2025年2月16日日曜日

ぜるぶの丘で

 
 昼寝から覚めて、放心したまま珈琲豆を挽いていて、ふと顔をあげたら、目のまえに「Green & Fresh」という言葉があった。オリーブオイルの瓶のラベルの文字だった。赤いリボンを模したグラフィックに、白抜きの、太めのセリフ体で刷ってある。いつもそこにあるのに、なぜ今日だけ目にとまったのかわからないけれど、しばらく、しげしげとその文字を眺めていた。じぶんは、いろいろな文字、いろいろなフォントに囲まれて、暮らしているのだな、と思った。

 だれにでも好まれることつらつらと行間の空くメイリオで書く 

 天野陽子歌集『ぜるぶの丘で』より。さっき、この歌を読んだから、きっと、そんなことを思ったのだ。そういえば、ずうっと前、対談の文字起こしに疲れたら、ぜんぶ丸ゴシック体に変えて作業する、といっていたあの男の子は、元気だろうか。あまりにも疲れた人には、明朝体の文字は、痛いのかもしれない。細いゴシックは冷たくて、太いゴシックは強すぎる。
 
 水濡れたページのように横たわる他人の話を聞きすぎた日は

 人や、本や、物との距離のとりかたが、いいなあ、と思った。べたべたしない。つきはなしもしない。ときには、人が物に、物が人に、なりかわったりもして。
 たとえば、こんな歌。

 いくつものわたしが四角くまとまって一足先に旅立った朝
 
 遠方への転居で、荷物を送ったときのことを、よんだものだろうか。これまで、10回、転居してきたが、いちばんはじめの、いちばんおおきな引っ越しの作業のことは、あまり記憶がない。あのとき、18歳のわたしは、何を捨て、何を持っていったのだろう。
 箱に詰められた、「いくつものわたし」。それらと、つかのま離れる、さみしさと、さわやかさ。

 歌に余白があると、そこに自分の記憶を重ねることができる。言葉にしなかった、たくさんのことごとを、思い出す。言葉にはならなかったけれど、ないわけではなかった、たしかにあった。自分の過去の時間は、思ったより、まずしいものではなかったみたいだ。

 四分休符くらいの深呼吸をする雪だけがあるぜるぶの丘で 

 雪の白まで深くすいこんだから、とても、清々しいきもちになる。深い呼吸で、からだの中から風が生まれて、言葉は、その、風にのって運ばれていく。

 

(天野陽子歌集『ぜるぶの丘で』(角川書店・2月25日刊)を装幀しました)