2022年5月24日火曜日

拾い読み日記 275


  ひかる葉、かげる葉、みないちよう
に風にふかれてゆれていて、ときにはその、さらさら、ざわざわいう音が、波の音にも聞こえる。一瞬、まぼろしの海があらわれる。ずいぶん前にも、こんなふうに、こんなきもちで、木をずっとながめていたことがあった気がするが、それがいつのことなのかわからない。

 黒田夏子『感受体のおどり』を、すこしずつ、よんでいる。よむことには、時間が要る、ということを、知ってはいても、わすれていて、またあたらしく、知りつつある。本を知ってから手にとるまでの月日があり、よめるかどうか、ためらう時間があり、ようやくとびらをひらいて、よんではやめ、よんではやめ、よみがたさに辟易し、それでも、すこしずつよみすすめていくと、いつしか、はりめぐらされている網にかかった動物みたいになった。とらわれて、ふらふらと、不自由に、いきつもどりつしている。

私が受けいれたくなかったのは,そうじどうぐから地球の自転速度にいたることごとくであり,それらをこばまないどころかあとから来るすべての者にもこばませまいとする世界の卑しさのことごとくであって,いくらかましにしようとかどれとどれだけ変えたいとかではなかったから,そのとりとめのなさが見かけをもとりとめなくしていて暗さや険しさを刻まなかったのかもしれないが,そのためにしばしば敵から身かたかと誤読された.(「第29番」より)

 受けいれたくないものにたいして、みずからはどのようにふるまってきたか、そのあまさ、そのよわさを思いしらされ、ひりひりもするが、よむのをやめたくないと思う。
 このことばのひとつひとつ、語のえらびかた、おきかた、ながれかた。スタイル。すべてに、すじのとおった、拒否と反抗の精神をみるようだ。
 「わたし」のためらいやとまどいや嫌悪に、いちいち、ゆれている。ないことにしてきた、微細な、あまたの思いたちが、めざめて、うごきだす。快と不快が交錯する。
 
「わたし」とは、いったいだれ? このひとは、どのような生を(どのように恋を)いきるのだろうか。いきたのだろうか。せつじつに知りたくて、今日も、すこし、よむ。