また、本をつくっている。かつて書いた文を読みかえす。切りとる。ハコにうつす。だんだん、めまいがしてくる。「わたし」が「わたし」を追いかけてつかまえるみたいなことか、と思いいたる。「わたし」を追う「わたし」を追いかけようとする「わたし」もあらわれ、複数の「わたし」がぐるぐるまわり、いつまでも「わたし」たちは追い追われ、いまどの「わたし」が「わたし」であるのか、わからなくなってめまいがする。みんなよろよろしはじめる。それは、自作自演のゾンビ映画のようなものなのか。
めまいがして本が読めないが、棚から出してあったクルト・シュヴィッタース展の図録をなんとなく開いて作品をじっとみていたら、目がよろこぶ感じがあった。目だけではない、お腹の奥のほうからうれしくなる感じ。
「戦争は終わったが, 世界は瓦礫の廃墟となった. 私はその断片を集め, 新しい世界をつくりだしたい.」* どのような状況にあっても自分のやりかたで自分の作りたいものを作りつづけたシュヴィッタース。芸術のための芸術を志向し「政治嫌い」だった彼の著書は皮肉にも焚書で焼かれ、ライフワークだった「メルツ建築」も空襲で破壊されたという。さまざまな不運や事故や病気に屈せず、最後まで力を振り絞って制作を続けたと息子のエルンスト・シュヴィッタースは書いている。
「芸術は不思議なものだ. それは芸術家を完全に使い果たしてしまう.」というクルト・シュヴィッタースの言葉が、胸にしみついた。「芸術」をほかの営為に置き換えることも可能だろう。このような境地にいたることができるかどうかはわからない。だいじなことは、「それ」を不思議なものだと思いつづけることと、衝きうごかされつづけることではないだろうか。
*「クルト・シュヴィッタース——メルツの父、わが父」エルンスト・シュヴィッタース(『シュヴィッタース展図録』西武美術館、1983)
