2022年5月27日金曜日

拾い読み日記 276


  ききなれない鳥の声がするので窓を開けてベランダに出てみると、手をのばせば届きそうなくらい近くの枝にヒヨドリがやってきて、ひと鳴きした。ピョーだったか、ピヤアーだったか、奇声みたいな囀りに、びくっとする。あたまに日があたり、さかだった毛やみひらいた目や鋭利な嘴が、強くひかった。したしみの表現だったのか、威嚇だったのか、たぶんどちらでもないと思うが、しばらくのあいだ、鳥の殺傷能力についてかんがえさせられた。

 黒田夏子『感受体のおどり』をよみすすめる。本の重さが気になりつつ、でもつづきがよみたいからかばんに入れてきたのに、外ではぜんぜんよめなかった。ことばがはいってこないし、ひびいてこない。つかれていたせいだろうか。家にもどり、すこしねむり、あたまもからだも軽くなってからでは、よむことができた。それに、部屋のなかでよむことは、思ったより、おおきいことなのかもしれない。よむときには、からだのなかだけでなく、部屋ぜんたいが、ことばをひびかせるための空間になる。ほかにひとのいない部屋のほうが、ことばは、よくひびく。

こういうおもいを,ひらめく葉うらのほの白さのようなものを,まだ書いたことがなかったとかんがえた.目ざましいものではなくてかすかなものを,他をしのぐものではなくて他がこぼすものを,あらしめること,あらしめようと目ざすことが,私のおぼろな手さぐりの遠いこたえになりそうだとふいにさとった.(「第77番」より)

 帰りの道で、みたもののことを思いだした。ほわほわした綿毛のような葉がいっぱいついた木で、みあげたとき、羽がそのまま木になりかわったように感じられ、からだもすこし浮くようだった。木の名前はしらない。

 この小説をよみはじめてから、思うこと、感じること、思いだすことのひとつひとつが、それまでとはちがう重さを持つようになり、身のうちにおさめておくとかさばるので、すぐさま書きことばに変えたくなる。ひとつの小説をよみつづける、とらわれるということは、あやういことだと思った。日記がいくらでも書ける、ということの異常。ほかの本たちが遠のいていく、代わりがきかない、という点においても、読みふけることは恋いしたうということによくにている。