2026年4月9日木曜日

拾い読み日記 358

 
 欅の梢が風にのって踊るように揺れている。春の欅のいきおいはおどろくほどで、このあいだ芽吹いたと思ったら、もう新緑が茂っている。それがゆうらゆうらといつまでも揺れているので、目が離せない。猫じゃらしを見つめる猫は、こんな気持ちなのだろうか。まえあしで触れられないから、書いているのかもしれない。どうにかして、この手が、あのしなやかな枝のうごきに、触れられないものかと思う。

 一年ほど前に手に入れてほとんど読めていなかった『市村弘正著作集  下巻』を、読みはじめた。

 再開すること。いつでも、どこからでも再開しうること。それが読むという行為がもちうる、おそらく最大の特性である。物質化された書物という形態を想ってみればいい。どの頁のどの箇所からでも自在に読みなおすことができるだけではない。一覧し全体に目を配り、かつて中断した頁や躓いた箇所から新たに読むことができる。本そのものの重量を手に受けながら全体を一覧しつつ再読すること、この触覚的な受容はまだ書物という形態がもちうる特権であり、「読み返す」ということの物質的な基礎を提供しつづけている。(「読むという生き方」より「五 再開するために」)
 
 仕事のあと、窓の外が青から濃紺に変わるまでのあいだの、たった13頁の読書ではあったが、書物を手にして、深く息を吸い、吐く時間が持てたことが、うれしかった。こういうふうに、本を読んできた人がいる、ということ。いつでも、どこからでも、ふたたび、読むことができるということ。「「読む」という小さな梃子」。