うしろを向いて、ぱっと振りかえったらわらいますよ、とKくんがいうので、うしろを向いて、いきおいよく振りかえってみたら、やや間があって、上くちびると下くちびるのあいだに、空洞のようなすきまができた。そして、それが、すこし、ゆがんだ。わらった、というよりは、わらいのまえのわらい、わらいのはじまり、わらいのみなもとを、みせてくれたようだった。ひとには、比喩でなく、「おもて」と「うら」があるのだなあ、と思った。それがくるっとひるがえって、ひとのこころをうごかす。いちまいの紙のような「もの」になれる。
本体よりも、でっぱったものやくっついているものにばかり反応するのも、おもしろいことだった。それをすぐに口にいれるところも。口唇の感覚で、ものごとを知る、世界にであうということ。
抱いてみたら、おもたくて、あたたかで、どこもかしこもやわらかで、弾力がある。こわしてしまわないように、気が張りながらも、つかのま、まもるべき存在を託されたよろこびを感じた。同時に、すべてのよこしまなものたちからまもられているような、ほっとする感覚もあった。
窓硝子にうつるものが気になるけれど、それが、まだ、じぶんだとは気づいていない。「うつる」ことそのものの、おもしろさ。それは、うつっているのがじぶんだ、と気づいたときに、どうなるのだろうか。
帰ってきてはやく寝すぎて夜中に目が覚めたので、なんとなく本棚をながめ、どの背表紙も遠く感じたけれど、クレール・マラン『はじまり』を、読んでみようかと思った。
小さな調べに、秘められた囁(ささや)きに耳をそばたてなければならない。待っているもの、わたしたちの中で焦がれているものに注意を払い、その瞬間を、その貝殻の内側でまだうずくまったままのものを、樹皮の下で、今にも花開こうとする瞬間を待っていなければならない。(「賽を投げる」)
ちいさな、はじまったばかりの無垢なものに触れることで、世界はあたらしい繊細さで、目の前にあらわれる。しらずしらず、すさんでいた部分があったことを知る。それは、かならずしも、おだやかになることではない。きのうは、言語活動のはじまりも、目撃した気がするのだが、その声の甘美さとみずみずしさは、じぶんのなかにある、自由でありたい気持ちや、抑圧するものへの反抗心を、あらたに目覚めさせてくれるものだった。

