2026年6月27日土曜日

拾い読み日記 367


 印刷された本のなかに避難所を見出し、そこで自律的な生を営んできた文字は、広告によって、情容赦もなく街頭に引きずり出され、経済的混沌という野獣のごとき他律の足下に引き据えられる。これが、文字の新しい形態にあてがわれた苛酷な教育課程である。
もう何世紀も前から徐々に横臥し始め、直立した碑銘から、斜面机に斜(はす)に寝そべった手稿へと格好を変え、とうとう書籍印刷という衣をきて寝転がってしまうまでにいたった文字は、そういう言い方をするなら、いままた、まったく同様に、ゆっくりと床から身を起し始めているのだ。すでに、新聞は水平よりもむしろ垂直の姿勢で読まれているし、映画と広告は、文字に、完全に独裁者的直立姿勢を強いている。そして、本など開こうものなら、たちまち、移ろいやすい、色とりどりの、喧嘩腰に喚きたてる活字の群れが、ぼくらの両眼の上に雨霰と降り注ぎ、本の持つ古代の静謐のなかに忍びこめるチャンスなど、微々たるものになってしまったこの節なのである。(『ヴァルター・ベンヤミン著作集10 一方通行路』晶文社) 

 今や、文字は、せわしなく流れていくものである。文字は垂直にも水平にも斜めにもなる。どこにでも入り込むし、いつのまにか忘れ去られる。光の明滅のように素早く、現れたり消えたりする。出し抜けにやってくる。気の向くままに公にできる。この手軽さによって失ったものは何だろう? そして、得たものは、失ったものより、よいものなのだろうか?

 難波優輝『本とは何か』を読み始める。読みやすいけれど、いそいで読まないようにしよう。途切れ途切れに読むことの重要性。一気に読んでしまうと、読んだことについて、ぼんやりとでもかんがえる時間が少なくなる。生活に、本の内容を、溶かしていく、もしくは、縫い込んでいく、そういう時間が大切なのだと思う。濃く深く、その本を読むために。自分だけの、忘れがたい、「読書パフォーマンス」にするために。