2022年6月3日金曜日

拾い読み日記 277


  文体が身体になじんできたためか、どこででもよめるようになり、外でも家でも『感受体のおどり』をよんでいて、ちょうどはんぶんまできたところで、手をみた。本をよんでいる自分の手のなかに本があって、左手にはこれまでよんだページが、右手にはこれからよむページがある。手の指で、その束がはさまれている。紙の束であり、時間の束でもある。どれくらいかかってここまできたのかは、だいたいわかる。どのくらいでおわるのかは、今はまだわからない。すすんでいけば、右手の束が減っていって、尽きたところで、おわる。気が変わったり、なにかが起きたりして、尽きないかもしれない。
 
 40回目の誕生日に、一抹の感慨とともに、折り返しかな、とつぶやいたことを思い出した。あれはべつに、半分まできた、という思いからではなかった。たぶん、おわりがみえてきた、ということだった。おわりのほうに、あたまが向いた、ということだ。

 この小説がおわること、よみおわることが視界にはいり、ここですこしやすんで、ただ、紙の束をながめていたい気もする。しかし、よみおわるとは、どういうことだろう。
 
 束がばらばらになりページからことばが放たれて、おりおりにそのことばを、本をひらかずしてよんでいくような本がある。「塊まりであれば壊すことができる。しかし、あらゆる場所に存在していたら、根こそぎになどできようか」、というユゴーの小説の一節がよぎったので書き留めておいて(ミシェル・ビュトール『レペルトワールⅡ』より)、よみながら、あたまは、「本」に、本という「もの」のほうにふれていって、はたしてこんなふうで、よみおえられるのだろうか。かなり、混乱している。