午前2時、そのあと5時に目が覚めて、6時に起きる。5時に起きたときベランダに出てみると、空気がつめたくて、見上げた空に、今にも消えていきそうな薄片がうかんでいた。欠けてゆく弓張月だった。その下には淡い灰白の雲がたなびいて、さらにその下には、暗いラベンダー色の雲が横たわっていた。欅の木のむこうから鳥たちの群れがやってきて、北に向かって飛び去った。それが一昨日のこと。今朝も月をさがしたが、綿雲が空一面ひろがっていて、見えなかった。灰色の濃淡の奥にひそむ、まぼろしのようにかすかな白。
2026年4月12日日曜日
梅の木に梅の実が生る
梅の木に梅の実が生る。なにごとの不思議なけれど、という言葉がよぎり、誰がいったかすぐに確かめたくなるのは、現代人の(わたしの)やまいなのだろうな、と思いつつ調べ(薔薇の木に薔薇の花、だった)、そのあとでは、梅の木に梅の実が生る「不思議」を感じているのは自分だけではないから、ひとりで木を見ていても、誰かに相槌を打つような気分に、なったりもする。
桜の木のそばを通ると、ぱら、ぱら、と音がして、桜蕊が降ってくる。拾い上げて、ながめる。木の根元にはたんぽぽが咲いていて、綿毛になったものもあり、それに触れてみたいと思うけれど、触れたらきっと壊すだろうから、じっと見るだけで通りすぎる。
それから、迷子のようなしゃぼん玉をひとつ、見かけた。木にふらふらと吸い寄せられるように接近して、舞いあがったところで見失った。
2026年4月9日木曜日
拾い読み日記 358
欅の梢が風にのって踊るように揺れている。春の欅のいきおいはおどろくほどで、このあいだ芽吹いたと思ったら、もう新緑が茂っている。それがゆうらゆうらといつまでも揺れているので、目が離せない。猫じゃらしを見つめる猫は、こんな気持ちなのだろうか。まえあしで触れられないから、書いているのかもしれない。どうにかして、この手が、あのしなやかな枝のうごきに、触れられないものかと思う。
一年ほど前に手に入れてほとんど読めていなかった『市村弘正著作集 下巻』を、読みはじめた。
再開すること。いつでも、どこからでも再開しうること。それが読むという行為がもちうる、おそらく最大の特性である。物質化された書物という形態を想ってみればいい。どの頁のどの箇所からでも自在に読みなおすことができるだけではない。一覧し全体に目を配り、かつて中断した頁や躓いた箇所から新たに読むことができる。本そのものの重量を手に受けながら全体を一覧しつつ再読すること、この触覚的な受容はまだ書物という形態がもちうる特権であり、「読み返す」ということの物質的な基礎を提供しつづけている。(「読むという生き方」より「五 再開するために」)
仕事のあと、窓の外が青から濃紺に変わるまでのあいだの、たった13頁の読書ではあったが、書物を手にして、深く息を吸い、吐く時間を持てたことが、うれしかった。こういうふうに、本を読んできた人がいる、ということ。いつでも、どこからでも、ふたたび、読むことができるということ。「「読む」という小さな梃子」。
2026年4月7日火曜日
拾い読み日記 357
朝、うっかり手がすべって「パリ散歩」の投稿を消してしまったので、書いたことを思い出して投稿しなおす。どうしてだか、噓を書いているような気がしたが、実際には、噓を書いているわけではない。
このところ、澤直哉『架空線』の一節をよく思い出す。「私たちの心が手と協働して物を作るのですから、性根が腐っている者に、まともなものを作れるわけがない。」
読んだ当初は、すごいことを書く、と震えあがったが、今では、この言葉はいましめであり、はげましでもある、と感じている。自分の性根はいくぶんねじれている気はするが、腐ってはいない。と思う。しかし、もっと本をふかく読まなければ、根が、乾いてしまいそうだ。
風がびゅうびゅう吹いて、桜の花びらが、窓の外で舞っていた。
パリ散歩
高遠弘美さんの著書『パリ散歩 我もまたアルカディアにありき』(法政大学出版局)を装訂しました。二年間のパリ滞在の日々を、ともに歩いて辿るような本です。手にした人の心に、やわらかな風が吹いてくるような、そういう装訂になっていたらと思います。
プルーストの『楽しみと日々』の初版本をお借りして、マドレーヌ・ルメールの挿絵を装画としました。
2024年刊行の高遠さんの著書『楽しみと日々 壺中天書架記』と同じく、編集は、法政大学出版局の赤羽健さんです。
2026年3月29日日曜日
花の下
桜を見に、近所に出かける。大勢のひとたちが集まっていた。ステージで踊るなんとかレンジャーによろこぶ子どもたちの姿を見ながらビールをのみ、そのあとは、麦屋節(富山民謡)。民謡を、年をとるにつれ、好きになる。うたのなかに生きている、むかしのひとびとに会えるから。
すれちがう人の声を拾った。「ひとりでどこにでもいこうとしないで」。きつい口調で母親が子どもに言い聞かせていた。顔もしらない子どもに、こころのなかで話しかける。あっというまに、ひとりでどこにでもいける日がくるよと。
それから、桜なんてどうでもいい、とばかりに野球をするひとたちを見た。バッターが打った球は一二塁間に転がり、ランナーもバッターもアウトになる。あんなきれいなゲッツー、久しぶりに見たわ。一塁ベースコーチの声にうなずきながら、家に帰る。
それからベランダに椅子を出して、また桜を見た。思い出すこと、思い出すひとが多すぎて、感情をおさえられない。ひとりで花をみていると、毎年、そうなる。ひとりでいるときにしか、そうならない。それはようするに、「わたし」と桜がつくりだす、つかのまの映画のようなものなのか? 友だちがくれたはがきを読みかえす。
2026年3月28日土曜日
拾い読み日記 356
満開の桜の気配を感じながら、家にいた。隣家のアンテナで、澄んだのびやかな声を持つシジュウカラが囀りはじめた。去年の6月に来た鳥の声に似ていた。むこうから日が射して、黒いちいさな影が囀りのたびにわずかに動く。おだやかな春の空気にくっきりとした輪郭をあたえるような声だった。
ある本の扉のレイアウトをして、別の本の校正刷りを読み進め、出来上がったばかりの本をめくり、なにごとかを書きつけ、今日も気まぐれな読書はまったくできずに日が暮れていく。それでも、〈本〉にたしかに関われている、自分の手が〈本〉に触れている、というよろこびが、ときどき胸にきざす。
手元にあるのは、読むためではなく、構成やレイアウトがどうなっているのか確認するための本で、ひさしぶりに書棚から抜き出してみると、背のピンクが吃驚するほど抜けていた。めくって、読んでみる。
歴史はひとつの世界であり、だからこそ人は本のなかに入っていけるのだ。最後のシャンディは、自分の本は散歩できるもうひとつの空間だと考えている。(エンリーケ・ビラ=マタス『ポータブル文学小史』)
登録:
コメント (Atom)
