夢でたくさんのひとに会ったので、すこしくたびれている朝。今日も空は灰色で、閉じ込められている感じがする。光がほしい。
制作のため、毎日自分の書いた言葉を読む、それにも疲れてきている。作りたいという意欲をなくさないうちに入稿してしまいたい。
引用した箇所を探そうとして全五巻の全集をめくっていって、なかなか見つからなくて、もうどうしようか、とあきらめかけているときに開いたページの、目を落とした行に、探していた言葉があった。はっとして、顔をあげる。心臓をギュッと摑まれたような感覚。いや、そこになにか特別な意味を見出してしまうような人間だから、こういうことをやっているんだろうな、とも思う。もちろん、こんなことはただの偶然だということはわかっている。だが、本にあそばれているようで、うれしい。
この詩人はただ詩或は単に言葉と一しよにゐたかつた。日常の生活は不断の地獄の連続であり、ものを書くときだけがたのしい日曜日である、と。言葉と一しよにゐるだけでよい。このとき、もう嘘もほんたうもおなじやうに、彼にとつて真実なのだ。
立原道造の手紙から。
日常の生活を地獄だと感じてはいないが、本を読むのは、「出口」を求めているからではないのか、と最近思いいたった。であるならば、何かしら、そこから出たいような場所にいる、ということだろうか。それもなんだかちがう気がする。
「通路」といったらどうだろう。この世界と、この世界ではない世界との。
こんなことをかんがえてしまうのも、ただ最近の、重たい空の色のせいかもしれなくて、もし今日が晴れて暑い夏の日だったら、ぜんぜんちがうことを書いていた気もする。