2018年5月20日日曜日

拾い読み日記 36


 朝、外を歩いた。葉が濡れているみたいにつやつやと輝いていた。光の滴り。葉擦れの音は、波音に似ていた。一瞬、目を閉じてみる。この仕事が終わったら、海にいきたい、と思う。ひとりか、ふたりで。5月は美しい季節だと思う。躑躅も紫陽花もどくだみも昼顔も咲いている。

 今日は午後から印刷。活字でなく凸版を刷るのは慣れていないのでどうかと思ったが、うまくいったみたいだ。樹脂版より亜鉛版のほうが自分は刷りやすい。圧をかけても線が太くならないのがいい。
 とても疲れて、本はあまり読めなかった。それでも手の届くところにある本を開いて、すこしだけ読んだ。

日常は逃れ去る。なぜ日常は逃れ去るのだろうか。それは日常が主体を欠いているからである。」(モーリス・ブランショ『終わりなき対話』)

 昨日はリソグラフ印刷の印刷所で、ごろんと横たわる大きな犬を撫でたり舐められたりして、癒された。

 なんだか疲れていて、それでも誰かと話したい気分だからか、SNSの持っているアカウントすべてに投稿した。誰からも反応がないことの安らかさ。おかしな自意識。

 展示まであと10日ほど。まにあうと思う。しかし、何かがじわじわと近づいてくるのは、苦手だ。

 メールをチェックすると急な仕事の依頼が入っていた。「強盗殺人」についての本らしい。写真も文字も禍々しく、怖い。できるだろうか…

2018年5月13日日曜日

拾い読み日記 35


 午前中は小さなコラージュ制作。6月に、あるカフェギャラリーで、たくさんのひとの作品といっしょに展示される予定。時間がかかったが、作るのはとてもたのしかった。紙を切ったり貼ったりするのは、ほんとうにたのしい。
 それから『エア メイル』の制作。紙を切って重ねてめくってみる。そうしてみないと進められない。
 コーヒーをのみながら、ベン・ニコルソンやモランディの展覧会図録をぱらぱらめくったり、じっとみたりした。水彩画の、滲みや濃淡が、やや沈みがちなこころに寄りそってくれる。
 午後から強い雨。なかなか集中できない。
 合間に「ともだち」(宇多田ヒカルと小袋成彬)をきいた(みた)。赤い服を着て歌う宇多田ヒカルの妖艶なこと。「恥ずかしい妄想や 見果てぬ夢は 持っていけばいい 墓場に」。届かない手紙を書き続けているような人(声)だな、と思う。
 「墓場」といえば、先日、「余命」という言葉を聞いて、次の日、寝覚めがわるかった。たのしい会だったけれど、そのことは、気になっている。人も自分も、いつかはしぬ、と思っていても、いつ、とは思っていない。それは、締め切りのようなものだろうか?

2018年5月12日土曜日

エア メイル





ananas press「エア メイル」

日時|2018年6月1日(金)― 6月6日(水) 12:00―19:00 
会場|colonbooks(名古屋) 

昨年、香港ブックアートフェスティバルで発表した『Letters from Reiko 1975–1984』を中心に、「手紙」にまつわる新作を展示します。
製本作家の都筑晶絵さんとananas press(アナナプレス)を始めてから10年になりますが、今回、新しい「本」をつくりながら、手紙・文字・本に惹かれてきた理由、その魅力の本質のようなものが、ようやくわかってきたような……、そんな気がしています。手紙のもつ、ふしぎななまなましさ。書かれた文字が伝える、本人の声と所作。言葉の遠さと近さということ。この展示そのものが、見にきてくださる方と、Reikoさんへの、ananas pressからの手紙になればと思います。
コロンブックスの空間に『Letters from Reiko 1975–1984』を置いてみたくて、名古屋での開催になりました。
どうぞ見にいらしてください。


 + + + + +


ananas pressの友人Anna Gleesonの展示もまもなく開催です。
Annaとは『colour full』という本を作っていっしょに活版凸凹フェスタに参加したり、TABF(2009、2010)に出たり、2014年には『Circle』にも参加してもらいました。近頃は“nude calendar” を毎年つくっているアナのDRESS、おもしろそうなのでおすすめします。HATOBAはSTOREの2階で、コーヒーも飲めて素敵な場所です。




Anna Gleeson「DRESS」

日時|2018年5月18日(金) ―5月27日(日) 11:00―18:00 月・火休み
会場|HATOBA(西荻窪)




(ananas pressとAnna 2010年のTABF『@YOU MORE BOOK』)

2018年5月9日水曜日

拾い読み日記 34


 広い古い家、おそらく実家でひとり寝ていて、ほかに誰もいないはずなのに人の寝息が聞こえておそろしくなり、大声を出そうしても声が出なくて、とても苦しい夢をみた。目が覚めたら首を寝ちがえていた。

 5月なのに寒い。気にかかることがあって、やろうと思っていたことができなかった。午後は喫茶店でベン・ニコルソン展の図録を見ていた。「ホワイト・レリーフ」にひかれている。「ニコルソンにとって「白」は、すべての光線の混合である……と同時に、光と精神であった。」
 静かな、すっとした気持ちになる。いつだったか、ステーションギャラリーで展示をみたときは、ほとんどひかれなかった気がするけれど、今は、とてもひかれる。

2018年5月7日月曜日

拾い読み日記 33


 午後から強い雨。その前に帰宅できたのはよかったが、持っていたかばんが重くて、とてもくたびれた。しばらく休もうと思って横になったら、2時間くらい経っていた。革のかばんは重いのでずいぶん前に持つのをやめたが、帆布もそうとう重い。重くなった。年をとり、体力がなくなってきたとひしひしと感じる。しかしさほど暗い気持ちにはならない。あたりまえのこととして受けいれている。リュックサックやキャリーバッグを買おうと思う。
 
 文庫で買った『ひみつの王国 評伝 石井桃子』を読み進めている。すこしずつ読みたい。いつもなら、制作で本が読めなくなる時期なのに、いま読まずにいられない、何かがある。読み終えたら、何かが変わるのではないかと、うっすら感じる。「私は、その本を読んで、人間というものの「よさ」にうたれ、希望と幸福を感じた」

2018年5月2日水曜日

拾い読み日記 32


 曇ったり日が射したりの午前中。一件入稿をすませて出かけた。紙を買いに青山まで。見本をみてもなかなか決められない。疲れているのだろう。肩がものすごく凝っている。1時間くらいぐずぐずしていた。6時前にようやく店を出たら、雨が降り出していた。
 
 昨日みたバージニア・リー・バートン展がよかったので、その余韻にひたりながら、石井桃子さんのエッセイを読んだりした。

「ヴァージニア・L・バートンからは、一週間おきくらいに手紙がきた。けっしてこの本の進行についてではなく、日本での旅のこと、帰国してからのできごと、また将来の仕事についてなど。それが、彼女がいっしょに仕事をしてくれているような支えになった。」(「「せいめいのれきし」の著者からの賀状」/『石井桃子全集 7』)

 書かなければ、と思っていた手紙(はがき)をようやく書いたのに、机の上に置き忘れて出かけてしまった。メールを送ったほうがいいのだろうか……。
 
 今は、とにかく眠くてあたまが働かない。明日は家にいて、いろいろなことを進めたい。
 

2018年4月30日月曜日

拾い読み日記 31



「待つ。軽い足取り。それから、草々の合間で白い小石の上を流れるせせらぎのように新鮮に流れる時間。ほほえみ、そして何ということもない、それなのにとても大切な言葉。心の音楽を聴くんだ。聴くことができる人にとって、それはほんとうにすてきなものだ……。
 もちろん欲しいものはたくさんある。すべての果実、すべての花を摘みとりたいと思う。草原を胸いっぱいに吸い込みたいと思う。遊ぶ。でもそれは遊びなんだろうか? 遊びがどこで始まりどこで終わるのかはぜんぜんわからない、でもやさしい気持ちはよくわかる。そして幸福だと思う。」
(アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ『名の明かされない女性への手紙』)

 午前中の用事のあと、早めに家に帰って作業を進めたかったけれど、あまりにも天気がよいので町をぶらぶら歩いてしまう。古本屋で古本を、古着屋でベルトを買った。いきつけでないカフェまで足をのばし、本をよんだり雑誌をよんだりした。けっこう混んでいたが、うるさくはないので、よかった。お店の人はとても小さな声で話す。
 
 『エア メイル』、ふわっとした状態から、だんだんかたまってきた。かたまってから、またふわっとするといいと思う。

2018年4月28日土曜日

拾い読み日記 30



 気持ちのよい晴れ。庭のなずなが枯れつつある。夏草が日に日に伸びている感じ。
 お昼までに2つラフを作って送ったら疲れてしまい、午後からはあたまも少し痛くなってきたので、しばらく横になって休んだ。はっと気づいたら午後の5時で、いそいで机に戻っていくつかの画像をスキャンした。すぐにレイアウトしてみる。あまり進まなかったが、いくつかのよい思いつきもあり、なんとなく、うまくいきそうな気がする。やってみないとわからないことばかり。

 昨日、国立のmuseumshop Tで買った李禹煥『余白の芸術』が、とてもおもしろい。
 
 「私は時に、自我–言葉から出発するが、つねにその先の方の未確定で未知な世界と関わりたい。自我で世界を言語化したり世界を所有したいのではなく、世界と関係し知覚したいのである。」
 
 明日も今日のつづきをやろう。あと一つラフを送ったら仕事はひと段落。できればどこか、静かなところで本を読みたい。

2018年4月26日木曜日

拾い読み日記 29



 一件入稿を済ませて出かけた。用事で二軒の本屋さんへ。あるミスをおかしてしまい、心配と後悔でもやもやしながら帰ってきた。反省して、ある決意をする。
 切り替えよう。
 
 帰りは水中書店で20分ほどお店番。そのあと店内をうろうろしていた。棚を見ていると気が紛れた。いろいろと手にとって読んでみて、おもしろそう、と思っても、レジに向かう気力がわかない。均一に大岡信『百人百句』があって、これはあまり迷わず購入。

 今日はぜんぶで本を4冊買った。行きつけの喫茶店であれこれ開いたり閉じたりした。静かな喫茶店でゆっくりすごしていると、だんだん満たされた気持ちになる。
 リヒターの「ノート」がおもしろかった。

 「九〇年六月六日 眠かったり、気分がのらなかったり、やる気がなくてもよくて、何日も何週間も不調で、つまりなにもしなくてもよい職業とはどんな職業だろうか?」(ゲルハルト・リヒター『写真論絵画論』) 

 川村でリヒター展をみたのは何年前だろうか。たしか最終日で、誕生日だった。いっしょにいった私塾の友人、KTさんとKNPさんは、元気にしているだろうか。元気だといいな、と思う。
 
 明日から、仕事と制作に集中したい。
 

2018年4月25日水曜日

拾い読み日記 28



 「ずいぶん長いこと、日記をあけてしまった。ここに一人いられることきが、そして私の前にたっぷりと時間が開いていてくれるということが、一日もなかったのだ。約束が一つでもあると、たとえそれが午後からでも、時間の質を変えてしまう。気にかかりすぎるのだ。深層心理からわき出てくるものを受け入れる空間がない。それらのイメージや夢は、深い静止した水の中に住んでいて、一日が散りぢりになると、ただ沈んでいってしまう。」(メイ・サートン『独り居の日記』)

 刷り上がったAnnaのDMを届けに西荻窪のHATOBAへ。偶然知り合いが展示していて、円い布のかばんを買った。買うつもりはなかったのだが、白くてまんまるいかばんを持ったとき、ふわっと、たのしくなったのだった。すこし、溜まっていた疲れが抜けた気がする。帰りは喫茶店でカプチーノをのんだ。メイ・サートンの日記を拾い読み。そのあと水中書店に寄って、5分ほどお店番。
 このところ、ひとりで静かにすごす時間があまりない。気になることが多すぎて。
 それに、今月は仕事が多い。再来月の展示の準備もしなくてはならない。
 
 水の中に住んでいるものをすくいあげること。

2018年3月11日日曜日

ことばのこと




ことばを集め、刷りはじめて、11年がたちました。
最初はプリントゴッコで、今では小さな活版印刷機を使って。
活字を組み、インキを練り、紙に触れ、順を追って作業を進めて印刷して、刷ったことばに見入っていると、何となしに、ひとつのできごとをつくっているような気がしました。

那覇の言事堂で、これまでに制作した本や、刷ったことばを展示します。見たり読んだり、さわったりめくったりして、自由にたのしんでもらえたら、うれしいです。

沖縄にいくのは、2012年の「活版とことば」展以来、6年ぶりです。あれからさまざまな変化がありましたが、こうしてヒロイヨミ社をつづけています、と、誰にともなく報告したい気持ちです。

 + + + + + 

ヒロイヨミ社「ことばのこと」

2018.3.20(火)—  4.1(日)
会場:古書の店 言事堂2階ギャラリー
〒900-0014 沖縄県那覇市松尾2-21-1
火-金 11:00—18:00 土・日 19:00まで
※会期中3.26(月)、27(火)はお休み

「言葉の朗読会」 3.21(水・祝)19:00
定員5名(要予約) 入場無料
言事堂 2階ギャラリーにて
*当日、朗読したい本などをお持ち下さい。
*飲み物は会場にて販売いたします。 ビール/珈琲/紅茶etc…

予約・お問い合わせ 言事堂 tel/fax 098-864-0315
info(a)books-cotocoto.com ((a)を@に置き換えて下さい。)
http://www.books-cotocoto.com

2018年3月5日月曜日

拾い読み日記 27


 あたたかいけれど雨風が強く、どことなく落ち着つかない日だった。今日も製本の続き。種類が多いのでなかなか終わらない。すこし疲れて、穴を空ける箇所をまちがえたりした。作業はまた明日にする。
 
 那覇での展示が近づいてきたので、ちょっとあせりはじめている。確定申告もまだやっていない。手帳を開いたり閉じたりして予定の調整ばかりしている。じわじわと、遅れている。

 こういうときは宇宙の本を読むのがいいだろうと思って、『からだは星からできている』(佐治晴夫)を手にした。タイトルに惹かれて買った本。宇宙のこと、人間のこと、生きること、死ぬこと。やさしい語り口で読みやすい。ときどき、宮沢賢治を思いながら読む。
 
「そして、私たちが一生を終えた時、私たちの体を構成していたすべての物質たちは、再び小さな粒子となって地球に戻り、数十億年後に、太陽が地球をのみ込むほどに大きく膨張すると、宇宙の霧となって、宇宙に戻ることになります。
 私たちの存在は、このような広大無辺な宇宙進化の中の、物質循環のひとこまだということなのです。」

2018年3月4日日曜日

拾い読み日記 26



 あたたかな風が吹き荒れている。ニワトリも相変わらず鳴いている。さまざまなものたちが動きだしている気配に、春だなあ、と思う。

 昨夜、作業のあと出かけて、本屋でなんとなく『センス・オブ・ワンダー』(レイチェル・カーソン)を買った。かつて持っていたし、読んだことはある気がしたが、開いてみたら、また誘われているような気がして。そのあといつものお店で、ゆっくりと読んだ。言葉を追ったり、写真を眺めたり、顔を上げたり、森を散歩するように、気ままに。
 
「鳥の渡り、潮の満ち干、春を待つ固い蕾のなかには、それ自体の美しさと同時に、象徴的な美と神秘がかくされています。自然がくりかえすリフレイン——夜の次に朝がきて、冬が去れば春になるという確かさ——のなかには、かぎりなくわたしたちをいやしてくれるなにかがあるのです。」

 やさしくてみずみずしい言葉にふれられて、身体に力がみなぎるのを感じた。よい夜だった。
 
 今日も一日、製本の日。その前に近所をすこし歩いてみよう。さっき、畑に二羽の白鶺鴒がいた。身体の色が、白、黒、灰色で、上品で美しい。尾を上げ下げする様子は、かわいらしい。

 「……毎日視点を新たにします こんなにさまざまなことに近づきたい気持ちが 毎日ふくらんでゆきます……指で掘った穴の中に 植物と動物の名をうずめます そのあと草に座って しだの形とくじゃくの尾を愛でるのです」(ズビグニェフ・ヘルベルト) 7年前に手帳に書きとめた言葉を、ふと思い出した。たしか、安曇野のちひろ美術館で手にした本で拾ったのだっただろうか。そのあとこの本を買った気がするが、今は手元にない。
 知ることより感じることのほうが大事、とレイチェルはいう。

2018年3月3日土曜日

拾い読み日記 25


 今日は一日製本の日なので、明るいうちに外を歩きたくて、朝食をとりに出かけた。午前中の光をゆっくり浴びるのは久しぶりで、何もかもがまぶしく、かがやいて見える。紅梅と白梅の木を見かけた。さっき穴から出てきたモグラみたいにうきうきする。これからしばらく家での作業が続くので、ときどきこんなふうに、朝、自分を外に連れだしてみようと思う。昨日の昼間はほとんど家から出なかったせいか、だるくて気が散ってしょうがなかった。今朝は、おだやかですこやかな気分。

 パン屋のカフェで、買ったばかりの文庫本を読んだ。ヴァルター・ベンヤミン『ボードレール 他五篇』。読みたかった「カフカについての手紙」が入っている。

「カフカという形姿を、その純粋さとその独自な美しさとにおいて、正しく評価するためには、それが挫折した人間の形姿である、というひとつのことを、ひとはけっして見失ってはならない。この挫折にはいろいろの状況が絡まっている。が、ぼくとしてはこういってみたい——かれには、究極の失敗が確かに思えてから、ようやく、途上のすべてが夢の中でのようにうまくいったのだ、と。」
 
 製本に戻ろう。まず『恋のような話』を綴じる。ひさしぶりに読んでみると、ひとが書いた言葉みたいだった。言葉は遠のいたり近づいたりする。言葉には言葉の、本には本の夢想がある。手紙のような本を、と思いながら、どこにも辿りつかない本にもあこがれる。

2018年3月2日金曜日

拾い読み日記 24



 3月になった。昨日は4月みたいにあたたかくて、昼間はコートを手に持って歩いた。立川で用事をすませ、南武線に乗って武蔵小杉を経由して、学芸大学へ。ふだん使わない電車に乗ることが、旅のようで楽しかった。
 SUNNY BOY BOOKSで大平高之さんの展示「komorebi」。もののかたち、しずかな気配、あたたかな光。それらを繊細に、たしかな目と手でとらえた絵。隣にことばを置くとしたら、それはやはり詩だろうな、と思った。

  銀河系のとある酒場のヒヤシンス  閒石

 昨日、歯の治療中に、ふっと脳裏を過ぎった句。とはいっても、「とある宇宙」と、まちがって過ぎった。銀河系のとある宇宙。ねじれている。
 
 SUNNY BOY BOOKSでは松浦寿輝『官能の哲学』と『考える人』のバックナンバー(文庫特集)を買った。

「発語は、程度の差こそあれそのつどつねに、「わたし」ならざるものへ向かって溢れ出してゆくことを「わたし」に強いるのだ。」(『官能の哲学』)
 
 えんえんと続く作業の途中でそう思うみたいに、何をやっているのだろう、と思うことはあるけれど、まだしばらく日記を続けてみたい。 
 
 今日も、わりとあたたかい。近所のニワトリがひっきりなしに鳴いている。紙を発注したり、凸版を発注したりして、ちょっと疲れた。流れ目やサイズにまちがいがないように、何度も確認した。これから製本の時間。その前に珈琲を淹れて、すこし本を読みたい。作業が終わったら、どこかでお酒をのむかもしれない。

2018年2月28日水曜日

拾い読み日記 23


 2月末日。大家さんの家に家賃を支払いにいってまた大きな犬に吠えられた。先月吠えなかったのは、疲れていただけだったのか。猫は犬小屋の上で寝ていた。早稲田の活字屋さんで支払いなどすませてから、銀座の伊東屋へ紙を買いにいく。どことなく春の気配が街にも人にも感じられる。荷物が重かったせいか、とても疲れた。というより、ほんとうは、あの建物が苦手なのだと思う。エレベーターを待っているだけで疲れる。そのあとすきな喫茶店でひと休み。銀座でいちばん落ちつく場所。お店の女性たちの物腰も声も表情もやわらかで、ほっとする。
 
  時計屋の時計春の夜どれがほんと  万太郎

 昨日、気まぐれにiPhoneのカレンダーをどこまでもスクロールしてみたら、3000年までいってしまった。3000年の1月1日は、水曜日だった。誰かその日を生きるのだろうか? 

 今日は、電車でもすぐに眠くなってしまって、あまり本は読めなかった。山野楽器で「アルペジオ(きっと魔法のトンネルの先 )」、試聴して迷ったが、買わなかった。

 昨夜、三鷹まで来てくれたTくんと行きつけのお店でのんだ。夜の10時に駅で待ち合わせたりすると、ああ、東京にいるなあ、大人になったなあ、と思う。お花見がしたいね、と言い合う。


2018年2月27日火曜日

拾い読み日記 22



 2月もあと2日。庭先に腰かけて、空の薄い水色と風に揺れるなずなを見ていたら、のんびりした気分になった。桜が咲いたら、いや咲かなくても、ピクニックがしたい、と思った。でも、まだ寒い。あたらしいものをつくっているので、3月はやることがいろいろあるけれど、あせることはない。昨日はまだ少し風邪気味で咳が出たが、今朝はすっかりよくなった気がする。

 『メイキング』と『パリに終わりはこない』を並行して読んでいたら、ちょっと混乱してきたようだ。でも今読まなければどちらも読めない気がするので、しかたがない。「知るのではない╱狩人になるのだ」と『メイキング』の帯にある。

 
「狩人のように夢を見ることは、自分が捕まえようとする生き物になり、物事を彼らの方法で見ることだ。閉鎖的に探究するのではなく、存在を新しい可能性に開くことだ。」(ティム・インゴルド『メイキング』)

 本を読もうとしてはいけない、本と「ともに」読みなさい、と著者はいう。この本を読んでいると、制作の折々に感じてきたこと、引き出しにしまって忘れていたことに、光が当たる思いがする。体験が新しい意味をもって迫ってくる。あれはこういうことだったのかもしれない、と顔を上げてかんがえる。今つくっているものについても、問われるような言葉にぶつかる。そしてつくりながら本の言葉を問い返す。このような行き来をくりかえしながら、少しずつ読み進めることになるだろう。

 髪を切りすぎたので気にしていると、夫がたくさん褒めたりたたえたりしてくれた。さまざまな言葉を浴びせられたが、その中に「得難い」というのがあって、その言葉の耳慣れなさに、笑いがとまらなくなる。

2018年2月25日日曜日

拾い読み日記 21


 午後から国立へ。museum shop Tでguse arsの展示「CREST」をみた。欠片から生まれた模様、その模様から生まれた木製のオブジェ(壁掛け)、などなど、こころ躍る仕掛けに満ちた展示。クールなようで、物語があって、どこかノスタルジックで、でもいつも新しい。
 二人の仕事に触れたせいか、そのあとに寄った増田書店でティム・インゴルド『メイキング』を購入した。「手は人間性のゆりかごである」。立ち読みしていて目に飛び込んできたハイデガーの言葉のせいでもあるのだろう。
 今日ほかに買った本は、『ジョン・ケージ著作選』、木皿泉『お布団はタイムマシーン』。guse arsの冊子『CREST』も。久しぶりに本をたくさん買った日。ロージナ茶房であれこれ読んでから帰った。

 昨日はウィリアムモリスで阿部真弓さんの銅版画展もみた。「くも/うつわ/ふね>のような」。(表記がむずかしい。) 飛んだり、浮かんだり、流れたりする色、かたち。空の水色、水の青色。さまざまな青とことばの中でしばらく遊んで、深い呼吸をした。
 
 久しぶりに小説が読みたくなって、エンリーケ・ビラ=マタス『パリに終わりはこない』を手にした。ビラ=マタスの語り手の、屈折ぐあいが、なつかしいというのだろうか、つまり、けっこう好きみたいだ。「紳士、淑女の皆さん、当時の私はさまよえる悪夢のような人間でした」。

 まだ鼻と喉がすこしおかしくて本調子ではないので、早めに眠りたい。悪夢はあまりみたくない。

2018年2月23日金曜日

拾い読み日記 20


 雨の音で目が覚めた。雨樋の雨が地面を叩くぱちぱちという音が、揚げ物をする音に似ていた。目が覚める直前、夢の中で、隣人が何か揚げていた。その前の夢は、何かとても奇妙でロマンチックなものだった気がする。

 今日は400枚印刷。刷り色は黒。ムラや印圧の調整に時間がかかり、試しながら刷っていた。半分くらいきたところで、これがいい、と思える刷り具合になった。刷るまではそれはわからなかった。たくさん刷っていると、途中で、何をしているんだろう、とほんの一瞬だけ、笑いたいような気持ちになる。
 作業の合間に『ヴァルザーの詩と小品』を少し読んだ。

「ひとはあこがれるものだけを手に入れる、所有する、——ひとはこれまでそうでなかったものに、なる。ぼくはそこに実際いる人間というよりひとつのあこがれ、ただあこがれの中にだけ生きている人間、どこからどこまでひとつのあこがれにすぎない人間だった。ぼくは何の値打ちもないからこそあるひとりの人間の、享受の中に漂い、ちっちゃなものだからこそあるひとりの人間の胸の中という結構きわまる場所に住んでいた。自分を愛してくれるひとの魂の中に手足を伸ばしていられるのは、とても言葉にはならないほどうっとりすることだった。こうしてぼくは歩み出した。歩み出した? いや、歩み出したというより——ぼくは虚空を散歩したのだった。」(ローベルト・ヴァルザー「夢(Ⅰ)」)

 この作品の語り手は、ほとんど、夢想そのもののように思われる。
 
 言葉が流れていく。それを追うことに疲れたとき、ヴァルザーを読みたくなるのは、逃避だろうか。シェルターのようなもの。sanctuaryといっても、よいのかもしれない。しばらくは本棚の中に隠されてある、そういう場所を転々としていたい。 
 
 機械を洗浄する前に、ホットワインを作って飲んだ。金柑とスパイスと蜂蜜を入れた。まだ少しだけ、喉が痛い。

2018年2月22日木曜日

拾い読み日記 19



 真冬のような寒さの日。雨が雪に変わったり、また雨に戻ったり。空も迷っているみたい。朝、目覚めたとき、少しだけ汗ばんでいて、寒気はなくなっていた。起きてしばらくは、ぼんやりしていた。うつろな感じだ。

 今日は印刷の日だったのだが、10枚ほど刷ったところで中断。急遽、活字屋へ向かう。文字の、わずかなつぶれと歪みが気になった。おそらく、見る人は、いわれないと気がつかないくらいのものだ。刷り色と文字組みによっては気にしなかったかもしれない。でも一度気になったら、刷れなくなってしまった。
 リルケ『フィレンツェだより』と『パステルナーク詩集』を鞄に入れていく。

「これからあなたに宛てて日記を書き始めることができるほど、自分が十分に落ち着きを得、成熟の域に達したかどうか――そういうことはわたくしには一切判らない。ただわたくしは、あなたが、あなたのものとなるこの一冊の本の中で、すくなくもわたくしが内密に、秘密に書きとめるものを通して、わたくしの告白をうけて下さらないうちは、いつまでもわたくしのよろこびは自分に縁の遠い、孤独のままでとどまるということを感じるばかりである。それで、わたくしは書き始める。」(『フィレンツェだより』)

2018年2月21日水曜日

拾い読み日記 18


 今日は、悪寒がするので寝ていた。これも寝ながら書いている。午前中、内科へ。インフルエンザではなかった。発熱はしていないが、念のため、検査してもらった。

 昨日は、「欲望の翼」をみた。なつかしかった。前は、一人でみたのか、誰かとみたのか、覚えていない。多分一人だったと思う。主人公の歩く後ろ姿、少し暗くなり、スローモーションになるシーンが好きだ。下着姿で踊るシーンにも痺れる。レスリーの眼差し、仕草、佇まい、歩き方、声。甘くて弱くて哀しくて、みていて苦しくなるほどの孤独感に浸されていて、たまらない。監督はプイグに触発されたという。『蜘蛛女のキス』より『赤い唇』がいいという。今度、探して読みたい。

「モリーナ、絶対に忘れちゃならないことがある。人生というのは短いかもしれないし長いかもしれない、それはともかく、人生において、あらゆることは一時的であって、永久に続くことなんて何もないんだ」(マヌエル・プイグ『蜘蛛女のキス』)

 大学のころに読んだ『蜘蛛女のキス』をふたたび手にしたのは、5年前、CAT'S CRADLEで。
 昨夜、『宮川淳著作集』の1巻を、古本屋で買った。寝ながら読むことは難しいので、今は背を眺めているだけ。まだ寒気はするが、明日には治りたい。





2018年2月20日火曜日

拾い読み日記 17


 きのう早稲田のブックオフで買った『尾崎左永子歌集』(現代短歌文庫)をぱらぱらめくる。歌を読むのはひさしぶりで、新鮮に感じる。短歌の長さ、息遣い、リズム。こんなにのびやかな、ふかぶかしたものだったかと思う。一行の語り物のよう。たわむれに鳥を探してみる。

 早春の冷たさゆゑに街上の日だまりに来て鳩群るるところ

 日の中に羽毛は淡く漂へり春の孔雀の脱ぎ捨てしもの

 目の前を波状によぎる小鳥ゐて雑木は春の芽立ちの気配

 2006年発行だが、活版印刷で刷られていて、ところどころ印圧が強く、裏のページに響いている。しかし歌集だからか、そんなには読書の妨げにならない。インタビュー「奈々村久生の回想」もおもしろかった。

 一枚発注のファクシミリを送り、今日の仕事は終わり。待ち合わせの前に、意味もなく、ぶらぶらと町をさまよい歩きたい気分。何の本を持っていこうか、と、まるで旅に出るみたいにして出かけたい。
 

2018年2月19日月曜日

拾い読み日記 16


 午後から神楽坂へ。お昼をたべようと思っていた店がなくなっていて、じゃあここにしよう、と向かったお店も、もうやってなかった。どこも見つからず、10年前に一度行った店に向かうと、そこは本がたくさんあって、座った席の目の前の本棚には、矢内原伊作の本が10冊くらい並んでいた。何冊か手にとってしばらく読んでいた。いくつかの言葉を手帳に書き写した。

「それは無だ。無である以上、僕はそれを知ることができない。しかしまた、それを見まもり、それに耳を傾ける以外に、どこに僕の生があろう。何かわからないもの、むしろ、漂う虚無の中に僕をおし流すもの、しかしまたそれなくしては却って僕という存在が無に帰してしまうもの。それは無ではなく絶対の有ではないか。」(矢内原伊作「戦後の日記から 1」/『人生の手帖』より)

 昨日はAmleteronで朗読と音楽のライブ「穴のあいた、」。ことばとうた、声と音が、まだ耳に残っている。とても深いところに届いた気がした。帰り、偶然ライブで会ったAくんとひさしぶりにコクテイルへ。そこでも池間由布子さんの歌が流れていた。
 またそのうち、ひとの前で朗読したり、歌を口ずさんだりしようと思う。それにもっと、誰かの詩を読む声を聞きたいと思う。来月の展示では、そういう小さな会を催せそうなので、楽しみにしている。朗読は、巧い必要はない。自分の場合は、なめらかな、巧い朗読を聞くと、感情がなかなか動いてくれない。

 帰りは水中書店で『堀辰雄作品集』のエッセイの巻を買った。矢内原伊作の本にも堀辰雄宛ての手紙が収録されていたことを思い出して。活字を運んでかなり疲れたが、よい一日だった。

2018年2月18日日曜日

拾い読み日記 15


 朝はホットケーキを焼いた。一枚焦がしてしまったが、おおむねおいしかった。日曜日の朝にホットケーキをたべるのは、なんとなくたのしいことだった。
 お昼までに入稿する予定の端物(はがき)を見直すと、粗がいろいろ目につく。あちこち調整。載せた言葉もどこかおかしく思え、書きかえ書きかえしていたら、どうしたらいいのかわからなくなり、似たような景色の中をぐるぐる回っているような感覚に陥る。入校前の焦りと不安の中、手繰る言葉はどれもよそよそしく、違和感を感じる。入稿は一日延期して、振り出しに戻り、すこし書き加えるくらいにした。見えない敵と闘ったような奇妙な疲れが残った。

 作っていたのは個展のお知らせのはがき。自分にとっての活版印刷とはなんだろう、なぜ活版をやっているのか、と考え始めると、いろいろと思い当たることはあるが、言葉にするのは難しい。また、知らないひとに向けて、自分(ヒロイヨミ社)の紹介にもなるような文を書こうとして、わけがわからなくなった。

「活字は物として存在している。重さもあるし、手足を動かさなければ、活字がこちらからあちらへ動くこともない。そして、物でいた活字から、最後に印刷という行為を経て、初めて文字が現われる。たぶん、活版印刷の過程のあちこちで感じる「手応え」に、私は何かしら癒される思いがしているのだ。」(金田理恵「活版印刷の楽しみ」)

 『活字礼讃』という本で読んだ文章。印刷の作業にとりかかるのは億劫なときもあるが、飽きるということはない。
 金田さんが活版印刷との出会いの際に感じた、「音量(ボリューム)」がちょうどいい、というのも、素敵な表現だと思う。活字に宿る、「秋の光の静けさと輝き」。静かなものを作りたい、とあらためて思う。

 今日も風が強い。机の上を片付けてから出かけよう。

2018年2月17日土曜日

拾い読み日記 14


 217日。朝はおだやかに晴れていたが、午後から曇り、強い風。一瞬、嵐のような。窓を少し開けてみたら、畑の土が布のように巻き上がってこちらに向かってきて、おそろしかった。しばらくすると、また晴れてきた。でも風は強く、寒い。
 午前中、ムナーリの本を手にした。すきな文章がある。「本の前の本」の章。

「いつだったか,  わたしが飛行機で北極の上空を飛んでいると(わたしは日本に向かっていたのだ),  明るい光にみちたグレーの霧の中に入り込んだ。まるで澄み切った空気の,  大きなシャボン玉に入り込んだようだった。ある時点で,  そのぼんやりと光を放つ霧の中が橙の光に染まった。夕焼けだった。ややあって,  その光から白い円盤が現われた。月だった。白い円盤は消え,  橙の光は燃立つような美しい赤になった。朝焼けだった。そのとき,  わたしはこの驚きによって,  朝日と夕日は相対する2つの視点から見た同一のもので,  日暮れと日の出は連なってこの世界に現われるのだということを理解したのである。」(ブルーノ・ムナーリ『モノからモノが生まれる』)

 この美しく不思議な光景をあたまに浮かべながら、今日はねむりたい。
昼間はフィギュアを見て、終わったあと、ちょっと疲れてぼんやりしてしまった。あんなにくるくる回れるなんて、どんな気分なのだろうか、と思う。

2018年2月16日金曜日

拾い読み日記 13


 夜に日記を書くと暗い感じになるので、昼間書いている。2月16日金曜日。このところ、一週間があっという間に過ぎていく気がする。一生も、こんなふうにすぐに過ぎるのではないかと思う。

 昨日拾い読みしていたのは『現代詩手帖』1974年10月臨時増刊号の瀧口修造特集。磯崎新、大岡信、清水徹、入沢康夫の座談会を興味ぶかく読んだ。いくつかメモ。

・瀧口さんがビュトールとすごく似ている。詩と絵画、言葉と形象の結びつきを探る方向において、「遊びめいた手造りの仕事」を好む点で。(清水)

・ムナーリのグループによる動く彫刻の展覧会、人気のない、さびれた雰囲気の会場。ぽつんと坐っている瀧口夫妻。そこで話し込んだのが最初の出会い。「その偶然の出会いでわたしは決定的に目がひらかれたように感じています。」「瀧口さんの存在は、存在自体が触媒のようなもので、最小限の身振りで、たいへんな量の自由を獲得する不思議な作用がある気がします」(磯崎)

・「いわば言語化されている言語ではなくて、言語化される前の言語ということをたえず考えている。」(大岡) 

・部屋について。「瀧口さん自身が不思議なネガになって、たくさんの瀧口さんのために作られた物体が、いわばポジとして集まっている」(大岡)

・「何か知れない偉大な遊びの破片」、ヴァレリーがダヴィンチについて言った言葉が当てはまる。(清水)

 今日は旧正月、春節。昨日よりは気温が低いが、陽射しはあたたかい。家にいて、来月の展示のための準備をする予定。
 あとでまた俳句を読みたい。短いこと、言葉が少ないことに自由を感じているのかもしれない。余裕がなくても、すうっと隙間に入り込める(入り込まれる)感じ。夫から借りた『リボン』(上田信治)は、心の風通しをよくしてくれる。外で、日のひかりの中で、ゆっくりと読みたいような句がたくさんあった。
  
  春の蟹わあつと笑ふ女のひと
 
  春を走る子らに取り囲まれ抜かされ
 
  小型犬抱いてわかもの花散る日  

  リボン美しあふれるやうにほどけゆく

2018年2月15日木曜日

拾い読み日記 12

 215日。春のような陽射しに、こころが軽くなる。「目を閉じて鳥のかたちに飛んでゆく」。家を出た瞬間に降ってきた言葉。五七五だが、季語がない。

 電車を乗り継いで「影どもの住む部屋」へ。ふしぎな展示だった。静かすぎて少し緊張した。瀧口の笑顔がめずらしくて、ある写真をつくづくと眺める。いつも、親戚の誰かに似ている、と思うが、具体的に誰だかわからない。どことなくなつかしい顔。写真の中の、所在なげな、放心したような表情が好きだったが、笑顔もとても素敵だった。冊子をもらった。文字組みが横組み、ノドを跨いで見開きいっぱいに一行。行末から行頭へ、視線の動きが大きすぎて、意味がなかなか摑めない。元気なときなら読めるだろうか。

 句集も鞄に入れていった。中村苑子『白鳥の歌』という小さな本。

  春の日やあの世この世と馬車を駆り

  帰らざればわが空席に散る桜

  再びは逢はぬ人かも鳥雲に

  死後の春先づ長箸がゆき交ひて

 「長箸」とは、自分の骨が拾われる箸だろうか? 底の知れない深いみずうみをのぞきこんだような気持ちになる。中村苑子は1月5日に亡くなっている。70のときに、60の重信を亡くしたことを知る。

2018年2月14日水曜日

拾い読み日記 11

 214日。午前中は言葉をさがしていて、たくさんの本を開いて、詩や俳句を読んだ。夏目漱石、宮沢賢治、立原道造、などなど。結局、これかな、と思ったのは西東三鬼の句。「八月の言葉」として刷る予定。
 お昼すぎ、佐々木活字店に発注のファクシミリを送り、疲れたのとほっとしたのとで、しばらく寝転がって休んだ。言葉を探すのは、森に迷いこむみたいで、楽しい作業ではあるが、集中力が要る。あたまが熱をもったようになって疲れる。
 このあいだから夫につられて俳句をつくりはじめた。今日はバレンタインデイなので、それにちなんだ、たとえば恋の句を作ってみよう、と持ちかけられる。いくつかできた。俳句の本をもっと読みたいと思い、恩田侑布子『余白の祭』など少し読む。桂信子にひかれた。

  やはらかき身を月光の中に容れ

 夕方、店番で水中書店へ。また俳句の本がよく売れたみたいだ。帳場で少し読書。八上桐子『hibi』など。カバーの手触りがもさもさして素敵な本。上田信治『リボン』を借りて帰った。

2018年2月13日火曜日

拾い読み日記 10

 2月13日。朝10時半ごろ出かける。午前中、外を歩くのはひさしぶりなので、光の感じが、なつかしいような、まぶしいような、おもしろいような、ふしぎな感じがした。夫と喫茶店でモーニング。話したり、本を読んだり、新聞を読んだり。ふだんとちがうことをしたせいか、旅先みたいで楽しかった。夫は『誰でもない』という韓国の小説を、自分は、文庫の『須賀敦子全集』7巻を持っていって、目についたところを読んだ。『どんぐりのたわごと』と日記が読めるこの巻を、買ってよかったと思う。銀座の交差点近くの、時が止まったような本屋で買った。10年以上前に入荷し、売れ残った本がそのまま置いてあるようだった。店にはほかに誰もいなくて、静かで、わりと広かったが、何か買わないと出られない、というよりは、気がすまない感じがしたことを覚えている。淋しい本屋だった。今朝気がついたが、背の黄色がだいぶ褪色している。

「詩人とは――それがほんものの詩人であった場合――一体なにものでしょうか。これは前にも、よそで申したことがあるのですが、詩人とは――ひとくちには申しにくいでしょうが――何よりもまず私は、いつのまにか成人した自分におきてくることどもに、ただもう目を瞠っておどろいている子供だといって差支ないとおもうのです。」(ウンベルト・サバ「詩人とはなにか」須賀敦子訳)

 今朝この本を読もうと決めたのは、開いたページにこの言葉があったからだった。
 家に帰ると、気がかりなことを思い出して、仕事にも集中できず、本もぜんぜん読めない。aと電話で話した。きっと明日には、気分も変わるだろうと思う。