書く「私」は、生きている「私」の変身したものーーある種の文学的な目標と義務に対応して特殊化し、レベルアップしたもの。自分の本を作るというのは、些細な意味でしか、真実性がない。私の実感としては、そうした本は、私を媒介として、文学によって作られている。私はその(文学の)召使いにすぎない。(スーザン・ソンタグ「ひとりでいること」)
この一節を読んだときからずっと何かが引っかかっている。
読者としてのわたしは、書く「あなた」に関心がある。書かれたもののなかに生きる「あなた」について、「あなた」が身を捧げた文学について、知りたいと思う。現実に生きている(生きていた)「あなた」が、どうでもいい、というわけではないのだが、強い関心を抱けない。そうした態度を、不遜だ、薄情だ、と咎める人もいるかもしれない。でも、「あなた」はきっと、そうは思わない。
思い出したのは、作ったものと作った人間の印象の違いを指摘されたときの居心地の悪さ。わたしはわたしにふさわしいものをつくるべきなのか? わたしがつくったものにふさわしいわたしであるべきなのか? せっかく変身しようとしているのに。
生きているほうの「わたし」は、できれば陰に隠れていたい。わたしがつくるものも、にぎやかなところより、しずかな空間を必要とする。
新しいカメラで、こころみに、本を撮った。「文学によって作られている」ような本に対するとき、束の間ではないよろこびと、なぐさめが得られる。