2026年3月19日木曜日

拾い読み日記 354

 
 ソル・ルウィット展「オープン・ストラクチャー」をみた。開かれた構造/作品、開かれたアイデアにふれることは、ここちよいことだった。緻密に設計され、完璧にレイアウトされている作品も、手で制作されているから、揺れやずれやぶれがあって、そこに、「温度」や、「風」を感じる。息ぐるしくない。その開放感は、ルウィットの、このような言葉にもあらわれているだろう。「アイデアは一度でも表されたなら、すべての人の共有財産になると信じている」。これらの作品=アイデアは、すでに、これをみた、自分のものでもある、ということ。眺めのよい広場にいる気分になって、見て、歩いた。

 「一万本のランダムな直線、長さ約4インチ(10㎝)、10フィート(300㎝)四方の枠内に描かれる」ウォール・ドローイングの前に立つ。見上げると、線はあたまから降りそそぐようだった。雨や雪に降られることはあるが、線に降られたのははじめてで、陶然とする。

 「エヴァ・ヘスに宛てた手紙」を、何度も読んだ。

 あなたを信頼している。たとえあなたが自分で自分を苦しめているとしても、あなたの仕事はとてもいい。いっそ「ひどい」仕事——思いつくだけの最悪な仕事をして、どうなるか確かめてみればいい。大事なのは肩の力を抜くこと。全部どうなっても構わない——世界に対して責任を背負うことはない——責任を背負うべきは、ただ自分の仕事だけだ——だから、そう「する」こと。(展示図録より)

 無数の、垂直な、まっすぐでない線が描かれた壁の前では、とりとめがない、とほうもない、と思った。はてしないものを目の前にして、言葉をなくした。エヴァ・ヘスの早逝を受けて構想されたというあの作品の無数の線が、このような手紙を読んだあとでは、エヴァ・ヘスへの、言葉にならない、おわりもない、追悼の文字のつらなりにも感じられる。

2026年3月17日火曜日

拾い読み日記 353


 ふつかよい。あたまがおもたい。昨夜ぬぎすてた服のかたまりから居酒屋のにおいがして、げんなりする。たのしかった。しかし、またよっぱらって乱暴狼藉をはたらいた、という思いで、おちこむ。のみすぎないようにしよう、と何度もじぶんにいいきかせながら会にのぞんだのに、のみすぎた。「あなた、山賊みたいに笑いますね」。のみすぎた翌日にあたまをよぎる言葉だが、どの本で読んだのか、思い出せない。

 このところ、しごとばかりして、本のことばかりかんがえて、閉じこもっていた。昨日、バスから降りて、駅の階段を上るとき、こんなことでいいのだろうか、と思った。〈生〉をたのしんでいるのだろうかと。そのとき聞いていた音楽のせいかもしれなかった。森の奥から聞こえてくるような、ひそやかな響きを持つその声が、耳から身体にはいってきて、みずからの〈生〉をかえりみるように、うながした。

 流浪の終点は死である。ボストンバッグを一つ持って出掛ける。自分の部屋から出て行く。ベビーダンスや本棚から離れること、持っているものから離れるのだ。それから家族や友人や貯金通帳とも離れるのである。なんと素晴らしいことだろう、裸で生れてきたのに生きているうちにいろんなものが纏いついてしまう。それは、ダニだ。持ち物、家族、友人、ダニだよ、流浪はそのダニから離れることが出来るのである。(深沢七郎『書かなければよかったのに日記』中公文庫)

 「ダニ」が3回出てくるが、2回目の「ダニだよ」が、なんだかすごいと思った。この語にまとわりつかれてしまったのを振りはらおうとして、ここにうつす。


2026年3月13日金曜日

拾い読み日記 352


 しょっちゅうあたまがいっぱいになるので、しずめたくて、瞑想しよう、と寝床にはいれば(さむいから)、たいてい、ねてしまう。それで、いくらか、すっきりする。

 なにかをゼロからかんがえるときは、すっきりしていたほうがいい。なにもない、ひとつの空間としてのじぶんをイメージして、しずかになって、そこに、あらわれてくるものを待つ。あらわれたら、こわさないように、そっとつかまえる。よくみてみる。流れにまかせて、かたちにする。それをととのえる。つよいちからはいらない。

 倉数茂『私自身であろうとする衝動』の宮沢賢治論にみちびかれて、宮沢賢治の手紙を読んでいた。

 どうかもう私の名前などは土をかけて、きれいに風を吹かせて、せいせいした場処で、お互ひ考へたり書いたりしようではありませんか。こんな世の中に心象スケッチなんといふものを、大衆めあてで決して書いてゐる次第ではありません。全くさびしくてたまらず、美しいものがほしくてたまらず、ただ幾人かの完全な同感者から「あれはさうですね。」といふやうなことを、ぽつんと云はれる位がまづのぞみといふところです。(母木光宛、1932.6.19/『宮沢賢治全集9』ちくま文庫)

2026年3月8日日曜日

拾い読み日記 351


  向かいあってみると、その人の変化を感じた。20年前より、目のかがやきが増していて、まぶしかった。この人のなかにある、澄み切って、あかるいものがつたわってきた。「あこがれ」とやわらかなこころをうしなっていないのだ、と思って、うれしかった。年をとって、かたくなになっていく、そのことを、おそれている。

 ひさしぶりに、宇佐見英治さんの言葉を読みたい、と思い、『一茎有情』(志村ふくみさんとの共著)を手にした。

 わたしは知的な芸術家が好きです。しかし苦しむことを知っている本当に知的な芸術家は、常にsimpleであると信じています。辛抱強く、simpleで、敬虔であること。それはすぐれた漁師、よい百姓、とりわけ職人の持っている美徳です。芸術は人びとに語りかけるとともに、一本の草、一つの小石、空に浮ぶ雲にも語りかける仕事です。simpleでなければ、どうして草木に語りかけうるでしょう。

 自分をせかすものや、しばるものからはなれようとして、「ここ」にきた。それは、望むと望まざるとにかかわらず、関係のなかにいきる人間としては、何度も思い出す必要が、あることなのだった。

2026年3月5日木曜日

拾い読み日記 350


 部屋に突然、大蛇があらわれる夢をみた。蛇のあたまは人のあたまくらいの大きさだった。逃げようとしてもからだが動かず、蛇がちかづいてきて、もう数センチのところで肌と肌がふれあってしまう、どうしよう、というところで目が覚めた。
 友人たちといっしょにバスにのってどこかに出かける、たのしい夢もみたはずなのだが、うまく思い出せない。誰かの世話を焼いていた気がする。現実では、ほとんどそういうことはしない。どちらかといえば、つめたい人間だと思う。

 ちょっと急なしごとがふたつ重なり、ほとんど本は読めないが、すこし前に読んだ岩崎力『ヴァルボワまで』、「二つの読書論」がよかった。プルーストとラルボー、二人の、二つの読書論。とりわけ末尾の文章には、力づけられる。そして、泣きたいような気持ちになる。

 《また逢う日まで》——彼が希求したのは誰との出会いだったのであろうか? 『罰せられざる悪徳・読書』のなかの言葉を引いて言えば、私にはそれが「世俗の権威をいっさいもたず、数からみてとるに足らぬ選良、さまざまな言語領域に分散させられて小さなグループを形作っているだけの哀れな選良」、しかしながら国籍の相違、言語の相違を超えて相互に理解しあえる選良との出会いであったと思われてならない。

 何冊か持っていたはずのラルボーは手放してしまったが、またきっと、出会える。人も、本も、幾度わかれても、ほんとうにはわかれられるものではないのだから。

2026年2月24日火曜日

拾い読み日記 349

 
 このところ、すこし言葉に関して過敏になっているのか、見るだけは見ていたXに流れてきたある作家のらんぼうな言葉を読んで、もう無理だ、と思い、アカウントを削除した。そして、「タイムライン」から解放された。

 あのような、無思慮かつ威圧的な人間の書いた本が広く読まれていることを、どう考えたらいいのか。くらい気持ちになった。このことは、現在の出版状況や政治状況とも、無縁ではないと思われる。アテンション・エコノミーという怪物がのさばっている。そこから、どう身を守るのか。
 もう無理だ、と思ったのは、自分が、その人の、唐突にも思える攻撃的な言葉に、何が起きたのか、知りたい、といっしゅん思ってしまったからだった。こころと言葉の危機を感じた。

 私は、自分はひとりぼっちでいるほうが、いい人間になれることを考えて、おかしくも思ったが、それは、うそいつわりのない事実であった。元来、不器用な人間が、すばやいひとたちについてゆこうとすると、納得もしないうちに物事を切りあげ、何かを口にし、先へ歩いていかなければならない。いつも中途半端なところで、粗雑に生きていかなければならない。(石井桃子「ひとり旅」/『石井桃子集7』)
 
 ブログは、反応がないから、続けられる。SNS的には、隠居、みたいな。偏屈とか変人とかいわれてもいい、とMにいったら、彼は、だいじょうぶ、俺のほうが偏屈だから、といった。

2026年2月22日日曜日

拾い読み日記 348

 
 本を数冊買いもとめた日の翌朝は落ちつかない。やってきたばかりの本や、このあいだやってきた本や、ずっとあった本を、気の向くままにぱらぱらめくり拾い読んでいると、それぞれの本の言葉にひかれ、ふかく共鳴するような感覚をおぼえる。さまざまな音が鳴っている。もっと読みたい、読まなければ。そうした思いも、その音によって、みだされてしまう。

 ドアを開けて外に出る。強い風にのって走っていく枯れ葉たちとすれちがった。もう退散します、といったような風情でどこかへ去っていった。橋のところで、かすかに、よい匂いがした。帰りに、また風が、その匂いをはこんできたので、花をさがした。どこにいる? すぐには見つからず、左右を見まわしながら、歩いて、見つけた、低い木の、ちいさな花。まだはんぶん以上は、蕾だった。沈丁花の匂いを、どうあらわしたらよいのか、わからない。よい匂い。きよらかな匂い。おくゆかしい匂い。うつくしい匂い。

 一昨日の夜中、足が二度つった。しぬかと思うほど痛くて、今もまだすこし痛い。昨夜の卓球でも、足があまり動かなかった。動画を撮りたいというひとに協力して、その動画を送ってもらって見ると、角度のせいか、体型のせいか、前傾姿勢のせいか、どこか、熊っぽかった。体は重そうだが、ここぞというときに相手に一撃をくらわせるところとか(比較的フォアハンドが強い)。球技をおぼえた熊。もっとかろやかにプレーしているつもりだったのに。

 午後、バシュラールをときどき繙きつつ、針と糸を使った制作をすすめる。

 書かれた夢想を知るもの、ペンの流れとともに生きること、十全に生きることを知るものにとって、現実世界は何と遠いものだろう。いわねばならなかったことが、思わず書きたくなるものによってたちまちとってかわられるので、書かれる言語が自分自身の世界を創造することがよくわかる。(G・バシュラール『空と夢』宇佐見英治訳)
 
 軽くなるためには、書かなければならない。「動体(モビール)」になるために、書くこと、夢をみること。