いま、人と積極的に(もしくは即時的に)、繋がりたくなくて、それでも何ごとかを書き残しておきたいという人間には、ブログというメディアがちょうどいい。「しずかなインターネット」というブログサービスのことを知ったときは、それだ、と思った。インターネットでありながら、必ずしも誰かや何かと繋がらなくてもいい、その矛盾しているようにも見えるありかたが、いいなと思った。
わたし自身、twitterやinstagramをやめたのは、生活と思考がSNSに支配されそうだったからだし、すぐ反応が来るのがつかれるから、という理由だった。もっとしずかに暮らしたかった。
ブログは、誰が見ているか、どれだけの人が見ているのかはわからない。ただ、ページを見られた数だけは、わかる。twitterをやっていたころに比べたら、その数は、かなり少ない。でも、それでいい。ここでは、自分のために、書き留めておきたいことを書いているだけなので、読者の数は、気にする必要がない。
……なぜ、こんなことを書いているのだろう?
出版とSNS、もしくは、書くこととインターネットについて、ぼんやりと、ずうっと、考えているのだった。
大杉重男氏のブログ「批評の練習帳」を、時々、読んでいる。『日本人の条件』という近著について、「私は今現在だけは大学教員としての一定の経済的な余裕があるが故に、世界に対する一つの無根拠の贈与としてこの本を出すことができた」と大杉氏は書くが、経済的な余裕だけでは、きっと、このように本を出すことはできない。
距離をおいて眺めていると、いま、本を出すことと、売ること(売るために発信すること)は、いっしょくたになってしまっていて、そうした宣伝行為にまつわる「騒がしさ」は、本そのものにもこびりついて、しずかな読書を、ときには、さまたげてしまうようにも感じる。版元はまだしも、こんなに著者が宣伝に「駆り出される」のは、SNSのせいだろうと思う。
とはいえ、自分だって、出版とインターネットという問題を考えるうえでは、無関係ではありえない。書籍のカバー、とりわけ表1をデザインするときには、その画像データがインターネット上で人々の目に触れることを、意識せざるをえない。(わかりやすくいえば、白い紙にタイトルを白い箔押しで、という「わかりにくい」デザインは、やりたいと思っても、やらないだろうと思う。)
デザインした本が売れた、と聞けば、素直にうれしい。本を出した人が、少しでも多くの人に読んでほしい、と思うのは当然で、その気持ちを、否定したいとは思わない。
仕事への意欲はなくなっていないし、本というものへの希望はすてていない。どんなかたちでも、本にかかわっていけたらいい。
そのために、本のデザイン・制作と並行して、書くことも、続けていくことにする。書くことにおいては、つねに、無根拠でありたい。書きたくなったら書く。すきなように書く。すきなだけ書く。それが、人間らしくあるために、必要なことだと思うから。