音もなく、まるで涙のようにあらわれる水のかたまりをみていたら、そうだった、こんなふうに、感情はうごくのだった、と思った。思い出した。感情だけではない。からだも、自らの生も、このように、うごかして(うごいて)いけばよいのだった。すっかり忘れていたけれど。
わたしという生が、泉のように湧いて、流れて、ある地点でほかの生と合わさって、ひとつのかたちをつくる。かすかな風にもふるえ、たやすくかたちを変えてしまう、あいまいなかたまりとしての「わたし」。とどまることはできないのだから、ただ、そのときどきのかたちをいきればいいと思えた。
梢が揺れて、ときおり葉が落ちてきた。どこからか、虫がやってきた。一枚の葉、一匹の虫を、こんなに近しく(いとしく)感じたことは、かつてなかった。虫の歩みを、いつまでも目で追っていた。わたしのまなざしは、いつしか、わたしではないもののまなざしと重なっていく。
顔をあげれば、ひとびとがいた。ここでは、にんげんは、鳥たちよりもしずかないきものとして存在することをゆるされていた。灰色のおおきな繭のなかで、まもられながらひらかれて、すこしずつ、世界に解けていく。それはおそろしいことではなかった。
