昨夜、喫茶店で、ある夫婦を見かけて、それは何でもない光景なのだが、思いだしたのは、武田百合子の文章だった。妻を愛してない男は、正月三が日はイヤだろうな、というもので、それは、真理だろうな、という気がする。夫を愛してない妻も、きっと正月も、年末も、イヤだろう。いっしょにいても少しもおもしろくない(けれどもいっしょに過ごさざるを得ない)ふたりのために、スマホというものは、つくられたのかもしれない。
喫茶店で新聞を読んだ。今年を振り返る一枚のなかに、一台の霊柩車にスマホを掲げて写真を撮ろうとする人々の姿をうつしたものがあった。いつだったか、優勝パレードか何かを撮ろうとする無数の手をうつした写真を見たときもそらおそろしかったが、その写真はそれ以上に、こわいような気持ちにさせられた。これは、過剰な反応なのだろうか。
吉祥寺でよい展示をふたつみた。手で刷られたもの、手で作られたもの、手で描かれたもの。そういうものに力をあたえられる。
薄暗いお店で、絵は、はっきりとは見えなかったけれど、ただだまって絵のある空間にいるだけで、ある精神に触れられる、ということもあるだろう。帰りに公園でみた冬の木々や月の光とあわせて、記憶しておきたい。それから、水鳥が水にもぐったあとにしずかにひろがった、波紋のことを。
まもなく今年が終わる。今あたまに残っているのは、先日読んだ水村美苗の文章だ。「第十一夜」(『日本語で読むということ』)。
不意に、ものを書いて来たことの罪の意識が自分を襲つた。言葉は死者の眠りを妨げ生者の世界に連れ戻す。生者のこの世とのつながりを奪ひ、死者の世界へと連れ去る。淋しい魂はいづれの世界にも入れずに漂ふのであつた。
すると其の女が口を開いたやうに思へた。
「悲しまないで下さい。あなたの罪は私の救ひでした」
一昨日、NさんとKさんと映画の話をした。黒川幸則監督の「にわのすなば」がどんなふうによかったか、という話。ふしぎな映画だった。最初は何を見せられているんだろう、と思ってしまったのだが、だんだんひきこまれて、最後は、終わるのが淋しくて、別れの感触が、からだのなかに残された。ラストシーンが素晴らしかった。
映画のことを思い返せば、主人公とともに、映画そのものがどこかへ漂っていくようで、そういう映画をみることではじめて、気がつくこともあるだろう。映画について、映画をみることについて、みたあとに映画を思うことについて。
Nさんは、のみはじめると帰るのが苦手になるタイプの人で、そこはあの主人公に似ているし、自分にもそういうところはある。もう一杯のみたいといったが、あそこで同意していたら、たぶん彼は、帰れなかった。