2025年6月11日水曜日

拾い読み日記 322

 
 梅雨空はあわい鉛色。たっぷり水をふくんだ墨の色。町を覆いつくす憂鬱な灰色に彩りをあたえているのはシジュウカラのさえずりで、数日前からその声を耳にしていた個体が、今朝、隣家のアンテナにとまっているのを見かけた。近くの木にいるらしい別の個体と鳴き交わしている。あのようにちいさなからだから発せられる音とはとても思えず、しばらく眺めていても、その不思議は消えない。距離感の問題かもしれない。あの場所に存在する小さな「もの」と、ここに存在するくっきりした声の関係が、うまくつかめない。

 数日前に読んでいたミシェル・レリス『オランピアの頸のリボン』をひもといて、とある箇所をさがしながら目にとまった別の文章を読んでいたら、またあの鳥があのアンテナでさえずりはじめた。レリスの言葉と鳥の声がつかのま重なり混じり合う。詩の一行に異なる言語が不意に挿入されたような、それはいきいきとした違和感だった。

 レリスは、書くことを、投縄で獲物を捕まえることにたとえる。「そして、この投縄がとらえるのは、わたしの外部にしろ、内部にしろ、つねになにか野生的な(生で、手つかずで、そのうえ御しがたい)ものであるのではないだろうか?」(下線部は傍点)

2025年6月7日土曜日

tweet 2013/6/7


  二日つづけて満員電車に乗って印刷所に通い刷り出しに立ち会ったらもうくたびれはてて、帰宅してすこしお酒を飲んで、すぐに寝た。10時間くらい。一昨日、湯立坂で聞いた親子の会話を思い出す。「なにいろのあじさいがすき?」 おかあさんに聞かれて、男の子はたしか、ピンク、と答えただろうか。

2025年6月5日木曜日

tweet 2014/6/5


 「コーヒーカップ」、と入力しようとして、うっかり、「珈琲河童」になる。作業中断。珈琲河童のあたまの上のお皿はやっぱり、コーヒーカップ。珈琲がなくなったら、しんでしまう。もしくは、ねむってしまう。梅雨入り。珈琲をのんでもねむたい。

2025年5月23日金曜日

拾い読み日記 321

 
 「ある日」のことが書かれた文章を、自分の定めたルールにしたがって(時系列にしたがわずに)編むことで、今日という日、今という時も、いつかのどこかへ思いがけず繋がっていく。どこか、軽くなっていく感覚があった。過ぎ去った日々も今過ぎつつある時間も、ふたたびやってくるものであり、何度でも出会い直すものである。それは、「日記」を書き、「日記」をつくることによって、あきらかになった。
 「日記とはひとつの解放行為(ベフライウングスタート)なのであって、それが勝利する場合、その勝利は密やかにして無際限である。」(ヴァルター・ベンヤミン「〈青春〉の形而上学」)

 いつもの発声練習のあと、隣の部屋から歌が聞こえてきて、何を歌っているのかはまったくわからないが、その音楽は、神、もしくは天上にいるものにむけてつくられたのだ、ということは、理解できた。

 五月の窓辺に、はかなくながれていく雲と、つややかな緑と、きよらかな歌声があって、もう、自分のためにのぞむことは、何もないように思えた。

2025年5月15日木曜日

拾い読み日記 320

 
 立夏を過ぎたころから、虫が増えてきたようだ。今朝は、あおむけで動けなくなり、にっちもさっちもいかなくなった虫を、2匹、ひっくりかえしてたすけてあげた。虫は、何が起こったかわかっていないだろう。いや、ひょっとしたら、わかっているかもしれない。いつか、こちらのほうが、にっちもさっちもいかなくなったとき、たすけにきてくれたりして、などと、妄想がひろがる。

 自分で書いた文章を自分で編集して自分で組んで自分で校正して自分で絵を描いて自分で装幀して自分で売る。「自分」が多すぎて、息ぐるしい。しかしそれをやろうとしている。今回は、自分で印刷も製本もしないつもりだから、その点では、あらたなこころみ、といえる。

 一冊の本をつくりあげること、それは書物一般を否定することである。ブッキッシュな知識から離れて、生きた体験によってこれを置き換えること。(……)ものをつくるという意味での「詩学」に属する体験である。(『ミシェル・レリス日記 1 1922−1944』)下線部は傍点

 書物とはなにか。こうして、自分で自分の本をつくることでしか、わからないことがあると思う。書物と自分の関係を、あたらしくすることはできるだろうか。

2025年5月8日木曜日

拾い読み日記 319


  Mが10代を過ごした西武新宿線沿線の町を、いっしょに歩いた。
 ここにかつて本屋があった。ここには古本屋があった。彼の言葉が町の歴史の断片を伝えてくれた。30年前の町のすがたが想像の中でよみがえり、自転車で本屋にむかうまぼろしの少年が、遠くから手招きをする。

「まだあった」店はふたつ。薄暗くて埃と黴のにおいの立ちこめる古本屋には茶色く焼けた本ばかりが並び、奥の方で食器を洗う丸い背中が見えた。そうっと入って、そうっと出てきた。出てから、深呼吸した。

 もうひとつの店は、駅から歩いてすぐの、ここもやはり、静かな、大きくはない新刊書店だ。近所の子どもや大人がふらりと普段着で立ち寄れるような、親しみやすい店構えの店だが、しばらく店内を歩きまわって棚を眺めていると、ここはふつうの町の本屋ではない、とわかった。いや、どこよりも、「ふつう」の本屋である、といえるのかもしれない。どのような言葉でならその良さを伝えられるのだろう。ぼんやりかんがえていたら、「身の丈」という言葉がうかんだ。書棚の背後に、長いあいだ、粘りづよく、身の丈にあった暮らしと読書を続けてきた人の存在を感じた。

 この店をはじめて訪れたとき、ハンナ・アレント『暗い時代の人々』(ちくま学芸文庫)を購った。

 最も暗い時代においてさえ、人は何かしら光明を期待する権利を持つこと、こうした光明は理論や概念からというよりはむしろ少数の人々がともす不確かでちらちらとゆれる、多くは弱い光から発すること、またこうした人々はその生活と仕事のなかで、ほとんどあらゆる環境のもとで光をともし、その光は地上でかれらに与えられたわずかな時間を超えて輝くであろうということ——こうした確信が、ここに描かれたプロフィールの概略的な背景をなしている。(「はじめに」より)
 
 弱い光は、わかりにくい。人の目を、強くひこうとしない。かつての自分なら、見過ごしていただろう。
 この書店では、落ち着いて、読書しているときのような呼吸で、本に向かいあうことができる。一冊の本と出あうための、一人の人間になれる。そんな書店の空間に、子どものこころだけでなく、大人の精神も、涵養されるのだと思う。

2025年5月7日水曜日

tweet 2016/5/7


  なかなか取りかかれないしごとに取りかかる前に、午後の散歩に出かけた。川沿いの緑がさやさや歌っている。艶やかな硬い葉は、降る光を跳ねかえす勢い。小さな子どもの手のひらみたいな、若い楓の葉。ひらひらと、からかうように黒い蝶。腕を這う蟻。

2025年4月4日金曜日

tweet 2025/04/04


 青空を待って、桜が散りはじめた。

 朝の光のなか、いちまいいちまいの花びらが、それぞれの気まぐれなきらめきとともに視界に入ってくるので、まどわされてしまって、想いのかたまりも散り散りになり見えなくなる。

 やわらかな指が千切って空に放った白い紙きれ。風にのると、とても遠くまでゆくだろう。

2025年4月2日水曜日

tweet 2017/4/2


  桜に思いを馳せながら、電卓を叩きつづけた日。夕暮れの空が綺麗だった。ほんのり染まった頰みたいで。昼間は同じ道でニワトリの声をきいた。朝は印刷にまつわる悪夢をみてうなされた。

 カフカの手紙を少しよむ。自分の本質は「不安」だと断言する人。手紙を書きすぎてしまう人。

2025年3月30日日曜日

tweet 2025/3/30


 電線にとまった五羽の鳩のあたまのうえを、風にのって飛んできた一枚の花びらが、ゆっくりと通りすぎていった。あえかな白は、そのうち、空の青にまぎれた。

 あのとき、なぜだろう、春の芯に触れた気がした。いつのまにかやってきて、かろやかに去っていくもの。だれも知らない、つかのまの恋のように。

2025年3月29日土曜日

tweet 2015/3/29


  電車で一時間の旅。車窓からみる春の町は、流れる川のようだった。あそこにふわり、ここにもふわり。桜がうかんでいる。呼んでいるのか、呼び交わしているのか。

「子供の頃から、自分はただ流れ去る一つの生体にすぎないと感じてました。」

 手元の文庫本を読み続けられない。はやく逢いにいかなければ。

2025年3月28日金曜日

tweet 2025/3/28

 
 春は、一度はじまってしまえば止まらない。加速していく。

 家から出られず日々眺めている矩形に、淡い緑と桃色の分量が増えた。裸の欅の簡素な美はこの冬を過ごす力になり、愛着があったが、鶸茶色の薄い衣を纏った今も、素敵だ。

 ひたむきに天をめざすものたちが誘いかけてくる。“Up we go! Up we go!”


2025年3月27日木曜日

tweet 2017/3/27


  ぼんやりメールを書いていて、「チラシ」が「虎師」に変換され、『プー横丁にたった家』を探しに立った。

「トラーってものは、けっしていつまでもかなしんでなんかいないんだ。」と、ウサギは説明しました。「やつらはおそるべき速度で、わすれてしまうんだよ。」

 そこで思いだしたことがある。

2025年3月26日水曜日

tweet 2015/3/27

 
 雲ひとつない春の空。どこからどこまでが空なのだろう。

 おわりのない、すいこまれそうな青の一点に、欠けた半透明のものがふわりと浮かぶ。風がふけば飛ばされそうな儚さで。

 陽射しの下、抱かれた赤ん坊もまぶしそうにしていた。日ごとふくらんでいくものの、いまにもはじけそうな気配に身震いする。

2025年3月8日土曜日

Book⇄Life





 水中書店からの依頼で、「Book⇄Life」というポスターをつくりました。本⇄人生/生活/生命。本からLifeへ、Lifeから本へ。手をうごかしてみたら、かたちができました。ぶきような、じぶんらしいかたちになりました。
 入り口に貼ってあります。何か、あかるい、いきいきしたものを感じてもらえたらいいなあ、と思います。
 本屋さんに来る人だけでなく、通り過ぎる人にも、見てほしいそうです。つくったものが、町にひらかれている、というのか、町の一部になることを、新鮮に感じます。 


追伸 ananas pressの相方aこと都筑さんが山口さんと本の話をするそうです 詳細はこちら

2025年3月4日火曜日

拾い読み日記 318

 
 花がだいぶ散ってものさびしく見える梅の木に、メジロと、ヒヨドリが来た。ヒヨドリのからだは、細い梅の枝にとまるには大きすぎる気もしたが、そんなことはおかまいなしに、白い花々とくちづけを交わし、それから、すーいすーいと低い飛行で去っていった。灰色の世界に、灰色のからだで、自由に線を描くように。

 ひさしぶりによく眠れたので、あたまがすっきりしている。夢の中で聞いた歌がなまなましく記憶に残り、それが何の歌か知りたくて、鼻歌検索までやってみたが、でも、どうしても、わからないのだった。きっと、存在しない歌なのだろう。昨年の終わりに亡くなった華やかな人が、ステージで歌ってくれた。人をはげますような、いかにもポップソング、という感じの曲だった。流した涙も君の宝物になる、というような。

 先日、卓球の試合で、くやしい思いをしたから、そんな夢をみたのだろう。ものすごくサーブが切れている人、攻めも守りも上手い人、淡々と力みなく強い人、決めるべきところできっちり決めてくる人に対して、ほとんど歯が立たなかった。自分は、技術的にも精神的にも、よわすぎる、と思った。
 なかでも、同世代だろうか、卓球に自分を賭けている(ように見える)人の気迫は、すごかった。フルゲーム、10−9でマッチポイントを取ってサーブを出す前の、間合い、眼差し。ころす気か、と思った。彼女にとって、試合とは、決闘の場なのだ。
 
 あそこまで、卓球に、自分を賭けることはできない。体力にも気力にも、かぎりがある。卓球よりは、「本」に、自分を賭けたい。
 
 試合が終わって、季節はずれの陽気のなか、卓球を通じて知り合った人たちと、いっしょに駅までの道を歩いた。のどかな景色がひろがり、隣を歩くOさんの育った町の話を聞いたり、それぞれの方言の話をしたりしていたら、しだいに、気持ちもほどけていった。
 知り合って間もなくて、年もかなり離れているのに、こんなふうにしぜんに話ができるのは、練習のときに向かいあっているからかもしれない。卓球場以外で会うことはないけれど、どういう人なのかということは、なんとなく、わかる。
 
 駅に着いてみんなと別れ、そういえば、と本屋さんに向かった。数年前に、かまくらブックフェスタのフェアでお世話になったお店。はじめて訪ねたけれど、とてもいい本屋さんだった。
 棚をゆっくり見ていたら、あたたかな、なぐさめと、希望のようなものを感じた。並べられた本が、砦のようにも見えた。ある意志をもって並べられた本たちは、人に、たしかな、力を与えることができる。言葉のいらない世界から、言葉の世界へ帰ってきて、そう思った。

 一冊、探していた本を買ってリュックにしまい、乗り換えの駅でビールをのみ、くたくたのからだをひきずるようにして、家路に着いた。

2025年2月16日日曜日

ぜるぶの丘で

 
 昼寝から覚めて、放心したまま珈琲豆を挽いていて、ふと顔をあげたら、目のまえに「Green & Fresh」という言葉があった。オリーブオイルの瓶のラベルの文字だった。赤いリボンを模したグラフィックに、白抜きの、太めのセリフ体で刷ってある。いつもそこにあるのに、なぜ今日だけ目にとまったのかわからないけれど、しばらく、しげしげとその文字を眺めていた。じぶんは、いろいろな文字、いろいろなフォントに囲まれて、暮らしているのだな、と思った。

 だれにでも好まれることつらつらと行間の空くメイリオで書く 

 天野陽子歌集『ぜるぶの丘で』より。さっき、この歌を読んだから、きっと、そんなことを思ったのだ。そういえば、ずうっと前、対談の文字起こしに疲れたら、ぜんぶ丸ゴシック体に変えて作業する、といっていたあの男の子は、元気だろうか。あまりにも疲れた人には、明朝体の文字は、痛いのかもしれない。細いゴシックは冷たくて、太いゴシックは強すぎる。
 
 水濡れたページのように横たわる他人の話を聞きすぎた日は

 人や、本や、物との距離のとりかたが、いいなあ、と思った。べたべたしない。つきはなしもしない。ときには、人が物に、物が人に、なりかわったりもして。
 たとえば、こんな歌。

 いくつものわたしが四角くまとまって一足先に旅立った朝
 
 遠方への転居で、荷物を送ったときのことを、よんだものだろうか。これまで、10回、転居してきたが、いちばんはじめの、いちばんおおきな引っ越しの作業のことは、あまり記憶がない。あのとき、18歳のわたしは、何を捨て、何を持っていったのだろう。
 箱に詰められた、「いくつものわたし」。それらと、つかのま離れる、さみしさと、さわやかさ。

 歌に余白があると、そこに自分の記憶を重ねることができる。言葉にしなかった、たくさんのことごとを、思い出す。言葉にはならなかったけれど、ないわけではなかった、たしかにあった。自分の過去の時間は、思ったより、まずしいものではなかったみたいだ。

 四分休符くらいの深呼吸をする雪だけがあるぜるぶの丘で 

 雪の白まで深くすいこんだから、とても、清々しいきもちになる。深い呼吸で、からだの中から風が生まれて、言葉は、その、風にのって運ばれていく。

 

(天野陽子歌集『ぜるぶの丘で』(角川書店・2月25日刊)を装幀しました)

2025年2月9日日曜日

拾い読み日記 317


 いま、人と積極的に(もしくは即時的に)、繋がりたくなくて、それでも何ごとかを書き残しておきたいという人間には、ブログというメディアがちょうどいい。「しずかなインターネット」というブログサービスのことを知ったときは、それだ、と思った。
インターネットでありながら、必ずしも誰かや何かと繋がらなくてもいい、その矛盾しているようにも見えるありかたが、いいなと思った。
 わたし自身、twitterやinstagramをやめたのは、生活と思考がSNSに支配されそうだったからだし、すぐ反応が来るのがつかれるから、という理由だった。もっとしずかに暮らしたかった。

 ブログは、誰が見ているか、どれだけの人が見ているのかはわからない。ただ、ページを見られた数だけは、わかる。twitterをやっていたころに比べたら、その数は、かなり少ない。でも、それでいい。ここでは、自分のために、書き留めておきたいことを書いているだけなので、読者の数は、気にする必要がない。
 
 ……なぜ、こんなことを書いているのだろう? 
 出版とSNS、もしくは、書くこととインターネットについて、ぼんやりと、ずうっと、考えているのだった。

 大杉重男氏のブログ「批評の練習帳」を、時々、読んでいる。『日本人の条件』という近著について、「私は今現在だけは大学教員としての一定の経済的な余裕があるが故に、世界に対する一つの無根拠の贈与としてこの本を出すことができた」と大杉氏は書くが、経済的な余裕だけでは、きっと、このように本を出すことはできない。
 距離をおいて眺めていると、いま、本を出すことと、売ること(売るために発信すること)は、いっしょくたになってしまっていて、そうした宣伝行為にまつわる「騒がしさ」は、本そのものにもこびりついて、しずかな読書を、ときには、さまたげてしまうようにも感じる。版元はまだしも、こんなに著者が宣伝に「駆り出される」のは、SNSのせいだろうと思う。
 
 とはいえ、自分だって、出版とインターネットという問題を考えるうえでは、無関係ではありえない。書籍のカバー、とりわけ表1をデザインするときには、その画像データがインターネット上で人々の目に触れることを、意識せざるをえない。(わかりやすくいえば、白い紙にタイトルを白い箔押しで、という「わかりにくい」デザインは、やりたいと思っても、やらないだろうと思う。) 

 デザインした本が売れた、と聞けば、素直にうれしい。本を出した人が、少しでも多くの人に読んでほしい、と思うのは当然で、その気持ちを、否定したいとは思わない。

 仕事への意欲はなくなっていないし、本というものへの希望はすてていない。どんなかたちでも、本にかかわっていけたらいい。
 そのために、本のデザイン・制作と並行して、書くことも、続けていくことにする。書くことにおいては、つねに、無根拠でありたい。書きたくなったら書く。すきなように書く。すきなだけ書く。それが、人間らしくあるために、必要なことだと思うから。

2025年2月6日木曜日

ヒロイヨミ社の在庫について


 品切れのものが多くなりましたので、在庫のお知らせです。
 現在、以下のものがあります。

・『ephemeral』
・『fumbling』
・『水草』2022年春号(水中書店+ヒロイヨミ社)
・『窓の韻』(森雅代+ヒロイヨミ社)
・『ほんほん蒸気』2号〜5号(北と南とヒロイヨミ)

  ananas pressのほうは、『Circle』と『AIR MAIL』があります。

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 宮下香代さんとの本『六花』をGallery SUで見てくださったみなさま、どうもありがとうございました。雪をモチーフとした宮下さんの作品と、それにあわせてあつめたことばのくみあわせを、たのしんでいただけていたら、うれしく思います。

 今年は、10月に、福岡のナツメ書店で展示をします。
 今は、すこしゆっくりして、本を読んだり、思いついたものをつくってみたりしています。
 ひらめいて、つくってみて、つくったものを眺めて、またひらめいて、つくってみて……そんなことをくりかえして、おもしろいものがあらわれてきたら、いいなあと思います。それが、本のかたちをしているのか、いないのか、まだわかりません。

2025年1月27日月曜日

拾い読み日記 316

 
 暗い灰青の空にこまかいうろこ雲がいちめんにひろがり、その奥に、ひとつ、星が見えた。今日は、箔押しの見本をじいっと眺めていたから、そのせいで、星のかがやきから、箔のきらめきに、思いがうつっていった。藍色のもこもこした風合いの紙に、青っぽい銀でなく、黄色っぽい銀で、文字を刷ったら、きっと綺麗だ。光は、言葉なのだろう。はるかむかし、発せられた言葉が、いま、届いた。

 昨日は、ひさしぶりに書類の整理をした。紙の束を部屋中にひろげて、数年間、ためこんでいたものを捨て去るのは、気持ちのよいことだった。

 三年ほど前に、読んでみて、とわたされていた紙が出てきたので、一段落ついてから、狭い仕事部屋から出て、いつも本を読むテーブルで、読んだ。

 中村秀之「最終講義に代えて 「学芸は眉を顰めず」—— 階級のディスクール・断章」は、読書と階級をめぐる、自伝的ではあるが自伝ではない(「自己=社会分析〔auto-socioanalyse〕のための素材」というブルデューの言葉が引かれている)、しかし読む者に近さと親しさを感じさせる、やわらかな語り口の文章で、引用される言葉の数々にこころ惹かれつつ、ゆっくりと読み進めて、読み終えたときには、ある、感慨があった。研究と「生」が、こんなふうにつながっていること、それが、このように明かされたことに、つよく、こころが動いた。それから、あなたは、どうして本を読むようになったの? と問われている気も、したのだった。

 「ただ出口がひとつ欲しかったのです」。
 本という存在によって、暗い場所から抜け出せるちいさな出口を見つけ、そこから、おそるおそる歩いてきた、猿としての、自分の姿が見える。

2025年1月24日金曜日

拾い読み日記 315

 
 誰かが本を読むと聞けば、僕はほっとします。本を読みたいと思う自分にそのひとが出会えたという事実に安心するのです。愛することを望む自分に会えたひとがいれば、それが誰であれ僕はほっとしますが、それと同じことです。(パオロ・ジョルダーノ)

 本屋で手にした、『ダリタリア・リブリ』というフリーペーパーに、いい言葉が載っていた。
 今日も本は読めなかったが、本を読みたいと思う自分は、いた。

 ポスターの制作を進める。昨日描いた絵に、色を塗ってみる。楽しい作業だったけれど、出来上がったのを見てみると、塗らないほうが、ずいぶんいい気がした。
 考え直すことにする。

 53歳の誕生日に、「六花」をみにいった。雪のかたちがこころにしみとおって、なんだか、祝福されているような時間だったなあ、と思いだしている。

2025年1月22日水曜日

『六花』



 宮下香代さんの展示「六花」、gallery SUにて開催中です。宮下さんといっしょに制作した冊子『六花』も、ぶじに、できました。
 作品写真は湯浅哲也さん、栞もついていて、山内彩子さんにことばをよせていただきました
 ごらんいただけたら、さいわいです。

2025年1月12日日曜日

拾い読み日記 314

 
 とても長いあいだ、頭上にかかっていた雲が、今朝は消えていた。どこにいく予定もない朝。のびのびした気分で、スコーンをたべて、落書きをしてあそぶ。
 
 おととい、ふたりの詩人の朗読会にいって、すばらしかったなと思い返して、詩集を読んで、詩を書いてみたい、とはじめて思った。
 今日、数行書いてみて、なんてちんぷなんだ、と投げ出した。

 昨夜は、ふたりの詩集(『ノックがあった』と『冬の森番』)を、食後のテーブルにのせて、Mとちいさな朗読会をひらいた。
 「オールトの雲」を読んだら、「白鳥とラーメン」を読んでくれた。それからもう一篇、「ウィークエンド」を読み、「会話」を聞いた。

 声に出して読むとき、詩が、ふたつの空間にひびく感覚があった。部屋のなかと、からだのなか。空気が変わり、よどんだものが消えていく。しずかな場所で、深い読書をしたあとのように、みたされた。

 (ところできみの好きなものはなに)
 すぐにはこたえられない。どうしてこんなにねじれてしまったのだろう、と思う。

 刷り色が決まらなくて、カラースライダーを動かしてばかりいた明け方、空をみて、無意識にCMYKの数値に変換しようとした、デジタルに占領されてしまったあたまを、まっしろの状態にしたい。空の色がそのまま、なににも変換されずに、しみいってくるこころがほしい。
 言葉は、そのあとでいい。

2025年1月7日火曜日

六花


 『六花』という冊子をつくっています。りっか、ろっか、むつのはな。雪のことです。
 雪をモチーフとした宮下香代さんの作品と、雪のことばをあわせて、一冊にしました。すこし、活版印刷のページもありまして、いま、家で、印刷中です。
 1月18日からGallery SUで開催される宮下さんの展示「六花」でご覧いただけますので、ぜひ足をお運びいただけたら幸いです。
 くわしくは、こちらに。




 今年も、New Year Greetings展に参加しています。盛岡の書肆みず盛りにて。
 書肆みず盛りに、昨年10月、はじめて訪ねることができました。木のにおいのする、あたたかなかんじの場所でした。
 年賀状展の参加者のなかに、なつかしい名前もあって、こうして、あたらしい場所で、いっしょに展示してもらえることを、うれしく思っています。
 お近くの方、どうぞよろしくお願いします。