2026年8月11日火曜日

拾い読み日記 375


 「みた」ことについて書いていると、それが「あった」ことを巻きこんで、ころがり、ふくらんでいくので、とりあえず、ついていくことにした。記憶のスクリーンがカーテンに変貌して、ゆらゆら揺れはじめる。無数の襞からあらわれてきたものを、みなかったことにはできない。虚が実をよみがえらせ、実は虚のなかにあらたな生を見出した。そのことで虚も、うごきだしたようだった。そうなってみると、虚であるか実であるかは、もはや、どうでもいいことに思われた。

 朝からジャック・デリダ『絵葉書 Ⅰ』を読んでいた。頁をめくれば熱いうねりを感じる。わけもわからずに、首をつかまれ本のなかに投げ入れられたようになって読みつづける。

 書物を読み終えたとき、その書物の数々の声のひとつが君に、何か次のようなことを囁くと仮定してごらん、「おいで(アリーヴ)」と私が言い続けていたそのたびごとに、私はあなたのことを思っていたのです、でもそれは偶然に起きる(アリーヴ)事故のことでも、生じる(アリーヴ)来事のことでも、到着する(アリーヴ)あるいはしない手紙のことでもなくて、あなたのことなのです。あなたに(傍点)期待している何かを、ではなくて(……)ただただあなたを、到来するあなた、到来するものであるあなた、私に到来するものであるあなた、到来からだけ私へと到来するものであるあなたを、思っていたのです。

 顔をあげて、息をついた。やわらかな頰のようなしろい紙の肌に、自分のてのひらを重ねて、幾度かなでてみる。きっと、行間からあふれでるものを、とどめようとして。

2026年8月10日月曜日

Gという男


 傷心のGという男をはげますために、ひたすら、あたまや背中や頰をなでていた。彼はなにかをうしなったらしかった。とりかえのきかないなにか。必要としていただれか。その喪失をつかのまでもわすれるために、彼はひとの肌をもとめていた。うつくしく繊細だが、どこかおろかなところのある男で、もう中年といっていい年齢なのに、まるで幼児のように、ひととの距離感がはかれないあやうさを持っていた。そしてそのあやうさが、Gの魅力のひとつでもあった。

 彼がもとめていたのは、わたしの肌、手のひらや指だけでなく、声の肌や、言葉の肌でもあるのだった。だから、彼のからだをさすりながら、声をかけることもわすれなかった。そんなふうに自分のすべてをさしだすことに、どこか、陶酔するような感覚があった。いつまでも、こうしていてもいい、と思った。もしかしたら、彼のうつくしさと繊細さに、ひかれていたのかもしれない。

 だいじなものをみせてあげる、といわれてドアの外で待っていると、Gが持ってきたのは、犬のぬいぐるみだった。ショコラとかなにか、あまったるい名前がついていた。よくみると、ぬいぐるみのあたまが人形になっている。つぶらなひとみとつるんとした肌を持つ、可愛らしいおんなの人形で、それをみたとき、これか、と思った。これだったのか。彼に起こるすべてのもめごとの理由を目の前にして、さとった。わたしは彼をはげましていたのではなく、あまやかしていただけだった。

 それは、あまり、ひとにみせないほうがいいと思う、とちいさな声でつたえて、路面電車に乗って、家に帰った。つぎつぎあらわれては消えてゆく景色をながめながら、Gはこれからも、ひとをはげしくすきになったり、とつぜんきらいになったりするのだろうな、とぼんやりかんがえていた。

2026年8月8日土曜日

本を開く感じで


 明け方の空に、真珠色の雲がうかんでいた。あわい桃色がまじっていて、まだ、夢のなかにいるようだった。なにかがあった、というおぼろげな記憶しかない夢のなかに。蟬の声と鳥の声を、しばらく聞く。空を横切る鳥の影が見えて、ある男のくぐもった声が、あたまをよぎった。なあ、空飛ぶのってどんな気持ちだ? 「動物と話す感じで人に話しかける男」が気になって、昨日、ついみてしまった動画のなかで耳にした台詞だった。
 人と話す感じで動物に話しかけることはあるが、逆は、なかった。人と話す感じでぬいぐるみに話しかけることはあるし、ぬいぐるみと話す感じで人に話しかけることもある。本に話しかけることはないが、人に話しかける感じで本を開くことはあるし、本を開く感じで人に話しかけることも、きっとある。

 どんな本がすき? たまに人に聞くけれど、聞く前から、あらかた答えはわかる気がする。人は愛する本に、くりかえし読む言葉に似てくるものだ。顔に書いてある。顔が書いている。以前は、そう思っていた。しかし近ごろは、「顔が書いていない」人も多いみたいだ。
 だから、わかった気にならないで、気になる人には、たずねてみようと思う。ねえ、どんな本がすき? 本を読むのって、どんな気持ち?

2026年8月3日月曜日

あおむけの蟬


 ドアを開けて外に出ると、階段のまんなかであおむけになっている蟬がいた。「あんた……なんでこんなところで……」。つい声をかけてしまう。あとからかんがえると、蟬に「あんた」はへんだったし、なんだか、よっぱらって家にたどり着けずに階段で寝てしまった人に対する口調みたいだった。誰かに踏まれないように、羽をつまんで端に移動させようとすると、びびびびといって動き出し、飛び去ったので、うわあっ!と声が出た。しばらくのあいだ、動悸が止まらなかった。
 「わたしたちが身体を持っているのは、〈いまここ〉によりいっそう付着するためにではなく、場を変え、時間を変え、空間を変え、形態を変え、物質を変えることができるためである。」(エマヌエーレ・コッチャ『メタモルフォーゼの哲学』) ねむっていた蟬は、めざめて、どこへ向かったのか。やみくもで、ふらふらしていて、まるで、あれは、自分をみるようだった。よわよわしいけれど、たしかにそれは、ひとつの生命の力であって、その変化のエネルギーが、指のさきから一気にながれこんできたせいで、まだ、どきどきしている。

2026年7月31日金曜日

拾い読み日記 374


 本を読んでいて、何かを感じる。思う。思い出す。かんがえる。読んでいることと読んでいないことの絶え間ないせめぎ合い、それが本を読むということなのか、「読んでいない」がいつも「読んでいる」を圧倒してしまうのは、感覚が、つよすぎるからだろうか。
 
 ラルフ・ジェームズ・サヴァリーズ『嗅ぐ文学、動く言葉、感じる読書 自閉症者と小説を読む』を読んでいる。「自閉症的読み方」、ゆっくりと、濃く、ふかく読むこと。言葉に憑かれたり、言葉にとらわれたりすることを、おそれなくて、いいのだと思った。

 はやく読めなくていい。たくさんの本を読めなくてもいい。感覚にのみこまれて、何を読んでいるのかわからなくなってもいい。感じたことがすべて、いずれ、「本」を豊かにすることにつながっていく。妄想かもしれないが、そんなことを、寝そべって本を読んでいて、すこしねむって意識がもどったときに、思った。

 黄昏どき、一羽の白い鳥が、北のほうに向かって飛んでいった。川に来ていたシラサギだろうか。あの鳥のかたち、はばたきかた、ゆったりしたリズム。それはやわらかな啓示のように、とつぜん胸におりてきて、このことを、だれかにつたえなければ、と思ったのだった。

2026年7月25日土曜日

拾い読み日記 373


 まちがった方向に進んでいたらどうしようかと、ときどき不安になりながら、作業を進める。まちがっていたら、指摘してもらえばいいのだから、今は、先に進むしかない。

 このところ、ほとんど本が読めなくて、淋しい。しんそこ、たよりない。だから今日は、本棚に手をのばして、『クレーの日記』を、少しだけ読んだ。
 
 記録され分類されたものは、生気を失う。いつまでもこんな環境に身をおくことは不可能だ。こんなことでは、自分を失ってしまう。
 いつか、何もない場所に跪き、不在に深く心を奪われなければならない。

2026年7月24日金曜日

わたしのオバケ


 形象であたまがいっぱいになる。さまざまな色やかたちや線が、それらがつくりだすイメージが、つかのまくみあわさって、はなれて、うかんで、ながれていく。またすぐにやってくる。うごいて、おどって、うたっている。たわむれている。それを、ずっとみている。きいている。ついていこうとする。ふれようとしてみる。つかれる。なにも、きめられない。ことばはまったくあたまにはいってこない。それでもことばとはなれたくない。それらはすべて、ことばによってあつまってきた形象だからだ。ことばのようで、ことばでないもの。それはわたしを、ことばの外へ、つれだしてくれる。ことばによるかんがえの外へ。
 
 「絵は描く人それぞれのオバケ」(清宮質文)。わたしのオバケは、このあたまのなかの漂流状態から、ぶじに、ぬけだすことができるだろうか。