2026年2月8日日曜日

拾い読み日記 343


 雪が降りしきるなか、投票所へ。思ったより寒くない、そのことを忘れていた。あしうらが雪を踏む、きしきし、という感触がなつかしかった。あしがよろこんでいた。白い空から白い雪が降る。見上げると、白い雪は薄いグレーだった。墨を一滴だけおとしたくらいの淡さ。空の一部がはがれて、欠片になっておちてくるようだった。欠片はつぎからつぎへと、天から地へはこばれていった。

 天地(あめつち)の息合ひて激し雪降らす  野沢節子
 
 鼻をぐずつかせながら投票して、立会人の机にボックスティッシュがあったので、一枚いただけますか、といったらその人はとてもおどろいたようだった。箱が開いてなかったから? いわなければよかった、と思ったが、戸惑いながらもその青年は、箱を開けて、2枚くれた。

 木に積もる雪を立ち止まって見つめた。あのとき、人も車もいなくて、とてもしずかで。ちり、とかすかな音がした。雪片が傘に触れる音。お酒を買って家に戻り、のみながら、本を読んだり窓の外を見たりして過ごす。雪からひろがるしんとした世界のなかで、息をふかく吸って、吐いて。

 白い紙に白い箔押しは、雪にのこされた足跡みたいだ、と思う。だから何度も触りたくなる。指が表紙のうえを、あきることなく歩きまわる。

2026年2月7日土曜日

拾い読み日記 342


 ある不安のせいで、図書館に火の手が迫る妄想がふくらんで、起きぬけに、渡辺一夫の、本を疎開させるエッセイを読んだ。本はまもられてここにきて、ここにある。書棚の前にしゃがみこんで、べつの本を手にとる。

 彼らの存在はぼくにとって生きている強い何かだった。それは紙とか革とか金落とか以上のものだった。ぼくは彼らの友情の暖かさを感じていたし、また彼らはぼくの仕事を見守ってくれていた。彼らはみな、その静かな調子によってわれわれの世界の持続を信じるようにぼくを勇気づけてくれる、ひとつの声をもっていた。(『ジュリアン・グリーン全集14 日記**』 小佐井伸二訳、人文書院)

 本に避難すること。同時に、本を避難させること。すなわち、「本」が身をひそめていられるような心身をたもつこと。過去の人々への親愛と、未来の人々への信頼の気持ちをうしなわないこと。そのために、ときには、「今」から身をひきはがし、本を読み、本について、書く必要がある。「常套句(フレーズ)(カール・クラウス)から遠く離れて。

 窓から見える空は淡い灰色で、塵のような雪片が舞っている。散りながら消えてゆくちいさな花びらのようでもある。かたちのちがう二本の木が並んで立っている光景を、うつくしいと感じる。そしてまた、「本」がやってくる。

 じぶんが、この美しいきものをぬぎすてた、飾りけのない、あらあらしい自然のすがたを好きになれたことを、モグラは、うれしく思いました。モグラは、そのはだかの骨ぐみの中まで、はいりこんでみましたが、それは、しっかりしていて、強くて簡素でした。(ケネス・グレーアム『たのしい川べ』石井桃子訳、岩波書店)

2026年2月3日火曜日

『ある日』在庫について


 『ある日 読書と断片』は、在庫がなくなりまして、(なやみましたが)重版の予定です。おそらく今月下旬には出来上がると思います。ひきつづき、どうぞよろしくお願いいたします。
 
 4か月前に本が届いたときは、こんなに刷ってどうしよう、と心細い気持ちでしたが、本屋さんたちがすすめてくださるおかげで、たくさんの方に、手にしていただけました。ほんとうにどうもありがとうございます。春からはじまる本なので、春に読みはじめる人がいると、いいなあ、と願いをこめつつ。

追記:重版は2月20日ごろ出来そうです。

追伸 誤植なおします

2026年1月27日火曜日

拾い読み日記 341


 書物的には一年間の日記であるが、現実的には十数年間の「日記」であり、書いた、というよりは、引用した、というのが実感に近い。人が書いたものだけではない。自分が書いたものの引用。だからだろう、自分の本を出した、とはいえ、まったく、晴れがましい思いはない。むしろ疚しい。その疚しさを引き受けて、つぎは、日付のない本を作ってみたい。

 このところ、昼間はひきこもっていたので、昨日は、近くの川辺を散歩した。鳩が歩いていたり、鴨が泳いでいたり、鴉が止まっていたりして、昼の光のなかに、生きものがいる、それをみているだけで、とても幸福になる。それからほかにみたものといったら、紅と白の梅、落ちている団栗、扇状にのびた葉、実の生っている木、沈丁花の蕾。これから開こうとするちいさなもののあつまりを目にして、これは、「予感」そのものだ、と思った。そしてようやく、この倦怠とつかれのほとんどが、冬によるものだ、とわかった。

 ヤン・アンドレアの本を読んでいる。

 そうなのだ。僕はあなたになり代り、あなたのようになりたいので、そこに、その離れ孤島のような場所に、流れ着いてみたい。その場所で、あなたの口から、あなたの頭から、またはどこからやってくるのか分らないそうした言葉の数々が、あふれ出てくるのを待っていたい。(『デュラス、あなたは僕を本当に愛していたのですか』)

 読むことで、デュラスをうしなったヤン・アンドレアのくるしみが、うつってくる。文学が「虚」で生が「実」として、彼はデュラスの本に出会ったときから、虚が実に、実が虚になってしまった人であるのだと思う。それからふたりで生活して、本を作って(「書いて」)、デュラスの言葉と肉体に、ふかく、かかわった人。

 彼の文体、その息づかい、呼吸のリズムに同調してしまうと、この長い濃密な恋文のなかに閉じ込められてしまうような感覚をおぼえるが、もちろんそれは錯覚で、ひとつの恋の果てのなさ、終わりのなさを知ることは、どこにもない場所への扉を指し示されることに似ている。Cet amour-là。

 書かずにはいられなかった人の言葉と呼吸、「声」によって、書くことへみちびかれる。息がくるしいときは、自分の手で、自由に息継ぎできる空間をつくり出す必要があるから。何を書くか、よりも、どこで点を打つか、のほうが、切実に大切なことだって、あるだろう。点はちいさな余白をつくる。ちいさな息をつくための、ちいさな余白を。

2026年1月22日木曜日

拾い読み日記 340

 
 日がしずんで彩度の低いラベンダー色の空に、宝石のかけらのような月がみえて、あまりに綺麗だったので、超越的な存在からの贈りものと思うことにして、すこしのあいだ祈った。「もし君とすれ違ってしまったら世界全体とすれ違うことになる」。昨日みた映画の主人公がいっていた。今日の自分にとっての「君」は、あの月である。月は細ければ細いほど、あやうい気持ちになる。人は際に立っている。

 映画のあと、食事をして、ほろよいで、古本屋に入った。通りすがりの古本屋でたまたま目についた本をぱらぱらめくって、これはどうしても読みたい、と思ったなら、それは遠くから届けられたもの、今届いたばかりのもの、と思って、ただそれを受け取るしかない。

 かくて私たちは、おまえも私も、私からおまえに向って行く言葉、一葉の紙に印刷された燃え立つ言葉に比べてみれば何ものでもないのだ。なぜなら、私はただその言葉を書くためにのみ生きたのだし、その言葉がおまえに宛てられたものだとすれば、おまえはその言葉を聞くだけの力を持ったということで、これからも生きてゆくだろうから。(G.バタイユ『無神学大全 内的体験』出口裕弘訳、現代思潮社


2026年1月21日水曜日

それではない、と死者がいう


 それではない、と死者がいう。焼香をあげて手を合わせる前におりんを鳴らしたときだった。手元を見ると、いくつかのおりんとりん棒がある。では、これか、と別のおりんを鳴らしてみた。このおりんには、この棒がいい、という組み合わせがあるようだった。めんどうくさいな、とすこし思った。ところであなたは、しんでいないのではないですか。たずねると、いや、軀がまだあるから、今だけ、話せるのだという。気配を感じてドアを開けると、不意をつかれて立ちすくむ人がいた。そのまんまるい目と息をのんだときの音をおぼえている。

2026年1月20日火曜日

人の姿は見えなくて、球だけが


 人の姿は見えなくて、球だけが見えた。並木のむこうで、空の青に球の白が、ゆるやかな放物線を描いている。少年から少年へ、球は往き来する。その朝、なぜそんな光景にあれほど感動したのか、といえば、不安だったからだろう。あるいは、幸福を感じていたから? 不安も幸福も、ほとんど同じひとつのことに感じるときがある。「もの」を投げる相手がいること。受け取ってくれること。投げ返してくれること。そこにあるのは「信頼」で、それがこのように何気ない、うつくしいかたちであらわれ、自分のまわりの、「信頼」の放物線を意識させてくれたことに、感謝していた。朝の冷たい空気のなかで、バスを待っていたあいだ。