2022年9月17日土曜日

拾い読み日記 281

 
 ひさしぶりに椋鳥が来た。椋鳥が来ると、たべられる、と思ってしまう。秋が深まり、柿が色づくと毎日のようにやってきて、あきれるほどの貪欲さで実にくらいつく姿を、毎年みている。まだ実は青いのに、飛んで来るなんてめずらしいことだ。下見にやってきたのかな、と思って観察していたら、なにかついばんでいる様子がある。口元に、オレンジ色のひらりとしたものがみえた。どうやら、枝から落ちて赤くなった実をたべているようだった。なんて鳥だ……と思ってにらんでいたら、夫が、挑発にのらないで、と笑いながらいった。

 蟬もやってきた。ふらっと飛んできて、鳴かずにじいっとしている。みていても、いつまでも鳴かない。日に透けた羽がセピア色をしている。もう、飛ぶ力も鳴く力も、残っていないようにみえた。秋の蟬をみていたら、冬の蜂の句を思い出した。

 冬蜂の死にどころなく歩きけり  鬼城

 蟬は、いつのまにかいなくなっていた。羽の音もしなかった。しずかな蟬の行方を思って、しんとした気持ちになる。
 
 宮野真生子・磯野真穂『急に具合が悪くなる』を読んでいる。年をとり、おとろえたり、あちこち悪くなったりして、でもそんななかでどのように自分のしごとをつづけていくか。ふたりの言葉に導きのようなものをもとめて読み始めた。読み始めてすぐ、そんな他人ごとみたいに読める本ではないな、とわかった。

 つねに不確定に時間が流れているなかで、誰かと出会ってしまうことの意味、そのおそろしさ、もちろん、そこから逃げることも出来る。なぜ、逃げないのか、そのなかで何を得てしまうのか、私と磯野さんは、折り合わされた細い糸をたぐるようにその出逢いの縁へゆっくりと(ときに急ぎ足で)降りながら考えました。(宮野真生子「はじめに」より)

 もしかしたら自分は、出会ってしまったものたちから逃げつづけてきたのではないか、という思いがよぎって、ひやっとして、すぐにその考えを打ち消した。