2026年6月15日月曜日

拾い読み日記 364


 あるデザインを見て怒りが湧く、というのはどういうことなのだろう。身近な者がネットで見たブックデザインに対して(同時に、装幀家に対して)怒っている。実物を見ていないのに。
 自分は、どうだろう。そうしたデザインを見て感じるのは、失望や落胆である。なぜそのようなデザインがなされるのか。なぜある者はそれに怒り、ある者は落胆するのか。そして、ある者は称賛するのか。ブックデザインについて、もっと深く考えなければ、と思う。そしてそれを、言葉にしなければと。

 戸田ツトムがブックデザインの制作過程について話している言葉を書き留めておきたい。「画面を見て、出力して、本に巻いて、手にとって、棚に置いて。そういう環境との関係を見ます」(「ユリイカ 総特集 戸田ツトム」、平倉圭によるインタビュー)。自分もそうしている。多くのデザイナーはそうしているだろう。件の装幀家はどうか知らないが、「環境との関係」は、あまり重視していないように見える。

 戸田ツトムがデザインしたジル・ドゥルーズ+クレール・パルネ『ディアローグ』(河出文庫)を見る。澤直哉「線の倫理のために 河出文庫における戸田ツトム」を読んだあとでは、デザインが、以前とはまったくちがって見える。横組みの文字と文字は揃えられず、文字と写真も揃えられず、かたまっていない。ういている。縦組みの文字、右端に一行で組まれた著者名と訳者名は、固定されているようで、そうではない。横組みの文字との関係のせいか、写真の「わからなさ」のせいか、全体に、何か、見るものを、ざわつかせるものがある。しかし、それは不快なざわつきではない。「ひと」の気配のせいかもしれない。ものを見る視線のぶれ、目のゆらぎ。文字をそっと放つ手のうごき、指のふるえ。

 よく見ると、著者名の欧文「Gilles Deleuze/Claire Parnet」は、スミ100%ではない。わずかにアミ点が見え、文字のエッジがクリアではない。さらに、その左に置かれた欧文タイトル「Dialogues」は、それよりほんの少し、薄くなっている。それが、どういう意図でなされたのかはわからない。もしかしたら、使われている写真の濃度と関係があるのかどうか。ひょっとして、左のほうから弱い光が射しているのか? わからない。しかし、その、濃度のちがいに気付いたときの感覚を、記憶しておきたい。ささやかなちがいを見出すという出来事を、おくられてきたものとして、受け取った。


2026年6月12日金曜日

拾い読み日記 363


 ベンヤミンについて書かれた本を読む。その合間に、ベンヤミンが書いた本を読む。古本で買った三島憲一『ベンヤミン 破壊・収集・記憶(現代思想の冒険者たち 第09巻)には、すこし書き込みがあって、「アクチュアリティ」と、余白に書かれているのが目にとまる。まだ幼さの残る、おそらくは大学生くらいの人が書いた文字に見える。
 もっとも興味のある部分「収集と引用」を読みたいが、そこを読んでしまうとほかのところは読めない気がして、最初から読んでいくことにする。

 雨が来る前、東の空をずっと見ていた。とても淡い水色の空にパールホワイトの絵の具で描いたような大きな雲が低いところに横たわっていて、このような儚い美しい光を放つ雲が存在することが信じられなくて、まぼろしのようだ、と思った。夢のような雲。というよりは、雲のような夢、といったほうがふさわしい。あの雲は、いったい、何だったのだろう。

 「形象の世界に浸る喜びとは、知に対する陰にこもった反抗心によって培われるものではなかろうか」、とベンヤミンは書いている。もしかしたら、思うように本が読めないのは、「形象」にこころを奪われすぎているから、かもしれない。

2026年6月8日月曜日

拾い読み日記 362


 くもり空。今日はあんまりひとに会いたくない。
しずかに、本を読んだり、ものを書いたりして過ごす。昼寝から覚めて、南Q太『ボールアンドチェイン』の5巻を読む。読むのは二度目だが、最後のページでは、またすこし、じいんとして泣いてしまう。
 けいとさんとあやさんの出逢いと再会は奇跡のようだが、こういうことは、現実にもあると思う。通りすがりのひとに、すくわれること。知らずに、すくっていたこと。思いがけなく、つながっていたこと。
 仕事をしながらボクシングに真剣に取り組むけいとさんにはげまされる。何かに真剣になることで、強くなれる。

 自分の卓球生活も転機を迎えている。たのしみながら少しずつ上手くなれたらいいなあと思っていたが、先日の市民大会でスカウト?され、クラブチームに入ることになりそうだ。50代は、レディース卓球の世界では、まだまだ若手なのだった。60代でもまだ若いほう。70代、80代のベテランプレイヤーにまじってたたかうことで、これからむかえる老年期を、あかるい気持ちですごせる気がする。

 自分を「生かす」ために、強くなりたいと、このところとみに思うようになった。ラリーと同じで、自分の持っている力を出すことができれば、相手もそれに応えてくれる。自分を生かすことが、他者を生かすことにつながる。


2026年5月30日土曜日

豊島にて/母型

 
 音もなく、まるで涙のようにひそやかに湧きでてくる水のかたまりをみていたら、そうだった、こんなふうに、感情はうごくのだった、と思った。思い出した。感情だけではない。からだも、自らの生も、このように、うごかして(うごいて)いけばよいのだった。

 わたしという生が、泉のように湧いて、流れて、ある地点でほかの生と合わさって、ひとつのかたちをつくる。かすかな風にもふるえ、たやすくすがたを変えてしまう、あいまいな物質としての「わたし」。とどまることはできないのだから、ただ、そのときどきのかたちをいきればいいと思えた。

 梢が揺れて、ときおり葉が落ちてきた。どこからか、虫がやってきた。一枚の葉、一匹の虫を、こんなに近しく(いとしく)感じたことは、かつてなかった。虫の歩みを、いつまでも目で追っていた。わたしのまなざしは、いつしか、わたしではないもののまなざしと重なっていく。

 顔をあげれば、ひとびとがいた。ここでは、にんげんは、鳥たちよりもしずかないきものとして存在することをゆるされていた。灰色のおおきな繭のなかで、まもられながらひらかれて、すこしずつ、世界に解けていく。それはおそろしいことではなかった。 


ながい窖




 手塚治虫『ながい窖』(法政大学出版局)の装訂をしました。
 タイトルは、「な」「が」「い」「窖」、という活字を入手して、それを押して作成したものです。「窖」という文字をはじめて見ました。「穴」ではなくて、「穴蔵」=「窖」(あな)です。
 この装訂は、編集者の赤羽さんと一緒に手探りして出来上がったもの、という気がします。何かとたすけていただきました。この本のこと、装訂のこと、読み返して思うことを、あらためて言葉にできたらと思います。

2026年5月22日金曜日

『パリ散歩』の装訂について


  4月に刊行された高遠弘美さんの本『パリ散歩』の装訂についてのエッセイを、法政大学出版局のnoteに書きました。

 今回は、紙のこととか装画のこととかレイアウトのこととか、具体的なことが、書けませんでした。省きましたけれど、いろいろと迷い、なやみながら作りました。とくに、カバーの紙について。使ったのは「ソフトバルキー」という名前の紙で、色は、「ナチュラル」です。その裏面に刷っています。表面は、なめらかすぎたからです。この紙を見つけられたことが、この装訂にとって、よかったと思っています。(あとから気付いたのですが、『丹生谷貴志コレクション』のカバーと同じ紙でした。)

 本の触り心地のよさと、愛着の深さは、自分にとっては関係があるようですが、人によるのでしょうか。読んでいて、指が心地よい、手になじむ本がすきです。

2026年5月19日火曜日

拾い読み日記 361


 何気なく手にとってめくってみた雑誌に読み耽る、そんなささやかなことこそが、読むことのよろこびであり、生活のたのしみだろうと思う。ずっとそれができなくて、物足りなかった。

 今朝は、いつ買ったかも忘れてしまった(とはいえそんなにむかしではない)89年刊の『季刊[武蔵野美術]No.74』を読んだ。早見堯「受動性と差異」。キーファーやポロックなどの現代美術家の制作について語る言葉にひきこまれた。「終始、紙や絵具というメディアに制作を従わせる受動性と、それによって立ち現れてくる差異化される自己の大いなる肯定」。

 自分は読書においても制作・仕事においても感覚的かつ受動的すぎるきらいがあるのだが、それは、確固たる自分がないから、もしくは、うたがっているからだろう。

 見るときも読むときも書くときも作るときも、自己を開いていくこと。自分を見失うこと。自分を見つけること。あらわれてくるものにしたがうこと。「自分らしい」かどうかなんて、気にせずに。