2018年10月15日月曜日

拾い読み日記 66


 さっき隣で大学生たちが本の話をしていた。一人がもう一人に感動を伝えようとしていたが、なかなか伝わらないようだった。「文章に感動するっていうのがわからん」とかいっていた。なんの本か気になって聴き耳をたて、いくつかキーワードを拾いこっそり検索すると、コーマック・マッカーシーの「越境」という小説らしい。ちょっと読んでみたくなった。自分もあんなふうに、文に圧倒されてだれかにその感動を語ったりしたい。それにしても隣で本の話をしている、というのがめったにないことなので、うれしくなった。
 
 今朝、「冬にわかれて」というグループを知り、その名前が尾崎翠の詩の一節から、と聞いて、ひさしぶりに、尾崎翠を読んだ。

「さて今夜は図書館の帰りです。パラダイスロストのごった返した散歩者の肩のあいだにも濃い空気の滲みているこんな夜には、街もひとつの美しさを教えてくれます。夜店の灯もほこり臭くないし、「冬物シャツ、サルマタ、大投売り」の台の下では、こおろぎが啼いているかも知れません。」(尾崎翠「途上にて」)

 今日から一週間、図書館が休みなので、さみしい。早めに買い物に出て戻ってきて、珈琲をのんだら、猛烈に眠くなってきた。冬が近い気がした。

2018年10月12日金曜日

拾い読み日記 65



「こうして日々はすぎて行く。時どきわたしは自問するのだ。子どもが銀色の球によって魅惑されるような工合に、私は人生というものによって催眠術にかけられているのではないか、と。そしてこれが生きるということなのか、と。これはとても生きいきとしていて、明るくて、刺激的だ。でももしかすると浅薄かも知れない。〈人生という〉球を両手で持って、そのまるい、なめらかな、重い感触を静かに感じとり、そのようにして毎日持っていたいと願う。プルーストを読もう。前後しながら読もう。」(ヴァージニア・ウルフ著作集8『ある作家の日記』)

 日記を前後しながら読むたのしみは、「人生」や「日々」から、解放される気がするからだろう。過ぎ去るということ、つまり「時間」から? わからない。今、本をそのようにしてしか読めない。

 今朝、夫の本棚にあるウルフの日記をさがして、借りていい? と聞いたら、「あげる」といわれた。とてもうれしい。綺麗な水色の布装の本。別丁扉と、その裏の薄い水色の文字(クレジット)が、とりわけ凛としていてすきだ。

 さがしていた記述は見当たらなかったが、ウルフの言葉にひきこまれて、ふかくもぐるような時間をすごせた。

2018年10月10日水曜日

拾い読み日記 64



 このところ、風呂上がりにベランダで少しだけビールをのむのがたのしみだ。虫の声がよく聞こえる。星はみえなくて雲が多い。夜風がしっとりしている。信号の青や赤がはなやか。ひとは自転車で通りすぎる。虫の声で一句よめないかと思ったが、できなかった。「歌は歌うものですか」という声が、脳裏をよぎった。この部屋はよく声が響くので、くちずさむのも気持ちがいい。

 aに来年の展示のことでメールを書いていて、「展覧会の会期」が「展覧会の怪奇」になってぎょっとした。
 また怖い本のデザインをしなくてはいけない。
 
 制作に入ると昨日と同じ本が読めない。持っていった本にはぜんぜん集中できなかった。明日は本が読めるだろうか。

2018年10月8日月曜日

拾い読み日記 63



 昨日の夕暮れどき、海辺でみたふたりの女性の後ろ姿がとてもすてきで、カラフルなタンクトップとショートパンツからすらりとのびる細い手足をみていたら、ロメールの映画をなんとなく思い出した。ふたりは、しばらくのあいだ、海をみながら話していた。
 角を曲がって海がみえたときの色が、ぼうっとかすんで、光って、夢の中でみる景色のように、きれいだった。なごりおしくて、しばらく水平線をみながら、海沿いの道を歩いた。
 昨日の鎌倉は、とても暑くて、人も多くて、くらくらした。けれど、絵をみながら、しずかなひとときを過ごせたので、よかった。
 
 帰り、駅前のたらば書店で、迷ったすえ、『雪あかり日記╱せせらぎ日記』(谷口吉郎)を買った。ベルリンの暗い空、冬の憂鬱、戦争の不安。灰色にそまりそうになる。
 「そんな時に、いつも私の心を振い起してくれるものは「建築」だった。「建築」のことを思うと、なにかしら力強いものが私の心に浮んできて、暗くなろうとする気持を明るく引き立ててくれる。」
 
 このところ、曇りや雨の日に、すこしあたまが痛くなる。けれど、「本」のことを思うと、といいたいが、気を散らせるものが、たぶん、多すぎる。もっとシンプルになること。
 佐倉へは、いついこうか、決めかねている。待っていた郵便が届かなかったので、いっそ、ひとりで、しずかに、むかうのがいいのだろう。その前に「本」を読みおえてからいきたいが、いろいろなことを思ったり、思いだしたり、かんがえたりして、なかなか読みすすめることができない。

2018年10月1日月曜日

拾い読み日記 62


 引っ越して、20日ほど経った。家が、ほとんどいつも、片付いている。片付いていると、日記を書こうという気が、あまり、起こらない。どうしてだろうか。ともかく、安心できる場所で、しずかな気持ちになれることが、しあわせだと思う。

 今朝は台風一過、朝6時の雲があまりにダイナミックで綺麗で、しばらくベランダに立ちつくしていた。空を泳ぐ、巨大なさかなのようだった。

 先日、思い切って水戸へ行って、内藤礼さんの展示をみたので、『祝福』という作品集を図書館で借りてきた。夕暮れどき、闇が町を覆いはじめるころ、ゆっくりと、作品とことばをたどった。それから、ベランダに出て、ふたつ、星をみつけた。ふたつの星と、じぶんが、三角形をなしている、と感じた。とても特別な、夜のはじめの時間を過ごした。

「花が。動物が。ひとが。はなればなれになって、動いている。かぎられた形をもって、その内部をみたしている。ぐんぐん歩く道。踊る空気のひろさ。聴こえるはなうた。布は風にふくらみ、やがて降りてくる。鳥は光のなかに円をえがきひるがえる。海に夜が。岩に雨が。雲に空が。土に闇が。口にしただけで、私はもうそのものに駆けよったようにうれしい。何もいえないときも、ただうつくしいといえた。」

 ここではときどき赤ん坊がはげしく泣く声が聞こえる。どこの家からかわからない。生命そのもののような声。そのつよさに、はっとする。

2018年9月10日月曜日

拾い読み日記 61


    引越しの準備にもようやくめどがたち(つかれた)、あたらしい部屋の鍵を受取りに、吉祥寺の不動産屋さんへ。ぶじに受け取って、昨日、なんとなく買った『自信のない部屋にようこそ』(雨宮まみ)を、ホワイトビールをのみながら、読んでいる。
    本をすべて箱に詰めてしまったので、ほかにあまり選択肢がなく、読んでいる。でも引越しの前夜に読むのに、よかった。疲れているので日記を書くつもりではなかったが、書き留めておきたくなった。

    「部屋に一人でいることが孤独なのではない。一人の人間は、星座のように、どこかで見えるか見えないかの線でつながっていて、孤独を慰め合い、見守り合い、互いの孤独な戦いの美しさを、讃えあっているのである。」

    「星座のように」という表現が、すきだと思った。それから、こうした関係のことを、さらには、文学のことを、思った。

    かつて、一人でいて、悲しくてたまらなくなったとき、どうやってその時をのりこえたのか、もう、忘れかけている。

    明日は、朝から引越しだ。雨が降りませんように。

2018年9月4日火曜日

拾い読み日記 60


 今日は、在庫の整理をしよう、と思っていたのに、はがきサイズのわら半紙の束(合紙をとっておいた)を見て、急に捨てるのが惜しいような気がして、これで何かできるかどうか、試しにメモ帳を作ってみたのだが、うまくいかず、結局、部屋と机が散らかっただけだった。いったい何をしているのだろう。物を捨てる前にクリエイティブになるのはやめなさい、とミニマリストがいっていたが、ほんとうに、そうだと思う。明日、段ボールが届くので、もう何も考えず、箱に物を詰めることに専念したい。
 
 椹木野衣『感性は感動しない』を読んだ。みること、読むこと、書くこと、生きることをめぐって、書き留めておきたいことがたくさんあるが、今、その時間があまりない。
 たぶんもっともこころが動いたのは、なぜ書くのか、という問いをめぐっての文章だった。書くのは、お金がほしいからでも評価されたいからでもない。

 「ではなぜなのでしょう。こんなことを考えていると、私はふと、失われた時間や場所を想像力によって取り戻し、そのことで蘇る、自分のなかに眠る天空の宇宙のように不滅ななにかを、読む人とわずかの時間だけでも分かち合うために書いているような気がすることがあるのです。」

 台風のせいで、雨風が強くなってきた。これから出かけなくてはならないので、気が重い。

2018年8月30日木曜日

拾い読み日記 59



 老後は、自分がこれまでどう生きてきたかということと向き合わされる時間、というような言葉を、ある本で読んだが、引越しの準備の時間にも、そういうところがあると思った。雑然としたものたちを片付けるのに、すっかり疲れてしまった。このところ、どのように暮らしてきたか、いかにてきとうだったか、始末がわるいか、一気に見せられているようで、気が滅入る。気が滅入っているのに、あちらこちらに連絡しなければならない。
 ある本、というのは、こないだ買った『なるべく働きたくない人のお金の話』(大原扁理)という本で、まだぜんぶは読んでいないが、いい本だと思う。おしつけがましさがなくていい。本でも、現実でも、おしつけがましさを感じると、逃げたくなってしまう。
 「こういう稼ぎ方・使い方について、お金がどういうふうに思うだろう?」と、お金を人格化するという発想が、おもしろかった。お金を大事にする、というのはわかるが、お金の気持ちを考える、とか、お金の幸せを祈る、とか。そうすると、お金が自分のものでも誰のものでもなくなり、みんなのものになる、という感じ方。お金がなくても不安にならない。「お金が来たいときに来ればいいし、出ていきたい時には出ていけばいい」。多くの人は、お金を(むだに)貯めすぎだと感じる。貯めすぎるのは、不安だからだ。
 
 働きたくない、持ちたくない、したくない、ことについての本をたくさん読んでいるのは、たぶん来年あたりから、自分のしごとの状況が変わってくる(なくなるか、減る)からだと思う。それでも自分で本をつくることは続けたいので、制作費をどうしよう、と思わないこともない。まあ、なるようになるだろうと思う。
 お金と同じように、本も、誰のものでもない、と思えば、あせることもない。
 本の幸せとは、なんだろう? たとえば、本がひとりのおおきな人だとして、ほかの人が気がつかないような、小さな、痒いところに指をのばして、届けば、そういうのが、いいのかなとも思う。ときどき、くすぐったりして、遊びたい。

2018年8月16日木曜日

拾い読み日記 58


 風が強すぎて、窓を閉めていても家の中に畑の土が入り込んでくる。今日は洗濯するのはやめておく。

 東浩紀『弱いつながり』を読み終えた。「弱いつながり」、予測できない、偶然の、ノイズに満ちた、はかない絆。読んでいると、どこか海外に行きたくなって、航空券のサイトをみたりしてみた。たぶん、いろいろなことに、飽きているのだと思う。「同じ世界のなかで、同じ言葉ばかり検索していて、そしてそれなりに幸せでも、ぼくたちは絶対に老いる。体力がなくなる。それに抵抗することができるのは、弱い絆との出会いだけなのです。」
 
 このところ、本を買ったらすぐに読みはじめるようにしていて、そうすると、けっこうすぐに、読み終えてしまう。読み終えたら、手放したくなる。
 今日は、本棚にある、読み終えられない本を読みたい気がする。それは、強いつながり、ということだろうか。行き来することで、見えてくるものもあるだろう。


2018年8月15日水曜日

拾い読み日記 57


 帯状疱疹になったのでお酒をもう5日ものんでいない。昨日、だいぶよくなったので、ちょっとぐらいならビールをのんでもいいような気がしたが、夫に止められたので、やめておいた。そしたらほめられたので、うれしかった。
 
 pha『しないことリスト』を読んだ。いい本だった。

「だるさというのは大事な感覚だ。だるさを単なる怠惰な気持ちとして無視するんじゃなくて、もっとだるさに敏感になったほうがいい。╱だるさを感じるときは、「体調が悪い」とか「精神状態が悪い」とか「今やっていることがあまり好きじゃない」とか、そうした漠然とした現状への違和感が身体や気分のだるさとして表れているのだ。」

「「仕事というのは、イヤなつらいことを歯を食いしばって、ひたすら耐えてがんばってこそ成果を残せるのだ!」みたいなことを言う人がたまいいるけど、そんな変な話はないだろうと思う。╱人生はそんなマゾゲーじゃない。」

「死にたい気分のときは、ケータイやパソコンの電源を切って、好きなものを食べまくって、部屋に籠もってひたすら寝よう。╱他人のことや社会のことや、責任とか義務とかは何も考えなくていいから、一切のイヤなことや面倒なことを投げ捨てて、つらくないことだけして過ごそう。ひたすら時間をムダに使おう。」

 やさしい人だなあ、と感じた。いつか、ものすごく疲れたりつらくなったりしてどうにもならなくなったときに、読み返そうと思う。
  
 引っ越しのための片付けを進めている。部屋のあちこちがきれいになって、気持ちがいい。だるくなったら、すぐに寝転がることにしている。今日は、ごろごろしながら、荻原魚雷『本と怠け者』を読もうかな、と思っている。思っているけれど、ほかの本を読むかもしれない。
 本を減らしたことは、よかった。雑然とした本棚、読まない(読めない)本でいっぱいの本棚も、ストレスだったのだ、と今は思う。
 

2018年8月8日水曜日

拾い読み日記 56

 引っ越しを機に物を減らしたくて、「ミニマリスト」の本をいろいろ読んでいる。何もない部屋の写真をネットで見ては、いいなあと思ったり、それはいくらなんでも、と思ったりする。スッキリというよりは、寒々しい、独房みたいな部屋もある。それでも、本人がいいならそれでいい。そこが爽快だと思う。
 中崎タツヤ『もたない男』がおもしろかった。物を捨てるとほんとうに大切なものがわかる、とか、運がよくなる、とか、そういうのがぜんぜんないところが、よかった。いらないと感じたから捨てたい、捨てる、それだけ。

 ひとり暮らしをするときに必要な物だけを持って出たはずなのに、ふたりになって、また、いつのまにか、物がたくさんある部屋になってしまった。夫の物はほんのわずかで、ほとんど自分の物ばかり。その状態がいやになってしまった。本棚にも自分の本ばかり。わるいなあという気持ちもある。もちろん、仕事場でもあるから、しかたがないところもあるけれど。
 長いあいだ開かないで埃がつもった本たちも、たくさん手放して、それを、いま読みたいと思っている人たちのほうにまわしたい。本もそのほうがうれしいだろうと思うのだが、それは、自分へのいいわけも、少し入っているかもしれない。
 とにかく、たくさんの物たちとうまくつきあっていくことは、疲れる。それよりは身軽になって、もっと、ほかのことがしたい。文字のほかに何もない、余白の多い簡素な冊子をつくりたい気持ちは、何もない部屋に住みたい、という気持ちと、きっと通じるものがあるのだろう。

 このところ、また、ぼろぼろになった『海からの贈物』を読みかえしている。この本はいたみすぎて売りものにはならないし、最後まで、いっしょにいるような気がしている。そういう本は、たくさんでなくていい。「浜辺中の美しい貝を凡て集めることはできない。少ししか集められなくて、そして少しのほうがもっと美しく見える。」

 ずっと前から知っていたのに、なかなか、できなかった。引っ越したら、生活も、制作も、変わるだろう。それをたのしみにしている。

2018年7月31日火曜日

拾い読み日記 55

    西向きの窓辺に机があるので、このところ、午後2時以降は、暑くて座っていられない。今日もあいかわらず身体が重いので、横になってばかりいる。

    午前中、ある方から謄写版の道具一式が届いた。持ち主の方は亡くなっていて、その方が出された句集が一緒に入っていた。19歳から85歳までのあいだにつくられた俳句。ぱらぱらと、めくって読む。とても豊かな生を生きた方だなあと感じた。道具はどれも、丁寧に使われていたように見える。
    まだ、言葉にならない気持ちの中にいるけれど、まるで、ひとりのひとに、出会ってすぐに別れたようだ。茫然としてしまった。

    今日も、街に出て散歩するかわりに、本棚から目についた本をひきだして、すきなところを読む。「味わうまでは、ないことに気づかなかった、あるいは忘れていた、そしていま、今後も永遠にないのだと気づく感情。憧憬。美の体験は私のなかの欠如を意識させる。私が経験するもの、触れるものには、喜びと痛みがふたつながらにある。」(ペーター・ツムトア『建築を考える』)

    ceroの「outdoors」を何度かきいた(みた)。いつかきいて、すごく好きだったのに、すっかり忘れてしまっていた歌のよう。とても美しい曲だ。「何かを懐かしむほど生きていないのに 少しずつ身体は死んでく」

   午前中、取れてしまったカブトムシの足は、もとにもどらないの? と、子どもがラジオで相談していた。恐竜の肉はおいしいの? と聞く子もいた。夏休みの子どもたち。

2018年7月30日月曜日

拾い読み日記 54


 信じるかい? 何にでもなれるのさ、どこへでもいける。ceroの「レテの子」の歌詞が、頭の中でぐるぐるまわっている。「POLY  LIFE  MULTI  SOUL」。文学のことのよう。昨日、フジロックをiPhoneでみた。
 午前中に仕事をしてから、午後はゆっくり過ごした。昨日夜中に蚊に起こされたから、眠い。
 『歩道橋の魔術師』を、半分まで読んだ。幼いころの記憶をときどきよみがえらせながら。あのころ、おそろしいものや不思議なことが、たくさんあった気がする。深くかんがえはじめると戻ってこられない気がするので、深追いはしたくない。ひとりのとき、怖い気持ちになることも、恐れていた。
 この小説も、ときどき怖いので、途中でやめたい気もするが、手品をする人の前から離れられない子どもみたいに、読みつづけている。見ているものがすべて幻だった、と突然さとるようなたぐいの怖さ。語り手たちの声には、なんというか、とても親密な響きがある。夜中の電話で、まわりの誰かを起こしてしまわないか気にしながら、秘密の話をしているような声。

2018年7月28日土曜日

拾い読み日記 53


 貧血気味。ゆっくり、しずかに、すごそうと思う。台風も心配なので、買い物を早めにすませた。

 エーリヒ・ケストナー『エーミールと探偵たち』を読み終えた。『歩道橋の魔術師』と『デミアン』を少しずつ読み進めた。夏休み(の時期)だから、「少年」の物語に、なんとなく惹かれているようだ。

 今月は、本を躊躇なくどんどん買っているので、本棚がいっぱいになってきた。読みたい本が本棚にたくさんあるのは、いい。読む時間がないときは、多少圧迫を感じるかもしれないが、今はそんなことはないから、ただ、うれしい。
 ジョルジュ・ペレック『さまざまな空間』は、拾い読みにぴったりだ。

「指のすきまからこぼれる砂のように、空間は消えてゆく。時は移ろい、ぼくのもとに残るのは、もはや形をとどめぬ断片ばかり。

 書くこと。それはこころを込めてなにかを拾いとどめようとすることだ。ひろがりゆく空虚からくっきりした断片を救いだし、どこかに、わだち、なごり、あかし、あるいはしるしをいくつか残すこと。」

 こうした文章も、「少年」の物語の1ページのように思える。『歩道橋の魔術師』を読んだあとでは、特に。いくつもの本を同時に読むことで、毎日、あたまの中にアンソロジーをつくっているのかもしれない。それは、偶然に、瞬間的に生まれるものなので、目に見えるかたちにはならなくて、誰とも共有できるものではないのだが、読書の道筋は、そうした潜在的なコレクションによって、決められていく気がする

 雨が激しくなってきた。

2018年7月26日木曜日

拾い読み日記 52

    今日はすこし過ごしやすいけれど、なんだかだるくて力が入らない。こころがざわざわして、心身ともに重い。のろのろ洗濯や片付けをして午前中が終わった。すこし横たわって筋肉をゆるめるポーズをとっていたら、寝入ってしまった。
 日記が読みたくなって、須賀敦子の日記をよんだ。疲れてたり、眠かったり、ひるねしたり、仕事がはかどらなかったり、イヤな人に会ったり、そういうところを読むと、そうだよね、と思う。ほっとする。42歳の須賀敦子。仕事への思いと、ときどきふいにはさまれる、祈りのような言葉にうたれる。
 「沈黙のある生活というものが私は本当に好きだ」。これは痛烈な批判の言葉でもあって、「いい加減」な教会に対するものだけれど、沈黙のない生活を送るものにも、ぐさっときた。

2018年7月25日水曜日

拾い読み日記 51


「青年期、ジッドの著作を読むことはわたしにとってたいへん重要でした、そしてなによりもわたしが愛したのは彼の『日記』でした。それはその不連続な構造、その五〇年以上にわたる「パッチワーク」の面でたえずわたしを魅了し続けた本です。ジッドの『日記』では、すべてが起こります、主観性のあらゆる光彩の輝きが。読書、出会い、省察、そしてくだらないことさえも。わたしの心をとらえたのはこの面であり、それでわたしはたえず断章で書きたいと思うのです。」(ロラン・バルト『声のきめ』)

 昨日、夫が買った本を、すこし読む。自分もいろいろ買ったけれど、人が買ったばかりの本を読むのは、たのしい。表紙の写真がいいなと思う。ロラン・バルトはロラン・バルトらしい顔をしている。夢みるように、何かをみている。

 ニワトリや山鳩が鳴いている。雲が多くて陽射しはいつもよりきつくないけれど、湿気と暑さが、からだにこたえる。昨夜は雨音をひさしぶりに聴いた。

2018年7月24日火曜日

拾い読み日記 50



 まわりいちめん雪とつらら、
 嶮しい山の壁のつらなり、
 その向うには夢みるように、ひろく白く
 積雪のオーバーラント。
 
 ゆっくりと靴の一歩一歩を巌に置き
 雪の吹き払われた地面に置き
 山嶺に向って登りつづける、
 短いパイプを斜にくわえて。

 たぶんあそこまで行けば世と隔絶して
 氷と月との青い光の中に
 甘美な平和があるだろう――僕にないその平和が。
 そして棲んでいるだろう、まどろみと忘却とが。


 ヘルマン・ヘッセ「高山の冬」の「1   登攀」。中学か高校の通知表の裏面に、イラストとともに載っていた。その通知表を実家で見つけたのは、何年前だったか。この詩のことは、うっすらと、おぼえていた気がする。どうして山の詩がこんなところに? と、成績のことであたまがいっぱいの学生のときの自分は、思っただろう。けれど、何かを受けとっていた。たぶん言葉以上に、リズムに惹かれた。
 こんなふうに、うっすらとしかおぼえていないものに、影響を受けていることも、きっとあると思う。自分でも意識のおよばない、深いところで、ひそかに。どの先生かはわからないけれど、その先生のことが、なんというか、なつかしい。
 本屋でヘッセの詩集を見つけるたびに、開いてみて、この詩をなんとなく探していたが、訳がちがうことだけはわかって、なかなか再会できなかった。通知表を捨てなければよかった、と思った。

 ようやく夫の古本屋で、片山敏彦訳だったことを知った。『ヘッセ詩集』1962年、みすず書房刊。「先生」も、この本を手にしたのだろうか。わたしの生まれる10年前に出た本だ。「ヘッセの詩は、たしかに 〈憧れ〉 に名づけられたいろいろの名のようなものである. 深い根源的な憧れ,  痛切で,  無形で,  音楽的で,  そして持続的な憧れ――」(片山敏彦)

 今日は、昨日よりは、暑くないみたいだけれど、暑いことに変わりはない。何かひとつでいい、涼しい言葉を持ち歩きたい。

2018年7月23日月曜日

拾い読み日記 49


 ヤンソンさんの生まれた街にいるよ、とメールに書いてあったけれど、「ヤンソンさん」がすぐには誰か、わからなかった。「ヤンソンさんの誘惑」というじゃがいも料理のことを思い出したり、ホルスト・ヤンセン?とちらっと思ったりもしたけれど、ヘルシンキなのだから、それはトーベ・ヤンソンに決まっていた。
 ヘルシンキは、日陰はすずしく風が爽やからしくて、いいなと思う。はやく秋がきてほしい。

 吉祥寺の啓文堂へ。外国文学の文庫がわりと充実していて、なんとなく目にとまったので『トーベ・ヤンソン短篇集』を買った。「往復書簡」を読んでせつなくなる。すこし苦しいくらいのせつなさ。「往復書簡」というタイトルだが、小説は日本に住む「タミコ」から「ヤンソンさん」への手紙のみでできている。タミコは書く。
 
 「だれにも理解できて、だれもがこれこそ自分が思いえがいていたものだと感じる、そんな物語を書いてみたいのです。
 どれぐらい年をとったら、書くことができるのでしょうか。
 でも、あなたの助けなしには、とても書けそうにありません。
 毎日が、待ちわびる日々です。
 とても疲れている、そうあなたはいいました。
 仕事をしてはいるが、まわりにはあまりにもたくさんの人がいると。
 でも、わたしはあなたをなぐさめ、あなたの孤独をまもる人になりたい。」


2018年7月22日日曜日

拾い読み日記 48


 川沿いの道を駅に向かって歩いていると、お隣の女性がちょうど帰ってくるところだった。わたしを見て目をきらきらさせながら、「ちょうど今、水中書店のことをかんがえていたの」という。夫が作った「三鷹マップ」をお友達が見せてくれた、とのこと。その似顔絵がすごくそっくり、といわれる。ありがとうございます、とこたえて別れ、電車に乗って、ひさしぶりに街へ。

 東塔堂で「羽原粛郎の画道︱団扇と書画」をみた。みずみずしく、粋で、涼しく、かろやかな展示。羽原さんが話し出す前の、悪戯っ子みたいにきらっと一瞬きらめく瞳を思い出す。値段でも遊んでいるので、そういうところも素敵だなと感動して、作品をふたつ買った。お知らせのはがきに『本へ!』からの抜粋が載っている。

 夏は
 思いを寄せている人
 友人たちと
 海辺や
 湖岸や
 河川の
 砂浜で
 遠くの林の中で, 激しく, 鳴いている
 蝉の声をかすかに, 幽かに, 微かに,
 聴きながら
 君の性格について
 君の習慣について
 明日について
 人生について
 話そう.

 狩野岳朗「untitled」もみた。心の奥にあるものを探って、絵にするということは、身体を使った実験・冒険のようだと感じる。自他から吹いてくるさまざまな風のなかで、かたちのないものにかたちを与えること。絵を描いてみたくなる。言葉をすべて忘れたり、脱ぎすてたりして。岳朗さんは、詩に興味が出てきたそうで、これまで読んだことのないものを読んでみたい、という。そういう気持ちに触れられて、とてもよかった。澄んだ水ですすがれたよう。あとから夫に話すと、そういう気持ちにまさるものはない、という。ほんとうに、そう思う。

2018年7月21日土曜日

拾い読み日記 47

 午前中、洗濯ものを干していると、お隣の女性が白い日傘をさして、目が合うと「暑くて死にそうですね」と笑顔でいいながら、さわやかに出かけていかれた。

 『鄙の宿』はあと3分の1くらい。一度ざっくりと読んだヴァルザーの章を読んでいる。小さな紙片に小さな文字の「秘密通信」。〈内的亡命〉ということ。

 昨日、夕方からは『瀧口修造の詩的実験 1927〜1937』を持って出かけた。駅前のカフェで読んでいて、ふと顔を上げると、まわりの人たちから、あまりにも遠く隔てられているような感覚におそわれた。詩を読むことで生まれる「空間」について、ぼんやりかんがえた。詩は秘密の空間を用意する。
 そのあと、大量の食器が落ちる音が店中に響き渡った。ずいぶん長く続いた気がするが、いったいどれだけの皿が割れたのだろう。ほんとうに、途中で夢かと思うくらい、長かった。
 いま赤黄男を思い出した。「蝶墜ちて大音響の結氷期」。涼しく激しい音だった。

2018年7月20日金曜日

拾い読み日記 46

 昨日は、髪を切った。白髪染めも。そのあいだ、石垣りんさんの「花嫁」というエッセイを読んだ。銭湯で、突然知らない女性から、衿を剃ってください、といわれる話。カミソリを使ったことがないから、と断っても、重ねて頼まれる。そのあとに続く文章のみごとさと、描かれている女性のすがたに、胸があつくなる。

「ためらっている私にカミソリを握らせたのは次のひとことだった。「明日、私はオヨメに行くんです」私は二度びっくりしてしまった。知らない人に衿を剃ってくれ、と頼むのが唐突なら、そんな大事を人に言うことにも驚かされた。でも少しも図々しさを感じさせないしおらしさが細身のからだに精一杯あふれていた。私は笑って彼女の背にまわると、左手で髪の毛をよけ、慣れない手つきでその衿足にカミソリの刃を当てた。明日嫁入るという日、美容院へも行かずに済ます、ゆたかでない人間の喜びのゆたかさが湯気の中で、むこう向きにうなじをたれている、と思った。」(『ユーモアの鎖国』)

 湯気のむこうに、ふたりの女性がいる。その輪郭はほのかに光っていて、なにかとても神聖で、したわしい感じがする。
 
 6年前、この町に越してきてから、ずっと同じ美容院に通っていて、そのたび、なんでもない会話をする。6年前は、髪がやけに長かった。のびてゆく髪を持てあましながら、切れなかったのは、たぶん不安のせいだった。今は、ひと月半ごとに、短く切る。もう髪をのばすことは、ないだろう。

2018年7月19日木曜日

拾い読み日記 45


 また、財布を忘れて出かけてしまった。駅前のドトールに入ったところで気がついて、引き返した。一瞬、絶望的な気持ちになる。母親の認知症の心配をしている場合では、なかった。
 また夫にお金を借りにいって、借りたお金で、お茶を飲んだり、ビールを飲んだり、ごはんをたべたりした。残りのお金を気にしながらなので、すこし、きゅうくつさを感じた。財布を持つのはやめて、ポケットに直接お金を入れて持ち歩くことも考えたが、ポケットがない服のときは、どうすればいいのだろう。
 しかし、さすがに、もう、忘れないだろうと思う。

 カフェで、ゼーバルト『鄙の宿』を読み進めた。ゴットフリート・ケラーについての章を、もうすぐ読み終わる。「物を書く術(クンスト)とは、どうにかまともな人格を保っておくために、ともすれば優位に立ちたがる黒いぐしゃぐしゃの塊を抑え込むこころみなのだ」。
 
 今日も、異常に暑い。夜も暑いけれど、今年は冷房を消さずに寝ているので、よく眠れている。だから、わりと元気で、いろいろ、作りたいもののことについて考えている。物を作る術とは。

2018年7月18日水曜日

拾い読み日記 44


 酷暑がつづく。昼間は外に出たくない。洗濯物を干しに出るだけで、びっくりするくらい暑い。 
 昨日はひさしぶりにK社へ。会社の近くを険しい表情の女性が黒いリュックを背負って歩いていた。むかし一度仕事をしたことがある人のような気がしたが、どうだろうか。たぶん目があってもお互い見過ごすだろうと思う。
 新国立競技場がだいぶ出来ていて、ああ、と思った。この先も何度か、この、骨組みだけの競技場の光景を、思い出すような気がした。あたりは静かだった。
 今朝は、石垣りんさんの散文を読んだ。知り合いではないのに、石垣りん、ではなく、石垣りんさん、と「さん」をつけたくなる。

「いつからか国土というものに疑いをもったとき、私の祖国と呼べるものは日本語だと思い知りました。言葉の世界に皇帝の位はありません。皇帝という言葉があるだけです。それは絶対ではない。」(『ユーモアの鎖国』)

 先日、ある展示で石垣りんさんの手紙を手にすることができた。文章から推測すると、詩を通して出会った、年若い人への手紙で、手書きの文字も文章も、ていねいで、やさしくて、あたたかなものだった。

2018年7月17日火曜日

拾い読み日記 43


 昨日は、財布を忘れて出かけてしまった。暑さでぼうっとしているのか、宅急便も送れなかったし、少し、おちこむ。とぼとぼ歩いて夫にお金を借りに行って、借りたお金(3000円)で小林秀雄『ゴッホの手紙』(100円)を買った。借りたお金でビールをのみながら、読んだ。冒頭、「烏のいる麦畑」の描写が、みごとで、引きこまれる。それからW.G.ゼーバルト『鄙の宿』を読み進めた。読んでいると、ところどころ、書き写したくなる箇所に遭遇する。たとえば、ジャン=ジャック・ルソーについて書かれたところ。

「彼自身、なによりも望んだのは、頭のなかで回りつづける車輪を止めることだった。にもかかわらず書くことにしがみついていたとすれば、それはもっぱら、ジャン・スタロバンスキーが言うように、ペンが手からぽろりと落ち、和解と回帰の無言の抱擁のうちに真に本質的なことが語られるであろう、というその瞬間を招きよせんがためだった。」(下線部は傍点) 

 昨日、宅急便にまにあわなかったので、これからとあるところへ届けにいかなければならないのだが、暑さにやられないか、心配だ。今日はぜったいに財布を忘れたくない。

2018年7月7日土曜日

拾い読み日記 42


 吉祥寺で「江上茂雄:風景日記」をみたあと、三鷹に戻って喫茶店で本を読んだ。しばらく詩を読んでいない、とはたと気づいて目にとまった『川田絢音詩集』だった。長い詩を読む気力がなくて、短い詩を探して読んだ。何度かくりかえして読んでみて、ふと、朗読したくなった。もしくは、誰かの声で、聞いてみたい気がした。

   夜

 黒ずんでべろんとした敷石 濡れてひかっている露地を
 歩きながら
 悲しみがこみあげて
 よその家のベルを チッと鳴らした
 知らない車に乗ってしまいどこかに連れていかれる
 ということだって
 考えられる
 建物の
 石の壁に手の甲を擦りつけて
 痛くなるまで
 擦りつけながら歩いていく


 江上茂雄さんは、島崎藤村が好きだという。「春」の一節をあげられていた。「あゝ、自分のやうなものでも、どうかして生きたい。」
 毎日、毎日、風景を描き続けるということが、実感として、わからないけれど、なんとなく、豊かな感じがして、憧れのような気持ちがわく。会場にいくつか貼ってあった言葉の中に、魂を鎮めるため、という言葉があった気がするが、どういう文脈のものだったろうか。

 昨夜は、遠くで花火が上がっていた。遠い花火は小さくて可憐な花のようで、幻をみているようだった。家の前で傘をさして、しばらく見ていた。

 今日は、七夕。風が強くて暑い。
 

2018年7月6日金曜日

拾い読み日記 41


 長谷川利行の絵を見にいった。絵の前にじっと立っていると、踊るような手の動きを感じた。目眩がするほど、はげしく、はやく、はなやかだった。描くことが、世界とダンスすることのようにも感じられた。筆がまさぐる、ぬりたくる。そこは、水も風も空も人も、いきいきと流れて動く世界だった。「少女」のしずけさにも、深くこころをうばわれた。肌の色、輪郭線、表情。音楽を聴いているようだ。
 利行の「いのちの無駄遣いをしない」という言葉には、どきりとする。しかし、素直に、自分もしない、とはいえない。何が無駄かは、最後まで、わからない。帰りは、武蔵小金井までバス。喫茶店の窓からの眺めはほぼ灰色で、利行の世界がなつかしく、淋しかった。

 ヴェイユ『工場日記』がかばんに入っていた。「ある女生徒への手紙」を読む。「あなたは、一生の間、どうしても多く苦しまずにはおれないような性格の持主だと思います。きっとそうだという感じがするのです。あなたという人は人一倍血の気の多い、烈しい気性の人ですから、今の時代の社会生活には、とても順応して行けないのです。でも、そんなふうなのは、あなたひとりではありません。それに、苦しむといっても、そこに深いよろこびが感じられるなら、なんでもないことです。」

2018年7月5日木曜日

拾い読み日記 40


 ある小説を読んでいて、三分の二ほど読んだところで、突然、読めなくなってしまった。たぶん、ほんとうは、読めなくはないのだが、なぜ、いま、この本を読んでいるのか(読まなければいけないのか)、わからなくなった。「トカトントン」みたいな感じ。おもしろくない、退屈、というのとも、すこしちがうような気がするが、わからない。
 その本は途中でやめることにして、べつの本を読む。『エミリ・ディキンスン家のネズミ』。むかし持っていたはずだが、読んだ記憶がないのでまた買って、今度はすぐに読み始めて、読み終えた。
 エミリの詩を読んだネズミは、子どものころ、はじめてひとりで外に出てみたときの気持ちを思い出す。

「黒い草の上にあおむけになって、白く燃える月と星々を見つめていたとき、激しい感情が、わたしの心をよぎってゆきました。——生きてここにいるということの、悦びと不思議。わが身の不安。手のとどかないものに触ってみたいという、つよい願い。誰なのだろう、わたしは? なぜ、ここにいるのだろう? これから、どこへゆくのだろう?」

 エミリとエマライン(ネズミ)のちいさな詩集は、絵によると、和綴じのようだ。題箋が貼ってある。自分がつくるなら、どうするかな、とかんがえることは、たのしい。
 ちいさな本の運命について。それは、書いた人も作った人も、見届けることはできない。エマラインはいう。「「誰でもないもの」として出発したわたしは、たぶん、「誰でもないもの」として終わるのでしょう。けれども、数えきれないほどたくさんの不思議なことばがこの世にはあり、わたしはそうしたことばを見つけてゆきたいのです。」

 昨日はシモーヌ・ヴェーユ『重力と恩寵』、エーリヒ・ケストナー『エーミールと探偵たち』も買った。それぞれ読み進めて、すっかり遅くなる。帰りは、雨に遭った。

 

2018年7月2日月曜日

拾い読み日記 39


 このところ、たくさん本を買っている気がする。読める本を、読んでいる。いつになく、読み終えるたのしさを、感じている。ほぼ何も終えられない毎日のなかで、それは充実感を与えてくれる。

 一昨日、伊藤 亜紗『目の見えない人は世界をどう見ているのか 』(光文社新書)を読み終えて、昨日、多和田葉子『容疑者の夜行列車』を半分まで読んで、今日は、『そろそろ左派は〈経済〉を語ろう』を読んでいる。『そろそろ〜』は、今日買ったばかりで、明日の読書会(みたいな会)までには読み終えられない気がする。けれどおもしろい。まだ4分の1しか読めていないが、手にとってよかったと思う。
「できるなら誰だって、自由に、好きなように生きたいはずなのに、いまの日本には、それを言ってもいけないような空気があると思う。人心まで緊縮している。でも、わたしたちは「人を自由にするための経済」を求めていいんです。」(ブレイディみかこ)
 
 この、「読み終えたい」時期は、いつまで続くのだろうか。それにしても、毎日、暑すぎる。

2018年6月27日水曜日

拾い読み日記 38


 Mさんに誘われ古川麦さんのライブへ。いいライブだった。しずかな歌にとくに惹かれた。いいライブにいくと、もっとすきなように生きていいような、生きられるような、そんな、自分がひろがっていくような感覚をおぼえる。
 スピーカーが近い前方の席にいたせいか、低い音が胃のあたりにかなり響いて、疲れたみたいで、今朝はなかなか起きられなかった。お昼まで寝た。ライブのあと、夫と三鷹でのみすぎたせいでもある。いきつけのお店はカウンターが常連でいっぱいで、熱のあるこどもみたいにみな大きな声ではしゃいでいて、ちょっとうるさかった。

 何かものごとに対して反応を迫られている気がするSNSがつらくなってきた。知りすぎるばかりで、考えたり、感じたりすることがやりにくい。あたまの中、身のまわり、さまざまなものとの関係を、もっとすっきりとさせたい。タブラ・ラサ tabula rasa、「石板に書き込まれていた文字を一度すべて消し去って、さらの状態に戻すこと」(『自分と未来のつくり方』)。ツイッターも一度ぜんぶ消してみたい気もするけれど、たぶんそれは、しないだろう。

 立原道造の日記(「ノート」)をすこし読む。「あたらしい文学のなかへ すつぽりと手袋を脱ぐ 半分だけ町へ行きたい人 町には記憶の大通りがある 石が敷いてあつて鶏が歩いてゐる これは一つの旅行案内です」

 疲れがとれたら、またどこかへいきたい。風が強すぎて、今日は窓が開けられない。

2018年6月26日火曜日

拾い読み日記 37


 火災報知器が突然鳴りだした。あわててうろうろと家の中や外の様子をみてみたが、あたりは人気もなく、静か。においもしない。誤作動のようだった。しばらくどきどきが止まらない。心臓を鷲づかみにされるような、おそろしい音だった。

 しばらく本をよんで過ごしていた。何冊か読み終えた。ビラ=マタスの『パリに終わりはこない』を読み終えたときは、淋しかった。書くことをめぐる、長い、「さまよえる悪夢」の物語。語り手の孤独とアイロニーには伝染性があるかもしれない。「《とにかく書きなさい、一生書き続けるのよ》と彼女は私に言った」。彼女とは、デュラスのこと。いつかまた、はじめから読んでみたいような、読んでみたくないような、奇妙で愛しいねじれた小説。

 松村圭一郎『うしろめたさの人類学』と石田英敬『自分と未来のつくり方』を読み終えた。どちらも、読みやすく、わかりやすかった。「親切」な本。語りかけられている学生の気持ちで読み終えた。いい講義を聴いた感じ。

 たてつづけに読みとおしたので短いものが読みたくなって、石井桃子『みがけば光る』を手にとった。すきな作家の言葉はいつも、すっきりとして、穏やかで、やわらかだけれど、確かなてざわりがある。曖昧になってしまった自分の輪郭を取りもどせるような気がする。
 「私がほんとにしたいのは会に出たり、電話で応答したり、知らない人からの手紙に返事を書いたりすることではない。その間に、私は、日本の昔話をじっくりと読みあさり、家に本を読みにくる子の心をさぐり、私のなかから流れてくるものを書きたいのである。」(「私の周辺」)
 「私がほんとにしたい」ことと「私のなかから流れてくるもの」は、なんだろう、と考えた。それを大切にしたい。暑いけれど、風のある日。

2018年5月20日日曜日

拾い読み日記 36


 朝、外を歩いた。葉が濡れているみたいにつやつやと輝いていた。光の滴り。葉擦れの音は、波音に似ていた。一瞬、目を閉じてみる。この仕事が終わったら、海にいきたい、と思う。ひとりか、ふたりで。5月は美しい季節だと思う。躑躅も紫陽花もどくだみも昼顔も咲いている。

 今日は午後から印刷。活字でなく凸版を刷るのは慣れていないのでどうかと思ったが、うまくいったみたいだ。樹脂版より亜鉛版のほうが自分は刷りやすい。圧をかけても線が太くならないのがいい。
 とても疲れて、本はあまり読めなかった。それでも手の届くところにある本を開いて、すこしだけ読んだ。

日常は逃れ去る。なぜ日常は逃れ去るのだろうか。それは日常が主体を欠いているからである。」(モーリス・ブランショ『終わりなき対話』)

 昨日はリソグラフ印刷の印刷所で、ごろんと横たわる大きな犬を撫でたり舐められたりして、癒された。

 なんだか疲れていて、それでも誰かと話したい気分だからか、SNSの持っているアカウントすべてに投稿した。誰からも反応がないことの安らかさ。おかしな自意識。

 展示まであと10日ほど。まにあうと思う。しかし、何かがじわじわと近づいてくるのは、苦手だ。

 メールをチェックすると急な仕事の依頼が入っていた。「強盗殺人」についての本らしい。写真も文字も禍々しく、怖い。できるだろうか…

2018年5月13日日曜日

拾い読み日記 35


 午前中は小さなコラージュ制作。6月に、あるカフェギャラリーで、たくさんのひとの作品といっしょに展示される予定。時間がかかったが、作るのはとてもたのしかった。紙を切ったり貼ったりするのは、ほんとうにたのしい。
 それから『エア メイル』の制作。紙を切って重ねてめくってみる。そうしてみないと進められない。
 コーヒーをのみながら、ベン・ニコルソンやモランディの展覧会図録をぱらぱらめくったり、じっとみたりした。水彩画の、滲みや濃淡が、やや沈みがちなこころに寄りそってくれる。
 午後から強い雨。なかなか集中できない。
 合間に「ともだち」(宇多田ヒカルと小袋成彬)をきいた(みた)。赤い服を着て歌う宇多田ヒカルの妖艶なこと。「恥ずかしい妄想や 見果てぬ夢は 持っていけばいい 墓場に」。届かない手紙を書き続けているような人(声)だな、と思う。
 「墓場」といえば、先日、「余命」という言葉を聞いて、次の日、寝覚めがわるかった。たのしい会だったけれど、そのことは、気になっている。人も自分も、いつかはしぬ、と思っていても、いつ、とは思っていない。それは、締め切りのようなものだろうか?

2018年5月12日土曜日

エア メイル





ananas press「エア メイル」

日時|2018年6月1日(金)― 6月6日(水) 12:00―19:00 
会場|colonbooks(名古屋) 

昨年、香港ブックアートフェスティバルで発表した『Letters from Reiko 1975–1984』を中心に、「手紙」にまつわる新作を展示します。
製本作家の都筑晶絵さんとananas press(アナナプレス)を始めてから10年になりますが、今回、新しい「本」をつくりながら、手紙・文字・本に惹かれてきた理由、その魅力の本質のようなものが、ようやくわかってきたような……、そんな気がしています。手紙のもつ、ふしぎななまなましさ。書かれた文字が伝える、本人の声と所作。言葉の遠さと近さということ。この展示そのものが、見にきてくださる方と、Reikoさんへの、ananas pressからの手紙になればと思います。
コロンブックスの空間に『Letters from Reiko 1975–1984』を置いてみたくて、名古屋での開催になりました。
どうぞ見にいらしてください。


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ananas pressの友人Anna Gleesonの展示もまもなく開催です。
Annaとは『colour full』という本を作っていっしょに活版凸凹フェスタに参加したり、TABF(2009、2010)に出たり、2014年には『Circle』にも参加してもらいました。近頃は“nude calendar” を毎年つくっているアナのDRESS、おもしろそうなのでおすすめします。HATOBAはSTOREの2階で、コーヒーも飲めて素敵な場所です。




Anna Gleeson「DRESS」

日時|2018年5月18日(金) ―5月27日(日) 11:00―18:00 月・火休み
会場|HATOBA(西荻窪)




(ananas pressとAnna 2010年のTABF『@YOU MORE BOOK』)

2018年5月9日水曜日

拾い読み日記 34


 広い古い家、おそらく実家でひとり寝ていて、ほかに誰もいないはずなのに人の寝息が聞こえておそろしくなり、大声を出そうしても声が出なくて、とても苦しい夢をみた。目が覚めたら首を寝ちがえていた。

 5月なのに寒い。気にかかることがあって、やろうと思っていたことができなかった。午後は喫茶店でベン・ニコルソン展の図録を見ていた。「ホワイト・レリーフ」にひかれている。「ニコルソンにとって「白」は、すべての光線の混合である……と同時に、光と精神であった。」
 静かな、すっとした気持ちになる。いつだったか、ステーションギャラリーで展示をみたときは、ほとんどひかれなかった気がするけれど、今は、とてもひかれる。

2018年5月7日月曜日

拾い読み日記 33


 午後から強い雨。その前に帰宅できたのはよかったが、持っていたかばんが重くて、とてもくたびれた。しばらく休もうと思って横になったら、2時間くらい経っていた。革のかばんは重いのでずいぶん前に持つのをやめたが、帆布もそうとう重い。重くなった。年をとり、体力がなくなってきたとひしひしと感じる。しかしさほど暗い気持ちにはならない。あたりまえのこととして受けいれている。リュックサックやキャリーバッグを買おうと思う。
 
 文庫で買った『ひみつの王国 評伝 石井桃子』を読み進めている。すこしずつ読みたい。いつもなら、制作で本が読めなくなる時期なのに、いま読まずにいられない、何かがある。読み終えたら、何かが変わるのではないかと、うっすら感じる。「私は、その本を読んで、人間というものの「よさ」にうたれ、希望と幸福を感じた」

2018年5月2日水曜日

拾い読み日記 32


 曇ったり日が射したりの午前中。一件入稿をすませて出かけた。紙を買いに青山まで。見本をみてもなかなか決められない。疲れているのだろう。肩がものすごく凝っている。1時間くらいぐずぐずしていた。6時前にようやく店を出たら、雨が降り出していた。
 
 昨日みたバージニア・リー・バートン展がよかったので、その余韻にひたりながら、石井桃子さんのエッセイを読んだりした。

「ヴァージニア・L・バートンからは、一週間おきくらいに手紙がきた。けっしてこの本の進行についてではなく、日本での旅のこと、帰国してからのできごと、また将来の仕事についてなど。それが、彼女がいっしょに仕事をしてくれているような支えになった。」(「「せいめいのれきし」の著者からの賀状」/『石井桃子全集 7』)

 書かなければ、と思っていた手紙(はがき)をようやく書いたのに、机の上に置き忘れて出かけてしまった。メールを送ったほうがいいのだろうか……。
 
 今は、とにかく眠くてあたまが働かない。明日は家にいて、いろいろなことを進めたい。
 

2018年4月30日月曜日

拾い読み日記 31



「待つ。軽い足取り。それから、草々の合間で白い小石の上を流れるせせらぎのように新鮮に流れる時間。ほほえみ、そして何ということもない、それなのにとても大切な言葉。心の音楽を聴くんだ。聴くことができる人にとって、それはほんとうにすてきなものだ……。
 もちろん欲しいものはたくさんある。すべての果実、すべての花を摘みとりたいと思う。草原を胸いっぱいに吸い込みたいと思う。遊ぶ。でもそれは遊びなんだろうか? 遊びがどこで始まりどこで終わるのかはぜんぜんわからない、でもやさしい気持ちはよくわかる。そして幸福だと思う。」
(アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ『名の明かされない女性への手紙』)

 午前中の用事のあと、早めに家に帰って作業を進めたかったけれど、あまりにも天気がよいので町をぶらぶら歩いてしまう。古本屋で古本を、古着屋でベルトを買った。いきつけでないカフェまで足をのばし、本をよんだり雑誌をよんだりした。けっこう混んでいたが、うるさくはないので、よかった。お店の人はとても小さな声で話す。
 
 『エア メイル』、ふわっとした状態から、だんだんかたまってきた。かたまってから、またふわっとするといいと思う。

2018年4月28日土曜日

拾い読み日記 30



 気持ちのよい晴れ。庭のなずなが枯れつつある。夏草が日に日に伸びている感じ。
 お昼までに2つラフを作って送ったら疲れてしまい、午後からはあたまも少し痛くなってきたので、しばらく横になって休んだ。はっと気づいたら午後の5時で、いそいで机に戻っていくつかの画像をスキャンした。すぐにレイアウトしてみる。あまり進まなかったが、いくつかのよい思いつきもあり、なんとなく、うまくいきそうな気がする。やってみないとわからないことばかり。

 昨日、国立のmuseumshop Tで買った李禹煥『余白の芸術』が、とてもおもしろい。
 
 「私は時に、自我–言葉から出発するが、つねにその先の方の未確定で未知な世界と関わりたい。自我で世界を言語化したり世界を所有したいのではなく、世界と関係し知覚したいのである。」
 
 明日も今日のつづきをやろう。あと一つラフを送ったら仕事はひと段落。できればどこか、静かなところで本を読みたい。

2018年4月26日木曜日

拾い読み日記 29



 一件入稿を済ませて出かけた。用事で二軒の本屋さんへ。あるミスをおかしてしまい、心配と後悔でもやもやしながら帰ってきた。反省して、ある決意をする。
 切り替えよう。
 
 帰りは水中書店で20分ほどお店番。そのあと店内をうろうろしていた。棚を見ていると気が紛れた。いろいろと手にとって読んでみて、おもしろそう、と思っても、レジに向かう気力がわかない。均一に大岡信『百人百句』があって、これはあまり迷わず購入。

 今日はぜんぶで本を4冊買った。行きつけの喫茶店であれこれ開いたり閉じたりした。静かな喫茶店でゆっくりすごしていると、だんだん満たされた気持ちになる。
 リヒターの「ノート」がおもしろかった。

 「九〇年六月六日 眠かったり、気分がのらなかったり、やる気がなくてもよくて、何日も何週間も不調で、つまりなにもしなくてもよい職業とはどんな職業だろうか?」(ゲルハルト・リヒター『写真論絵画論』) 

 川村でリヒター展をみたのは何年前だろうか。たしか最終日で、誕生日だった。いっしょにいった私塾の友人、KTさんとKNPさんは、元気にしているだろうか。元気だといいな、と思う。
 
 明日から、仕事と制作に集中したい。
 

2018年4月25日水曜日

拾い読み日記 28



 「ずいぶん長いこと、日記をあけてしまった。ここに一人いられることきが、そして私の前にたっぷりと時間が開いていてくれるということが、一日もなかったのだ。約束が一つでもあると、たとえそれが午後からでも、時間の質を変えてしまう。気にかかりすぎるのだ。深層心理からわき出てくるものを受け入れる空間がない。それらのイメージや夢は、深い静止した水の中に住んでいて、一日が散りぢりになると、ただ沈んでいってしまう。」(メイ・サートン『独り居の日記』)

 刷り上がったAnnaのDMを届けに西荻窪のHATOBAへ。偶然知り合いが展示していて、円い布のかばんを買った。買うつもりはなかったのだが、白くてまんまるいかばんを持ったとき、ふわっと、たのしくなったのだった。すこし、溜まっていた疲れが抜けた気がする。帰りは喫茶店でカプチーノをのんだ。メイ・サートンの日記を拾い読み。そのあと水中書店に寄って、5分ほどお店番。
 このところ、ひとりで静かにすごす時間があまりない。気になることが多すぎて。
 それに、今月は仕事が多い。再来月の展示の準備もしなくてはならない。
 
 水の中に住んでいるものをすくいあげること。

2018年3月11日日曜日

ことばのこと




ことばを集め、刷りはじめて、11年がたちました。
最初はプリントゴッコで、今では小さな活版印刷機を使って。
活字を組み、インキを練り、紙に触れ、順を追って作業を進めて印刷して、刷ったことばに見入っていると、何となしに、ひとつのできごとをつくっているような気がしました。

那覇の言事堂で、これまでに制作した本や、刷ったことばを展示します。見たり読んだり、さわったりめくったりして、自由にたのしんでもらえたら、うれしいです。

沖縄にいくのは、2012年の「活版とことば」展以来、6年ぶりです。あれからさまざまな変化がありましたが、こうしてヒロイヨミ社をつづけています、と、誰にともなく報告したい気持ちです。

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ヒロイヨミ社「ことばのこと」

2018.3.20(火)—  4.1(日)
会場:古書の店 言事堂2階ギャラリー
〒900-0014 沖縄県那覇市松尾2-21-1
火-金 11:00—18:00 土・日 19:00まで
※会期中3.26(月)、27(火)はお休み

「言葉の朗読会」 3.21(水・祝)19:00
定員5名(要予約) 入場無料
言事堂 2階ギャラリーにて
*当日、朗読したい本などをお持ち下さい。
*飲み物は会場にて販売いたします。 ビール/珈琲/紅茶etc…

予約・お問い合わせ 言事堂 tel/fax 098-864-0315
info(a)books-cotocoto.com ((a)を@に置き換えて下さい。)
http://www.books-cotocoto.com

2018年3月5日月曜日

拾い読み日記 27


 あたたかいけれど雨風が強く、どことなく落ち着つかない日だった。今日も製本の続き。種類が多いのでなかなか終わらない。すこし疲れて、穴を空ける箇所をまちがえたりした。作業はまた明日にする。
 
 那覇での展示が近づいてきたので、ちょっとあせりはじめている。確定申告もまだやっていない。手帳を開いたり閉じたりして予定の調整ばかりしている。じわじわと、遅れている。

 こういうときは宇宙の本を読むのがいいだろうと思って、『からだは星からできている』(佐治晴夫)を手にした。タイトルに惹かれて買った本。宇宙のこと、人間のこと、生きること、死ぬこと。やさしい語り口で読みやすい。ときどき、宮沢賢治を思いながら読む。
 
「そして、私たちが一生を終えた時、私たちの体を構成していたすべての物質たちは、再び小さな粒子となって地球に戻り、数十億年後に、太陽が地球をのみ込むほどに大きく膨張すると、宇宙の霧となって、宇宙に戻ることになります。
 私たちの存在は、このような広大無辺な宇宙進化の中の、物質循環のひとこまだということなのです。」

2018年3月4日日曜日

拾い読み日記 26



 あたたかな風が吹き荒れている。ニワトリも相変わらず鳴いている。さまざまなものたちが動きだしている気配に、春だなあ、と思う。

 昨夜、作業のあと出かけて、本屋でなんとなく『センス・オブ・ワンダー』(レイチェル・カーソン)を買った。かつて持っていたし、読んだことはある気がしたが、開いてみたら、また誘われているような気がして。そのあといつものお店で、ゆっくりと読んだ。言葉を追ったり、写真を眺めたり、顔を上げたり、森を散歩するように、気ままに。
 
「鳥の渡り、潮の満ち干、春を待つ固い蕾のなかには、それ自体の美しさと同時に、象徴的な美と神秘がかくされています。自然がくりかえすリフレイン——夜の次に朝がきて、冬が去れば春になるという確かさ——のなかには、かぎりなくわたしたちをいやしてくれるなにかがあるのです。」

 やさしくてみずみずしい言葉にふれられて、身体に力がみなぎるのを感じた。よい夜だった。
 
 今日も一日、製本の日。その前に近所をすこし歩いてみよう。さっき、畑に二羽の白鶺鴒がいた。身体の色が、白、黒、灰色で、上品で美しい。尾を上げ下げする様子は、かわいらしい。

 「……毎日視点を新たにします こんなにさまざまなことに近づきたい気持ちが 毎日ふくらんでゆきます……指で掘った穴の中に 植物と動物の名をうずめます そのあと草に座って しだの形とくじゃくの尾を愛でるのです」(ズビグニェフ・ヘルベルト) 7年前に手帳に書きとめた言葉を、ふと思い出した。たしか、安曇野のちひろ美術館で手にした本で拾ったのだっただろうか。そのあとこの本を買った気がするが、今は手元にない。
 知ることより感じることのほうが大事、とレイチェルはいう。

2018年3月3日土曜日

拾い読み日記 25


 今日は一日製本の日なので、明るいうちに外を歩きたくて、朝食をとりに出かけた。午前中の光をゆっくり浴びるのは久しぶりで、何もかもがまぶしく、かがやいて見える。紅梅と白梅の木を見かけた。さっき穴から出てきたモグラみたいにうきうきする。これからしばらく家での作業が続くので、ときどきこんなふうに、朝、自分を外に連れだしてみようと思う。昨日の昼間はほとんど家から出なかったせいか、だるくて気が散ってしょうがなかった。今朝は、おだやかですこやかな気分。

 パン屋のカフェで、買ったばかりの文庫本を読んだ。ヴァルター・ベンヤミン『ボードレール 他五篇』。読みたかった「カフカについての手紙」が入っている。

「カフカという形姿を、その純粋さとその独自な美しさとにおいて、正しく評価するためには、それが挫折した人間の形姿である、というひとつのことを、ひとはけっして見失ってはならない。この挫折にはいろいろの状況が絡まっている。が、ぼくとしてはこういってみたい——かれには、究極の失敗が確かに思えてから、ようやく、途上のすべてが夢の中でのようにうまくいったのだ、と。」
 
 製本に戻ろう。まず『恋のような話』を綴じる。ひさしぶりに読んでみると、ひとが書いた言葉みたいだった。言葉は遠のいたり近づいたりする。言葉には言葉の、本には本の夢想がある。手紙のような本を、と思いながら、どこにも辿りつかない本にもあこがれる。