2018年7月24日火曜日
拾い読み日記 50
まわりいちめん雪とつらら、
嶮しい山の壁のつらなり、
その向うには夢みるように、ひろく白く
積雪のオーバーラント。
ゆっくりと靴の一歩一歩を巌に置き
雪の吹き払われた地面に置き
山嶺に向って登りつづける、
短いパイプを斜にくわえて。
たぶんあそこまで行けば世と隔絶して
氷と月との青い光の中に
甘美な平和があるだろう――僕にないその平和が。
そして棲んでいるだろう、まどろみと忘却とが。
ヘルマン・ヘッセ「高山の冬」の「1 登攀」。中学か高校の通知表の裏面に、イラストとともに載っていた。その通知表を実家で見つけたのは、何年前だったか。この詩のことは、うっすらと、おぼえていた気がする。どうして山の詩がこんなところに? と、成績のことであたまがいっぱいの学生のときの自分は、思っただろう。けれど、何かを受けとっていた。たぶん言葉以上に、リズムに惹かれた。
こんなふうに、うっすらとしかおぼえていないものに、影響を受けていることも、きっとあると思う。自分でも意識のおよばない、深いところで、ひそかに。どの先生かはわからないけれど、その先生のことが、なんというか、なつかしい。
本屋でヘッセの詩集を見つけるたびに、開いてみて、この詩をなんとなく探していたが、訳がちがうことだけはわかって、なかなか再会できなかった。通知表を捨てなければよかった、と思った。
ようやく夫の古本屋で、片山敏彦訳だったことを知った。『ヘッセ詩集』1962年、みすず書房刊。「先生」も、この本を手にしたのだろうか。わたしの生まれる10年前に出た本だ。「ヘッセの詩は、たしかに 〈憧れ〉 に名づけられたいろいろの名のようなものである. 深い根源的な憧れ, 痛切で, 無形で, 音楽的で, そして持続的な憧れ――」(片山敏彦)
今日は、昨日よりは、暑くないみたいだけれど、暑いことに変わりはない。何かひとつでいい、涼しい言葉を持ち歩きたい。