「ある日」のことが書かれた文章を、自分の定めたルールにしたがって(時系列にしたがわずに)編むことで、今日という日、今という時も、いつかのどこかへ思いがけず繋がっていく。どこか、軽くなっていく感覚があった。過ぎ去った日々も今過ぎつつある時間も、ふたたびやってくるものであり、何度でも出会い直すものである。それは、「日記」を書き、「日記」をつくることによって、あきらかになった。
「日記とはひとつの解放行為(ベフライウングスタート)なのであって、それが勝利する場合、その勝利は密やかにして無際限である。」(ヴァルター・ベンヤミン「〈青春〉の形而上学」)
いつもの発声練習のあと、隣の部屋から歌が聞こえてきて、何を歌っているのかはまったくわからないが、その音楽は、神、もしくは天上にいるものにむけてつくられたのだ、ということは、理解できた。
五月の窓辺に、はかなくながれていく雲と、つややかな緑と、きよらかな歌声があって、もう、自分のためにのぞむことは、何もないように思えた。