2026年8月3日月曜日

あおむけの蟬


 ドアを開けて外に出ると、階段のまんなかであおむけになっている蟬がいた。「あんた……なんでこんなところで……」。つい声をかけてしまう。あとからかんがえると、蟬に「あんた」はへんだったし、なんだか、よっぱらって家にたどり着けずに階段で寝てしまった人に対する口調みたいだった。誰かに踏まれないように、羽をつまんで端に移動させようとすると、びびびびといって動き出し、飛び去ったので、うわあっ!と声が出た。しばらくのあいだ、動悸が止まらなかった。
 「わたしたちが身体を持っているのは、〈いまここ〉によりいっそう付着するためにではなく、場を変え、時間を変え、空間を変え、形態を変え、物質を変えることができるためである。」(エマヌエーレ・コッチャ『メタモルフォーゼの哲学』) ねむっていた蟬は、めざめて、どこへ向かったのか。やみくもで、ふらふらしていて、まるで、あれは、自分をみるようだった。よわよわしいけれど、たしかにそれは、ひとつの生命の力であって、その変化のエネルギーが、指のさきから一気にながれこんできたせいで、まだ、どきどきしている。

2026年7月31日金曜日

拾い読み日記 374


 本を読んでいて、何かを感じる。思う。思い出す。かんがえる。読んでいることと読んでいないことの絶え間ないせめぎ合い、それが本を読むということなのか、「読んでいない」がいつも「読んでいる」を圧倒してしまうのは、感覚が、つよすぎるからだろうか。
 
 ラルフ・ジェームズ・サヴァリーズ『嗅ぐ文学、動く言葉、感じる読書 自閉症者と小説を読む』を読んでいる。「自閉症的読み方」、ゆっくりと、濃く、ふかく読むこと。言葉に憑かれたり、言葉にとらわれたりすることを、おそれなくて、いいのだと思った。

 はやく読めなくていい。たくさんの本を読めなくてもいい。感覚にのみこまれて、何を読んでいるのかわからなくなってもいい。感じたことがすべて、いずれ、「本」を豊かにすることにつながっていく。妄想かもしれないが、そんなことを、寝そべって本を読んでいて、すこしねむって意識がもどったときに、思った。

 黄昏どき、一羽の白い鳥が、北のほうに向かって飛んでいった。川に来ていたシラサギだろうか。あの鳥のかたち、はばたきかた、ゆったりしたリズム。それはやわらかな啓示のように、とつぜん胸におりてきて、このことを、だれかにつたえなければ、と思ったのだった。

2026年7月25日土曜日

拾い読み日記 373


 まちがった方向に進んでいたらどうしようかと、ときどき不安になりながら、作業を進める。まちがっていたら、指摘してもらえばいいのだから、今は、先に進むしかない。

 このところ、ほとんど本が読めなくて、淋しい。しんそこ、たよりない。だから今日は、本棚に手をのばして、『クレーの日記』を、少しだけ読んだ。
 
 記録され分類されたものは、生気を失う。いつまでもこんな環境に身をおくことは不可能だ。こんなことでは、自分を失ってしまう。
 いつか、何もない場所に跪き、不在に深く心を奪われなければならない。

2026年7月24日金曜日

わたしのオバケ


 形象であたまがいっぱいになる。さまざまな色やかたちや線が、それらがつくりだすイメージが、つかのまくみあわさって、はなれて、うかんで、ながれていく。またすぐにやってくる。うごいて、おどって、うたっている。たわむれている。それを、ずっとみている。きいている。ついていこうとする。ふれようとしてみる。つかれる。なにも、きめられない。ことばはまったくあたまにはいってこない。それでもことばとはなれたくない。それらはすべて、ことばによってあつまってきた形象だからだ。ことばのようで、ことばでないもの。それはわたしを、ことばの外へ、つれだしてくれる。ことばによるかんがえの外へ。
 
 「絵は描く人それぞれのオバケ」(清宮質文)。わたしのオバケは、このあたまのなかの漂流状態から、ぶじに、ぬけだすことができるだろうか。

2026年7月21日火曜日

拾い読み日記 372

 
 愛は「与える」ものでも「受け取る」ものでもない。それは、関係の中で起こり、私たちを変え、揺さぶり、境界を超えさせる事象である。そこには安心だけでなく、不安も含まれる。理解と誤解、近さと距離、支えることと支えられることが、絶えず入れ替わる。その不安定さを抱えたまま、共にあろうとすること。そこにこそ、愛の現実がある。(稲原美苗『障害と生きることの現象学』

 この本は、ロマン主義なんだよ! という國分功一郎の声が、よかったなあ、と思い出している。実感がこもっていた。ロマン主義者に、ぜひ読んでほしい。ひとを愛するとはどういうことか、考えずにはいられないひとに。ひとを愛しすぎてしまうじぶんを、どうしたらいいのか、わからないひとに。
 稲原さんを目の前にすると、その透き通った、愛にあふれた「気」に、ふれられて、涙が出てしまった。人の「気」に感応しやすいので、ときどきは、そのせいで、ねこんでしまう。

2026年7月20日月曜日

拾い読み日記 371


 500ページ近い小説のゲラを、10日間ほどかけて、読み終えた。毎日、あと何ページ残っているか確認しながら、遠い目的地までゆっくり歩いていくように、読んできた。読み終えた瞬間、ある感慨があった。感動していた。とてもいい小説だったから。そして、それが終わってしまったから。同時に、一枚のペラペラの紙(ゲラ)をもって感動している自分が、なんだか、おかしいなと思った。手応えのあるものを受け取った。その手応えがほしかった。小説を読み終えることにとって、本を閉じるという行為が持つ意味は、おおきいのではないかと思う。そして、小説を読むことにとって、ページをめくるという行為が持つ意味についても、考えてみたい。ものがたりが「もの」であることのよさ。

 昨日、本のしごとをしているともだちとのんでいて、装幀の話になり、松浦寿輝『巴』(講談社文芸文庫)のカバー表1の画像をみたその人が、「ロボットパルタじゃん!」といった。え、何それ。みてみると、確かに、ちょっと似ていた。「巴」がフリーズしたロボットにもみえてくる。この文字のかたちと、小説世界は、どうかかわっているのか。まったく関係がないのか。たしかめてみたい気もする。ひょっとしたら、読みすすめていくと、この「巴」の文字が、目覚めて、うごきだすなんてことが、あるのだろうか。

 せっかくなので、ロボットパルタのアニメをみた。カクカクしたかたちでカクカクうごき、不明瞭なことばを話すパルタが、すっかりすきになった。主題歌も、よかった。「きみのためなら こわいことでも たのしいことに なんでもかえちゃう」。ともだち思いの、けなげなパルタ。


2026年7月17日金曜日

むげん


 数年前に知って、ふしぎな曲だ、と感じ、もう何十回も聞いている「むげん」(崎山蒼志 with 諭吉佳作/men)の歌詞を、眠る前にぼんやり思い出していたら、ふと、これは胎児の歌ではないか、と思った。「くらい せまい あたたかい 顔を洗う水 踊る 踊る 蹴る きづいて ほしい」。お腹のなかにいるいきものが感じていることは、何だろうか。じぶんは何を感じていただろうか。どうして忘れてしまったのだろうか。というか、ほんとうに忘れてしまったのだろうか。

 昨日、プールで泳いでいるとき、水底いっぱいにひろがってゆれる光のもようを見ていたら、とつぜん、意識はつながっている、と感じた。つながっている、もしくは、溶けあっている。意識、しかし、誰の? わたしと「あなた」の? 人間と世界の? いまとむかしの? よくわからないままに、こわばっていたものが、やわらかくほどけていくようだった。意識のなかに、他者がすでに存在すること。そしてたましいのなかにも他者が、いや、たましいそのものが他者であること。

 私が魂を持つのではなく、私は魂の保管所なのである。(西郷信綱『古代人と夢』(下線部は傍点

 ステージで、ここにいないひとの声と歌う崎山蒼志の孤独。この世にひとりとりのこされた人間の(身体の)、癒やしようのない淋しさをみているようで、胸がくるしくなる。