2022年2月5日土曜日

拾い読み日記 269

 
 何年か前、吉祥寺の地下のお店でお茶をのもうとしたら、たまたま知っているひとが絵の展示をしていた。ちょっと不思議な物語が絵になったみたいで、おもしろくみていたが、気になることがあった。展示のタイトルが「億劫」というのだった。はて、億劫? 絵とどういう関係が? と思い、画家にタイトルの由来をたずねたら、じつは、絵を描くのが億劫なときがあって、といわれた。

 文を書くことも、すごく億劫に感じることがある。それでも、誰にたのまれたわけでもないのに、書いている。書くことがすき、というよりは、読むのがすきだから、かもしれない。日記を読み返すことは、おもしろい。
 昨日読んだマルグリット・デュラスの言葉を書き留めておこう。

 わたしのモデルとなる存在、いいかえれば、わたしのなかに秘められている作家としての存在が、わたしにたいして、わたしの人生を物語る。いまこうしてお話ししているこのわたしは、そこで語られる物語の読者なのです。マルグリット・デュラス 生誕100年 愛と狂気の作家』)
 
 すべての人が書いている、とデュラスはいう。紙に書いたり、ブログに書いたりしなくても、誰もが書いている。
 自分のまわりの限られたことしか記憶できないし、書くことができない。限られているということは、ある意味で、すでに、虚構であって、つまり日記がたのしいのは、自分が、作者にも、読者にも、語り手にも、作中人物にもなれるから、だろう。自分が複数になる。複雑になる。