2026年7月1日水曜日

拾い読み日記 368


 一昨日、高橋源一郎『文学じゃないかもしれない症候群』の文庫版を、水中書店で見つけて買った。単行本のほうを学生のときに持っていたのだが、それも拾い読みだったのだろう、読んだおぼえのない箇所が多かった。

 たとえば、「少数派としぐさ」。著者は書く。サイードが見たジャン・ジュネのしぐさについて。加藤三郎が見たグループ(東アジア反日武装戦線「狼」)から脱落して死んでいった者たちの最後のしぐさについて。ひとりの東ドイツの反体制作家が見た油絵のなかのスターリンのしぐさについて。とりあげた三冊の本から、七つの言葉が導き出される。少数派、しぐさ、裏切り、暫定的、伝達、翻訳、反復。

 ことばが思考を正確に伝えることができると信ずる者がいる。だが、少数派はそれを信じない。ことばは人を裏切る。だから、少数派にとってことばはいつも暫定的だ。だが、それでも人は伝達を願う。なにによって? しぐさによってだ。なぜなら、しぐさはある特定の個人に属していてその意味を別の言葉に翻訳したりできないからだ。そして、翻訳できないものだけが、類型的な反復を免れるからだ。

 昨日の新聞で、「沖縄戦「集団自決」教科書記述の修正——執筆者の後悔」という記事を読んだ。2007年の第一次安倍政権下、文科省の教科書検定意見により「集団で『自決』を強いられた」という記述を「『集団自決』においこまれた」と修正した元高校教諭についての記事だ。意見撤回を求める沖縄県民大会に参加して帰ってきた、日焼けしたその人の教卓での「むせび泣き」、その姿を記憶していたひとりの生徒が、記者になって書いた記事だった。

 「私は私自身の言葉の選択によって裏切られる」(ジュネ)。だが、しぐさは「わたし」を裏切ることはない。意思で制御できないしぐさ、つまり身体から溢れてしまう、あらわれてしまうものを見つめる目と、見たものについて考えつづける力が、自分にあるのか、問われているようにも思われた。見ること。気づくこと。そしてそれを記憶すること。ひとのしぐさや身振りをうつす、白いスクリーンのような身体のイメージが浮かんだ。あるいは、そうしたものたちが生きる場としての身体。

 ひとは、よりよい方に、向かっているのかどうかわからないが、いや、向かっていないように見えるからこんなことを書いているのだろうが、いま、ヒューマニズムについて、身体の問題を抜きにして考えることができない。わたしは、わたしの身体を、わたしの感覚を、裏切っていないだろうか。これはかけがえのない「媒体」としての身体を、他者にひらいていくための問いでもある。

 先を考えずに書き始めて、途中で食事したり眠ったり泳いだりのんだりして、考えるともなく考えながら書き進め、まだ先にいきたい気がするが、ひとまずここでやめておく。今日は下半期のはじまり。あたらしいことがはじまりそうな予感がする。