2026年9月30日水曜日

拾い読み日記 381


 夜、水中書店に寄ってみると、常連とおぼしき若い男性とMが話していた。雨の古本屋はしずかで、ほんとうに水のなかにいるみたいに、べつの世界に来た感じがした。ふたりの声がやわらかくくぐもって響いている。ひとの多い殺風景なところから帰ってきたので、その空間に身を置いていることが、心地よかった。若いひとは、ゆったりとおだやかな、品のある話し方をした。こういう声をひさしぶりに聞いた、と思った。しずかな音を奏でているような声。いったいどういうひとなのだろう? こんなふうに他人に興味を持つのはわるい癖で、むかし店番をしていたときも、あまりお客さんの顔をみないように、と注意されたことがある。しかし、興味をおさえきれず、気づかれないように、横顔をぬすみみた。

 リディア・デイヴィスの話になったとき、ちょうどかばんに『ほとんど記憶のない女』が入っていたから、ふたりの会話に割ってはいってしまいたい気持ちに、一瞬なったけれど(「偶然ですね!」)、戸惑われるだけだろうから、やめておいた。

 もし私が私でなく下の階の住人で、私と彼が話している声を下から聞いたなら、きっとこう思うことだろう、ああ私が彼女でなくてよかった、彼女みたいな話し方で、彼女みたいな声で、彼女みたいな意見を言うなんて。(リディア・デイヴィス「下の階から」)

 今朝、昨日のかばんを整理していたら本が出てきたので、すこしだけ読んだ。診察の待ち時間に読もうと思って持っていったのに、まったく読まなかった。短い話なら読む気になるかと思ったのに、触れもしなかった。

2026年9月23日水曜日

拾い読み日記 380


 また、本をつくっている。かつて書いた文を読みかえす。切りとる。ハコにうつす。だんだん、めまいがしてくる。「わたし」が「わたし」を追いかけてつかまえるみたいなことか、と思いいたる。「わたし」を追う「わたし」を追いかけようとする「わたし」もあらわれ、複数の「わたし」がぐるぐるまわり、いつまでも「わたし」たちは追い追われ、いまどの「わたし」が「わたし」であるのか、わからなくなってめまいがする。みんなよろよろしはじめる。それは、自作自演のゾンビ映画のようなものなのか。

 めまいがして本が読めないが、棚から出してあったクルト・シュヴィッタース展の図録をなんとなく開いて作品をじっとみていたら、目がよろこぶ感じがあった。目だけではない、お腹の奥のほうからうれしくなる感じ。

 「戦争は終わったが,  世界は瓦礫の廃墟となった.  私はその断片を集め,  新しい世界をつくりだしたい.」*   どのような状況にあっても自分のやりかたで自分の作りたいものを作りつづけたシュヴィッタース。芸術のための芸術を志向し「政治嫌い」だった彼の著書は皮肉にも焚書で焼かれ、ライフワークだった「メルツ建築」も空襲で破壊されたという。さまざまな不運や事故や病気に屈せず、最後まで力を振り絞って制作を続けたと息子のエルンスト・シュヴィッタースは書いている。

 「芸術は不思議なものだ.  それは芸術家を完全に使い果たしてしまう.」というクルト・シュヴィッタースの言葉が、胸にしみついた。「芸術」をほかの営為に置き換えることも可能だろう。このような境地にいたることができるかどうかはわからない。だいじなことは、「それ」を不思議なものだと思いつづけることと、衝きうごかされつづけることではないだろうか。


*「クルト・シュヴィッタース——メルツの父、わが父」エルンスト・シュヴィッタース(『シュヴィッタース展図録』西武美術館、1983)

2026年9月16日水曜日

拾い読み日記 379


  午前中、雨が降って空もくらいのに、プールで男の子たちがさわいでいた。ひと夏はたらいた憂さ晴らしだろうけれど、きっと寒いだろうなあと心配になる。たのしそうな声が上がるたびに、しんじがたくて、窓から、ベランダから、見つめていた。

 自分の書くテクストは私にとって欲望の対象なのです。そのテクストと私のあいだには昼と夜とを問わず絶えざる交流があるのです。それが紙のうえで生じるかどうかは重要ではありません。ある意味で私は四六時中そのテクストとともに生きているのです。(エレーヌ・シクスー)*

 つよく惹かれて、そのことがあたまから離れないとき、書くことによってそれを振りはらおうとしてきた。書きたいと思う対象に「憑かれる」ことは、恋することに似ている。あるいは、「恋するように愛してしまうこと」。そして、書く/書いている言葉もまた、欲望の対象になる。情熱をうしなうくらいなら、書き終えないほうがいいとも思う。いつまでも途上にいること。

 ミランダ・ジュライ『はいつくばって』を読み始める。しょっぱなからはげしい欲望と妄想の渦に巻き込まれていく。彼女のことが、どうにも気になる。まるで恋のように? いったい、どうなってしまうのか。


*ジャン゠ルイ・ド・ランビュール編『作家の仕事部屋』(岩崎力訳、中公文庫)

2026年9月7日月曜日

ながい一日


 昨日の朝、衰弱した蟬が、6本の細いあしをゆっくりゆっくりうごかして、すこしずつ前にすすんでいるようすを、しゃがんで見ていた。せつないものを感じたが、すぐには目をそらすことができない。おわりにむかういきものの、おごそかさと繊細さとつよさが、そこにはあった。

 手塚治虫『ながい窖』を再読する。最後まで読む。主人公の叫びが胸にひびいてなかなか消えない。「わしは朝鮮人だ!  それがなぜわるい!!」。卑劣な差別主義者に激昂して、(ようやく)声を上げる彼。この声を、ながい窖からの脱出、とする読みかたもある。わたしも、そう読みたい気持ちがある。彼の言葉は、目の前の他者だけでなく、彼自身にも届いて、日本人として生きてきた彼のアイデンティティは、これからますますゆらいでいくことになるのだろう。部屋に掛かる額のガラスに、反転した彼がうつっている。オープンエンディング、と林晟一さんがいっていたが、このように終わるからこそ、読者ひとりひとりのなかで、それぞれのかたちで、物語はつづいていく。みずからのアイデンティティに悩みくるしむすべての人への、はげましにもなりうる。じぶんはじぶんでいい、ゆらいでいてもいい、それがなぜわるいことがあるだろう。

 「他人をもっともよく感動させるものは、他人に対するみずからの真摯な関心であると信じてきた」(エドワード・ヤン)*という言葉に、はっとした。いや、ひやっとした。水を浴びせられたみたいに。

 朝から夜中まで気をもむできごとがたくさんあって、昨日は、一日が、とてもながかった。心配して、よく眠れなかった。睡眠不足の今朝、ごみを捨てに外にでたら、まだ同じところに昨日の蟬がいた。じっとしている。思いきって、土のあるところにうつしてみたら、そこでやすめばいいのに、またゆっくり歩き出そうとする。細いあしで地面をつかんで、じぶんのちからで、じぶんのリズムで、どこかへ向かおうとしている。みずからにもわからないどこかへ。


*手塚治虫『ながい窖』(法政大学出版局)p.85

2026年9月5日土曜日

拾い読み日記 378


 エクリチュールとは、我々の主体が逃げ去ってしまう、あの中性的なもの、混成的なもの、間接的なものであり、書いている肉体の自己同一性そのものをはじめとして、あらゆる自己同一性がそこでは失われることになる、黒くて白いものなのである。(ロラン・バルト「作者の死」)

 この「黒くて白いもの」が気になって、しかたがない。「黒くて白いもの」に惑わされて、こんなにもたやすく、ものを書いてしまっているのだろうか。

 夏の終わり、秋のはじまり。昨夜、また階段のまんなかであおむけになっている蟬を見かけた。これはどうみてもしんでいる、と判断して、端に移動させようと羽をつまんだら、生きていて、飛んでいった。こないだの蟬と同じような軌道で。さすがに二度目なので、声は出なかった。しかし、心臓にはわるかった。この場所でねるのが、蟬のあいだで、はやっているのか。あるいは、触れるから、よみがえるのか。

2026年9月2日水曜日

洋書まつり 2026




 今年も洋書まつりのポスターをデザインしました。今年は、10月16日(金)、17日(土)開催です。東京古書会館地下ホールにて。おもしろそうな本がたくさんあると思いますので、ぜひ足をお運びください。わたしもたのしみにしています。

 

2026年8月31日月曜日

拾い読み日記 377


 8月31日。曇天の下、高いところから人気のないプールを見守るひとのすがたが目にとまる。その日焼けしてひきしまったうつくしい肉体を、終わろうとしている夏が、もてあましているようだった。
 すこし日が出てあかるくなってから、泳ぎにいった。水がつめたかった。7月1日のプール開きの日も、こんなふうに水はつめたかった。

 水にもぐった瞬間は、いつでも、アナーキーな気分になる。どうなってもいい、と思う。水につけるとむくむくふくらむ紙の花みたいに、たのしさがわあっとひろがる。今日は泳いでいるときに、からだがさかなのようにしなる感覚があって、水にのって、いつまでも泳げる気がした。からだが、水のなかで、水のリズムでうごいていた。

 家に帰ってすこしねむってから、本を読んだ。「そしてわたしの主要な闘いは、「シニフィアン」の勝利のため「シニフィアン」の崇高なるエロチスム、その衝動と解放のためなのです」*。ロラン・バルトのように、ロラン・バルトを読むことができたら、と思う。水のなかで、水のように泳ぐこと。


*「ロラン・バルトとの対話」(蓮實重彦『批評あるいは仮死の祭典』せりか書房)