない。このあいだ町にかかったおおきな虹や、約30年ぶりにみたハル・ハートリーの「トラスト・ミー」のことを思い出して、起きあがろうとした。

 とてもすきなのに、こんなくるしい映画だったのか、と意外に思った。ほとんどのことを忘れてしまっていた。久しぶりに会うふたり(マリアとマシュー)は、それぞれに、虐げられていて、孤独で、純粋で、偏屈で、親切だった。彼らが、一緒にいること、見つめあって、思いあっていること、いや、ひとりで歩いている姿をみているだけで、うれしくて、しあわせな気持ちになった。そのことを、こうして書きとめるだけで、すこしずつ、前に進む力がわいてくる。ふたりがとてもすきなのだ。すきな人は力をくれる。

 ふたりの最後の会話を(聞き取れないから)しらべると、このようだった。

“Why have you done this?”
“Done what?”
“Put up with me like this.”
“Somebody had to.”
“But why you?”
“I just happened to be here.”


 どうして僕につきあってくれたの。誰かがしなくちゃいけないから。でも、なぜ君が? そばにいたから。

 パンフレットのシナリオ採録を読むと、93年公開時の字幕は、マリアの最後の言葉が、「そばにいたから」ではなく、「そばにいたいから」だったようだ。なおってよかった。意味がぜんぜんちがう。


 偶然出会った人、たまたまそばにいた人に親切なふたりだったから、「信頼」が生まれて、そんなふたりの関係に、いま、ふれたかった。まわりにいる人たちに、あまり、親切にできないから、かもしれない。


 しだいに遠ざかっていくおたがいの姿を、もっとよく見ようとして、マリアは眼鏡をかけ、マシューは車から身を乗り出す。別れていくのに、出会いのシーンのようにも感じられる。風が吹いていて、みずみずしくて、せつなくて。季節のおわりと、はじまりみたいで。いつまでも見ていたかった。



2026年4月19日日曜日

拾い読み日記 359


 夜中に目が覚めてしまい、眠れないのでたまたま見つけた装幀をめぐるエッセイを暗がりで読んでいたら、悶々として、ますます目が冴えてしまった。装幀家の自己表現、自己実現、
「生存戦略」に奉仕させられる装幀のかなしさ。そうなると装幀は、かぎりなく広告に近づいていく。書物のからだ(顔)が広告的になってしまうことに、いいようのない不安と息ぐるしさをおぼえる。余白をつくったらしぬのか? と思ってしまうような、どこか強迫的なブックデザインが、多い気がする。いいすぎだろうか。そうかもしれない。そうであってほしい。

 装幀の仕事をしながら装幀についてかんがえることはできるが、書くことは、困難だ。こんなことを書くおまえの仕事はどうなのだ、と問う声がどこかから飛んできて、うつむくしかないから。

 それでも仕事がおちついたら、本の美しさと装幀の新しさということについて、かんがえてみたいと思う。それには、本とは何か、という問いから、ふたたび、はじめなければならない。

 近所に買い物に出たとき、日差しがつよくて、日傘を持って出なかったことを後悔した。躑躅の濃いピンク色に目をうばわれる。朝は淡いうろこ雲がうつくしかった。

2026年4月15日水曜日

白い月


 午前2時、そのあと5時に目が覚めて、6時に起きる。5時に起きたときベランダに出てみると、空気がつめたくて、見上げた空に、今にも消えていきそうな薄片がうかんでいた。欠けてゆく弓張月だった。その下には淡い灰白の雲がたなびいて、さらにその下には、暗いラベンダー色の雲が横たわっていた。欅の木のむこうから鳥たちの群れがやってきて、北に向かって飛び去った。それが一昨日のこと。今朝も月をさがしたが、綿雲が空一面ひろがっていて、見えなかった。灰色の濃淡の奥にひそむ、まぼろしのようにかすかな白。

2026年4月12日日曜日

梅の木に梅の実が生る


 梅の木に梅の実が生る。なにごとの不思議なけれど、という言葉がよぎり、誰がいったかすぐに確かめたくなるのは、現代人の(わたしの)やまいなのだろうな、と思いつつ調べ(薔薇の木に薔薇の花、だった)、そのあとでは、梅の木に梅の実が生る「不思議」を感じているのは自分だけではないから、ひとりで木を見ていても、誰かに相槌を打つような気分に、なったりもする。

 桜の木のそばを通ると、ぱら、ぱら、と音がして、桜蕊が降ってくる。拾い上げて、ながめる。木の根元にはたんぽぽが咲いていて、綿毛になったものもあり、それに触れてみたいと思うけれど、触れたらきっと壊すだろうから、じっと見るだけで通りすぎる。

 それから、迷子のようなしゃぼん玉をひとつ、見かけた。木にふらふらと吸い寄せられるように接近して、舞いあがったところで見失った。

2026年4月9日木曜日

拾い読み日記 358

 
 欅の梢が風にのって踊るように揺れている。春の欅のいきおいはおどろくほどで、このあいだ芽吹いたと思ったら、もう新緑が茂っている。それがゆうらゆうらといつまでも揺れているので、目が離せない。猫じゃらしを見つめる猫は、こんな気持ちなのだろうか。まえあしで触れられないから、書いているのかもしれない。どうにかして、この手が、あのしなやかな枝のうごきに、触れられないものかと思う。

 一年ほど前に手に入れてほとんど読めていなかった『市村弘正著作集  下巻』を、読みはじめた。

 再開すること。いつでも、どこからでも再開しうること。それが読むという行為がもちうる、おそらく最大の特性である。物質化された書物という形態を想ってみればいい。どの頁のどの箇所からでも自在に読みなおすことができるだけではない。一覧し全体に目を配り、かつて中断した頁や躓いた箇所から新たに読むことができる。本そのものの重量を手に受けながら全体を一覧しつつ再読すること、この触覚的な受容はまだ書物という形態がもちうる特権であり、「読み返す」ということの物質的な基礎を提供しつづけている。(「読むという生き方」より「五 再開するために」)
 
 仕事のあと、窓の外が青から濃紺に変わるまでのあいだの、たった13頁の読書ではあったが、書物を手にして、深く息を吸い、吐く時間を持てたことが、うれしかった。こういうふうに、本を読んできた人がいる、ということ。いつでも、どこからでも、ふたたび、読むことができるということ。「「読む」という小さな梃子」。


2026年4月7日火曜日

拾い読み日記 357

 
 朝、うっかり手がすべって「パリ散歩」の投稿を消してしまったので、書いたことを思い出して投稿しなおす。どうしてだか、噓を書いているような気がしたが、実際には、噓を書いているわけではない。

 このところ、澤直哉『架空線』の一節をよく思い出す。「私たちの心が手と協働して物を作るのですから、性根が腐っている者に、まともなものを作れるわけがない。」
 読んだ当初は、すごいことを書く、と震えあがったが、今では、この言葉はいましめであり、はげましでもある、と感じている。自分の性根はいくぶんねじれている気はするが、腐ってはいない。と思う。しかし、もっと本をふかく読まなければ、根が、乾いてしまいそうだ。

 風がびゅうびゅう吹いて、桜の花びらが、窓の外で舞っていた。


パリ散歩




 高遠弘美さんの著書『パリ散歩 我もまたアルカディアにありき』(法政大学出版局)を装訂しました。二年間のパリ滞在の日々を、ともに歩いて辿るような本です。手にした人の心に、やわらかな風が吹いてくるような、そういう装訂になっていたらと思います。

 プルーストの『楽しみと日々』の初版本をお借りして、マドレーヌ・ルメールの挿絵を装画としました。

 2024年刊行の高遠さんの著書『楽しみと日々 壺中天書架記』と同じく、編集は、法政大学出版局の赤羽健さんです。