あるデザインを見て怒りが湧く、というのはどういうことなのだろう。身近な者がネットで見たブックデザインに対して(同時に、装幀家に対して)怒っている。実物を見ていないのに。
自分は、どうだろう。そうしたデザインを見て感じるのは、失望や落胆である。なぜそのようなデザインがなされるのか。なぜある者はそれに怒り、ある者は落胆するのか。そして、ある者は称賛するのか。ブックデザインについて、もっと深く考えなければ、と思う。そしてそれを、言葉にしなければと。
戸田ツトムがブックデザインの制作過程について話している言葉を書き留めておきたい。「画面を見て、出力して、本に巻いて、手にとって、棚に置いて。そういう環境との関係を見ます」(「ユリイカ 総特集 戸田ツトム」、平倉圭によるインタビュー)。自分もそうしている。多くのデザイナーはそうしているだろう。件の装幀家はどうか知らないが、「環境との関係」は、あまり重視していないように見える。
戸田ツトムがデザインしたジル・ドゥルーズ+クレール・パルネ『ディアローグ』(河出文庫)を見る。澤直哉「線の倫理のために 河出文庫における戸田ツトム」を読んだあとでは、デザインが、以前とはまったくちがって見える。横組みの文字と文字は揃えられず、文字と写真も揃えられず、かたまっていない。ういている。縦組みの文字、右端に一行で組まれた著者名と訳者名は、固定されているようで、そうではない。横組みの文字との関係のせいか、写真の「わからなさ」のせいか、全体に、何か、見るものを、ざわつかせるものがある。しかし、それは不快なざわつきではない。「ひと」の気配のせいかもしれない。ものを見る視線のぶれ、目のゆらぎ。文字をそっと放つ手のうごき、指のふるえ。
よく見ると、著者名の欧文「Gilles Deleuze/Claire Parnet」は、スミ100%ではない。わずかにアミ点が見え、文字のエッジがクリアではない。さらに、その左に置かれた欧文タイトル「Dialogues」は、それよりほんの少し、薄くなっている。それが、どういう意図でなされたのかはわからない。もしかしたら、使われている写真の濃度と関係があるのかどうか。ひょっとして、左のほうから弱い光が射しているのか? わからない。しかし、その、濃度のちがいに気付いたときの感覚を、記憶しておきたい。ささやかなちがいを見出すという出来事を、おくられてきたものとして、受け取った。
