2026年6月25日木曜日

ながい窖/掌の美術論




 手塚治虫『ながい窖』の装訂について、エッセイを書きました。これまでは法政大学出版局の編集者の赤羽さんからいわれて書いていたのですが、今回は、たのまれてもいないのに、自分から書きました。どうしてか、書かないとすまないような気がしたのですが、書いてみると、書いてすむようなことでもなかったとわかりました。

 今朝は、偶然、新聞で「窖」という字をみました。「戦争トラウマ」の記事(朝日新聞朝刊)に出てきました。日中戦争の最前線となった中国の農村地帯で、日本兵に襲われ、殺された人びとの遺体が投げ込まれた場所が、水窖(すいこう、地下貯水槽のこと)というそうです。
 「窖」という文字そのものに、戦争における加害と被害を伝える意味合いが込められていたのでしょうか。親からくりかえしその話を聞くことで、「水窖」によるトラウマが受け継がれてしまう事実に胸が塞ぎ、同時に、自分の知らない「窖」が、世界のいたるところに存在するということ、それらの「窖」との関わりは、はじまったばかりなのだということを、思いました。



 美術史家の松井裕美さんの新著『掌の美術論 触覚と想像力(勁草書房、近刊)をデザインしました。
 触覚や身体感覚を軸にして芸術作品に向かい合ってみると、こんなにゆたかな世界がひろがるのか、と目がひらかれると思います。たくさんの刺激をうけました。文字を追いながら、もっと、みたい、しりたい、つくりたい、遊びたい、という渇望が、おなかのあたりから湧いてくるようでした。

 装画には、紙版画と紙刺繍によってできたグラフィックを配しました。どちらも、偶然の力が大きく作用してできたものです。美術史家の「遊び」にデザイナーの「遊び」を重ねてみました。自分の手で「遊戯場」を作れたらいいのに、という思いがかたちになったものかもしれません。どんな人でも遊ぶことができる場所。夢中で遊んでいるうちに楽しくなって、こころが解き放たれて、自分も何かできる、その力がある、と思えるような場所が作れたら。ようするに、この本がそういう本なので、それをかたちにしたいと思ったらこうなった、ということでしょうか。アートに触れることなしにいきられない人や、絵を描く人、ものを作る人に、とくにおすすめします。 

 どのページにも熱いものが流れているような本なので、もしむずかしいと感じたら、まずは拾い読みでもいいのではないかなと思います。今は、以下の部分に、特にひかれます。

 墓の上で遊ぶということは、死者とともに生きるということだ。芸術という遊戯の中に立ち現れてくる聖なるものの亡霊に注目したディディ゠ユベルマンは、そのボルタンスキー論の中で、死者とともに生きるのに二つのあり方があると述べる。一つは「精神の病へと沈むこと、喪の悲しみ、無為のなかで立ちすくみ、身動きできなくなること」。もう一つは「遊び、動き、自身にとりつくものとダンスし、作業をすること」。(p.205)



追伸 たのんでいないのにじぶんのSNSで装訂した本の紹介をしてくれる、水中書店のKさん、ありがとうございます

2026年6月24日水曜日

たまごについて


 玄関のドアの前に、小さな卵の殻がある。しばらく前にも、そのあたりに、べつのやつが、あった気がする。なぜこんなところにウズラの玉子の殻を捨てるのだろう、と不審に(かつ不快に)思っていたけれど、これは、ヒトのしわざではない、ということに、ようやく、気がついた。たしか、新聞か、本を読んでいたときだった。おどろいて顔をあげると、ぬいぐるみと目が合った。(そうなの?)(そうだよ)。どんな生き物の卵なのかは知らないが、なぜこんなところにのこされたのか。卵の中から、何が出てきたのか。知る者は誰もいない。殻は中から割られたのだろうか。何かあたらしいものが、うまれたのだろうか。それにしても、なぜそんな些細なことを書きたいと思ったのか。ちいさな卵が落ちていただけなのに、いくつもの疑問によって、自分の内側がなんだかいきいきしてきたのが、おもしろいというか、ふしぎだった。しらないうちに、殻が割れて、あたらしいものがうまれる。あたらしいものになる。ヒトだって生き物だから、そういうことが、ないとはいえない。


2026年6月20日土曜日

拾い読み日記 366

 
 湿気のせいか、もしくは朝から二時間半も全力で卓球したせいか、身体がとてもだるい。うつ伏せでくったりして、このあいだみたアンドリュー・ワイエスの描いたしんだカラスのことをぼんやりかんがえていた。カラスのからだから抜け出したたましいは、ワイエスのことが、きっとたまらなくすきだろう、と思った。それから、本を手に取った。
 
「現代美術」として通用するルリユール。しかし、不必要な細工は一切したくない。思わず手に取りたくなるような、手に取って読まずにいられなくなるような、そんな本がつくりたい。(栃折久美子『装丁ノート』)

 そうだった。自分も、そんな本がつくりたかった。「時流」からはずれているような不安から、自分にとってたいせつなことや自分の資質を、見失いそうになっていたことに気付かされた。「本」の存在に、感謝した。
 それから、かんがえたこと。1981年に書かれた言葉を、2026年にブックデザインという問題になやむひとりの人間(わたし)が読んで、力を得た、ということは、ちょっとおこがましいけれども、自分の書いたことも、40年後の本に関わる誰かが読んで、ひとりではない、と思ったり、するかもしれない。できたら、そのひとを力づけたい。今、求められなくてもいいから、40年後のそのひとに向けて、文を綴り、本を作ってみたくなった。書物は手紙、という、その意味が、ようやく、わかりつつある、ということだろうか。

 『装丁ノート』は、1987年刊。活版印刷、糸かがり、見返し紙なし、別丁扉なし、と著者の書物観と美意識があらわれた、並製だけれど端正な、うつくしい本である。誠実であることはうつくしい。内容だけでなく、そのかたちによって伝わってくるものがあって、開きもよく組版もすっきりと読み心地がよいから、何度も読み返したくなる本だ。

2026年6月18日木曜日

拾い読み日記 365


 買い換えたあともめんどうで放ってあった約20年前のiMacと約10年前のiMacを、ようやく処分する気になり、初期化しようとしていて、10年前のほうはどうにかこうにか出来たのだが、20年前のほうは、なかなかに難しい。調べると、買ったときに添付されていたインストールDVDがないと初期化できないらしいのだが、もうそんなもの、とっくに捨ててしまった。いろいろと調べて、試して、しんから疲れた。もうハードディスクをドリルでぶっこわすしかないのか、という思いもよぎったが、そんな気概もない。

 眼鏡をはずして横になって、本棚の背の文字も見えないまま手をのばし、本を一冊抜き取ってみると、『日本の詩歌30 俳句集』(中公文庫)だった。てきとうに目についた句を読む。

 翅わつててんたう虫の飛びいづる   高野素十

 天道虫は、夏の季語。太陽に向かって飛んでいく、幸運を象徴する虫だという。ちいさな虫のちいさな翅のうごきを思い浮かべて、こころがすこし晴れて、またこの「めんどうくさい」機械に向かい合う気力が出てきた。

 それからしばらくして、自分自身に、驚いてしまった。毎日のように使っていた道具に対して、ドリルでぶっこわすなどと、暴力的な考えを持ったことが意外だった。この「物」への暴力性は、どこから来たのか。この機械を使ってなされる行為(読むことや書くことや調べることやデザインすること、そのほか)に、その暴力性はおよんでいないのか、かんがえる必要がある、と思った。

2026年6月15日月曜日

拾い読み日記 364


 あるデザインを見て怒りが湧く、というのはどういうことなのだろう。身近な者がネットで見たブックデザインに対して(同時に、装幀家に対して)怒っている。実物を見ていないのに。
 自分は、どうだろう。そうしたデザインを見て感じるのは、失望や落胆である。なぜそのようなデザインがなされるのか。なぜある者はそれに怒り、ある者は落胆するのか。そして、ある者は称賛するのか。ブックデザインについて、もっと深く考えなければ、と思う。そしてそれを、言葉にしなければと。

 戸田ツトムがブックデザインの制作過程について話している言葉を書き留めておきたい。「画面を見て、出力して、本に巻いて、手にとって、棚に置いて。そういう環境との関係を見ます」(「ユリイカ 総特集 戸田ツトム」、平倉圭によるインタビュー)。自分もそうしている。多くのデザイナーはそうしているだろう。件の装幀家はどうか知らないが、「環境との関係」は、あまり重視していないように見える。

 戸田ツトムがデザインしたジル・ドゥルーズ+クレール・パルネ『ディアローグ』(河出文庫)を見る。澤直哉「線の倫理のために 河出文庫における戸田ツトム」を読んだあとでは、デザインが、以前とはまったくちがって見える。横組みの近接した文字と文字は揃えられず、文字と写真も揃えられず、かたまっていない。縦組みの文字、右端に一行で組まれた著者名と訳者名は、固定されているようで、そうではない。横組みの文字との関係のせいか、写真の「わからなさ」のせいか、全体に、何か、見るものを、ざわつかせるものがある。しかし、それは不快なざわつきではない。「ひと」の気配のせいかもしれない。ものを見る視線のぶれ、目のゆらぎ。文字をそっと放つ手のうごき、指のふるえ。

 よく見ると、著者名の欧文「Gilles Deleuze/Claire Parnet」は、スミ100%ではない。わずかにアミ点が見え、文字のエッジがクリアではない。さらに、その左に置かれた欧文タイトル「Dialogues」は、それよりほんの少し、薄くなっている。それが、どういう意図でなされたのかはわからない。もしかしたら、使われている写真の濃度と関係があるのか。ひょっとして、左のほうから弱い光が射しているのか? わからない。しかし、その、濃度のちがいに気付いたときの感覚を、記憶しておきたい。ものごとのささやかなちがいを見出すという出来事を、おくられてきたものとして、受け取った。


2026年6月12日金曜日

拾い読み日記 363


 ベンヤミンについて書かれた本を読む。その合間に、ベンヤミンが書いた本を読む。古本で買った三島憲一『ベンヤミン 破壊・収集・記憶(現代思想の冒険者たち 第09巻)には、すこし書き込みがあって、「アクチュアリティ」と、余白に書かれているのが目にとまる。まだ幼さの残る、おそらくは大学生くらいの人が書いた文字に見える。
 もっとも興味のある部分「収集と引用」を読みたいが、そこを読んでしまうとほかのところは読めない気がして、最初から読んでいくことにする。

 雨が来る前、東の空をずっと見ていた。とても淡い水色の空にパールホワイトの絵の具で描いたような大きな雲が低いところに横たわっていて、このような儚い美しい光を放つ雲が存在することが信じられなくて、まぼろしのようだ、と思った。夢のような雲。というよりは、雲のような夢、といったほうがふさわしい。あの雲は、いったい、何だったのだろう。

 「形象の世界に浸る喜びとは、知に対する陰にこもった反抗心によって培われるものではなかろうか」、とベンヤミンは書いている。もしかしたら、思うように本が読めないのは、「形象」にこころを奪われすぎているから、かもしれない。

2026年6月8日月曜日

拾い読み日記 362


 くもり空。今日はあんまりひとに会いたくない。
しずかに、本を読んだり、ものを書いたりして過ごす。昼寝から覚めて、南Q太『ボールアンドチェイン』の5巻を読む。読むのは二度目だが、最後のページでは、またすこし、じいんとして泣いてしまう。
 けいとさんとあやさんの出逢いと再会は奇跡のようだが、こういうことは、現実にもあると思う。通りすがりのひとに、すくわれること。知らずに、すくっていたこと。思いがけなく、つながっていたこと。
 仕事をしながらボクシングに真剣に取り組むけいとさんにはげまされる。何かに真剣になることで、強くなれる。

 自分の卓球生活も転機を迎えている。たのしみながら少しずつ上手くなれたらいいなあと思っていたが、先日の市民大会でスカウト?され、クラブチームに入ることになりそうだ。50代は、レディース卓球の世界では、まだまだ若手なのだった。60代でもまだ若いほう。70代、80代のベテランプレイヤーにまじってたたかうことで、これからむかえる老年期を、あかるい気持ちですごせる気がする。

 自分を「生かす」ために、強くなりたいと、このところとみに思うようになった。ラリーと同じで、自分の持っている力を出すことができれば、相手もそれに応えてくれる。自分を生かすことが、他者を生かすことにつながる。