なにかをゼロからかんがえるときは、すっきりしていたほうがいい。なにもない、ひとつの空間としてのじぶんをイメージして、しずかになって、そこに、あらわれてくるものを待つ。あらわれたら、こわさないように、そっとつかまえる。よくみてみる。流れにまかせて、かたちにする。それをととのえる。つよいちからはいらない。
倉数茂『私自身であろうとする衝動』の宮沢賢治論にみちびかれて、宮沢賢治の手紙を読んでいた。
どうかもう私の名前などは土をかけて、きれいに風を吹かせて、せいせいした場処で、お互ひ考へたり書いたりしようではありませんか。こんな世の中に心象スケッチなんといふものを、大衆めあてで決して書いてゐる次第ではありません。全くさびしくてたまらず、美しいものがほしくてたまらず、ただ幾人かの完全な同感者から「あれはさうですね。」といふやうなことを、ぽつんと云はれる位がまづのぞみといふところです。(母木光宛、1932.6.19/『宮沢賢治全集9』ちくま文庫)
