花がだいぶ散ってものさびしく見える梅の木に、メジロと、ヒヨドリが来た。ヒヨドリのからだは、細い梅の枝にとまるには大きすぎる気もしたが、そんなことはおかまいなしに、白い花々とくちづけを交わし、それから、すーいすーいと低い飛行で去っていった。灰色の世界に、灰色のからだで、自由に線を描くように。
ひさしぶりによく眠れたので、あたまがすっきりしている。夢の中で聞いた歌がなまなましく記憶に残り、それが何の歌か知りたくて、鼻歌検索までやってみたが、でも、どうしても、わからないのだった。きっと、存在しない歌なのだろう。昨年の終わりに亡くなった華やかな人が、ステージで歌ってくれた。人をはげますような、いかにもポップソング、という感じの曲だった。流した涙も君の宝物になる、というような。
先日、卓球の試合で、くやしい思いをしたから、そんな夢をみたのだろう。ものすごくサーブが切れている人、攻めも守りも上手い人、淡々と力みなく強い人、決めるべきところできっちり決めてくる人に対して、ほとんど歯が立たなかった。自分は、技術的にも精神的にも、よわすぎる、と思った。
なかでも、同世代だろうか、卓球に自分を賭けている(ように見える)人の気迫は、すごかった。フルゲーム、10−9でマッチポイントを取ってサーブを出す前の、間合い、眼差し。ころす気か、と思った。彼女にとって、試合とは、決闘の場なのだ。
あそこまで、卓球に、自分を賭けることはできない。体力にも気力にも、かぎりがある。卓球よりは、「本」に、自分を賭けたい。
試合が終わって、季節はずれの陽気のなか、卓球を通じて知り合った人たちと、いっしょに駅までの道を歩いた。のどかな景色がひろがり、隣を歩くOさんの育った町の話を聞いたり、それぞれの方言の話をしたりしていたら、しだいに、気持ちもほどけていった。
知り合って間もなくて、年もかなり離れているのに、こんなふうにしぜんに話ができるのは、練習のときに向かいあっているからかもしれない。卓球場以外で会うことはないけれど、どういう人なのかということは、なんとなく、わかる。
駅に着いてみんなと別れ、そういえば、と本屋さんに向かった。数年前に、かまくらブックフェスタのフェアでお世話になったお店。はじめて訪ねたけれど、とてもいい本屋さんだった。
棚をゆっくり見ていたら、あたたかな、なぐさめと、希望のようなものを感じた。並べられた本が、砦のようにも見えた。ある意志をもって並べられた本たちは、人に、たしかな、力を与えることができる。言葉のいらない世界から、言葉の世界へ帰ってきて、そう思った。
一冊、探していた本を買ってリュックにしまい、乗り換えの駅でビールをのみ、くたくたのからだをひきずるようにして、家路に着いた。