その絵をみたあとでは、にんげんの世界を遠く感じた。とても暑い日だった。気持ちをふるいたたせて、美術館にいった。慣れない場所につかれはて、帰りの電車で空席をみつけて腰をおろし、目を閉じて、まなうらにのこされた絵を、ずっとみていた。ちいさな子が目の前で大声をだしても、どこか遠いところから聞こえるようで、ちっともうるさく感じなかった。
山口華楊「幻化」では、2匹の狐が輪をえがくように跳ねて、あそんでいる。からだが、ぼうと白くひかっている。なずなや野罌粟や、さまざまな草花がやわらかく茂っている。しっとりと湿っている。まぼろしが、たしかに、目のまえに「ある」こと、絵という「もの」になって、そこにあることに、おどろき、言葉をうしなった。止められた時のなかで、永遠にまわりつづけるいきものたちは、みるものを、その世界へまねいて、帰そうとしない。
夕暮れの雲の色や、月のひかりに、あそぶ狐のまぼろしをみた。そこ(ここ)にある、はるかなものたちのすべてに、その絵は似ている。それは、遠いむかしから、ひとびとがみてきたものたちだから、だから、絵のまえに立ったとき、待っていたような、待たれていたような、そんなふしぎなあたたかさにつつまれたのかもしれなかった。
