2025年9月18日木曜日

言葉と冊子




 福岡のナツメ書店で、これまでに作った冊子や刷った言葉を展示します。
 いま、新しい本を作っています。『ある日   読書と断片』という本です。前につくったちいさな冊子の『ある日』と同じ形式ですが、仕様がすこし変わります。ページ数も、32ページから162ページに増えます。そんな厚みのある本をヒロイヨミ社が作るなんて、われながら、ふしぎな気がします。ただ、どんな本になるのか、できてみないとわかりません。どきどきしながら制作しています。いまはまだ、本は、あたまのなかです。


ヒロイヨミ社 言葉と冊子  

2025年10月10日(金)−  11月2日(日)
12:00−17:00
close 月・火・祝


1010 19時より「ヒロイヨミ朗読会」を開催します。参加者がそれぞれすきな本のすきな一節を持ち寄り、朗読する会です。

日 時|10月10日(金) 19:00〜 (18:30オープン)
料 金|1,000円 + ワンドリンクオーダー
場 所|ナツメ書店 古賀(311-3101 福岡県古賀市天神1-9-8)
ご予約|ナツメ書店のメール(natumesleep@gmail.com)まで、①お名前 ②お電話番号 ③人数をお知らせください。


 ナツメ書店の西戸崎店へは、三年前にうかがいました。置いてある本がみんな、ひかってみえるような、とても素敵な本屋さんでした。古賀店は、どんなところでしょう。うかがうのを、たのしみにしています。

2025年9月14日日曜日

洋書まつり 2025


 

 洋書まつりのポスターとフライヤーをデザインしました。
 油性マジックと鉛筆と消しゴム(電動)で、積んだ本を横から見た図を描きました。
ポスターを、ちいさな仕事部屋に貼ってみました。イベントの詳細は、こちらに。
 洋書まつりでは、毎年、わくわくするようなアートブックを見つけます。昨年は、書肆とけい草の棚から、クロード・ヴィアラ、ルイーズ・ネヴェルソン、ソニア・ドローネの作品集を買いました。今年も、たのしみにしています。
 仕事部屋には印刷機もありますが、このところは、デザインの仕事で、Macにむかってばかりです。10月の展示のことも、近々、お知らせしたいです。

2025年9月7日日曜日

拾い読み日記 335

 
 古い建物の一室で出版物を作っている人びとがいて、たまたま手伝うことになり、その作業の合間にトイレに立った。個室に入って用を足そうとすると、シャワーヘッドから勢いよく水が出てきてずぶぬれになった。なぜこんなところにシャワーがあるのか。驚きと怒りと寒気でふるえながらも、この理不尽な出来事がじぶんの人生の象徴であるようにも感じられた。今はそんなふうには思わない。夢のなかでそう思っただけだ。
カフカの日記を気まぐれに読む。

 書くにつれて高まる不安。考えられることだ。言葉という言葉は、精霊の手の中で向きを変えられて——こんな風に手が震えるのがいかにも奴等らしい動き方だ——投槍となって話者に戻ってくる。(『カフカ全集 Ⅵ 日記』)

2025年9月5日金曜日

拾い読み日記 334


 モニタを凝視して文字や画像の位置と大きさを微妙に調整しつづけていると、息は浅くなるし肩もこわばる。ベランダに出てみると、思いがけず青空が見えた。西の空と東の空では色がちがっていて、西のほうのシアンには、マゼンタがすこしだけ混ざり、東のほうのシアンには、イエローがわずかに入っている。雲の色も異なっている。西の雲は光をふくんだ乳色で、あまくあかるい夢のような色。東
の雲はおだやかな濃淡のあるライトグレー。いずれも南の一点にむかってうごいている。流されていく。

 テニスの試合を見る人のようにあたまを右に左にしばらく動かし、それから部屋に戻り、 つかれた、とひとりごとをいってぬいぐるみの隣にねころんだ。手をのばして、一冊の詩集を手にした。今みた景色にふさわしい言葉がほしい、と思った。
 詩は読まずにエピグラフだけ読んで、今日の読書はそれでおしまい。

  一冊の本はおおきな共同墓地である
 そこでは大部分の墓石の名が風化して
 もはや判読できない。
         マルセル・プルースト

2025年9月2日火曜日

拾い読み日記 333


 あいまいににじんだ月の下、夜のプールで若者たちが遊ぶたのしそうな声がする。黄色い声と低い声がまざりあう。あんまりたのしそうだから、すこしせつなくなった。できれば永遠にそうやって遊んでいてほしい、と思う。それがむりなら、いつまでもこのたのしい夜のことを、おぼえていてほしい。

 午前中、藍色の絵の具でキーボードをよごした。いくら拭いても藍色は取れなかった。それから、泳ぎに出た。水底の光をみつめながらゆらゆらと泳ぐ。何にも、誰にも所有されないきらめきが、そこにはあった。

 「あのころ僕は自然になろうと思った。」(ハンス・アルプ)
 
 自然になる、とは、自然を模倣することではない。自分が自然であるということ。自分の内部の自然にしたがうことだ。

2025年8月31日日曜日

拾い読み日記 332


 こころのなかにわだかまるものがあるのだが、それはことばになろうとしてなれない、想いのかたまりであるらしい。そのためにからだも重く感じるが、このわだかまりはわるいものではないのだし、すぐに外に出そうとしたら、まちがえる気がする。どうしてだか、そんな気がする。だから、しばらくは、かかえてすごそうと思う。

 ポスターの入稿準備とフライヤーのラフ制作をすすめる。なかなかすすまない。部屋のなかにさまざまなものが散らばっている。線とか文字とかかたちとか紙とか。そのなかのひとつをひろいあげて、読んだ。

 コツプに一ぱいの海がある
 娘さんたちが 泳いでゐる
 潮風だの 雲だの 扇子
 驚くことは止ることである

 4年前の8月につくった、二つ折りの「ヒロイヨミ」。立原道造の一篇の詩だけをのせた。

 一昨日、バスのなかから見上げた空が、とてもうつくしかった。こまかいうろこ雲が翼のかたちをなしていて、金色のひかりをあびて、空の果てへとむかうおおきな鳥を、まぼろしにみた。ちょうど、「There is a light that never goes out」を、きいていたときだった。

2025年8月22日金曜日

拾い読み日記 331


 受験の夢をみた。国語の試験で、ぜんぜんわからなくて、あせった。紙をめくると草書が出てきて、読めない!と、あたまが真っ白になった。
 どうして今ごろそんな夢をみたのか、といえば、このあいだ卓球の試合の合間に、チームメイトのAさんと、大学受験の話をしたからだろう。Aさんがいった。「コンノさんは受験なんて遠いことでしょうけど、ぼくはわりと最近のことですから」。Aさんは大学院生で、23歳くらい。おまえだって気付いたら50過ぎになってるからな、と思ったけれど、いわなかったし、べつに、むかっときたわけではない。35年前のことを、そんなに遠いことだと思っていない自分に、気がついたのだった。
 
 きょうが昨日になるのが
 ね ふしぎでしょう

 (野見山暁治『セルフィッシュ』文・田中小実昌)

 『セルフィッシュ』を開くと、いつも、のびのびした気持ちになる。明日がきょうに、きょうが昨日になることを、いつまでもふしぎに思っていてもいいし、35年前を遠いことに感じなくても、かまわない。表紙が焼けて、しみだらけになった本。それも模様みたいでわるくない。「時間」をめぐる本だから、ちょうどいい。

2025年8月16日土曜日

拾い読み日記 330

 
 朝、窓辺で、母親とプールに向かう子どもを見かける。浮き輪をつけて歩いている。すこし跳ねている。もう水の中にいるみたいだ。Mを呼んで、いっしょに眺める。彼のこころの、きらきらしたものを分けてもらった。これから、あの少年のように、たのしいことを、ものすごくたのしみにして、いきていこうと思った。

 ポスターのラフをつくったり、校正刷りを読んだりして、読書はほとんどできないが、校正刷りを集中して読んでいて、こころが動くので、満たされない感じはない。
 
 いそがしくなるまえにレオ・レオーニ展とルイジ・ギッリ展にいけて、よかった。

 『レオ・レオーニと仲間たち』には、書き留めておきたいことばがたくさん。「お話とは、個人的なものも含めて、逃げないようにしっかりとつかまえておくべきものなんです。そうしないと、しまいには何も残りません。」

 レオ・レオーニの絵本の原画は、一枚一枚が、手でつくりあげられた世界、という感じで、みごたえがあった。手のあと、指のあとがあちこちにのこされていて、つくることがたのしくてたまらない、という声を、耳元で聞いたような。

2025年8月7日木曜日

拾い読み日記 329


 この夏いちばん暑い日に、術後の検診で病院へ。採血を待っているとき、外科の診察室から出てくる主治医を見かけた。だるそうな高校生のような歩き方で、不安になる。いいおとななのに、職場でこんなふうに無防備に歩いていて、この人は、だいじょうぶなのだろうか。こんなてれてれ歩く人に、自分の身体をあずけて、よかったのか。
 とはいうものの、術後はとくに問題もなく、診察も、あっさり終わった。処置をほどこされたからだの内部や取りだされた胆嚢の写真を見せられ、正視できないものもあったが、それらは手術直後につきそいのMが見せられたものと同じものらしく、Mに、もうしわけない気がした。
 「おわりです」といわれ、お礼をいって診察室を出た。
 治療がおわったうれしさよりも、医師の覇気のなさが心配になった。入院中、病室に様子を見に来てくれたときは、まだ生気があった。目も合わせてくれたし、たよりになる感じだった。今かんがえると、激務のなか、疲れきってはいても、真摯に対応してくれたのだと思う。
 
 病気になるのは、よくあることだし、死ぬことは、必然的なことである以上、医者や病院について、もっと知りたいと思うことは、無駄ではないだろう。そこで、朝比奈秋の『受け手のいない祈り』を、読んでみることにした。カバーの医師の姿は、著者自身だろうか。青と黒の色づかいが、不穏である。
 この人が、ちょうど芥川賞を受賞した日に、たまたま居酒屋にいて、テレビでインタビューを見ていた。淡々と話す様子に、どこか、ふつうの人間とはちがうものを感じて、目が離せなかったことをおぼえている。うつくしく枯れた、植物のような人だ、と思った。

 そういえば、最後の診察で、主治医が一度だけ、こちらの顔を見た。はげしい運動をしてもだいじょうぶか、とたずねたときだった。卓球なんですけど。
 目が合った。血走った目だけれど、いい目だ。この人のなかにひそむ、何かとてもまっすぐな、はりつめたものが伝わってきて、はっとした。試合のときに、正面に立つ人の目に、よく似ていた。

2025年7月29日火曜日

拾い読み日記 328

 
 今日もプールはにぎわっていて、たのしげな声にこころがあかるむ。日がしずむころ、ようやく、部屋から外へ出た。北の空にはコーラルピンクの雲がたなびき、西の空では三日月がやさしくかがやいていた。金色でも銀色でもない、生成り色の光。やわらかできよやかな光。

 ポール・オースター『オラクル・ナイト』を読み終えた。

 人間が人間に対してそれをやったんだ、これっぽっちも疚(やま)しく思わずに。それが人類の終わりだったんだよ、ミスター高級靴さん。神が人類から目をそむけて、永久に世界から去ったんだ。そして俺はそこにいて、自分の目で見たんだ。

 小説の中の小説で語られた言葉は、真実であり、現実だった。力をうばわれ言葉をうしなっていた。今は、力をあたえてくれるものを必要としていて、そのひとつは、「本」であり、こういうときに、なにより、本とは、本以上のものだ、と感じる。

2025年7月18日金曜日

拾い読み日記 327


 「コンノさんの石は、まあまあですね」と、チャーミングな看護師さんがいった。すごく大きい石の人もいるんですよ、と。
 出てきた石は、10ミリ弱のものがふたつだった。このような塊がからだのなかで作られたなんて、しんじがたい。からだのなかでできたものが目の前にあることも、ふしぎでしかたがない。捨てたいけれど、もったいないような気がして、捨てないでおく。ときどきケースから出して、手のひらの上でころがしている。

 石は内蔵だ
 ブラヴォー,  ブラヴォー
 石は空気の幹だ
 石は水の枝だ

 (ハンス・アルプ「家族の石」)

 このところ、アルプの作品集を、たびたび繙いている。とりわけ彫刻作品に惹かれ、眺めていると、よい気持ちになるのはどうしてだろうか、とかんがえている。からだの奥にひそんでいるなめらかな芯を、なでられて、かたどられた、みたいだから? いびつで、きみょうで、のびやかなからだへの、あこがれがつのる。
 作品集を閉じたあと、水彩絵の具と筆で、てきとうにかたちを描いた。何のためでもなく、ただ、やってみたいから、そうした。

2025年7月16日水曜日

拾い読み日記 326


 手術が「一瞬です」といったのは外科医で、もちろん、胆嚢摘出手術が一瞬で終わるわけはなく、つまり、彼は手術をする側でなく受ける側の感覚のことをいったのだ。目を閉じて、開いたら、もう終わっていると。手品みたいだ、と思ったせいだろうか。臍から内臓でなく鳩が出てくるイメージが、しばらくあたまから離れなかった。

 外科医はいつも、外科医らしく、キッパリしたもののいいかたをした。むだなことは、一切いわない。手術がはじめてだから、ちょっと怖い、といえば、「あたりまえです」。手術後には「予定どおりです」。翌日に、傷が痛いと伝えると、「昨日の今日だから」といった。
 しかし、邪気がなく、まっすぐな目をしているので、さほどつめたい感じはしなかった。
 退院の日の朝には、前日とさほど変わっていない臍まわりを凝視したあと、傷口のテープを、明日剥がすように、と指示した。そのあとは、「野ざらしで」。野ざらしの臍とは何か。傷跡には何も貼らないように、ということだった。

 入院の3日前に印刷所で立ち会いがあり、そのあと寄った本屋で買ったポール・オースター『オラクル・ナイト』を読みすすめる。「私は長いあいだ病気だった。」という一文からはじまる小説だ。

 何もかもが揺らぎ、ふらつき、いろんな方向に飛び出していって、最初の何週間かは、どこで自分の体が終わってどこから外界がはじまるのかも定かでなかった。

 本は、すこし読んでみて、いけそうだ、と思わないと買わない。とくに小説は。2ページ目の、この文章を読んだから、この本を手に入れた。病のあとの、ややおとろえた身体で読むと、虚と実の境目だってあいまいになる。今朝は、求婚してきた人と連絡がとれなくなる夢をみた。うたがいようがなく、『オラクル・ナイト』の影響で。

2025年7月13日日曜日

拾い読み日記 325


 なおす、のはどうやるのです?
 手術です。
 シリツ! シリツですか?!(とは、わたしはいわなかったけど、そのとき、突如、つげ義春の『ねじ式』の女医が、「シリツします」といったのを思い出していたのだ。)

 手術の前日に、藤本和子『砂漠の教室 イスラエル通信』を拾い読みした。切羽詰まっていたので、手術や、麻酔や、検査について書かれたところばかり読んだ。
 婦人科の、内診台に吊してあるカーテンについて。「配慮」によって、上半身と下半身は分けられる。切り離される。診察室は、個室ではなく厩のようなつくりになっているから、「コレ、ダレ?」と、医師にいわれたりする。わたしはわたしではなく、ひとつの下半身になり、医師のほうは、顔のない、手になる。いや、手、というのは、まだ人間的だ。「あいつらは顔のない、ゴム手袋をはめた手だ。」

 手術を振りかえって、もっとも恐怖をおぼえた瞬間は、手術室に入ってからの確認のときだった。
 お名前は。「コンノノブコです」(正直にいえば、これがわたしの名前、という実感はあまりなく、ただ、保険証に刷ってある名前を便宜的に使用しているに過ぎない)。手術する部位は。「タンノウです」。それから、手首につけられたリストバンドのバーコードを、バーコードリーダーで、「ピッ」と読み取られる。レジに持ってこられた商品のようなわたし。これからからだを切られて内臓を出される、その前に耳にする音にしては、軽すぎる気がした。

2025年7月10日木曜日

拾い読み日記 324


 二泊三日の小さな旅を終えて帰宅した夜、ベランダから、桃色の月が見えた。まるくて甘くてやわらかそうで、口に含むと、すぐに溶けていきそうな月だった。

 ねむっていたあいだにみていた夢には、音がなかった。小さな町を、惑いながら移動した。だれかに連れられていたのかもしれない。そこはかとない不安のなかに、これまで感じたことのないような陶酔感があって、もっと先へすすみたかったのだが、突然、肌色の巨大な壁があらわれて、そこが、いきどまりだった。「終わりましたよ」。あの瞬間、目が覚めて、息が止まった。それから、新しい呼吸がはじまった。つまり、あのとき、新しい生があたえられたというのか、不思議だけれども、そんな感じがしている。
 長い夜を越えて、翌朝には、そろりそろりと、初めて歩く人のように歩いた。

 川上弘美『ぼくの死体をよろしくたのむ』を持っていって、すこし読んだ。部屋を出入りするひとびとに、なんとなくタイトルを見られたくなくて、隠しながら、「憎い二人」を読んだ。

 「手術とは、他人の手をみずからの内部に入れることだろう。」(平出隆『左手日記例言』)
 ひととき、他人にまかせた(よろしくたのんだ)身体は、自分ひとりだけのものではないように感じられる。この感覚が、長く続くといいと思う。

2025年7月3日木曜日

tweet 2016/7/3

 
 昨日は、さまざまミスを犯したが、どうにか3台刷りおわり、完成までの目処がたった。じわじわと、本ができていく。何かを追いつめていくようであり、どこかに追いこまれてゆくようでもある。不安の「安」の活字が見つからず、ある歌が刷れなかった。

2025年7月1日火曜日

拾い読み日記 323

 
 7月1日。プール開き。窓辺で一番のりの泳ぎ手を見まもる。ゆっくり歩いてきて、水に足を入れて、すこしバランスを崩した。思ったより水が冷たかったのか。空には繊細なレースのような白い雲がひろがっていて、それは波打ち際の景色にも似ていたので、いつか見た海があたまをよぎった。

 昨夜はシリアルキラーに追われる夢をみて、午前2時に目を覚ました。えたいのしれないおそろしいものがどこまでも追ってくる、しかも、ものすごいはやさで。脚は車輪のようだった。シリアルキラーが背負っていた重そうな荷物の中身はわからなかったが、ガチャガチャと金属音がしたのはおぼえている。目覚めたとき、上半身は汗をかいていたが、下半身は冷えていた。

 それから眠れなくなったので、本棚を眺め、クラリッセ・リスペクトル『水の流れ』に手をのばして、少しだけ読んだ。

 少し怖くもある。自分の身を委ねることが。次に訪れる瞬間は未知だから。次の瞬間を作るのはわたし? あるいはそれは自ずとできあがる? わたしと瞬間はいっしょに呼吸をしながら次の瞬間を作る。闘技場に立つ闘牛士のように機敏に。

2025年6月28日土曜日

tweet 2017/6/28


 たとえば一枚の紙を捲るように、くるんと球体の裏側に廻ってみる。水の季節の息苦しさから逃れて。この部屋の窓の外にも、ほんとうは、海が広がっている。「
海鳴りは 憑いてやまないものとして/天地とは 覆るのがつねだと心得て。」(エリザベス・ビショップ「サンドパイパー」)

2025年6月27日金曜日

tweet 2014/6/27

 
 J・ウィンターソン『オレンジだけが果物じゃない』の原書が届く。この本は、この町で最初に買った本。この言葉がとても好きだ、この人が好きだ、と思った。I want someone who will destroy and be destroyed by me.

 買ったときのレシートもはさんである。ときどき開いて確かめる。壊れた自分の欠片が、本の中で生きている。ときどき会いたくなる。

2025年6月26日木曜日

tweet 2017/6/26


 本をひらく。ノドがあらわれる。一筋の裂け目。白いふくらみ、なだらかな線。ひとの臀部の魅力に通じる。「回転軸」は隠されている。とじられた本は立つことを命とする。(長く積まれた本は歪む。)長い歩行の途上にあるものを、そっと呼びとめ、束の間の対話をする。

2025年6月25日水曜日

tweet 2017/6/25

 
 午前3時に帰宅。はっと気がつくと掛け布団の上にねていた。ワンピースのままだった。湿気が多くて、ひんやりして、鰭に退化してゆきそうな足指に触れながら、打ち上げられた天使たちをみている。

2025年6月24日火曜日

tweet 2012/6/24


 言葉と声に溺れないようにしなければ、と思うけれど、もっと溺れたい、とも思う。読むときも書くときも話すときも聞くときも。うつくしい響きの海のなかで。みなもに揺れる光に惑わされて。

2025年6月11日水曜日

拾い読み日記 322

 
 梅雨空はあわい鉛色。たっぷり水をふくんだ墨の色。町を覆いつくす憂鬱な灰色に彩りをあたえているのはシジュウカラのさえずりで、数日前からその声を耳にしていた個体が、今朝、隣家のアンテナにとまっているのを見かけた。近くの木にいるらしい別の個体と鳴き交わしている。あのようにちいさなからだから発せられる音とはとても思えず、しばらく眺めていても、その不思議は消えない。距離感の問題かもしれない。あの場所に存在する小さな「もの」と、ここに存在するくっきりした声の関係が、うまくつかめない。

 数日前に読んでいたミシェル・レリス『オランピアの頸のリボン』をひもといて、とある箇所をさがしながら目にとまった別の文章を読んでいたら、またあの鳥があのアンテナでさえずりはじめた。レリスの言葉と鳥の声がつかのま重なり混じり合う。詩の一行に異なる言語が不意に挿入されたような、それはいきいきとした違和感だった。

 レリスは、書くことを、投縄で獲物を捕まえることにたとえる。「そして、この投縄がとらえるのは、わたしの外部にしろ、内部にしろ、つねになにか野生的な(生で、手つかずで、そのうえ御しがたい)ものであるのではないだろうか?」(下線部は傍点)

2025年6月7日土曜日

tweet 2013/6/7


  二日つづけて満員電車に乗って印刷所に通い刷り出しに立ち会ったらもうくたびれはてて、帰宅してすこしお酒を飲んで、すぐに寝た。10時間くらい。一昨日、湯立坂で聞いた親子の会話を思い出す。「なにいろのあじさいがすき?」 おかあさんに聞かれて、男の子はたしか、ピンク、と答えただろうか。

2025年6月5日木曜日

tweet 2014/6/5


 「コーヒーカップ」、と入力しようとして、うっかり、「珈琲河童」になる。作業中断。珈琲河童のあたまの上のお皿はやっぱり、コーヒーカップ。珈琲がなくなったら、しんでしまう。もしくは、ねむってしまう。梅雨入り。珈琲をのんでもねむたい。

2025年5月23日金曜日

拾い読み日記 321

 
 「ある日」のことが書かれた文章を、自分の定めたルールにしたがって(時系列にしたがわずに)編むことで、今日という日、今という時も、いつかのどこかへ思いがけず繋がっていく。どこか、軽くなっていく感覚があった。過ぎ去った日々も今過ぎつつある時間も、ふたたびやってくるものであり、何度でも出会い直すものである。それは、「日記」を書き、「日記」をつくることによって、あきらかになった。
 「日記とはひとつの解放行為(ベフライウングスタート)なのであって、それが勝利する場合、その勝利は密やかにして無際限である。」(ヴァルター・ベンヤミン「〈青春〉の形而上学」)

 いつもの発声練習のあと、隣の部屋から歌が聞こえてきて、何を歌っているのかはまったくわからないが、その音楽は、神、もしくは天上にいるものにむけてつくられたのだ、ということは、理解できた。

 五月の窓辺に、はかなくながれていく雲と、つややかな緑と、きよらかな歌声があって、もう、自分のためにのぞむことは、何もないように思えた。

2025年5月15日木曜日

拾い読み日記 320

 
 立夏を過ぎたころから、虫が増えてきたようだ。今朝は、あおむけで動けなくなり、にっちもさっちもいかなくなった虫を、2匹、ひっくりかえしてたすけてあげた。虫は、何が起こったかわかっていないだろう。いや、ひょっとしたら、わかっているかもしれない。いつか、こちらのほうが、にっちもさっちもいかなくなったとき、たすけにきてくれたりして、などと、妄想がひろがる。

 自分で書いた文章を自分で編集して自分で組んで自分で校正して自分で絵を描いて自分で装幀して自分で売る。「自分」が多すぎて、息ぐるしい。しかしそれをやろうとしている。今回は、自分で印刷も製本もしないつもりだから、その点では、あらたなこころみ、といえる。

 一冊の本をつくりあげること、それは書物一般を否定することである。ブッキッシュな知識から離れて、生きた体験によってこれを置き換えること。(……)ものをつくるという意味での「詩学」に属する体験である。(『ミシェル・レリス日記 1 1922−1944』)下線部は傍点

 書物とはなにか。こうして、自分で自分の本をつくることでしか、わからないことがあると思う。書物と自分の関係を、あたらしくすることはできるだろうか。

2025年5月8日木曜日

拾い読み日記 319


  Mが10代を過ごした西武新宿線沿線の町を、いっしょに歩いた。
 ここにかつて本屋があった。ここには古本屋があった。彼の言葉が町の歴史の断片を伝えてくれた。30年前の町のすがたが想像の中でよみがえり、自転車で本屋にむかうまぼろしの少年が、遠くから手招きをする。

「まだあった」店はふたつ。薄暗くて埃と黴のにおいの立ちこめる古本屋には茶色く焼けた本ばかりが並び、奥の方で食器を洗う丸い背中が見えた。そうっと入って、そうっと出てきた。出てから、深呼吸した。

 もうひとつの店は、駅から歩いてすぐの、ここもやはり、静かな、大きくはない新刊書店だ。近所の子どもや大人がふらりと普段着で立ち寄れるような、親しみやすい店構えの店だが、しばらく店内を歩きまわって棚を眺めていると、ここはふつうの町の本屋ではない、とわかった。いや、どこよりも、「ふつう」の本屋である、といえるのかもしれない。どのような言葉でならその良さを伝えられるのだろう。ぼんやりかんがえていたら、「身の丈」という言葉がうかんだ。書棚の背後に、長いあいだ、粘りづよく、身の丈にあった暮らしと読書を続けてきた人の存在を感じた。

 この店をはじめて訪れたとき、ハンナ・アレント『暗い時代の人々』(ちくま学芸文庫)を購った。

 最も暗い時代においてさえ、人は何かしら光明を期待する権利を持つこと、こうした光明は理論や概念からというよりはむしろ少数の人々がともす不確かでちらちらとゆれる、多くは弱い光から発すること、またこうした人々はその生活と仕事のなかで、ほとんどあらゆる環境のもとで光をともし、その光は地上でかれらに与えられたわずかな時間を超えて輝くであろうということ——こうした確信が、ここに描かれたプロフィールの概略的な背景をなしている。(「はじめに」より)
 
 弱い光は、わかりにくい。人の目を、強くひこうとしない。かつての自分なら、見過ごしていただろう。
 この書店では、落ち着いて、読書しているときのような呼吸で、本に向かいあうことができる。一冊の本と出あうための、一人の人間になれる。そんな書店の空間に、子どものこころだけでなく、大人の精神も、涵養されるのだと思う。

2025年5月7日水曜日

tweet 2016/5/7


  なかなか取りかかれないしごとに取りかかる前に、午後の散歩に出かけた。川沿いの緑がさやさや歌っている。艶やかな硬い葉は、降る光を跳ねかえす勢い。小さな子どもの手のひらみたいな、若い楓の葉。ひらひらと、からかうように黒い蝶。腕を這う蟻。

2025年4月4日金曜日

tweet 2025/04/04


 青空を待って、桜が散りはじめた。

 朝の光のなか、いちまいいちまいの花びらが、それぞれの気まぐれなきらめきとともに視界に入ってくるので、まどわされてしまって、想いのかたまりも散り散りになり見えなくなる。

 やわらかな指が千切って空に放った白い紙きれ。風にのると、とても遠くまでゆくだろう。

2025年4月2日水曜日

tweet 2017/4/2


  桜に思いを馳せながら、電卓を叩きつづけた日。夕暮れの空が綺麗だった。ほんのり染まった頰みたいで。昼間は同じ道でニワトリの声をきいた。朝は印刷にまつわる悪夢をみてうなされた。

 カフカの手紙を少しよむ。自分の本質は「不安」だと断言する人。手紙を書きすぎてしまう人。

2025年3月30日日曜日

tweet 2025/3/30


 電線にとまった五羽の鳩のあたまのうえを、風にのって飛んできた一枚の花びらが、ゆっくりと通りすぎていった。あえかな白は、そのうち、空の青にまぎれた。

 あのとき、なぜだろう、春の芯に触れた気がした。いつのまにかやってきて、かろやかに去っていくもの。だれも知らない、つかのまの恋のように。

2025年3月29日土曜日

tweet 2015/3/29


  電車で一時間の旅。車窓からみる春の町は、流れる川のようだった。あそこにふわり、ここにもふわり。桜がうかんでいる。呼んでいるのか、呼び交わしているのか。

「子供の頃から、自分はただ流れ去る一つの生体にすぎないと感じてました。」

 手元の文庫本を読み続けられない。はやく逢いにいかなければ。

2025年3月28日金曜日

tweet 2025/3/28

 
 春は、一度はじまってしまえば止まらない。加速していく。

 家から出られず日々眺めている矩形に、淡い緑と桃色の分量が増えた。裸の欅の簡素な美はこの冬を過ごす力になり、愛着があったが、鶸茶色の薄い衣を纏った今も、素敵だ。

 ひたむきに天をめざすものたちが誘いかけてくる。“Up we go! Up we go!”


2025年3月27日木曜日

tweet 2017/3/27


  ぼんやりメールを書いていて、「チラシ」が「虎師」に変換され、『プー横丁にたった家』を探しに立った。

「トラーってものは、けっしていつまでもかなしんでなんかいないんだ。」と、ウサギは説明しました。「やつらはおそるべき速度で、わすれてしまうんだよ。」

 そこで思いだしたことがある。

2025年3月26日水曜日

tweet 2015/3/27

 
 雲ひとつない春の空。どこからどこまでが空なのだろう。

 おわりのない、すいこまれそうな青の一点に、欠けた半透明のものがふわりと浮かぶ。風がふけば飛ばされそうな儚さで。

 陽射しの下、抱かれた赤ん坊もまぶしそうにしていた。日ごとふくらんでいくものの、いまにもはじけそうな気配に身震いする。

2025年3月8日土曜日

Book⇄Life





 水中書店からの依頼で、「Book⇄Life」というポスターをつくりました。本⇄人生/生活/生命。本からLifeへ、Lifeから本へ。手をうごかしてみたら、かたちができました。ぶきような、じぶんらしいかたちになりました。
 入り口に貼ってあります。何か、あかるい、いきいきしたものを感じてもらえたらいいなあ、と思います。
 本屋さんに来る人だけでなく、通り過ぎる人にも、見てほしいそうです。つくったものが、町にひらかれている、というのか、町の一部になることを、新鮮に感じます。 


追伸 ananas pressの相方aこと都筑さんが山口さんと本の話をするそうです 詳細はこちら

2025年3月4日火曜日

拾い読み日記 318

 
 花がだいぶ散ってものさびしく見える梅の木に、メジロと、ヒヨドリが来た。ヒヨドリのからだは、細い梅の枝にとまるには大きすぎる気もしたが、そんなことはおかまいなしに、白い花々とくちづけを交わし、それから、すーいすーいと低い飛行で去っていった。灰色の世界に、灰色のからだで、自由に線を描くように。

 ひさしぶりによく眠れたので、あたまがすっきりしている。夢の中で聞いた歌がなまなましく記憶に残り、それが何の歌か知りたくて、鼻歌検索までやってみたが、でも、どうしても、わからないのだった。きっと、存在しない歌なのだろう。昨年の終わりに亡くなった華やかな人が、ステージで歌ってくれた。人をはげますような、いかにもポップソング、という感じの曲だった。流した涙も君の宝物になる、というような。

 先日、卓球の試合で、くやしい思いをしたから、そんな夢をみたのだろう。ものすごくサーブが切れている人、攻めも守りも上手い人、淡々と力みなく強い人、決めるべきところできっちり決めてくる人に対して、ほとんど歯が立たなかった。自分は、技術的にも精神的にも、よわすぎる、と思った。
 なかでも、同世代だろうか、卓球に自分を賭けている(ように見える)人の気迫は、すごかった。フルゲーム、10−9でマッチポイントを取ってサーブを出す前の、間合い、眼差し。ころす気か、と思った。彼女にとって、試合とは、決闘の場なのだ。
 
 あそこまで、卓球に、自分を賭けることはできない。体力にも気力にも、かぎりがある。卓球よりは、「本」に、自分を賭けたい。
 
 試合が終わって、季節はずれの陽気のなか、卓球を通じて知り合った人たちと、いっしょに駅までの道を歩いた。のどかな景色がひろがり、隣を歩くOさんの育った町の話を聞いたり、それぞれの方言の話をしたりしていたら、しだいに、気持ちもほどけていった。
 知り合って間もなくて、年もかなり離れているのに、こんなふうにしぜんに話ができるのは、練習のときに向かいあっているからかもしれない。卓球場以外で会うことはないけれど、どういう人なのかということは、なんとなく、わかる。
 
 駅に着いてみんなと別れ、そういえば、と本屋さんに向かった。数年前に、かまくらブックフェスタのフェアでお世話になったお店。はじめて訪ねたけれど、とてもいい本屋さんだった。
 棚をゆっくり見ていたら、あたたかな、なぐさめと、希望のようなものを感じた。並べられた本が、砦のようにも見えた。ある意志をもって並べられた本たちは、人に、たしかな、力を与えることができる。言葉のいらない世界から、言葉の世界へ帰ってきて、そう思った。

 一冊、探していた本を買ってリュックにしまい、乗り換えの駅でビールをのみ、くたくたのからだをひきずるようにして、家路に着いた。

2025年2月16日日曜日

ぜるぶの丘で

 
 昼寝から覚めて、放心したまま珈琲豆を挽いていて、ふと顔をあげたら、目のまえに「Green & Fresh」という言葉があった。オリーブオイルの瓶のラベルの文字だった。赤いリボンを模したグラフィックに、白抜きの、太めのセリフ体で刷ってある。いつもそこにあるのに、なぜ今日だけ目にとまったのかわからないけれど、しばらく、しげしげとその文字を眺めていた。じぶんは、いろいろな文字、いろいろなフォントに囲まれて、暮らしているのだな、と思った。

 だれにでも好まれることつらつらと行間の空くメイリオで書く 

 天野陽子歌集『ぜるぶの丘で』より。さっき、この歌を読んだから、きっと、そんなことを思ったのだ。そういえば、ずうっと前、対談の文字起こしに疲れたら、ぜんぶ丸ゴシック体に変えて作業する、といっていたあの男の子は、元気だろうか。あまりにも疲れた人には、明朝体の文字は、痛いのかもしれない。細いゴシックは冷たくて、太いゴシックは強すぎる。
 
 水濡れたページのように横たわる他人の話を聞きすぎた日は

 人や、本や、物との距離のとりかたが、いいなあ、と思った。べたべたしない。つきはなしもしない。ときには、人が物に、物が人に、なりかわったりもして。
 たとえば、こんな歌。

 いくつものわたしが四角くまとまって一足先に旅立った朝
 
 遠方への転居で、荷物を送ったときのことを、よんだものだろうか。これまで、10回、転居してきたが、いちばんはじめの、いちばんおおきな引っ越しの作業のことは、あまり記憶がない。あのとき、18歳のわたしは、何を捨て、何を持っていったのだろう。
 箱に詰められた、「いくつものわたし」。それらと、つかのま離れる、さみしさと、さわやかさ。

 歌に余白があると、そこに自分の記憶を重ねることができる。言葉にしなかった、たくさんのことごとを、思い出す。言葉にはならなかったけれど、ないわけではなかった、たしかにあった。自分の過去の時間は、思ったより、まずしいものではなかったみたいだ。

 四分休符くらいの深呼吸をする雪だけがあるぜるぶの丘で 

 雪の白まで深くすいこんだから、とても、清々しいきもちになる。深い呼吸で、からだの中から風が生まれて、言葉は、その、風にのって運ばれていく。

 

(天野陽子歌集『ぜるぶの丘で』(角川書店・2月25日刊)を装幀しました)

2025年2月9日日曜日

拾い読み日記 317


 いま、人と積極的に(もしくは即時的に)、繋がりたくなくて、それでも何ごとかを書き残しておきたいという人間には、ブログというメディアがちょうどいい。「しずかなインターネット」というブログサービスのことを知ったときは、それだ、と思った。
インターネットでありながら、必ずしも誰かや何かと繋がらなくてもいい、その矛盾しているようにも見えるありかたが、いいなと思った。
 わたし自身、twitterやinstagramをやめたのは、生活と思考がSNSに支配されそうだったからだし、すぐ反応が来るのがつかれるから、という理由だった。もっとしずかに暮らしたかった。

 ブログは、誰が見ているか、どれだけの人が見ているのかはわからない。ただ、ページを見られた数だけは、わかる。twitterをやっていたころに比べたら、その数は、かなり少ない。でも、それでいい。ここでは、自分のために、書き留めておきたいことを書いているだけなので、読者の数は、気にする必要がない。
 
 ……なぜ、こんなことを書いているのだろう? 
 出版とSNS、もしくは、書くこととインターネットについて、ぼんやりと、ずうっと、考えているのだった。

 大杉重男氏のブログ「批評の練習帳」を、時々、読んでいる。『日本人の条件』という近著について、「私は今現在だけは大学教員としての一定の経済的な余裕があるが故に、世界に対する一つの無根拠の贈与としてこの本を出すことができた」と大杉氏は書くが、経済的な余裕だけでは、きっと、このように本を出すことはできない。
 距離をおいて眺めていると、いま、本を出すことと、売ること(売るために発信すること)は、いっしょくたになってしまっていて、そうした宣伝行為にまつわる「騒がしさ」は、本そのものにもこびりついて、しずかな読書を、ときには、さまたげてしまうようにも感じる。版元はまだしも、こんなに著者が宣伝に「駆り出される」のは、SNSのせいだろうと思う。
 
 とはいえ、自分だって、出版とインターネットという問題を考えるうえでは、無関係ではありえない。書籍のカバー、とりわけ表1をデザインするときには、その画像データがインターネット上で人々の目に触れることを、意識せざるをえない。(わかりやすくいえば、白い紙にタイトルを白い箔押しで、という「わかりにくい」デザインは、やりたいと思っても、やらないだろうと思う。) 

 デザインした本が売れた、と聞けば、素直にうれしい。本を出した人が、少しでも多くの人に読んでほしい、と思うのは当然で、その気持ちを、否定したいとは思わない。

 仕事への意欲はなくなっていないし、本というものへの希望はすてていない。どんなかたちでも、本にかかわっていけたらいい。
 そのために、本のデザイン・制作と並行して、書くことも、続けていくことにする。書くことにおいては、つねに、無根拠でありたい。書きたくなったら書く。すきなように書く。すきなだけ書く。それが、人間らしくあるために、必要なことだと思うから。

2025年2月6日木曜日

ヒロイヨミ社の在庫について


 品切れのものが多くなりましたので、在庫のお知らせです。
 現在、以下のものがあります。

・『ephemeral』
・『fumbling』
・『水草』2022年春号(水中書店+ヒロイヨミ社)
・『窓の韻』(森雅代+ヒロイヨミ社)
・『ほんほん蒸気』2号〜5号(北と南とヒロイヨミ)

  ananas pressのほうは、『Circle』と『AIR MAIL』があります。

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 宮下香代さんとの本『六花』をGallery SUで見てくださったみなさま、どうもありがとうございました。雪をモチーフとした宮下さんの作品と、それにあわせてあつめたことばのくみあわせを、たのしんでいただけていたら、うれしく思います。

 今年は、10月に、福岡のナツメ書店で展示をします。
 今は、すこしゆっくりして、本を読んだり、思いついたものをつくってみたりしています。
 ひらめいて、つくってみて、つくったものを眺めて、またひらめいて、つくってみて……そんなことをくりかえして、おもしろいものがあらわれてきたら、いいなあと思います。それが、本のかたちをしているのか、いないのか、まだわかりません。

2025年1月27日月曜日

拾い読み日記 316

 
 暗い灰青の空にこまかいうろこ雲がいちめんにひろがり、その奥に、ひとつ、星が見えた。今日は、箔押しの見本をじいっと眺めていたから、そのせいで、星のかがやきから、箔のきらめきに、思いがうつっていった。藍色のもこもこした風合いの紙に、青っぽい銀でなく、黄色っぽい銀で、文字を刷ったら、きっと綺麗だ。光は、言葉なのだろう。はるかむかし、発せられた言葉が、いま、届いた。

 昨日は、ひさしぶりに書類の整理をした。紙の束を部屋中にひろげて、数年間、ためこんでいたものを捨て去るのは、気持ちのよいことだった。

 三年ほど前に、読んでみて、とわたされていた紙が出てきたので、一段落ついてから、狭い仕事部屋から出て、いつも本を読むテーブルで、読んだ。

 中村秀之「最終講義に代えて 「学芸は眉を顰めず」—— 階級のディスクール・断章」は、読書と階級をめぐる、自伝的ではあるが自伝ではない(「自己=社会分析〔auto-socioanalyse〕のための素材」というブルデューの言葉が引かれている)、しかし読む者に近さと親しさを感じさせる、やわらかな語り口の文章で、引用される言葉の数々にこころ惹かれつつ、ゆっくりと読み進めて、読み終えたときには、ある、感慨があった。研究と「生」が、こんなふうにつながっていること、それが、このように明かされたことに、つよく、こころが動いた。それから、あなたは、どうして本を読むようになったの? と問われている気も、したのだった。

 「ただ出口がひとつ欲しかったのです」。
 本という存在によって、暗い場所から抜け出せるちいさな出口を見つけ、そこから、おそるおそる歩いてきた、猿としての、自分の姿が見える。

2025年1月24日金曜日

拾い読み日記 315

 
 誰かが本を読むと聞けば、僕はほっとします。本を読みたいと思う自分にそのひとが出会えたという事実に安心するのです。愛することを望む自分に会えたひとがいれば、それが誰であれ僕はほっとしますが、それと同じことです。(パオロ・ジョルダーノ)

 本屋で手にした、『ダリタリア・リブリ』というフリーペーパーに、いい言葉が載っていた。
 今日も本は読めなかったが、本を読みたいと思う自分は、いた。

 ポスターの制作を進める。昨日描いた絵に、色を塗ってみる。楽しい作業だったけれど、出来上がったのを見てみると、塗らないほうが、ずいぶんいい気がした。
 考え直すことにする。

 53歳の誕生日に、「六花」をみにいった。雪のかたちがこころにしみとおって、なんだか、祝福されているような時間だったなあ、と思いだしている。

2025年1月22日水曜日

『六花』



 宮下香代さんの展示「六花」、gallery SUにて開催中です。宮下さんといっしょに制作した冊子『六花』も、ぶじに、できました。
 作品写真は湯浅哲也さん、栞もついていて、山内彩子さんにことばをよせていただきました
 ごらんいただけたら、さいわいです。

2025年1月12日日曜日

拾い読み日記 314

 
 とても長いあいだ、頭上にかかっていた雲が、今朝は消えていた。どこにいく予定もない朝。のびのびした気分で、スコーンをたべて、落書きをしてあそぶ。
 
 おととい、ふたりの詩人の朗読会にいって、すばらしかったなと思い返して、詩集を読んで、詩を書いてみたい、とはじめて思った。
 今日、数行書いてみて、なんてちんぷなんだ、と投げ出した。

 昨夜は、ふたりの詩集(『ノックがあった』と『冬の森番』)を、食後のテーブルにのせて、Mとちいさな朗読会をひらいた。
 「オールトの雲」を読んだら、「白鳥とラーメン」を読んでくれた。それからもう一篇、「ウィークエンド」を読み、「会話」を聞いた。

 声に出して読むとき、詩が、ふたつの空間にひびく感覚があった。部屋のなかと、からだのなか。空気が変わり、よどんだものが消えていく。しずかな場所で、深い読書をしたあとのように、みたされた。

 (ところできみの好きなものはなに)
 すぐにはこたえられない。どうしてこんなにねじれてしまったのだろう、と思う。

 刷り色が決まらなくて、カラースライダーを動かしてばかりいた明け方、空をみて、無意識にCMYKの数値に変換しようとした、デジタルに占領されてしまったあたまを、まっしろの状態にしたい。空の色がそのまま、なににも変換されずに、しみいってくるこころがほしい。
 言葉は、そのあとでいい。

2025年1月7日火曜日

六花


 『六花』という冊子をつくっています。りっか、ろっか、むつのはな。雪のことです。
 雪をモチーフとした宮下香代さんの作品と、雪のことばをあわせて、一冊にしました。すこし、活版印刷のページもありまして、いま、家で、印刷中です。
 1月18日からGallery SUで開催される宮下さんの展示「六花」でご覧いただけますので、ぜひ足をお運びいただけたら幸いです。
 くわしくは、こちらに。




 今年も、New Year Greetings展に参加しています。盛岡の書肆みず盛りにて。
 書肆みず盛りに、昨年10月、はじめて訪ねることができました。木のにおいのする、あたたかなかんじの場所でした。
 年賀状展の参加者のなかに、なつかしい名前もあって、こうして、あたらしい場所で、いっしょに展示してもらえることを、うれしく思っています。
 お近くの方、どうぞよろしくお願いします。