2022年5月22日日曜日

拾い読み日記 274

 
 あいかわらず、Snow Manの動画をときどきみている。気になるひとについて、どれだけのことを知るべきなのか、適切な分量というのはあるのだろうと思うが、ほしいままにしておくと、いくらでも、どこまでも知ることができる。これが、沼にはまるということなのだろうか。愛着は増すけれど、飽きるのもはやいかもしれない。いまはまだ、飽きてはいない。DVDは、買わないと思う。

 ある動画で、お寿司をおいしそうにたべる、まだ幼さののこるラウールくんが、そのようすをじいっとみているみんなに伝えていた。ひとつぶひとつぶのイクラたちが、ぼくに、積極的にはいってくれる。
 その日のおひるは、お寿司屋にいった。中落ち、うに、かんぱち、アナゴ、ほか、すきなものをすこしたべ、ビールも一杯だけのんで、ぼうっとしたあたまで、思った。ラウールくんのことばづかい、けっこうすきだなあ、と。サーモンのお寿司をぱくっとたべて、うっとりしつつ、ぼくが、なくなっちゃう、といっていた、あのことばも、なかなかよかった。
 
 ひさしぶりに遠出をした。知らない町を歩くと、目が切り取った風景のひとつひとつが、イクラのひとつぶひとつぶみたいに、自分のなかに、積極的にはいってくる。それらのほとんどすべては、いまではもう、思い出せない。ただ、あたらしいものがはいってきて、それにのっとられて、自分が消えていたような感覚がのこる。からだがすきとおって、目だけになって、さまよっていたような感じ。
 知らない町の本屋さんをたずねて、知らなかった本を買った。ちいさな旅の日。
 
 たずねたのは、昨年からとりひきのある、川越の本屋さん、つまずく本屋ホォルで、買った本は、グザヴィエ・ド・メーストル『部屋をめぐる旅 他二篇』と、乾久美子+東京藝術大学乾久美子研究室編著『小さな風景からの学び』の2冊。
 どちらも、本をめくりながら、たのしい妄想がひろがり、読んでいるようで、読んでいなくて、どこまでも逸れていく自分がいた。
 何を読んでいるのか。何を書きたかったのか。逸れても、見失っても、かまわないということ。「なぜならわたしの主題は最も予期せぬときに自ら帰ってくるものだと気づいたからだ。」(『部屋をめぐる旅 他二篇』より)

 いいなあ、と思う本屋さんに、ヒロイヨミ社やananas pressの本があるのは、かたじけなくも、うれしいことで、これから2冊の本を手にするたびに、この日のできごとのあれやこれやを、思い出すことになるのだろう。記憶はかけらになって、栞みたいにはさみこまれて、ひらくたびに、それらと出会う。