2018年11月24日土曜日

「making」展のおしらせ






ananas pressmaking

2018128日[土]— 1224 日[月]
12:00 — 19:00(月曜定休・24日は営業)

10年目のananas pressのテーマは、「つくること」。
あたまをひねり手をうごかして、あたらしい本『making』をつくります。
つくったものと、「つくる」にまつわるいろいろなものを展示します。

【都筑晶絵 製本ワークショップ】「フラッグブックを作ろう」 
日 時:129日[日] 13:00-15:00 / 16:00-18:00
参加費:2,700円(材料費・1ドリンク付き)
定 員:各回6名(予約優先)

在廊日|都筑:128日[土]・9日[日]/山元:会期中の土日(14時以降)

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いま、ひっしでつくっています。そういえば、いつもいつも、こんなふうにひっしだったな、といろいろ、おもいだしました。でも、たのしいです。
ぜひ、みにきていただけたら。

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さて、先日のかまくらブックフェスタ in京都では、ありがとうございました。
本屋さんで開催ということで、いつもとちょっとちがった雰囲気で、でも、鎌倉とおなじように、あたたかで、したしい空気を感じました。
真摯に、いい本をつくっておられる版元のみなさまと一緒にいられて、ヒロイヨミ社も、ささやかながら、またがんばろうと思いました。このような、ささやかなかたちでしかできないことが、あるのではないかと……そういうことに、じぶんはじぶんの何かを賭してみたいのではないかと……いろいろな思いが交錯するなかで、しだいに、そう思うようになりました。
 ヒロイヨミ社も11年、ananas pressも10年になります。つづけていなければ知りあえていなかったひとの顔が、ときどき、うかんでは消えます。

 『ほんほん蒸気』の4号も、たくさんの方に手にとっていただけて、うれしかったです! みなさま、どうもありがとうございました。都合により、しばらく生産と販売をお休みしまして、また12月10日ごろから、動きます。読んでくださっている方、お店に置いてくださっている方には、お待たせして申し訳ないのですが、ひきつづき、どうぞよろしくお願いいたします。




2018年10月29日月曜日

拾い読み日記 72


 毎日よく晴れていて、それだけでうれしくて、あかるい気分になる。今朝の空にも、雲ひとつなくて、遠くに山が見えた。すうっとこころに風が通った。はるかな感じがした。

 またちょっと怖い本のデザインなので、あかるい午前中のうちにラフをつくって送った。それから、つぎにやることがたくさんあって、どうしたらいいのか、しばらく放心した。日記を書いて、気持ちを落ちつかせることにする。

 不都合がたくさん出てきたので、11年ぶりにパソコンを買うことにした。Oくんがいろいろ教えてくれた。まったく知らなかった状況になっていた。使いこなせるのだろうか。でもたのしみだ。
 
 今日も夜までは、あまり本は読めない気がする。このところ、たびたび手帳を開いては、制作のスケジュールのことをかんがえている。かまくらブックフェスタの準備もあるし、12月の展示のこともある。

 一本の栞は時間の尾のようで白い手帳のページをひらく

 永田紅歌集『春の顕微鏡』から。栞紐が赤とピンク、二本ついている。
 こころに余裕のないとき、余白の多い、歌集や句集を読むのはいい。開いたページの一行を読んで、ぱらぱらめくって、また読んで、ということをくりかえしている。目と手が読書をつくっていく。吹いてくる、かすかな風を指に感じながら。

2018年10月28日日曜日

拾い読み日記 71


 おじさんは、旅に出かけると決まると、もう、こんなものはいらないや、すてちまおうという気になりました。
 ほうきをつかむと、すさまじいいきおいで、部屋の中を掃きはじめました。
 ざぶとんだろうが、なくなったと思っていたスリッパだろうが、ごみのかたまりだろうがかまいません。ころがり落ちて、どこかに行ってしまっていた薬のつぶだろうが、置きわすれていた手帳だろうが、さじも、フォークも、ボタンも、封を切らずにほうっておいた手紙も、手あたりしだいに、なにもかも、掃きよせて山にしてしまいました。
 その山の中から、めがねが八つ見つかったので、おじさんはひろいだして、かごの中にしまいました。さて、そうして思いました。
「さあ、これから、この目で見るものは、いままでとはまるっきりちがった、あたらしいものばかりなんだ。」  (トーベ・ヤンソン『ムーミン谷の十一月』

 朝、すこし本を読んだ。よく晴れて、気持ちのよい日だった。手紙を何通か書いた。海のむこうに住む友だちにも。今度会えるのは、いつだろう。

 夕方には『どこから行っても遠い町』(川上弘美)を読む。「蛇は穴に入る」まで。しいんとした気持ちになった。先月だったか、吉祥寺の新古書店で買った本。あのとき、急にお腹がいたくなったんだった。

 近所のちいさな商店街がとてもふしぎな雰囲気で、物語の中にまよいこんだような気持ちになる。人気のない宝飾店(時計屋?)のカウンターに巨大なぬいぐるみがいたり、和犬がドライヤーの風をゆうゆうと浴びていたりする様子に、目がくぎづけになった。さびれているかと思ったら、シェアキッチンやスイス料理のお店ができていて、ちょっと意外だった。
 

2018年10月22日月曜日

拾い読み日記 70


 朝から鼻の調子がおかしくて、アレルギーの薬をのんだら眠くてたまらなくなり、少しだけ横になるつもりが、けっこう、寝てしまった。目が覚めたらもう薄暗い。暗くなるのがはやくなった。しんみりした気持ち。
 怖い本のデザインに変更があったので、やらなくては、と思いながら、自分でもそのビジュアルが怖いので、暗くなってからは作業できない。明日にする。
 明るい気持ちになろうとスティーヴィー・ワンダーをきいている。「Isn't she lovely」が流れたとたん、部屋に黄色っぽい光が射したよう。歌詞を読む。「Life and love are the same.」

 冬の備えとして、『ムーミン谷の十一月』を図書館で借りてきた。

「ある朝早く、スナフキンは、ムーミン谷のテントの中で、目がさめました。あたりは、ひっそりとしずまりかえっていました。しんみりとした秋の気配がします。旅に出たいなあ。」

 「のぼりとのスナフキン」をつい思い出し、こころが手元の本から離れてしまうのはいつものことで、とはいえ『おぱらばん』を読み返すのかといえば、それは、わからない。明日は明日で、まったく別の本が気になって拾い読みしているかもしれないし、そういう軽さを自分にゆるさないと、今は、やってられない感じがする。
 
 明日は早起きできますように。

かまくらブックフェスタ in 京都


 今年もかまくらブックフェスタに参加します。「北と南とヒロイヨミ」です。『ほんほん蒸気』の4号目を制作中です。この機会に品切れだった3号も増刷の予定です。
 今回は京都で開催ということで、関西にお住まいのかた、どうぞよろしくお願いします。ひさしぶりの京都、とてもたのしみです。 


第8回 かまくらブックフェスタ in 京都

会期=2018年11月17日(土)〜18日(日)
会場=恵文社一乗寺店 コテージ
出展=牛若丸、ecrit(エクリ)、北と南とヒロイヨミ、共和国、群像社、タバブックス、トムズボックス、編集工房ノア+ぽかん編集室、りいぶる・とふん、港の人

 詳細は、ブックフェスタのHPをごらんください。

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 ananas pressも活動しています。愛知県大府市で開催中のArt Obulist 2018「見るなの座敷」の一室で、これまでつくった本が見られます。和室で展示ははじめてで、新鮮でした。本がちがったふうに見えました。なんというか、したしいもののべつの顔をみたような……。ぜひ、さわったりめくったり、してみてください。






 


2018年10月21日日曜日

拾い読み日記 69


 ぐっすり眠って、目覚めて、ベランダに出たら、雲ひとつない空が目の前にひろがっていて、目をみはった。雲のない青空を見るのは、すごくひさしぶりな気がする。不安になるくらい、なにもない。遠くに山が見えた。

 仕事をひとつして、お昼すぎに出かけた。水中書店でエリック・ワイナー『世界しあわせ紀行』を購入。はじめて見る本だったが、ちょっと立ち読みしたらおもしろかったので買った。『クマのプーさん』で最もすきなキャラクターがイーヨーだと「はじめに」に書いてあったことも大きい。「わたしは次第に、誰でも知っている不幸な国ではなく、あまり知られていない幸福な国を探しながら、一年ぐらい旅をしてみたらどうかと考えるようになっていた。幸せになるために欠かせないものが一つ以上存在する国。」 イーヨーがぶつぶついいながら世界中を歩きまわるようすを想像して、たのしくなった。

 夫が3枚組みのスピッツのベスト盤を買ってくれたので、昨日からきいている。ボーカルの人の声は、高くてハスキーで、重くはないがちょっと暗いところがあり、孤独な感じがして、そこにひかれる。
 24年前、通勤電車で、『空の飛び方』をきいていた。たしか青いディスクマンで。記憶のなかの自分は、うっすら憂鬱で、仕事も不安なことばかりで、これからどうなるのだろう、と思っている。そんな気分に、あの声がよかったのだ、と今になって思う。
 メールを書きながらきいていたら、よく知らない曲の歌詞が気になって、何度も立ち上がって読みにいった。

 ひとつずつ バラまいて片づけ
 生まれて死ぬまでのノルマから
 紙のような 翼ではばたき
 どこか遠いところまで

 (「ホタル」)

2018年10月20日土曜日

拾い読み日記 68


  18日〜19日、名古屋、豊田、大府へ。短い滞在だったけれど、いろいろなことがあった。次の本のための撮影、打ちあわせ、たのしかった。
 大府の大通りを歩きながら、この場所にいることが、なんだかふしぎで、おもしろい感じがした。今回の展示は、自分たちのことをぜんぜんしらない人にもみてもらえるのが、いい。部屋の窓に貼られた和紙にうつる影や光が綺麗で、あとから思いだすと、あれもどこか、本の一ページのよう。

 新幹線の事故で帰れず、せっかくなので本山の星屑珈琲へ。本がたくさんあって図書室のようでもあり、静かな、いい空気が流れていた。電車のことを調べながら、不安な、ざわざわした気持ちになったけれど、すこし知っている人と話せてよかった。そのあと週末でやけににぎわう名古屋の街をひとり歩いていたとき、心細くはあったが、すこしうっとりした気持ちにもなった。ロンドンでやみくもに歩いた夜を思い出した。それにしても、名古屋の繁華街は熱気がすごい。元気でないひとはひとりもいないみたい。
 運よく前に泊まったことのあるホテルに空きがあった。部屋にマッサージチェアまでついていた。疲れているのにあたまが冴えて、あまり眠れず。翌朝早く、東京への新幹線に乗る。
 戻ってきてすぐ着替え、義父の七回忌へ。写真でしかしらない義父だが、夫にどこか似ていて、なんとなくしたわしい。
 帰り、武蔵境の駅前の本屋でナタリア・ギンズブルグ『小さな徳』とオカヤイヅミ『みつば通り商店街にて』を買った。ギンズブルグのエッセイ、とてもすきになりそうな予感がする。
 
 家に着いて珈琲をのんだ直後に、電池が切れたよう。ふとんを敷いて深く眠る。

2018年10月16日火曜日

拾い読み日記 67


 ほぼ一日、家にいて仕事。そのあいだに洗濯槽を洗った。洗っても洗ってもちいさな黒っぽいゴミが出てきて、洗濯機をのぞきこんで暗澹とした気持ちになる。まるでわるい夢みたいだった。

 一週間ほど前に図書館で借りた『この星の忘れられない本屋の話』(ヘンリー・ヒッチングス編)をすこし読む。ドロテ・ノルス「親しみがあるということ」は本屋から追い出される話。読んでいてつらくなった。でもこういうことはある。ボルヘスの引用が気になって本棚を探したら、ちょうど見つかった。たしか増田書店で買った『ボルヘス・エッセイ集』(平凡社ライブラリー)。この家には少ししか本がないのに、これも本の「親しみ」、結びつきに関係があるかもしれない。

 「一冊の書物はけっして単なる一冊の書物ではないという単純かつ十分な理由から文学は無限である。書物は孤立したものではない。それはひとつの関係、無数の関係の軸である。」(ボルヘス「バーナード・ショーに関する〈に向けての〉ノート」)



2018年10月15日月曜日

拾い読み日記 66


 さっき隣で大学生たちが本の話をしていた。一人がもう一人に感動を伝えようとしていたが、なかなか伝わらないようだった。「文章に感動するっていうのがわからん」とかいっていた。なんの本か気になって聴き耳をたて、いくつかキーワードを拾いこっそり検索すると、コーマック・マッカーシーの「越境」という小説らしい。ちょっと読んでみたくなった。自分もあんなふうに、文に圧倒されてだれかにその感動を語ったりしたい。それにしても隣で本の話をしている、というのがめったにないことなので、うれしくなった。
 
 今朝、「冬にわかれて」というグループを知り、その名前が尾崎翠の詩の一節から、と聞いて、ひさしぶりに、尾崎翠を読んだ。

「さて今夜は図書館の帰りです。パラダイスロストのごった返した散歩者の肩のあいだにも濃い空気の滲みているこんな夜には、街もひとつの美しさを教えてくれます。夜店の灯もほこり臭くないし、「冬物シャツ、サルマタ、大投売り」の台の下では、こおろぎが啼いているかも知れません。」(尾崎翠「途上にて」)

 今日から一週間、図書館が休みなので、さみしい。早めに買い物に出て戻ってきて、珈琲をのんだら、猛烈に眠くなってきた。冬が近い気がした。

2018年10月12日金曜日

拾い読み日記 65



「こうして日々はすぎて行く。時どきわたしは自問するのだ。子どもが銀色の球によって魅惑されるような工合に、私は人生というものによって催眠術にかけられているのではないか、と。そしてこれが生きるということなのか、と。これはとても生きいきとしていて、明るくて、刺激的だ。でももしかすると浅薄かも知れない。〈人生という〉球を両手で持って、そのまるい、なめらかな、重い感触を静かに感じとり、そのようにして毎日持っていたいと願う。プルーストを読もう。前後しながら読もう。」(ヴァージニア・ウルフ著作集8『ある作家の日記』)

 日記を前後しながら読むたのしみは、「人生」や「日々」から、解放される気がするからだろう。過ぎ去るということ、つまり「時間」から? わからない。今、本をそのようにしてしか読めない。

 今朝、夫の本棚にあるウルフの日記をさがして、借りていい? と聞いたら、「あげる」といわれた。とてもうれしい。綺麗な水色の布装の本。別丁扉と、その裏の薄い水色の文字(クレジット)が、とりわけ凛としていてすきだ。

 さがしていた記述は見当たらなかったが、ウルフの言葉にひきこまれて、ふかくもぐるような時間をすごせた。

2018年10月10日水曜日

拾い読み日記 64



 このところ、風呂上がりにベランダで少しだけビールをのむのがたのしみだ。虫の声がよく聞こえる。星はみえなくて雲が多い。夜風がしっとりしている。信号の青や赤がはなやか。ひとは自転車で通りすぎる。虫の声で一句よめないかと思ったが、できなかった。「歌は歌うものですか」という声が、脳裏をよぎった。この部屋はよく声が響くので、くちずさむのも気持ちがいい。

 aに来年の展示のことでメールを書いていて、「展覧会の会期」が「展覧会の怪奇」になってぎょっとした。
 また怖い本のデザインをしなくてはいけない。
 
 制作に入ると昨日と同じ本が読めない。持っていった本にはぜんぜん集中できなかった。明日は本が読めるだろうか。

2018年10月8日月曜日

拾い読み日記 63



 昨日の夕暮れどき、海辺でみたふたりの女性の後ろ姿がとてもすてきで、カラフルなタンクトップとショートパンツからすらりとのびる細い手足をみていたら、ロメールの映画をなんとなく思い出した。ふたりは、しばらくのあいだ、海をみながら話していた。
 角を曲がって海がみえたときの色が、ぼうっとかすんで、光って、夢の中でみる景色のように、きれいだった。なごりおしくて、しばらく水平線をみながら、海沿いの道を歩いた。
 昨日の鎌倉は、とても暑くて、人も多くて、くらくらした。けれど、絵をみながら、しずかなひとときを過ごせたので、よかった。
 
 帰り、駅前のたらば書店で、迷ったすえ、『雪あかり日記╱せせらぎ日記』(谷口吉郎)を買った。ベルリンの暗い空、冬の憂鬱、戦争の不安。灰色にそまりそうになる。
 「そんな時に、いつも私の心を振い起してくれるものは「建築」だった。「建築」のことを思うと、なにかしら力強いものが私の心に浮んできて、暗くなろうとする気持を明るく引き立ててくれる。」
 
 このところ、曇りや雨の日に、すこしあたまが痛くなる。けれど、「本」のことを思うと、といいたいが、気を散らせるものが、たぶん、多すぎる。もっとシンプルになること。
 佐倉へは、いついこうか、決めかねている。待っていた郵便が届かなかったので、いっそ、ひとりで、しずかに、むかうのがいいのだろう。その前に「本」を読みおえてからいきたいが、いろいろなことを思ったり、思いだしたり、かんがえたりして、なかなか読みすすめることができない。

2018年10月1日月曜日

拾い読み日記 62


 引っ越して、20日ほど経った。家が、ほとんどいつも、片付いている。片付いていると、日記を書こうという気が、あまり、起こらない。どうしてだろうか。ともかく、安心できる場所で、しずかな気持ちになれることが、しあわせだと思う。

 今朝は台風一過、朝6時の雲があまりにダイナミックで綺麗で、しばらくベランダに立ちつくしていた。空を泳ぐ、巨大なさかなのようだった。

 先日、思い切って水戸へ行って、内藤礼さんの展示をみたので、『祝福』という作品集を図書館で借りてきた。夕暮れどき、闇が町を覆いはじめるころ、ゆっくりと、作品とことばをたどった。それから、ベランダに出て、ふたつ、星をみつけた。ふたつの星と、じぶんが、三角形をなしている、と感じた。とても特別な、夜のはじめの時間を過ごした。

「花が。動物が。ひとが。はなればなれになって、動いている。かぎられた形をもって、その内部をみたしている。ぐんぐん歩く道。踊る空気のひろさ。聴こえるはなうた。布は風にふくらみ、やがて降りてくる。鳥は光のなかに円をえがきひるがえる。海に夜が。岩に雨が。雲に空が。土に闇が。口にしただけで、私はもうそのものに駆けよったようにうれしい。何もいえないときも、ただうつくしいといえた。」

 ここではときどき赤ん坊がはげしく泣く声が聞こえる。どこの家からかわからない。生命そのもののような声。そのつよさに、はっとする。

2018年9月10日月曜日

拾い読み日記 61


    引越しの準備にもようやくめどがたち(つかれた)、あたらしい部屋の鍵を受取りに、吉祥寺の不動産屋さんへ。ぶじに受け取って、昨日、なんとなく買った『自信のない部屋にようこそ』(雨宮まみ)を、ホワイトビールをのみながら、読んでいる。
    本をすべて箱に詰めてしまったので、ほかにあまり選択肢がなく、読んでいる。でも引越しの前夜に読むのに、よかった。疲れているので日記を書くつもりではなかったが、書き留めておきたくなった。

    「部屋に一人でいることが孤独なのではない。一人の人間は、星座のように、どこかで見えるか見えないかの線でつながっていて、孤独を慰め合い、見守り合い、互いの孤独な戦いの美しさを、讃えあっているのである。」

    「星座のように」という表現が、すきだと思った。それから、こうした関係のことを、さらには、文学のことを、思った。

    かつて、一人でいて、悲しくてたまらなくなったとき、どうやってその時をのりこえたのか、もう、忘れかけている。

    明日は、朝から引越しだ。雨が降りませんように。

2018年9月4日火曜日

拾い読み日記 60


 今日は、在庫の整理をしよう、と思っていたのに、はがきサイズのわら半紙の束(合紙をとっておいた)を見て、急に捨てるのが惜しいような気がして、これで何かできるかどうか、試しにメモ帳を作ってみたのだが、うまくいかず、結局、部屋と机が散らかっただけだった。いったい何をしているのだろう。物を捨てる前にクリエイティブになるのはやめなさい、とミニマリストがいっていたが、ほんとうに、そうだと思う。明日、段ボールが届くので、もう何も考えず、箱に物を詰めることに専念したい。
 
 椹木野衣『感性は感動しない』を読んだ。みること、読むこと、書くこと、生きることをめぐって、書き留めておきたいことがたくさんあるが、今、その時間があまりない。
 たぶんもっともこころが動いたのは、なぜ書くのか、という問いをめぐっての文章だった。書くのは、お金がほしいからでも評価されたいからでもない。

 「ではなぜなのでしょう。こんなことを考えていると、私はふと、失われた時間や場所を想像力によって取り戻し、そのことで蘇る、自分のなかに眠る天空の宇宙のように不滅ななにかを、読む人とわずかの時間だけでも分かち合うために書いているような気がすることがあるのです。」

 台風のせいで、雨風が強くなってきた。これから出かけなくてはならないので、気が重い。

2018年8月30日木曜日

拾い読み日記 59



 老後は、自分がこれまでどう生きてきたかということと向き合わされる時間、というような言葉を、ある本で読んだが、引越しの準備の時間にも、そういうところがあると思った。雑然としたものたちを片付けるのに、すっかり疲れてしまった。このところ、どのように暮らしてきたか、いかにてきとうだったか、始末がわるいか、一気に見せられているようで、気が滅入る。気が滅入っているのに、あちらこちらに連絡しなければならない。
 ある本、というのは、こないだ買った『なるべく働きたくない人のお金の話』(大原扁理)という本で、まだぜんぶは読んでいないが、いい本だと思う。おしつけがましさがなくていい。本でも、現実でも、おしつけがましさを感じると、逃げたくなってしまう。
 「こういう稼ぎ方・使い方について、お金がどういうふうに思うだろう?」と、お金を人格化するという発想が、おもしろかった。お金を大事にする、というのはわかるが、お金の気持ちを考える、とか、お金の幸せを祈る、とか。そうすると、お金が自分のものでも誰のものでもなくなり、みんなのものになる、という感じ方。お金がなくても不安にならない。「お金が来たいときに来ればいいし、出ていきたい時には出ていけばいい」。多くの人は、お金を(むだに)貯めすぎだと感じる。貯めすぎるのは、不安だからだ。
 
 働きたくない、持ちたくない、したくない、ことについての本をたくさん読んでいるのは、たぶん来年あたりから、自分のしごとの状況が変わってくる(なくなるか、減る)からだと思う。それでも自分で本をつくることは続けたいので、制作費をどうしよう、と思わないこともない。まあ、なるようになるだろうと思う。
 お金と同じように、本も、誰のものでもない、と思えば、あせることもない。
 本の幸せとは、なんだろう? たとえば、本がひとりのおおきな人だとして、ほかの人が気がつかないような、小さな、痒いところに指をのばして、届けば、そういうのが、いいのかなとも思う。ときどき、くすぐったりして、遊びたい。

2018年8月16日木曜日

拾い読み日記 58


 風が強すぎて、窓を閉めていても家の中に畑の土が入り込んでくる。今日は洗濯するのはやめておく。

 東浩紀『弱いつながり』を読み終えた。「弱いつながり」、予測できない、偶然の、ノイズに満ちた、はかない絆。読んでいると、どこか海外に行きたくなって、航空券のサイトをみたりしてみた。たぶん、いろいろなことに、飽きているのだと思う。「同じ世界のなかで、同じ言葉ばかり検索していて、そしてそれなりに幸せでも、ぼくたちは絶対に老いる。体力がなくなる。それに抵抗することができるのは、弱い絆との出会いだけなのです。」
 
 このところ、本を買ったらすぐに読みはじめるようにしていて、そうすると、けっこうすぐに、読み終えてしまう。読み終えたら、手放したくなる。
 今日は、本棚にある、読み終えられない本を読みたい気がする。それは、強いつながり、ということだろうか。行き来することで、見えてくるものもあるだろう。


2018年8月15日水曜日

拾い読み日記 57


 帯状疱疹になったのでお酒をもう5日ものんでいない。昨日、だいぶよくなったので、ちょっとぐらいならビールをのんでもいいような気がしたが、夫に止められたので、やめておいた。そしたらほめられたので、うれしかった。
 
 pha『しないことリスト』を読んだ。いい本だった。

「だるさというのは大事な感覚だ。だるさを単なる怠惰な気持ちとして無視するんじゃなくて、もっとだるさに敏感になったほうがいい。╱だるさを感じるときは、「体調が悪い」とか「精神状態が悪い」とか「今やっていることがあまり好きじゃない」とか、そうした漠然とした現状への違和感が身体や気分のだるさとして表れているのだ。」

「「仕事というのは、イヤなつらいことを歯を食いしばって、ひたすら耐えてがんばってこそ成果を残せるのだ!」みたいなことを言う人がたまいいるけど、そんな変な話はないだろうと思う。╱人生はそんなマゾゲーじゃない。」

「死にたい気分のときは、ケータイやパソコンの電源を切って、好きなものを食べまくって、部屋に籠もってひたすら寝よう。╱他人のことや社会のことや、責任とか義務とかは何も考えなくていいから、一切のイヤなことや面倒なことを投げ捨てて、つらくないことだけして過ごそう。ひたすら時間をムダに使おう。」

 やさしい人だなあ、と感じた。いつか、ものすごく疲れたりつらくなったりしてどうにもならなくなったときに、読み返そうと思う。
  
 引っ越しのための片付けを進めている。部屋のあちこちがきれいになって、気持ちがいい。だるくなったら、すぐに寝転がることにしている。今日は、ごろごろしながら、荻原魚雷『本と怠け者』を読もうかな、と思っている。思っているけれど、ほかの本を読むかもしれない。
 本を減らしたことは、よかった。雑然とした本棚、読まない(読めない)本でいっぱいの本棚も、ストレスだったのだ、と今は思う。
 

2018年8月8日水曜日

拾い読み日記 56

 引っ越しを機に物を減らしたくて、「ミニマリスト」の本をいろいろ読んでいる。何もない部屋の写真をネットで見ては、いいなあと思ったり、それはいくらなんでも、と思ったりする。スッキリというよりは、寒々しい、独房みたいな部屋もある。それでも、本人がいいならそれでいい。そこが爽快だと思う。
 中崎タツヤ『もたない男』がおもしろかった。物を捨てるとほんとうに大切なものがわかる、とか、運がよくなる、とか、そういうのがぜんぜんないところが、よかった。いらないと感じたから捨てたい、捨てる、それだけ。

 ひとり暮らしをするときに必要な物だけを持って出たはずなのに、ふたりになって、また、いつのまにか、物がたくさんある部屋になってしまった。夫のものはほんのわずかで、ほとんど自分の物ばかり。その状態がいやになってしまった。本棚にも自分の本ばかり。わるいなあという気持ちもある。もちろん、仕事場でもあるから、しかたがないところもあるけれど。
 長いあいだ開かないで埃がつもった本たちも、たくさん手放して、それを、いま読みたいと思っている人たちのほうにまわしたい。本もそのほうがうれしいだろうと思うのだが、それは、自分へのいいわけも、少し入っているかもしれない。
 とにかく、たくさんの物たちとうまくつきあっていくことは、疲れる。それよりは身軽になって、もっと、ほかのことがしたい。文字のほかに何もない、余白の多い簡素な冊子をつくりたい気持ちは、何もない部屋に住みたい、という気持ちと、きっと通じるものがあるのだろう。

 このところ、また、ぼろぼろになった『海からの贈物』を読みかえしている。この本はいたみすぎて売りものにはならないし、最後まで、いっしょにいるような気がしている。そういう本は、たくさんでなくていい。「浜辺中の美しい貝を凡て集めることはできない。少ししか集められなくて、そして少しのほうがもっと美しく見える。」

 ずっと前から知っていたのに、なかなか、できなかった。引っ越したら、生活も、制作も、変わるだろう。それをたのしみにしている。

2018年7月31日火曜日

拾い読み日記 55

    西向きの窓辺に机があるので、このところ、午後2時以降は、暑くて座っていられない。今日もあいかわらず身体が重いので、横になってばかりいる。

    午前中、ある方から謄写版の道具一式が届いた。持ち主の方は亡くなっていて、その方が出された句集が一緒に入っていた。19歳から85歳までのあいだにつくられた俳句。ぱらぱらと、めくって読む。とても豊かな生を生きた方だなあと感じた。道具はどれも、丁寧に使われていたように見える。
    まだ、言葉にならない気持ちの中にいるけれど、まるで、ひとりのひとに、出会ってすぐに別れたようだ。茫然としてしまった。

    今日も、街に出て散歩するかわりに、本棚から目についた本をひきだして、すきなところを読む。「味わうまでは、ないことに気づかなかった、あるいは忘れていた、そしていま、今後も永遠にないのだと気づく感情。憧憬。美の体験は私のなかの欠如を意識させる。私が経験するもの、触れるものには、喜びと痛みがふたつながらにある。」(ペーター・ツムトア『建築を考える』)

    ceroの「outdoors」を何度かきいた(みた)。いつかきいて、すごく好きだったのに、すっかり忘れてしまっていた歌のよう。とても美しい曲だ。「何かをなつかしむほど生きてないのに 少しずつからだは死んでいく」

   午前中、取れてしまったカブトムシの足は、もとにもどらないの? と、子どもがラジオで相談していた。恐竜の肉はおいしいの? と聞く子もいた。夏休みの子どもたち。

2018年7月30日月曜日

拾い読み日記 54


 信じるかい? 何にでもなれるのさ、どこへでもいける。ceroの「レテの子」の歌詞が、頭の中でぐるぐるまわっている。「POLY  LIFE  MULTI  SOUL」。文学のことのよう。昨日、フジロックをiPhoneでみた。
 午前中に仕事をしてから、午後はゆっくり過ごした。昨日夜中に蚊に起こされたから、眠い。
 『歩道橋の魔術師』を、半分まで読んだ。幼いころの記憶をときどきよみがえらせながら。あのころ、おそろしいものや不思議なことが、たくさんあった気がする。深くかんがえはじめると戻ってこられない気がするので、深追いはしたくない。ひとりのとき、怖い気持ちになることも、恐れていた。
 この小説も、ときどき怖いので、途中でやめたい気もするが、手品をする人の前から離れられない子どもみたいに、読みつづけている。見ているものがすべて幻だった、と突然さとるようなたぐいの怖さ。語り手たちの声には、なんというか、とても親密な響きがある。夜中の電話で、まわりの誰かを起こしてしまわないか気にしながら、秘密の話をしているような声。

2018年7月28日土曜日

拾い読み日記 53


 貧血気味。ゆっくり、しずかに、すごそうと思う。台風も心配なので、買い物を早めにすませた。

 エーリヒ・ケストナー『エーミールと探偵たち』を読み終えた。『歩道橋の魔術師』と『デミアン』を少しずつ読み進めた。夏休み(の時期)だから、「少年」の物語に、なんとなく惹かれているようだ。

 今月は、本を躊躇なくどんどん買っているので、本棚がいっぱいになってきた。読みたい本が本棚にたくさんあるのは、いい。読む時間がないときは、多少圧迫を感じるかもしれないが、今はそんなことはないから、ただ、うれしい。
 ジョルジュ・ペレック『さまざまな空間』は、拾い読みにぴったりだ。

「指のすきまからこぼれる砂のように、空間は消えてゆく。時は移ろい、ぼくのもとに残るのは、もはや形をとどめぬ断片ばかり。

 書くこと。それはこころを込めてなにかを拾いとどめようとすることだ。ひろがりゆく空虚からくっきりした断片を救いだし、どこかに、わだち、なごり、あかし、あるいはしるしをいくつか残すこと。」

 こうした文章も、「少年」の物語の1ページのように思える。『歩道橋の魔術師』を読んだあとでは、特に。いくつもの本を同時に読むことで、毎日、あたまの中にアンソロジーをつくっているのかもしれない。それは、偶然に、瞬間的に生まれるものなので、目に見えるかたちにはならなくて、誰とも共有できるものではないのだが、読書の道筋は、そうした潜在的なコレクションによって、決められていく気がする

 雨が激しくなってきた。

2018年7月26日木曜日

拾い読み日記 52

    今日はすこし過ごしやすいけれど、なんだかだるくて力が入らない。こころがざわざわして、心身ともに重い。のろのろ洗濯や片付けをして午前中が終わった。すこし横たわって筋肉をゆるめるポーズをとっていたら、寝入ってしまった。
 日記が読みたくなって、須賀敦子の日記をよんだ。疲れてたり、眠かったり、ひるねしたり、仕事がはかどらなかったり、イヤな人に会ったり、そういうところを読むと、そうだよね、と思う。ほっとする。42歳の須賀敦子。仕事への思いと、ときどきふいにはさまれる、祈りのような言葉にうたれる。
 「沈黙のある生活というものが私は本当に好きだ」。これは痛烈な批判の言葉でもあって、「いい加減」な教会に対するものだけれど、沈黙のない生活を送るものにも、ぐさっときた。

2018年7月25日水曜日

拾い読み日記 51


「青年期、ジッドの著作を読むことはわたしにとってたいへん重要でした、そしてなによりもわたしが愛したのは彼の『日記』でした。それはその不連続な構造、その五〇年以上にわたる「パッチワーク」の面でたえずわたしを魅了し続けた本です。ジッドの『日記』では、すべてが起こります、主観性のあらゆる光彩の輝きが。読書、出会い、省察、そしてくだらないことさえも。わたしの心をとらえたのはこの面であり、それでわたしはたえず断章で書きたいと思うのです。」(ロラン・バルト『声のきめ』)

 昨日、夫が買った本を、すこし読む。自分もいろいろ買ったけれど、人が買ったばかりの本を読むのは、たのしい。表紙の写真がいいなと思う。ロラン・バルトはロラン・バルトらしい顔をしている。夢みるように、何かをみている。

 ニワトリや山鳩が鳴いている。雲が多くて陽射しはいつもよりきつくないけれど、湿気と暑さが、からだにこたえる。昨夜は雨音をひさしぶりに聴いた。

2018年7月24日火曜日

拾い読み日記 50



 まわりいちめん雪とつらら、
 嶮しい山の壁のつらなり、
 その向うには夢みるように、ひろく白く
 積雪のオーバーラント。
 
 ゆっくりと靴の一歩一歩を巌に置き
 雪の吹き払われた地面に置き
 山嶺に向って登りつづける、
 短いパイプを斜にくわえて。

 たぶんあそこまで行けば世と隔絶して
 氷と月との青い光の中に
 甘美な平和があるだろう――僕にないその平和が。
 そして棲んでいるだろう、まどろみと忘却とが。


 ヘルマン・ヘッセ「高山の冬」の「1   登攀」。中学か高校の通知表の裏面に、イラストとともに載っていた。その通知表を実家で見つけたのは、何年前だったか。この詩のことは、うっすらと、おぼえていた気がする。どうして山の詩がこんなところに? と、成績のことであたまがいっぱいの学生のときの自分は、思っただろう。けれど、何かを受けとっていた。たぶん言葉以上に、リズムに惹かれた。
 こんなふうに、うっすらとしかおぼえていないものに、影響を受けていることも、きっとあると思う。自分でも意識のおよばない、深いところで、ひそかに。どの先生かはわからないけれど、その先生のことが、なんというか、なつかしい。
 本屋でヘッセの詩集を見つけるたびに、開いてみて、この詩をなんとなく探していたが、訳がちがうことだけはわかって、なかなか再会できなかった。通知表を捨てなければよかった、と思った。

 ようやく夫の古本屋で、片山敏彦訳だったことを知った。『ヘッセ詩集』1962年、みすず書房刊。「先生」も、この本を手にしたのだろうか。わたしの生まれる10年前に出た本だ。「ヘッセの詩は、たしかに 〈憧れ〉 に名づけられたいろいろの名のようなものである. 深い根源的な憧れ,  痛切で,  無形で,  音楽的で,  そして持続的な憧れ――」(片山敏彦)

 今日は、昨日よりは、暑くないみたいだけれど、暑いことに変わりはない。何かひとつでいい、涼しい言葉を持ち歩きたい。

2018年7月23日月曜日

拾い読み日記 49


 ヤンソンさんの生まれた街にいるよ、とメールに書いてあったけれど、「ヤンソンさん」がすぐには誰か、わからなかった。「ヤンソンさんの誘惑」というじゃがいも料理のことを思い出したり、ホルスト・ヤンセン?とちらっと思ったりもしたけれど、ヘルシンキなのだから、それはトーベ・ヤンソンに決まっていた。
 ヘルシンキは、日陰はすずしく風が爽やからしくて、いいなと思う。はやく秋がきてほしい。

 吉祥寺の啓文堂へ。外国文学の文庫がわりと充実していて、なんとなく目にとまったので『トーベ・ヤンソン短篇集』を買った。「往復書簡」を読んでせつなくなる。すこし苦しいくらいのせつなさ。「往復書簡」というタイトルだが、小説は日本に住む「タミコ」から「ヤンソンさん」への手紙のみでできている。タミコは書く。
 
 「だれにも理解できて、だれもがこれこそ自分が思いえがいていたものだと感じる、そんな物語を書いてみたいのです。
 どれぐらい年をとったら、書くことができるのでしょうか。
 でも、あなたの助けなしには、とても書けそうにありません。
 毎日が、待ちわびる日々です。
 とても疲れている、そうあなたはいいました。
 仕事をしてはいるが、まわりにはあまりにもたくさんの人がいると。
 でも、わたしはあなたをなぐさめ、あなたの孤独をまもる人になりたい。」


2018年7月22日日曜日

拾い読み日記 48


 川沿いの道を駅に向かって歩いていると、お隣の女性がちょうど帰ってくるところだった。わたしを見て目をきらきらさせながら、「ちょうど今、水中書店のことをかんがえていたの」という。夫が作った「三鷹マップ」をお友達が見せてくれた、とのこと。その似顔絵がすごくそっくり、といわれる。ありがとうございます、とこたえて別れ、電車に乗って、ひさしぶりに街へ。

 東塔堂で「羽原粛郎の画道︱団扇と書画」をみた。みずみずしく、粋で、涼しく、かろやかな展示。羽原さんが話し出す前の、悪戯っ子みたいにきらっと一瞬きらめく瞳を思い出す。値段でも遊んでいるので、そういうところも素敵だなと感動して、作品をふたつ買った。お知らせのはがきに『本へ!』からの抜粋が載っている。

 夏は
 思いを寄せている人
 友人たちと
 海辺や
 湖岸や
 河川の
 砂浜で
 遠くの林の中で, 激しく, 鳴いている
 蝉の声をかすかに, 幽かに, 微かに,
 聴きながら
 君の性格について
 君の習慣について
 明日について
 人生について
 話そう.

 狩野岳朗「untitled」もみた。心の奥にあるものを探って、絵にするということは、身体を使った実験・冒険のようだと感じる。自他から吹いてくるさまざまな風のなかで、かたちのないものにかたちを与えること。絵を描いてみたくなる。言葉をすべて忘れたり、脱ぎすてたりして。岳朗さんは、詩に興味が出てきたそうで、これまで読んだことのないものを読んでみたい、という。そういう気持ちに触れられて、とてもよかった。澄んだ水ですすがれたよう。あとから夫に話すと、そういう気持ちにまさるものはない、という。ほんとうに、そう思う。

2018年7月21日土曜日

拾い読み日記 47

 午前中、洗濯ものを干していると、お隣の女性が白い日傘をさして、目が合うと「暑くて死にそうですね」と笑顔でいいながら、さわやかに出かけていかれた。

 『鄙の宿』はあと3分の1くらい。一度ざっくりと読んだヴァルザーの章を読んでいる。小さな紙片に小さな文字の「秘密通信」。〈内的亡命〉ということ。

 昨日、夕方からは『瀧口修造の詩的実験 1927〜1937』を持って出かけた。駅前のカフェで読んでいて、ふと顔を上げると、まわりの人たちから、あまりにも遠く隔てられているような感覚におそわれた。詩を読むことで生まれる「空間」について、ぼんやりかんがえた。詩は秘密の空間を用意する。
 そのあと、大量の食器が落ちる音が店中に響き渡った。ずいぶん長く続いた気がするが、いったいどれだけの皿が割れたのだろう。ほんとうに、途中で夢かと思うくらい、長かった。
 いま赤黄男を思い出した。「蝶墜ちて大音響の結氷期」。涼しく激しい音だった。

2018年7月20日金曜日

拾い読み日記 46

 昨日は、髪を切った。白髪染めも。そのあいだ、石垣りんさんの「花嫁」というエッセイを読んだ。銭湯で、突然知らない女性から、衿を剃ってください、といわれる話。カミソリを使ったことがないから、と断っても、重ねて頼まれる。そのあとに続く文章のみごとさと、描かれている女性のすがたに、胸があつくなる。

「ためらっている私にカミソリを握らせたのは次のひとことだった。「明日、私はオヨメに行くんです」私は二度びっくりしてしまった。知らない人に衿を剃ってくれ、と頼むのが唐突なら、そんな大事を人に言うことにも驚かされた。でも少しも図々しさを感じさせないしおらしさが細身のからだに精一杯あふれていた。私は笑って彼女の背にまわると、左手で髪の毛をよけ、慣れない手つきでその衿足にカミソリの刃を当てた。明日嫁入るという日、美容院へも行かずに済ます、ゆたかでない人間の喜びのゆたかさが湯気の中で、むこう向きにうなじをたれている、と思った。」(『ユーモアの鎖国』)

 湯気のむこうに、ふたりの女性がいる。その輪郭はほのかに光っていて、なにかとても神聖で、したわしい感じがする。
 
 6年前、この町に越してきてから、ずっと同じ美容院に通っていて、そのたび、なんでもない会話をする。6年前は、髪がやけに長かった。のびてゆく髪を持てあましながら、切れなかったのは、たぶん不安のせいだった。今は、ひと月半ごとに、短く切る。もう髪をのばすことは、ないだろう。

2018年7月19日木曜日

拾い読み日記 45


 また、財布を忘れて出かけてしまった。駅前のドトールに入ったところで気がついて、引き返した。一瞬、絶望的な気持ちになる。母親の認知症の心配をしている場合では、なかった。
 また夫にお金を借りにいって、借りたお金で、お茶を飲んだり、ビールを飲んだり、ごはんをたべたりした。残りのお金を気にしながらなので、すこし、きゅうくつさを感じた。財布を持つのはやめて、ポケットに直接お金を入れて持ち歩くことも考えたが、ポケットがない服のときは、どうすればいいのだろう。
 しかし、さすがに、もう、忘れないだろうと思う。

 カフェで、ゼーバルト『鄙の宿』を読み進めた。ゴットフリート・ケラーについての章を、もうすぐ読み終わる。「物を書く術(クンスト)とは、どうにかまともな人格を保っておくために、ともすれば優位に立ちたがる黒いぐしゃぐしゃの塊を抑え込むこころみなのだ」。
 
 今日も、異常に暑い。夜も暑いけれど、今年は冷房を消さずに寝ているので、よく眠れている。だから、わりと元気で、いろいろ、作りたいもののことについて考えている。物を作る術とは。

2018年7月18日水曜日

拾い読み日記 44


 酷暑がつづく。昼間は外に出たくない。洗濯物を干しに出るだけで、びっくりするくらい暑い。 
 昨日はひさしぶりにK社へ。会社の近くを険しい表情の女性が黒いリュックを背負って歩いていた。むかし一度仕事をしたことがある人のような気がしたが、どうだろうか。たぶん目があってもお互い見過ごすだろうと思う。
 新国立競技場がだいぶ出来ていて、ああ、と思った。この先も何度か、この、骨組みだけの競技場の光景を、思い出すような気がした。あたりは静かだった。
 今朝は、石垣りんさんの散文を読んだ。知り合いではないのに、石垣りん、ではなく、石垣りんさん、と「さん」をつけたくなる。

「いつからか国土というものに疑いをもったとき、私の祖国と呼べるものは日本語だと思い知りました。言葉の世界に皇帝の位はありません。皇帝という言葉があるだけです。それは絶対ではない。」(『ユーモアの鎖国』)

 先日、ある展示で石垣りんさんの手紙を手にすることができた。文章から推測すると、詩を通して出会った、年若い人への手紙で、手書きの文字も文章も、ていねいで、やさしくて、あたたかなものだった。

2018年7月17日火曜日

拾い読み日記 43


 昨日は、財布を忘れて出かけてしまった。暑さでぼうっとしているのか、宅急便も送れなかったし、少し、おちこむ。とぼとぼ歩いて夫にお金を借りに行って、借りたお金(3000円)で小林秀雄『ゴッホの手紙』(100円)を買った。借りたお金でビールをのみながら、読んだ。冒頭、「烏のいる麦畑」の描写が、みごとで、引きこまれる。それからW.G.ゼーバルト『鄙の宿』を読み進めた。読んでいると、ところどころ、書き写したくなる箇所に遭遇する。たとえば、ジャン=ジャック・ルソーについて書かれたところ。

「彼自身、なによりも望んだのは、頭のなかで回りつづける車輪を止めることだった。にもかかわらず書くことにしがみついていたとすれば、それはもっぱら、ジャン・スタロバンスキーが言うように、ペンが手からぽろりと落ち、和解と回帰の無言の抱擁のうちに真に本質的なことが語られるであろう、というその瞬間を招きよせんがためだった。」(下線部は傍点) 

 昨日、宅急便にまにあわなかったので、これからとあるところへ届けにいかなければならないのだが、暑さにやられないか、心配だ。今日はぜったいに財布を忘れたくない。

2018年7月7日土曜日

拾い読み日記 42


 吉祥寺で「江上茂雄:風景日記」をみたあと、三鷹に戻って喫茶店で本を読んだ。しばらく詩を読んでいない、とはたと気づいて目にとまった『川田絢音詩集』だった。長い詩を読む気力がなくて、短い詩を探して読んだ。何度かくりかえして読んでみて、ふと、朗読したくなった。もしくは、誰かの声で、聞いてみたい気がした。

   夜

 黒ずんでべろんとした敷石 濡れてひかっている露地を
 歩きながら
 悲しみがこみあげて
 よその家のベルを チッと鳴らした
 知らない車に乗ってしまいどこかに連れていかれる
 ということだって
 考えられる
 建物の
 石の壁に手の甲を擦りつけて
 痛くなるまで
 擦りつけながら歩いていく


 江上茂雄さんは、島崎藤村が好きだという。「春」の一節をあげられていた。「あゝ、自分のやうなものでも、どうかして生きたい。」
 毎日、毎日、風景を描き続けるということが、実感として、わからないけれど、なんとなく、豊かな感じがして、憧れのような気持ちがわく。会場にいくつか貼ってあった言葉の中に、魂を鎮めるため、という言葉があった気がするが、どういう文脈のものだったろうか。

 昨夜は、遠くで花火が上がっていた。遠い花火は小さくて可憐な花のようで、幻をみているようだった。家の前で傘をさして、しばらく見ていた。

 今日は、七夕。風が強くて暑い。
 

2018年7月6日金曜日

拾い読み日記 41


 長谷川利行の絵を見にいった。絵の前にじっと立っていると、踊るような手の動きを感じた。目眩がするほど、はげしく、はやく、はなやかだった。描くことが、世界とダンスすることのようにも感じられた。筆がまさぐる、ぬりたくる。そこは、水も風も空も人も、いきいきと流れて動く世界だった。「少女」のしずけさにも、深くこころをうばわれた。肌の色、輪郭線、表情。音楽を聴いているようだ。
 利行の「いのちの無駄遣いをしない」という言葉には、どきりとする。しかし、素直に、自分もしない、とはいえない。何が無駄かは、最後まで、わからない。帰りは、武蔵小金井までバス。喫茶店の窓からの眺めはほぼ灰色で、利行の世界がなつかしく、淋しかった。

 ヴェイユ『工場日記』がかばんに入っていた。「ある女生徒への手紙」を読む。「あなたは、一生の間、どうしても多く苦しまずにはおれないような性格の持主だと思います。きっとそうだという感じがするのです。あなたという人は人一倍血の気の多い、烈しい気性の人ですから、今の時代の社会生活には、とても順応して行けないのです。でも、そんなふうなのは、あなたひとりではありません。それに、苦しむといっても、そこに深いよろこびが感じられるなら、なんでもないことです。」

2018年7月5日木曜日

拾い読み日記 40


 ある小説を読んでいて、三分の二ほど読んだところで、突然、読めなくなってしまった。たぶん、ほんとうは、読めなくはないのだが、なぜ、いま、この本を読んでいるのか(読まなければいけないのか)、わからなくなった。「トカトントン」みたいな感じ。おもしろくない、退屈、というのとも、すこしちがうような気がするが、わからない。
 その本は途中でやめることにして、べつの本を読む。『エミリ・ディキンスン家のネズミ』。むかし持っていたはずだが、読んだ記憶がないのでまた買って、今度はすぐに読み始めて、読み終えた。
 エミリの詩を読んだネズミは、子どものころ、はじめてひとりで外に出てみたときの気持ちを思い出す。

「黒い草の上にあおむけになって、白く燃える月と星々を見つめていたとき、激しい感情が、わたしの心をよぎってゆきました。——生きてここにいるということの、悦びと不思議。わが身の不安。手のとどかないものに触ってみたいという、つよい願い。誰なのだろう、わたしは? なぜ、ここにいるのだろう? これから、どこへゆくのだろう?」

 エミリとエマライン(ネズミ)のちいさな詩集は、絵によると、和綴じのようだ。題箋が貼ってある。自分がつくるなら、どうするかな、とかんがえることは、たのしい。
 ちいさな本の運命について。それは、書いた人も作った人も、見届けることはできない。エマラインはいう。「「誰でもないもの」として出発したわたしは、たぶん、「誰でもないもの」として終わるのでしょう。けれども、数えきれないほどたくさんの不思議なことばがこの世にはあり、わたしはそうしたことばを見つけてゆきたいのです。」

 昨日はシモーヌ・ヴェーユ『重力と恩寵』、エーリヒ・ケストナー『エーミールと探偵たち』も買った。それぞれ読み進めて、すっかり遅くなる。帰りは、雨に遭った。

 

2018年7月2日月曜日

拾い読み日記 39


 このところ、たくさん本を買っている気がする。読める本を、読んでいる。いつになく、読み終えるたのしさを、感じている。ほぼ何も終えられない毎日のなかで、それは充実感を与えてくれる。

 一昨日、伊藤 亜紗『目の見えない人は世界をどう見ているのか 』(光文社新書)を読み終えて、昨日、多和田葉子『容疑者の夜行列車』を半分まで読んで、今日は、『そろそろ左派は〈経済〉を語ろう』を読んでいる。『そろそろ〜』は、今日買ったばかりで、明日の読書会(みたいな会)までには読み終えられない気がする。けれどおもしろい。まだ4分の1しか読めていないが、手にとってよかったと思う。
「できるなら誰だって、自由に、好きなように生きたいはずなのに、いまの日本には、それを言ってもいけないような空気があると思う。人心まで緊縮している。でも、わたしたちは「人を自由にするための経済」を求めていいんです。」(ブレイディみかこ)
 
 この、「読み終えたい」時期は、いつまで続くのだろうか。それにしても、毎日、暑すぎる。

2018年6月27日水曜日

拾い読み日記 38


 Mさんに誘われ古川麦さんのライブへ。いいライブだった。しずかな歌にとくに惹かれた。いいライブにいくと、もっとすきなように生きていいような、生きられるような、そんな、自分がひろがっていくような感覚をおぼえる。
 スピーカーが近い前方の席にいたせいか、低い音が胃のあたりにかなり響いて、疲れたみたいで、今朝はなかなか起きられなかった。お昼まで寝た。ライブのあと、夫と三鷹でのみすぎたせいでもある。いきつけのお店はカウンターが常連でいっぱいで、熱のあるこどもみたいにみな大きな声ではしゃいでいて、ちょっとうるさかった。

 何かものごとに対して反応を迫られている気がするSNSがつらくなってきた。知りすぎるばかりで、考えたり、感じたりすることがやりにくい。あたまの中、身のまわり、さまざまなものとの関係を、もっとすっきりとさせたい。タブラ・ラサ tabula rasa、「石板に書き込まれていた文字を一度すべて消し去って、さらの状態に戻すこと」(『自分と未来のつくり方』)。ツイッターも一度ぜんぶ消してみたい気もするけれど、たぶんそれは、しないだろう。

 立原道造の日記(「ノート」)をすこし読む。「あたらしい文学のなかへ すつぽりと手袋を脱ぐ 半分だけ町へ行きたい人 町には記憶の大通りがある 石が敷いてあつて鶏が歩いてゐる これは一つの旅行案内です」

 疲れがとれたら、またどこかへいきたい。風が強すぎて、今日は窓が開けられない。

2018年6月26日火曜日

拾い読み日記 37


 火災報知器が突然鳴りだした。あわててうろうろと家の中や外の様子をみてみたが、あたりは人気もなく、静か。においもしない。誤作動のようだった。しばらくどきどきが止まらない。心臓を鷲づかみにされるような、おそろしい音だった。

 しばらく本をよんで過ごしていた。何冊か読み終えた。ビラ=マタスの『パリに終わりはこない』を読み終えたときは、淋しかった。書くことをめぐる、長い、「さまよえる悪夢」の物語。語り手の孤独とアイロニーには伝染性があるかもしれない。「《とにかく書きなさい、一生書き続けるのよ》と彼女は私に言った」。彼女とは、デュラスのこと。いつかまた、はじめから読んでみたいような、読んでみたくないような、奇妙で愛しいねじれた小説。

 松村圭一郎『うしろめたさの人類学』と石田英敬『自分と未来のつくり方』を読み終えた。どちらも、読みやすく、わかりやすかった。「親切」な本。語りかけられている学生の気持ちで読み終えた。いい講義を聴いた感じ。

 たてつづけに読みとおしたので短いものが読みたくなって、石井桃子『みがけば光る』を手にとった。すきな作家の言葉はいつも、すっきりとして、穏やかで、やわらかだけれど、確かなてざわりがある。曖昧になってしまった自分の輪郭を取りもどせるような気がする。
 「私がほんとにしたいのは会に出たり、電話で応答したり、知らない人からの手紙に返事を書いたりすることではない。その間に、私は、日本の昔話をじっくりと読みあさり、家に本を読みにくる子の心をさぐり、私のなかから流れてくるものを書きたいのである。」(「私の周辺」)
 「私がほんとにしたい」ことと「私のなかから流れてくるもの」は、なんだろう、と考えた。それを大切にしたい。暑いけれど、風のある日。

2018年5月20日日曜日

拾い読み日記 36


 朝、外を歩いた。葉が濡れているみたいにつやつやと輝いていた。光の滴り。葉擦れの音は、波音に似ていた。一瞬、目を閉じてみる。この仕事が終わったら、海にいきたい、と思う。ひとりか、ふたりで。5月は美しい季節だと思う。躑躅も紫陽花もどくだみも昼顔も咲いている。

 今日は午後から印刷。活字でなく凸版を刷るのは慣れていないのでどうかと思ったが、うまくいったみたいだ。樹脂版より亜鉛版のほうが自分は刷りやすい。圧をかけても線が太くならないのがいい。
 とても疲れて、本はあまり読めなかった。それでも手の届くところにある本を開いて、すこしだけ読んだ。

日常は逃れ去る。なぜ日常は逃れ去るのだろうか。それは日常が主体を欠いているからである。」(モーリス・ブランショ『終わりなき対話』)

 昨日はリソグラフ印刷の印刷所で、ごろんと横たわる大きな犬を撫でたり舐められたりして、癒された。

 なんだか疲れていて、それでも誰かと話したい気分だからか、SNSの持っているアカウントすべてに投稿した。誰からも反応がないことの安らかさ。おかしな自意識。

 展示まであと10日ほど。まにあうと思う。しかし、何かがじわじわと近づいてくるのは、苦手だ。

 メールをチェックすると急な仕事の依頼が入っていた。「強盗殺人」についての本らしい。写真も文字も禍々しく、怖い。できるだろうか…