何気なく手にとってめくってみた雑誌に読み耽る、そんなささやかなことこそが、読むことのよろこびであり、生活のたのしみだろうと思う。ずっとそれができなくて、物足りなかった。
今朝は、いつ買ったかも忘れてしまった(とはいえそんなにむかしではない)89年刊の『季刊[武蔵野美術]No.74』を読んだ。早見堯「受動性と差異」。キーファーやポロックなどの現代美術家の制作について語る言葉にひきこまれた。「終始、紙や絵具というメディアに制作を従わせる受動性と、それによって立ち現れてくる差異化される自己の大いなる肯定」。
自分は読書においても制作・仕事においても感覚的かつ受動的すぎるきらいがあるのだが、それは、確固たる自分がないから、もしくは、うたがっているからだろう。
見るときも読むときも書くときも作るときも、自己を開いていくこと。自分を見失うこと。自分を見つけること。あらわれてくるものにしたがうこと。「自分らしい」かどうかなんて、気にせずに。
