2022年11月23日水曜日

拾い読み日記 282


 いたずら書きがすきで、昨日の朝も、猫の絵をそのへんの紙に描いていた。描くのはいつも顔ばかりだが、その日はふと、からだも描いてみようかなと思い、てきとうにペンを走らせていたら、それを見ていた夫が、本棚から『11ぴきのねことあほうどり』を取り出して、テーブルに置いた。見て描いたら? というので、見て描いてみる。あほうどりのたくさんいる島に着いた猫たちが、うれしそうに歩いている絵だ。みんな、いい顔をしている。とても愛らしい。 
 見て描いていると、いつものように、すらすら描けない。線がのびのびしない。ただ、てきとうに手をうごかしているのが、すきなのだ。どうでもいいが、描と猫は字が似ている。
 今朝は、猫でないものを描こうとして、アオさんという絵本の馬を描こうとしたが、ぜんぜん、だめだった。知っているものを描けるか、というと、まったくそうではないのだった。あたまと手は、それほどに遠い。

 描けるものをてきとうに描く手みたいに、気楽に、のんきに、本を読んでいる。読みたいときに、読みたいように、読んでいる。何が読みたいかは、本棚の前に立つまでは、わからない。なりゆきまかせ。いきあたりばったり。手がのびた本を、読んでいる。
 最近、あたらしい本ばかり読んでいたら、息ぐるしくなるな、と思った。読みたい本も、読まなければと思う本も、どんどん出てくるから、とてもおいつかない。伝えようとする力が強い、と感じる本が多くて、心は動くのだが、「今」に閉じ込められている気がしてしまって、すこし、くるしかった。

 ほんとうは、誰からも遠い場所で、本を読みたい。ひとりで本を読む。本を読むためにひとりになる。ひとりになるために本を読む。遠いもの、はるかなもの、あるのかないのかわからないもの。そうしたものの存在を感じられないと、ふじゆうな気持ちになる。

 あのころの孤独な魂は
 あんな陰気なみずうみを、
   楽園になしえたのでした。(『ポー詩集』より)

 雨の音と同じくらい音量をしぼったラジオから、むかしのアイドルの歌が流れていて、意外にそれが、わるくない。すきでもきらいでもない、かすかになつかしい、そんな音楽。うるさくなくて、ここちよい。雨の音が強くなれば、話し声も歌も、遠のいていく。