2026年9月7日月曜日

ながい一日


 昨日の朝、衰弱した蟬が、6本の細いあしをゆっくりゆっくりうごかして、すこしずつ前にすすんでいるようすを、しゃがんで見ていた。せつないものを感じたが、すぐには目をそらすことができない。おわりにむかういきものの、おごそかさと繊細さとつよさが、そこにはあった。

 手塚治虫『ながい窖』を再読する。最後まで読む。主人公の叫びが胸にひびいてなかなか消えない。「わしは朝鮮人だ!それがなぜわるい!!」。卑劣漢への怒りから、(ようやく)声を上げる彼。この声を、ながい窖からの脱出、とする読みかたもある。わたしも、そう読みたい気持ちがある。彼の言葉は、目の前の他者だけでなく、彼自身にも届いて、日本人として生きてきた彼のアイデンティティは、これからますますゆらいでいくことになるのだろう。部屋に掛かる額のガラスに、反転した彼がうつっている。オープンエンディング、と林晟一さんがいっていたが、このように終わるからこそ、読者ひとりひとりのなかで、それぞれのかたちで、物語はつづいていく。みずからのアイデンティティに悩みくるしむすべての人への、はげましにもなりうる。じぶんはじぶんでいい、ゆらいでいてもいい、それがなぜわるいことがあるだろう。

 「他人をもっともよく感動させるものは、他人に対するみずからの真摯な関心であると信じてきた」(エドワード・ヤン)という言葉に、はっとした。いや、ひやっとした。水を浴びせられたみたいに。

 朝から夜中まで気をもむできごとがたくさんあって、昨日は、一日が、とてもながかった。心配して、よく眠れなかった。睡眠不足の今朝、ごみを捨てに外にでたら、まだ同じところに昨日の蟬がいた。じっとしている。思いきって、土のあるところにうつしてみたら、そこでやすめばいいのに、またゆっくり歩き出そうとする。細いあしで地面をつかんで、じぶんのちからで、じぶんのリズムで、どこかへ向かおうとしている。みずからにもわからないどこかへ。

2026年9月5日土曜日

拾い読み日記 378


 エクリチュールとは、我々の主体が逃げ去ってしまう、あの中性的なもの、混成的なもの、間接的なものであり、書いている肉体の自己同一性そのものをはじめとして、あらゆる自己同一性がそこでは失われることになる、黒くて白いものなのである。(ロラン・バルト「作者の死」)

 この「黒くて白いもの」が気になって、しかたがない。「黒くて白いもの」に惑わされて、こんなにもたやすく、ものを書いてしまっているのだろうか。

 夏の終わり、秋のはじまり。昨夜、また階段のまんなかであおむけになっている蟬を見かけた。これはどうみてもしんでいる、と判断して、端に移動させようと羽をつまんだら、生きていて、飛んでいった。こないだの蟬と同じような軌道で。さすがに二度目なので、声は出なかった。しかし、心臓にはわるかった。この場所でねるのが、蟬のあいだで、はやっているのか。あるいは、触れるから、よみがえるのか。

2026年9月2日水曜日

洋書まつり 2026




 今年も洋書まつりのポスターをデザインしました。今年は、10月16日(金)、17日(土)開催です。東京古書会館地下ホールにて。おもしろそうな本がたくさんあると思いますので、ぜひ足をお運びください。わたしもたのしみにしています。

 

2026年8月31日月曜日

拾い読み日記 377


 8月31日。曇天の下、高いところから人気のないプールを見守るひとのすがたが目にとまる。その日焼けしてひきしまったうつくしい肉体を、終わろうとしている夏が、もてあましているようだった。
 すこし日が出てあかるくなってから、泳ぎにいった。水がつめたかった。7月1日のプール開きの日も、こんなふうに水はつめたかった。

 水にもぐった瞬間は、いつでも、アナーキーな気分になる。どうなってもいい、と思う。水につけるとむくむくふくらむ紙の花みたいに、たのしさがわあっとひろがる。今日は泳いでいるときに、からだがさかなのようにしなる感覚があって、水にのって、いつまでも泳げる気がした。からだが、水のなかで、水のリズムでうごいていた。

 家に帰ってすこしねむってから、本を読んだ。「そしてわたしの主要な闘いは、「シニフィアン」の勝利のため「シニフィアン」の崇高なるエロチスム、その衝動と解放のためなのです」。ロラン・バルトのように、ロラン・バルトを読むことができたら、と思う。水のなかで、水のように泳ぐこと。


*「ロラン・バルトとの対話」(蓮實重彦『批評あるいは仮死の祭典』せりか書房)

2026年8月30日日曜日

首都




 オーストリアの作家、ローベルト・メナッセの『首都』(福間具子訳、法政大学出版局刊)の装訂をしました。本について、くわしくはこちらをごらんください。9月3日発売予定です。この小説のことや、装訂のことは、あらためて、書く予定です。編集は、『パリ散歩』『ながい窖』と同じく、法政大学出版局の赤羽健さんです。

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 装訂した本の刊行記念イベントが開催されますのでお知らせします。


・手塚治虫『ながい窖』(法政大学出版局)復刻記念トークイベント
「1970年の手塚治虫——『ながい窖』が描いた日本社会」

本浜秀彦×晟一  司会進行:赤羽健

日時:9月6日(日)17:00〜18:30
会場:西荻のことビル2F 西荻シネマ準備室(今野書店主催)

会場参加:2200円 配信参加:1650円

詳細はこちら

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・松井裕美『掌の美術論』刊行記念トークイベント
「美術と魔術——みる、さわる、ずれる」

松井裕美×井奥陽子

日時:9月6日(日)15:00〜16:30
会場:本と珈琲の店 UNITÉ(三鷹)

会場参加:1980円 配信参加:1320円

詳細はこちら 


2026年8月26日水曜日

幻化


 その絵をみたあとでは、にんげんの世界を遠く感じた。とても暑い日だった。気持ちをふるいたたせて、美術館にいった。慣れない場所につかれはて、帰りの電車で空席をみつけて腰をおろし、目を閉じて、まなうらにのこされた絵を、ずっとみていた。ちいさな子が目の前で大声をだしても、どこか遠いところから聞こえるようで、ちっともうるさく感じなかった。

 山口華楊「幻化」では、2匹の狐が輪をえがくように跳ねて、あそんでいる。からだが、ぼうと白くひかっている。なずなや野罌粟や、さまざまな草花がやわらかく茂っている。しっとりと湿っている。まぼろしが、たしかに、目のまえに「ある」こと、絵という「もの」になって、そこにあることに、おどろき、言葉をうしなった。止められた時のなかで、永遠にまわりつづけるいきものたちは、みるものを、その世界へまねいて、帰そうとしない。

 帰り道、空を見上げて、夕暮れの雲の色や、月のひかりに、あそぶ狐のまぼろしをみた。そこ(ここ)にある、はるかなものたちのすべてに、その絵は似ている。それは、遠いむかしから、ひとびとがみてきたものたちだから、だから、絵のまえに立ったとき、この時を待っていたような、絵に待たれていたような、そんなふしぎなあたたかさにつつまれたのかもしれなかった。

2026年8月23日日曜日

海辺の一日


 というのも、体験された出来事は有限であり、少なくとも体験というひとつの領域に包みこまれているのに対し、追想される出来事は、その前後に起こった一切の事柄に対する鍵にほかならないがゆえに、限界をもたないのだ。(ヴァルター・ベンヤミン「プルーストのイメージについて」)

 追想される出来事の無限性。エドワード・ヤン「海辺の一日」に、ここまでこころを囚われるのはどうしてだろうかと、ふいによみがえるワンシーンとたわむれるように日を過ごしながら、かんがえるともなくかんがえつづけていて、偶然よんだ言葉を手がかりに、この状態から抜け出してみたいと思った。

 追想という行為の終わりのなさ。彼女は、その女性と別れてから13年のあいだに起きた出来事を想起して、語ることで、それらと、ふたたび、出会いたかったのかもしれない。彼女の兄は最期にいった。「僕は心からこの世界ともう一度知り合いたい」。

 「それから?」とうながすひとのまなざしの優美なこと。口をつぐんで遠くをみているようなひとの睫毛が、かすかに震えていたこと。

 回想のなかの回想のシーンがはじまったとき、からだにちいさなしびれがはしり、わずかにこみあげてくるものがあったが、自分でもその意味がわからなかった。少女に愛おしさのようなものを感じた。彼女がのちに味わう痛みを知っているから? あるいは、追想の果てしなさに、その迷宮性に、ただ、打ちのめされていただけのようにも思える。

 映画をみおえて、彼女たちが生きた時間と、自分が生きた時間を重ねて、終わりのない追想の時間がはじまる。あの日は、映画をみたあと、にぎやかな中華料理屋で、Mと興奮して話しつづけ、ふたりとも、のみすぎ、たべすぎた。隣では若い男女が大勢で飲み食いしていて、うるさいので、わたしたちは大声で話しあった。それら前後に起こったこともふくめて、のちの日に、さまざまに、くりかえし、「海辺の一日」を思い出すことになるだろう。