2022年4月16日土曜日

拾い読み日記 271

 
 ようやく、本が読めるようになった。
 本を作ったり、売ったり、デザインしたりしていて、そのことに追われて、疲れはてて、ほとんど、本が読めなかった。読めない、書けない。ものを考える時間もない。

 買っておいたスーザン・ソンタグ『他者の苦痛へのまなざし』を読む。

 われわれの同情は、われわれの無力と同時に、われわれの無罪を主張する。そのかぎりにおいて、それは(われわれの善意にもかかわらず)たとえ当然ではあっても、無責任な反応である。戦争や殺人の政治学にとりまかれている人々に同情するかわりに、彼らの苦しみが存在するその同じ地図の上にわれわれの特権が存在し、或る人々の富が他の人々の貧困を意味しているように、われわれの特権が彼らの苦しみに連関しているのかもしれない——われわれが想像したくないような仕方で——という洞察こそが課題であり、心をかき乱す苦痛の映像はそのための導火線にすぎない。

 日々の労働に追われて、刺激にばかり反応して、本を読む気力をうばわれるのは、あやういことだ。(それは少し前の自分だ。)
 ラジオから中森明菜の歌う「スローモーション」が聞こえてきて、窓の向こうでは若葉がきらきら光っていて、読みたい本がたくさんあって、いまは土曜のお昼で、もうそろそろこの画面の前から立ち去りたいと思っている。立ち去る前に、パソコンの電源を切るだろう。見たくないことから目を背けるために、ではなく、理解も想像もできないものに近づいて、考え続けるために。