その絵をみたあとでは、にんげんの世界を遠く感じた。とても暑い日だった。気持ちをふるいたたせて、美術館にいった。慣れない場所につかれはて、帰りの電車で空席をみつけて腰をおろし、目を閉じて、まなうらにのこされた絵を、ずっとみていた。ちいさな子が目の前で大声をだしても、どこか遠いところから聞こえるようで、ちっともうるさく感じなかった。
2026年8月26日水曜日
幻化
その絵をみたあとでは、にんげんの世界を遠く感じた。とても暑い日だった。気持ちをふるいたたせて、美術館にいった。慣れない場所につかれはて、帰りの電車で空席をみつけて腰をおろし、目を閉じて、まなうらにのこされた絵を、ずっとみていた。ちいさな子が目の前で大声をだしても、どこか遠いところから聞こえるようで、ちっともうるさく感じなかった。
2026年8月23日日曜日
海辺の一日
というのも、体験された出来事は有限であり、少なくとも体験というひとつの領域に包みこまれているのに対し、追想される出来事は、その前後に起こった一切の事柄に対する鍵にほかならないがゆえに、限界をもたないのだ。(ヴァルター・ベンヤミン「プルーストのイメージについて」)
2026年8月19日水曜日
拾い読み日記 376
本をひらいてよんでいて、ふと文字列から目がそれて、自分の手が目にとまり、その老化におどろくことがある。こんなにしわが多かったかと。日に焼けて、みずみずしさもない。つかいこまれた道具にもみえる。これはほんとうに自分の手なのか、と思いつつ、こんなことを思うのはどうしてだろう、とか、そもそも手とはなになのか、とかんがえたりもしている。
2026年8月17日月曜日
40年前の虫について
自分は、まじめで、無口で、反応がちょっとへんな中学生らしかった。授業中、とつぜんパン!と手をはたいて虫をころしたよね、といわれた。もちろんそんなことは、まったくおぼえていない。それでも、その虫は、蠅だったのか、蚊だったのか、妙に、気になっている。ひょっとしたら、そのような奇矯な行動をとることで、自己を、表現しようとしていたのか?
帰りの新幹線で「linger」を聴いた。Royel Otisのカバーのほうが、乾いている感じですきだ。Do you have to let it linger? 40年前のことと一昨日のことを、すこしのあいだひきずったら、「今」にもどって「これから」に目をむけたい。今は、まだ、ひきずっていてもいい。
2026年8月11日火曜日
拾い読み日記 375
「みた」ことについて書いていると、それが「あった」ことを巻きこんで、ころがり、ふくらんでいくので、とりあえず、ついていくことにした。記憶のスクリーンがカーテンに変貌して、ゆらゆら揺れはじめる。無数の襞からあらわれてきたものを、みなかったことにはできない。虚が実をよみがえらせ、実は虚のなかにあらたな生を見出した。そのことで虚も、ゆれうごいているようだった。そうなってみると、虚であるか実であるかは、もはや、どうでもいいことに思われた。
2026年8月10日月曜日
Gという男
傷心のGという男をはげますために、ひたすら、あたまや背中や頰をなでていた。彼はなにかをうしなったらしかった。とりかえのきかないなにか。必要としていただれか。その喪失をつかのまでもわすれるために、彼はひとの肌をもとめていた。うつくしく繊細だが、どこかおろかなところのある男で、もう中年といっていい年齢なのに、まるで幼児のように、ひととの距離感がはかれないあやうさを持っていた。そしてそのあやうさが、Gの魅力のひとつでもあった。
2026年8月8日土曜日
本を開く感じで
2026年8月3日月曜日
あおむけの蟬
2026年7月31日金曜日
拾い読み日記 374
2026年7月25日土曜日
拾い読み日記 373
2026年7月24日金曜日
わたしのオバケ
形象であたまがいっぱいになる。さまざまな色やかたちや線が、それらがつくりだすイメージが、つかのまくみあわさって、はなれて、うかんで、ながれていく。またすぐにやってくる。うごいて、おどって、うたっている。たわむれている。それを、ずっとみている。きいている。ついていこうとする。ふれようとしてみる。つかれる。なにも、きめられない。ことばはまったくあたまにはいってこない。それでもことばとはなれたくない。それらはすべて、ことばによってあつまってきた形象だからだ。ことばのようで、ことばでないもの。それはわたしを、ことばの外へ、つれだしてくれる。ことばによるかんがえの外へ。
2026年7月21日火曜日
拾い読み日記 372
2026年7月20日月曜日
拾い読み日記 371
500ページ近い小説のゲラを、10日間ほどかけて、読み終えた。毎日、あと何ページ残っているか確認しながら、遠い目的地までゆっくり歩いていくように、読んできた。読み終えた瞬間、ある感慨があった。感動していた。とてもいい小説だったから。そして、それが終わってしまったから。同時に、一枚のペラペラの紙(ゲラ)をもって感動している自分が、なんだか、おかしいなと思った。手応えのあるものを受け取った。その手応えがほしかった。小説を読み終えることにとって、本を閉じるという行為が持つ意味は、おおきいのではないかと思う。そして、小説を読むことにとって、ページをめくるという行為が持つ意味についても、考えてみたい。ものがたりが「もの」であることのよさ。
2026年7月17日金曜日
むげん
2026年7月15日水曜日
球とたましい
はじめての場所で、はじめてのひとたちと球を打ち合う。ちいさな声で話す白髪の女性がいた。20歳ほど年上だろうか。その中身、なんですか? 水筒の飲み物についてほかのひとにたずねられて、緑茶です、とこたえると、横から、お茶の色とユニフォームの色が合っていますね、と、ちょっとおもしろいことを、その女性は言った。趣味のよさと品のよさを感じさせる、ひかえめな口調だった。すこし言葉を交わしただけで、そのひとがどういうひとなのか、わかる。それはたぶん錯覚だけれど、ある程度、あたまのなかに、その人物像ができあがる。
2026年7月14日火曜日
拾い読み日記 370
君は私に、君も、未知のひとりの死者に向けて書いている(私はそのことをますます確信している)、そして私がその死者の代わりをなしている、と言う。だから、君はあらかじめ私を殺している(確かに私は、死刑宣告を待つように、君の合図を待つことがよくある)、けれども、君はまた生を返してくれる。私たちはとても特異な亡霊を相手にしているのだろうか、それとも、それは往復書簡すべての運命なのだろうか、君はどう思う?(ジャック・デリダ『絵葉書 Ⅰ』)
2026年7月5日日曜日
拾い読み日記 369
石井桃子『新編 子どもの図書館』(岩波現代文庫)を読みはじめる。石井桃子が1958年に自宅で開いた子どものための図書館「かつら文庫」の7年間の記録をまとめた本である。
お知らせの立て札を立てたり、貸し出しカードを作ったり、本を準備したり、部屋をしつらえたり、手探りであたらしいことをはじめて、それがかたちになっていくさまに、わくわくする。通ってくる子どもの話すことや仕草や身振りや本を読むことで変わっていくようすが、たんたんと書き留められていて、そのおちついた語り口に安心する。
さまざまな本と子どもたちのすがたが描かれている。父親から誕生日に買ってもらった図鑑の話を聞いて、今度見せてね、と帰り際にいったらすぐに重たくて厚い本をふうふういいながら持ってきた子どもの話が、すきだ。
それは、とても茂ちゃんに読めるような本ではなかったのですが、かれは、お父さんやお母さんから聞いた説明をそら(下線部は傍点)でおぼえてしまっていたとみえ、その本をとりかこんだ中学生や私たちに、「ほら、この本のここ。××星。すごいだろ。ほら、△△星はここ。」と、自由自在にパタンパタンとそのページをあけて見せてくれたのです。(p.101)
2026年7月1日水曜日
拾い読み日記 368
2026年6月27日土曜日
拾い読み日記 367
印刷された本のなかに避難所を見出し、そこで自律的な生を営んできた文字は、広告によって、情容赦もなく街頭に引きずり出され、経済的混沌という野獣のごとき他律の足下に引き据えられる。これが、文字の新しい形態にあてがわれた苛酷な教育課程である。もう何世紀も前から徐々に横臥し始め、直立した碑銘から、斜面机に斜(はす)に寝そべった手稿へと格好を変え、とうとう書籍印刷という衣をきて寝転がってしまうまでにいたった文字は、そういう言い方をするなら、いままた、まったく同様に、ゆっくりと床から身を起し始めているのだ。すでに、新聞は水平よりもむしろ垂直の姿勢で読まれているし、映画と広告は、文字に、完全に独裁者的直立姿勢を強いている。そして、本など開こうものなら、たちまち、移ろいやすい、色とりどりの、喧嘩腰に喚きたてる活字の群れが、ぼくらの両眼の上に雨霰と降り注ぎ、本の持つ古代の静謐のなかに忍びこめるチャンスなど、微々たるものになってしまったこの節なのである。(『ヴァルター・ベンヤミン著作集10 一方通行路』晶文社)
2026年6月25日木曜日
ながい窖/掌の美術論
2026年6月24日水曜日
たまごについて
2026年6月20日土曜日
拾い読み日記 366
湿気のせいか、もしくは朝から二時間半も全力で卓球したせいか、身体がとてもだるい。うつ伏せでくったりして、このあいだみたアンドリュー・ワイエスの描いたしんだカラスのことをぼんやりかんがえていた。カラスのからだから抜け出したたましいは、ワイエスのことが、きっとたまらなくすきだろう、と思った。それから、本を手に取った。
2026年6月18日木曜日
拾い読み日記 365
2026年6月15日月曜日
拾い読み日記 364
あるデザインを見て怒りが湧く、というのはどういうことなのだろう。身近な者がネットで見たブックデザインに対して(同時に、装幀家に対して)怒っている。実物を見ていないのに。
2026年6月12日金曜日
拾い読み日記 363
ベンヤミンについて書かれた本を読む。その合間に、ベンヤミンが書いた本を読む。古本で買った三島憲一『ベンヤミン 破壊・収集・記憶』(現代思想の冒険者たち 第09巻)には、すこし書き込みがあって、「アクチュアリティ」と、余白に書かれているのが目にとまる。まだ幼さの残る、おそらくは大学生くらいの人が書いた文字に見える。
2026年6月8日月曜日
拾い読み日記 362
くもり空。今日はあんまりひとに会いたくない。しずかに、本を読んだり、ものを書いたりして過ごす。昼寝から覚めて、南Q太『ボールアンドチェイン』の5巻を読む。読むのは二度目だが、最後のページでは、またすこし、じいんとして泣いてしまう。
2026年5月30日土曜日
豊島にて/母型
音もなく、まるで涙のようにひそやかに湧きでてくる水のかたまりをみていたら、そうだった、こんなふうに、感情はうごくのだった、と思った。思い出した。感情だけではない。からだも、自らの生も、このように、うごかして(うごいて)いけばよいのだった。
2026年5月22日金曜日
『パリ散歩』の装訂について
2026年5月19日火曜日
拾い読み日記 361
何気なく手にとってめくってみた雑誌に読み耽る、そんなささやかなことこそが、読むことのよろこびであり、生活のたのしみだろうと思う。ずっとそれができなくて、物足りなかった。
2026年5月17日日曜日
障害と生きることの現象学
エッセイ的な「経験を語る」と論考的な「経験を記述する」の二部構成になっていて、どちらから読みはじめてもいいのですが、一度読んだらそれでおしまい、という本ではなく、第一部と第二部をいったりきたりして、長く読み続けたい本ですし、そんなふうに読まれるのがふさわしい本です。
2026年5月2日土曜日
拾い読み日記 360
こころをおちつかせて脳内ひとり会議をしよう、と寝床に入って(昼寝をして)目覚めて、今日はもうしごとはやめて本を読もう、と決めた。どうしてだか、はぐれたような気分の午後だった。
2026年4月30日木曜日
トラスト・ミー
肌寒い4月の終わり。疲れて起きあがれない。このあいだ町にかかったおおきな虹や、約30年ぶりにみたハル・ハートリーの「トラスト・ミー」のことを思い出して、起きあがろうとした。
とてもすきなのに、こんなくるしい映画だったのか、と意外に思った。ほとんどのことを忘れてしまっていた。久しぶりに会うふたり(マリアとマシュー)は、それぞれに、虐げられていて、孤独で、純粋で、偏屈で、親切だった。彼らが、一緒にいること、見つめあって、思いあっていること、いや、それぞれがひとりで歩いている姿をみているだけで、うれしくて、しあわせな気持ちになった。そのことを、こうして書きとめるだけで、すこしずつ、前に進む力がわいてくる。ふたりがとてもすきなのだ。すきな人は力をくれる。
ふたりの最後の会話を(聞き取れないから)しらべると、このようだった。
“Done what?”
“Put up with me like this.”
“Somebody had to.”
“But why you?”
“I just happened to be here.”
どうして僕につきあってくれたの。誰かがしなくちゃいけないから。でも、なぜ君が? そばにいたから。
パンフレットのシナリオ採録を読むと、93年公開時の字幕は、マリアの最後の言葉が、「そばにいたから」ではなく、「そばにいたいから」だったようだ。なおってよかった。意味がぜんぜんちがう。
偶然出会った人、たまたまそばにいた人に親切なふたりだったから、「信頼」が生まれて、そんなふたりの関係に、いま、ふれたかった。まわりにいる人たちに、あまり、親切にできないから、かもしれない。
しだいに遠ざかっていくおたがいの姿を、もっとよく見ようとして、マリアは眼鏡をかけ、マシューは車から身を乗り出す。別れていくのに、出会いのシーンのようにも感じられる。風が吹いていて、みずみずしくて、せつなくて。季節のおわりと、はじまりみたいで。いつまでも見ていたかった。
2026年4月19日日曜日
拾い読み日記 359
夜中に目が覚めてしまい、眠れないのでたまたま見つけた装幀をめぐるエッセイを暗がりで読んでいたら、悶々として、ますます目が冴えてしまった。装幀家の自己表現、自己実現、「生存戦略」に奉仕させられる装幀のかなしさ。そうなると装幀は、かぎりなく広告に近づいていく。書物のからだ(顔)が広告的になってしまうことに、いいようのない不安と息ぐるしさをおぼえる。余白をつくったらしぬのか? と思ってしまうような、どこか強迫的なブックデザインが、多い気がする。いいすぎだろうか。そうかもしれない。そうであってほしい。
2026年4月15日水曜日
2026年4月12日日曜日
梅の木に梅の実が生る
梅の木に梅の実が生る。なにごとの不思議なけれど、という言葉がよぎり、誰がいったかすぐに確かめたくなるのは、現代人の(わたしの)やまいなのだろうな、と思いつつ調べ(薔薇の木に薔薇の花、だった)、そのあとでは、梅の木に梅の実が生る「不思議」を感じているのは自分だけではないから、ひとりで木を見ていても、誰かに相槌を打つような気分に、なったりもする。
2026年4月9日木曜日
拾い読み日記 358
欅の梢が風にのって踊るように揺れている。春の欅のいきおいはおどろくほどで、このあいだ芽吹いたと思ったら、もう新緑が茂っている。それがゆうらゆうらといつまでも揺れているので、目が離せない。猫じゃらしを見つめる猫は、こんな気持ちなのだろうか。まえあしで触れられないから、書いているのかもしれない。どうにかして、この手が、あのしなやかな枝のうごきに、触れられないものかと思う。
2026年4月7日火曜日
拾い読み日記 357
朝、うっかり手がすべって「パリ散歩」の投稿を消してしまったので、書いたことを思い出して投稿しなおす。どうしてだか、噓を書いているような気がしたが、実際には、噓を書いているわけではない。
パリ散歩
高遠弘美さんの著書『パリ散歩 我もまたアルカディアにありき』(法政大学出版局)を装訂しました。二年間のパリ滞在の日々を、ともに歩いて辿るような本です。手にした人の心に、やわらかな風が吹いてくるような、そういう装訂になっていたらと思います。
2026年3月29日日曜日
花の下
桜を見に、近所に出かける。大勢のひとたちが集まっていた。ステージで踊るなんとかレンジャーによろこぶ子どもたちの姿を見ながらビールをのみ、そのあとは、麦屋節(富山民謡)。民謡を、年をとるにつれ、好きになる。うたのなかに生きている、むかしのひとびとに会えるから。
2026年3月28日土曜日
拾い読み日記 356
満開の桜の気配を感じながら、家にいた。隣家のアンテナで、澄んだのびやかな声を持つシジュウカラが囀りはじめた。去年の6月に来た鳥の声に似ていた。むこうから日が射して、黒いちいさな影が囀りのたびにわずかに動く。おだやかな春の空気にくっきりとした輪郭をあたえるような声だった。
2026年3月24日火曜日
拾い読み日記 355
桜が咲いて、欅が芽吹いた。このあたりの景色と空気が変わった。風のなかにほのかな甘い匂いがまじり、細かくふるえてやまないものたちの気配を、肌で感じる。いつのまに。いつもそう思う。巡りくるものを全身でうけとめるためには、身体のこわばりをほどかなければいけない。忘れていたやわらかさをとりもどすこと。
2026年3月19日木曜日
拾い読み日記 354
ソル・ルウィット展「オープン・ストラクチャー」をみた。開かれた構造/作品、開かれたアイデアにふれることは、ここちよいことだった。緻密に設計され、完璧にレイアウトされている作品も、手で制作されているから、揺れやずれやぶれがあって、そこに、「温度」や、「風」を感じる。息ぐるしくない。その開放感は、ルウィットの、このような言葉にもあらわれているだろう。「アイデアは一度でも表されたなら、すべての人の共有財産になると信じている」。これらの作品=アイデアは、すでに、それらをみた(知った)、自分のものでもある、ということ。眺めのよい広場にいる気分になって、ゆっくり、みて、歩いた。
2026年3月17日火曜日
拾い読み日記 353
ふつかよい。あたまがおもたい。昨夜ぬぎすてた服のかたまりから居酒屋のにおいがして、げんなりする。たのしかった。しかし、またよっぱらって乱暴狼藉をはたらいた、という思いで、おちこむ。のみすぎないようにしよう、と何度もじぶんにいいきかせながら会にのぞんだのに、のみすぎた。「あなた、山賊みたいに笑いますね」。のみすぎた翌日にあたまをよぎる言葉だが、どの本で読んだのか、思い出せない。
2026年3月13日金曜日
拾い読み日記 352
2026年3月8日日曜日
拾い読み日記 351
向かいあってみると、その人の変化を感じた。20年前より、目のかがやきが増していて、まぶしかった。この人のなかにある、澄み切って、あかるいものがつたわってきた。「あこがれ」とやわらかなこころをうしなっていないのだ、と思って、うれしかった。年をとって、かたくなになっていく、そのことを、おそれている。
2026年3月5日木曜日
拾い読み日記 350
部屋に突然、大蛇があらわれる夢をみた。蛇のあたまは人のあたまくらいの大きさだった。逃げようとしてもからだが動かず、蛇がちかづいてきて、もう数センチのところで肌と肌がふれあってしまう、どうしよう、というところで目が覚めた。
2026年2月24日火曜日
拾い読み日記 349
2026年2月22日日曜日
拾い読み日記 348
本を数冊買いもとめた日の翌朝は落ちつかない。やってきたばかりの本や、このあいだやってきた本や、ずっとあった本を、気の向くままにぱらぱらめくり拾い読んでいると、それぞれの本の言葉にひかれ、ふかく共鳴するような感覚をおぼえる。さまざまな音が鳴っている。もっと読みたい、読まなければ。そうした思いも、その音によって、みだされてしまう。
2026年2月19日木曜日
拾い読み日記 347
2026年2月15日日曜日
拾い読み日記 346
散歩の帰り、鹿毛の馬を2頭見た。注意書きがあった。大きな音に馬が驚きます/ご注意ください。馬にふさわしいように、できるだけしいんとした自分になって、金網越しに凝視していると、馬はとても凜々しくて、艶やかで、しずかで、あこがれのひとを盗みみている気がした。それほど、うつくしいのだった。遠いむかし、馬に恋してむすばれた娘の気持ちが、なんとなくわかる。もっと近づきたいけれど、こわい気もする。大きいからだに構えてしまいそうだし、一度ひかれるとのめりこみそうだし、そうしたらそのままどこかに連れ去られて、帰ってこられなくなるかもしれないし。
2026年2月13日金曜日
拾い読み日記 345
二度、葉擦れの音に立ち止まった。二度目の木はたしかシラカシで、一度目の木より、やや低い音がした。同じ葉擦れの音といっても、葉の厚さや、大きさや、風の吹きかたによって、微妙に異なる。日陰で、すこし寒いと感じた。それでも、世界の秘密をささやいているようなその木を前にして、かつて、どこかで、このような音を聞いた気がして、立ち去りがたかった。
2026年2月10日火曜日
2月のおしらせ
2026年2月9日月曜日
拾い読み日記 344
今日も卓球はたのしくて、ころされる夢をみたことなんてすっかりわすれてしまった。それでも書き留めておきたいと思うのは、なぜだろう。打撃を受けて倒れ、うつ伏せで、ダイイング・メッセージを残そうとしたが、どう書いたらいいか迷っているうちに、とどめを刺されてしまった。お腹ににぶい痛みを感じ、やがて、ブラックアウト。はやく書けばよかった、と後悔しながら。なにものかに追われる夢やちいさないきものをしなせてしまう夢は、むかしからよくみていたが、ころされる夢ははじめてかもしれない。顔も声もない不気味なころし屋だった。
2026年2月8日日曜日
拾い読み日記 343
雪が降りしきるなか、投票所へ。思ったより寒くない、そのことを忘れていた。あしうらが雪を踏む、きしきし、という感触がなつかしかった。あしがよろこんでいた。白い空から白い雪が降る。見上げると、白い雪は薄いグレーだった。墨を一滴だけおとしたくらいの淡さ。空の一部がはがれて、欠片になっておちてくるようでもあった。欠片はつぎからつぎへと、天から地へはこばれていった。
2026年2月7日土曜日
拾い読み日記 342
ある不安のせいで、図書館に火の手が迫る妄想がふくらんで、起きぬけに、渡辺一夫の、本を疎開させるエッセイを読んだ。本はまもられて、ここにきた。書棚の前にしゃがみこんで、べつの本を手にとる。
2026年1月27日火曜日
拾い読み日記 341
2026年1月22日木曜日
拾い読み日記 340
2026年1月21日水曜日
それではない、と死者がいう
それではない、と死者がいう。焼香をあげて手を合わせる前におりんを鳴らしたときだった。手元を見ると、いくつかのおりんとりん棒がある。では、これか、と別のおりんを鳴らしてみた。このおりんには、この棒がいい、という組み合わせがあるようだった。めんどうくさいな、とすこし思った。ところであなたは、しんでいないのではないですか。たずねると、いや、軀がまだあるから、今だけ、話せるのだという。気配を感じてドアを開けると、不意をつかれて立ちすくむ人がいた。そのまんまるい目と息をのんだときの音をおぼえている。
2026年1月20日火曜日
人の姿は見えなくて、球だけが
人の姿は見えなくて、球だけが見えた。並木のむこうで、空の青に球の白が、ゆるやかな放物線を描いている。少年から少年へ、球は往き来する。その朝、なぜそんな光景にあれほど感動したのか、といえば、不安だったからだろう。あるいは、幸福を感じていたから? 不安も幸福も、ほとんど同じひとつのことに感じるときがある。「もの」を投げる相手がいること。受け取ってくれること。投げ返してくれること。そこにあるのは「信頼」で、それがこのように何気ない、うつくしいかたちであらわれ、自分のまわりの、「信頼」の放物線を意識させてくれたことに、感謝していた。朝の冷たい空気のなかで、バスを待っていたあいだ。
2026年1月19日月曜日
活版TOKYO
活版TOKYO2026、ぶじに終了しました。ご来場のみなさま、スタッフのみなさま、どうもありがとうございました。
イベントに参加するのは2019年のかまくらブックフェスタ以来で、終始、どぎまぎ、あたふたしておりました。それでも、たくさんの人に会えて、参加させていただき、よかったなあと思います。両隣のブースに旧知の方々がいらして、こころづよかったです。
2026年1月14日水曜日
活版TOKYO 2026
活版TOKYOに向けて、小さい『ある日』(2020年/2022年刊)と大きい『ある日』(2025年刊)、それぞれのリミックスバージョンとして、8ページの『あるひ』を制作しています。「はるなつ」と「あきふゆ」があります。タイトルとクレジットは活版印刷、図版は型押し版画ですので、中身も外側も一点一点異なります。手作業で薄い(たよりない)冊子を作っていると、なつかしいというかなんというか……原点に帰ったような気がします。
活版TOKYOは今度の金曜から開催ですが、わたしの出店は土日だけです。会場は、神保町三井ビルディングとテラススクエア、ふたつにわかれておりまして、わたしはテラススクエア1階の奥のほうにおります。17日と18日、神保町でお待ちしています。
2026年1月13日火曜日
湿った土の匂いのする小屋で、
湿った土の匂いのする小屋で、詩人の朗読は始まった。聞いている者はわたしひとりだったが、彼はそのことを気に留めてはいなかった。それで、彼はわたしを待っていたのだ、とわかった。どのような詩だったか、すべて忘れてしまった。長い詩だった。耳で聞いても流れていってしまうから、言葉をひとつだけ、拾ってもらったらそれでじゅうぶんだ、と詩人はいった。
