Mが10代を過ごした西武新宿線沿線の町を、いっしょに歩いた。
ここにかつて本屋があった。ここには古本屋があった。彼の言葉が町の歴史の断片を伝えてくれた。30年前の町のすがたが想像の中でよみがえり、自転車で本屋にむかうまぼろしの少年が、遠くから手招きをする。
ここにかつて本屋があった。ここには古本屋があった。彼の言葉が町の歴史の断片を伝えてくれた。30年前の町のすがたが想像の中でよみがえり、自転車で本屋にむかうまぼろしの少年が、遠くから手招きをする。
「まだあった」店はふたつ。薄暗くて埃と黴のにおいの立ちこめる古本屋には茶色く焼けた本ばかりが並び、奥の方で食器を洗う丸い背中が見えた。そうっと入って、そうっと出てきた。出てから、深呼吸した。
もうひとつの店は、駅から歩いてすぐの、ここもやはり、静かな、大きくはない新刊書店だ。近所の子どもや大人がふらりと普段着で立ち寄れるような、親しみやすい店構えの店だが、しばらく店内を歩きまわって棚を眺めていると、ここはふつうの町の本屋ではない、とわかった。いや、どこよりも、「ふつう」の本屋である、といえるのかもしれない。どのような言葉でならその良さを伝えられるのだろう。ぼんやりかんがえていたら、「身の丈」という言葉がうかんだ。書棚の背後に、長いあいだ、粘りづよく、身の丈にあった暮らしと読書を続けてきた人の存在を感じた。
この店をはじめて訪れたとき、ハンナ・アレント『暗い時代の人々』(ちくま学芸文庫)を購った。
最も暗い時代においてさえ、人は何かしら光明を期待する権利を持つこと、こうした光明は理論や概念からというよりはむしろ少数の人々がともす不確かでちらちらとゆれる、多くは弱い光から発すること、またこうした人々はその生活と仕事のなかで、ほとんどあらゆる環境のもとで光をともし、その光は地上でかれらに与えられたわずかな時間を超えて輝くであろうということ——こうした確信が、ここに描かれたプロフィールの概略的な背景をなしている。(「はじめに」より)
弱い光は、わかりにくい。人の目を、強くひこうとしない。かつての自分なら、見過ごしていただろう。
この書店では、落ち着いて、読書しているときのような呼吸で、本に向かいあうことができる。一冊の本と出あうための、一人の人間になれる。そんな書店の空間に、子どものこころだけでなく、大人の精神も、涵養されるのだと思う。