このところ、昼間はひきこもっていたので、昨日は、近くの川辺を散歩した。鳩が歩いていたり、鴨が泳いでいたり、鴉が止まっていたりして、昼の光のなかに、生きものがいる、それをみているだけで、とても幸福になる。それからほかにみたものといったら、紅と白の梅、落ちている団栗、扇状にのびた葉、実の生っている木、沈丁花の蕾。これから開こうとするちいさなもののあつまりを目にして、これは、「予感」そのものだ、と思った。そしてようやく、この倦怠とつかれのほとんどが、冬によるものだ、とわかった。
ヤン・アンドレアの本を読んでいる。
そうなのだ。僕はあなたになり代り、あなたのようになりたいので、そこに、その離れ孤島のような場所に、流れ着いてみたい。その場所で、あなたの口から、あなたの頭から、またはどこからやってくるのか分らないそうした言葉の数々が、あふれ出てくるのを待っていたい。(『デュラス、あなたは僕を本当に愛していたのですか』)
読むことで、デュラスをうしなったヤン・アンドレアのくるしみが、うつってくる。文学が「虚」で生が「実」として、彼はデュラスの本に出会ったときから、虚が実に、実が虚になってしまった人であるのだと思う。それからふたりで生活して、本を作って(「書いて」)、デュラスの言葉と肉体に、ふかく、かかわった人。
彼の文体、その息づかい、呼吸のリズムに同調してしまうと、この長い濃密な恋文のなかに閉じ込められてしまうような感覚をおぼえるが、もちろんそれは錯覚で、ひとつの恋の果てのなさ、終わりのなさを知ることは、どこにもない場所への扉を指し示されることに似ている。Cet amour-là。
書かずにはいられなかった人の言葉と呼吸、「声」によって、書くことへみちびかれる。息がくるしいときは、自分の手で、自由に息継ぎできる空間をつくり出す必要があるから。何を書くか、よりも、どこで点を打つか、のほうが、切実に大切なことだって、あるだろう。点はちいさな余白をつくる。ちいさな息をつくための、ちいさな余白を。
