2026年9月7日月曜日

ながい一日


 昨日の朝、衰弱した蟬が、6本の細いあしをゆっくりゆっくりうごかして、すこしずつ前にすすんでいるようすを、しゃがんで見ていた。せつないものを感じたが、すぐには目をそらすことができない。おわりにむかういきものの、おごそかさと繊細さとつよさが、そこにはあった。

 手塚治虫『ながい窖』を再読する。最後まで読む。主人公の叫びが胸にひびいてなかなか消えない。「わしは朝鮮人だ!それがなぜわるい!!」。卑劣漢への怒りから、(ようやく)声を上げる彼。この声を、ながい窖からの脱出、とする読みかたもある。わたしも、そう読みたい気持ちがある。彼の言葉は、目の前の他者だけでなく、彼自身にも届いて、日本人として生きてきた彼のアイデンティティは、これからますますゆらいでいくことになるのだろう。部屋に掛かる額のガラスに、反転した彼がうつっている。オープンエンディング、と林晟一さんがいっていたが、このように終わるからこそ、読者ひとりひとりのなかで、それぞれのかたちで、物語はつづいていく。みずからのアイデンティティに悩みくるしむすべての人への、はげましにもなりうる。じぶんはじぶんでいい、ゆらいでいてもいい、それがなぜわるいことがあるだろう。

 「他人をもっともよく感動させるものは、他人に対するみずからの真摯な関心であると信じてきた」(エドワード・ヤン)という言葉に、はっとした。いや、ひやっとした。水を浴びせられたみたいに。

 朝から夜中まで気をもむできごとがたくさんあって、昨日は、一日が、とてもながかった。心配して、よく眠れなかった。睡眠不足の今朝、ごみを捨てに外にでたら、まだ同じところに昨日の蟬がいた。じっとしている。思いきって、土のあるところにうつしてみたら、そこでやすめばいいのに、またゆっくり歩き出そうとする。細いあしで地面をつかんで、じぶんのちからで、じぶんのリズムで、どこかへ向かおうとしている。みずからにもわからないどこかへ。

2026年9月5日土曜日

拾い読み日記 378


 エクリチュールとは、我々の主体が逃げ去ってしまう、あの中性的なもの、混成的なもの、間接的なものであり、書いている肉体の自己同一性そのものをはじめとして、あらゆる自己同一性がそこでは失われることになる、黒くて白いものなのである。(ロラン・バルト「作者の死」)

 この「黒くて白いもの」が気になって、しかたがない。「黒くて白いもの」に惑わされて、こんなにもたやすく、ものを書いてしまっているのだろうか。

 夏の終わり、秋のはじまり。昨夜、また階段のまんなかであおむけになっている蟬を見かけた。これはどうみてもしんでいる、と判断して、端に移動させようと羽をつまんだら、生きていて、飛んでいった。こないだの蟬と同じような軌道で。さすがに二度目なので、声は出なかった。しかし、心臓にはわるかった。この場所でねるのが、蟬のあいだで、はやっているのか。あるいは、触れるから、よみがえるのか。

2026年9月2日水曜日

洋書まつり 2026




 今年も洋書まつりのポスターをデザインしました。今年は、10月16日(金)、17日(土)開催です。東京古書会館地下ホールにて。おもしろそうな本がたくさんあると思いますので、ぜひ足をお運びください。わたしもたのしみにしています。

 

2026年8月31日月曜日

拾い読み日記 377


 8月31日。曇天の下、高いところから人気のないプールを見守るひとのすがたが目にとまる。その日焼けしてひきしまったうつくしい肉体を、終わろうとしている夏が、もてあましているようだった。
 すこし日が出てあかるくなってから、泳ぎにいった。水がつめたかった。7月1日のプール開きの日も、こんなふうに水はつめたかった。

 水にもぐった瞬間は、いつでも、アナーキーな気分になる。どうなってもいい、と思う。水につけるとむくむくふくらむ紙の花みたいに、たのしさがわあっとひろがる。今日は泳いでいるときに、からだがさかなのようにしなる感覚があって、水にのって、いつまでも泳げる気がした。からだが、水のなかで、水のリズムでうごいていた。

 家に帰ってすこしねむってから、本を読んだ。「そしてわたしの主要な闘いは、「シニフィアン」の勝利のため「シニフィアン」の崇高なるエロチスム、その衝動と解放のためなのです」。ロラン・バルトのように、ロラン・バルトを読むことができたら、と思う。水のなかで、水のように泳ぐこと。


*「ロラン・バルトとの対話」(蓮實重彦『批評あるいは仮死の祭典』せりか書房)

2026年8月30日日曜日

首都




 オーストリアの作家、ローベルト・メナッセの『首都』(福間具子訳、法政大学出版局刊)の装訂をしました。本について、くわしくはこちらをごらんください。9月3日発売予定です。この小説のことや、装訂のことは、あらためて、書く予定です。編集は、『パリ散歩』『ながい窖』と同じく、法政大学出版局の赤羽健さんです。

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 装訂した本の刊行記念イベントが開催されますのでお知らせします。


・手塚治虫『ながい窖』(法政大学出版局)復刻記念トークイベント
「1970年の手塚治虫——『ながい窖』が描いた日本社会」

本浜秀彦×晟一  司会進行:赤羽健

日時:9月6日(日)17:00〜18:30
会場:西荻のことビル2F 西荻シネマ準備室(今野書店主催)

会場参加:2200円 配信参加:1650円

詳細はこちら

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・松井裕美『掌の美術論』刊行記念トークイベント
「美術と魔術——みる、さわる、ずれる」

松井裕美×井奥陽子

日時:9月6日(日)15:00〜16:30
会場:本と珈琲の店 UNITÉ(三鷹)

会場参加:1980円 配信参加:1320円

詳細はこちら 


2026年8月26日水曜日

幻化


 その絵をみたあとでは、にんげんの世界を遠く感じた。とても暑い日だった。気持ちをふるいたたせて、美術館にいった。慣れない場所につかれはて、帰りの電車で空席をみつけて腰をおろし、目を閉じて、まなうらにのこされた絵を、ずっとみていた。ちいさな子が目の前で大声をだしても、どこか遠いところから聞こえるようで、ちっともうるさく感じなかった。

 山口華楊「幻化」では、2匹の狐が輪をえがくように跳ねて、あそんでいる。からだが、ぼうと白くひかっている。なずなや野罌粟や、さまざまな草花がやわらかく茂っている。しっとりと湿っている。まぼろしが、たしかに、目のまえに「ある」こと、絵という「もの」になって、そこにあることに、おどろき、言葉をうしなった。止められた時のなかで、永遠にまわりつづけるいきものたちは、みるものを、その世界へまねいて、帰そうとしない。

 帰り道、空を見上げて、夕暮れの雲の色や、月のひかりに、あそぶ狐のまぼろしをみた。そこ(ここ)にある、はるかなものたちのすべてに、その絵は似ている。それは、遠いむかしから、ひとびとがみてきたものたちだから、だから、絵のまえに立ったとき、この時を待っていたような、絵に待たれていたような、そんなふしぎなあたたかさにつつまれたのかもしれなかった。

2026年8月23日日曜日

海辺の一日


 というのも、体験された出来事は有限であり、少なくとも体験というひとつの領域に包みこまれているのに対し、追想される出来事は、その前後に起こった一切の事柄に対する鍵にほかならないがゆえに、限界をもたないのだ。(ヴァルター・ベンヤミン「プルーストのイメージについて」)

 追想される出来事の無限性。エドワード・ヤン「海辺の一日」に、ここまでこころを囚われるのはどうしてだろうかと、ふいによみがえるワンシーンとたわむれるように日を過ごしながら、かんがえるともなくかんがえつづけていて、偶然よんだ言葉を手がかりに、この状態から抜け出してみたいと思った。

 追想という行為の終わりのなさ。彼女は、その女性と別れてから13年のあいだに起きた出来事を想起して、語ることで、それらと、ふたたび、出会いたかったのかもしれない。彼女の兄は最期にいった。「僕は心からこの世界ともう一度知り合いたい」。

 「それから?」とうながすひとのまなざしの優美なこと。口をつぐんで遠くをみているようなひとの睫毛が、かすかに震えていたこと。

 回想のなかの回想のシーンがはじまったとき、からだにちいさなしびれがはしり、わずかにこみあげてくるものがあったが、自分でもその意味がわからなかった。少女に愛おしさのようなものを感じた。彼女がのちに味わう痛みを知っているから? あるいは、追想の果てしなさに、その迷宮性に、ただ、打ちのめされていただけのようにも思える。

 映画をみおえて、彼女たちが生きた時間と、自分が生きた時間を重ねて、終わりのない追想の時間がはじまる。あの日は、映画をみたあと、にぎやかな中華料理屋で、Mと興奮して話しつづけ、ふたりとも、のみすぎ、たべすぎた。隣では若い男女が大勢で飲み食いしていて、うるさいので、わたしたちは大声で話しあった。それら前後に起こったこともふくめて、のちの日に、さまざまに、くりかえし、「海辺の一日」を思い出すことになるだろう。

2026年8月19日水曜日

拾い読み日記 376


 本をひらいてよんでいて、ふと文字列から目がそれて、自分の手が目にとまり、その老化におどろくことがある。こんなにしわが多かったかと。日に焼けて、みずみずしさもない。つかいこまれた道具にもみえる。これはほんとうに自分の手なのか、と思いつつ、こんなことを思うのはどうしてだろう、とか、そもそも手とはなになのか、とかんがえたりもしている。

 小長谷清実の「指はイモ虫」という詩をよんだ。窓辺で椅子に座り、何かを思い出そうとして混乱し、カーテンをつかんだ指が、イモ虫になぞらえられている。イモ虫が「寒天状のカーテン」のなかでうごいている。

 寒天のなかで無意味にのたうつ
 その背その腹のいやらしさ

 無意味さといやらしさのみ
 指の先からジンジンひびいてくる

 わたしは少し疲れているのだろうか
 気にかかるのはイモ虫だけだ 自分のことだけだ

 イモ虫なんか一匹もいない
 椅子にすわってカーテンをいじっている中年のおじさん

 この最終行に、とても惹かれる。指という「もの」、あるいはイモ虫という他者にこころをうばわれていたのが、ふと我にかえって、その「我」がまた他者としてあらわれる、といえばいいのだろうか。
 目を落とすと、不恰好な自分の指が目にはいる。イモ虫の指。それらがもぞもぞうごいてキーボードを叩き、文字があらわれる。イモ虫が無意味に本のうえを這い、紙をめくる。いいことではない、いやらしいことをしているのだ、と中年のおばさんが、かんがえはじめている。

2026年8月17日月曜日

40年前の虫について


  夜おそく、へとへとになって家に帰りついて、ドアを開けてMにただいま、といったとき、ずいぶんひさしぶりに会った気がした。たった一泊二日の旅から帰ってきただけなのに。とても遠いところまでいってきたのだ、おそらく40年前までいって、帰ってきたのだろう。

 みんな、どんな55歳になったのかなあ、という興味もあって出掛けてきた。どうしてあの子がこんなふうになったのだろう、という好奇心から、やや、あぶない目にもあった。しかしその瞬間、その人のいきいきした部分にふれられて、それは、かならずしも、わるいことではなかった。いきいきしたものを、すっかりうしなったのかと思っていたから。

 なつかしい人と話していると、その人の今の顔のなかにむかしの面影をみることになり、そこからさまざまによみがえる記憶があって、あたまが、いっぱいになった。彼ら彼女らの「今」を知りたかったが、彼ら彼女らのなかにのこる過去の自分のことも、知りたかった。そのころの自分がどんな人間だったか、よくわからない。おそらく、中学生になっても、まだ、ものごころが、ついてなかった。

 自分は、まじめで、無口で、反応がちょっとへんな中学生らしかった。授業中、とつぜんパン!と手をはたいて虫をころしたよね、といわれた。もちろんそんなことは、まったくおぼえていない。それでも、その虫は、蠅だったのか、蚊だったのか、妙に、気になっている。ひょっとしたら、そのような奇矯な行動をとることで、自己を、表現しようとしていたのか?

 帰りの新幹線で「linger」を聴いた。Royel Otisのカバーのほうが、乾いている感じですきだ。Do you have to let it linger? 40年前のことと一昨日のことを、すこしのあいだひきずったら、「今」にもどって「これから」に目をむけたい。今は、まだ、ひきずっていてもいい。

2026年8月11日火曜日

拾い読み日記 375


 「みた」ことについて書いていると、それが「あった」ことを巻きこんで、ころがり、ふくらんでいくので、とりあえず、ついていくことにした。記憶のスクリーンがカーテンに変貌して、ゆらゆら揺れはじめる。無数の襞からあらわれてきたものを、みなかったことにはできない。虚が実をよみがえらせ、実は虚のなかにあらたな生を見出した。そのことで虚も、ゆれうごいているようだった。そうなってみると、虚であるか実であるかは、もはや、どうでもいいことに思われた。

 朝からジャック・デリダ『絵葉書 Ⅰ』を読んでいた。頁をめくれば熱いうねりを感じる。わけもわからずに、首をつかまれ本のなかに投げ入れられたようになって読みつづける。

 書物を読み終えたとき、その書物の数々の声のひとつが君に、何か次のようなことを囁くと仮定してごらん、「おいで(アリーヴ)」と私が言い続けていたそのたびごとに、私はあなたのことを思っていたのです、でもそれは偶然に起きる(アリーヴ)事故のことでも、生じる(アリーヴ)来事のことでも、到着する(アリーヴ)あるいはしない手紙のことでもなくて、あなたのことなのです。あなたに(傍点)期待している何かを、ではなくて(……)ただただあなたを、到来するあなた、到来するものであるあなた、私に到来するものであるあなた、到来からだけ私へと到来するものであるあなたを、思っていたのです。

 顔をあげて、息をついた。やわらかな頰のようなしろい紙の肌に、自分のてのひらを重ねて、幾度かなでてみる。きっと、行間からあふれでるものを、とどめようとして。

2026年8月10日月曜日

Gという男


 傷心のGという男をはげますために、ひたすら、あたまや背中や頰をなでていた。彼はなにかをうしなったらしかった。とりかえのきかないなにか。必要としていただれか。その喪失をつかのまでもわすれるために、彼はひとの肌をもとめていた。うつくしく繊細だが、どこかおろかなところのある男で、もう中年といっていい年齢なのに、まるで幼児のように、ひととの距離感がはかれないあやうさを持っていた。そしてそのあやうさが、Gの魅力のひとつでもあった。

 彼がもとめていたのは、わたしの肌、手のひらや指だけでなく、声の肌や、言葉の肌でもあるのだった。だから、彼のからだをさすりながら、声をかけることもわすれなかった。そんなふうに自分のすべてをさしだすことに、どこか、陶酔するような感覚があった。いつまでも、こうしていてもいい、と思った。もしかしたら、彼のうつくしさと繊細さに、ひかれていたのかもしれない。

 だいじなものをみせてあげる、といわれてドアの外で待っていると、Gが持ってきたのは、犬のぬいぐるみだった。ショコラとかなにか、あまったるい名前がついていた。よくみると、ぬいぐるみのあたまが人形になっている。つぶらなひとみとつるんとした肌を持つ、可愛らしいおんなの人形で、それをみたとき、これか、と思った。これだったのか。彼に起こるすべてのもめごとの理由を目の前にして、さとった。わたしは彼をはげましていたのではなく、あまやかしていただけだった。

 それは、あまり、ひとにみせないほうがいいと思う、とちいさな声でつたえて、路面電車に乗って、家に帰った。つぎつぎあらわれては消えてゆく景色をながめながら、Gはこれからも、ひとをはげしくすきになったり、とつぜんきらいになったりするのだろうな、とぼんやりかんがえていた。

2026年8月8日土曜日

本を開く感じで


 明け方の空に、真珠色の雲がうかんでいた。あわい桃色がまじっていて、まだ、夢のなかにいるようだった。なにかがあった、というおぼろげな記憶しかない夢のなかに。蟬の声と鳥の声を、しばらく聞く。空を横切る鳥の影が見えて、ある男のくぐもった声が、あたまをよぎった。なあ、空飛ぶのってどんな気持ちだ? 「動物と話す感じで人に話しかける男」が気になって、昨日、ついみてしまった動画のなかで耳にした台詞だった。
 人と話す感じで動物に話しかけることはあるが、逆は、なかった。人と話す感じでぬいぐるみに話しかけることはあるし、ぬいぐるみと話す感じで人に話しかけることもある。本に話しかけることはないが、人に話しかける感じで本を開くことはあるし、本を開く感じで人に話しかけることも、きっとある。

 どんな本がすき? たまに人に聞くけれど、聞く前から、あらかた答えはわかる気がする。人は愛する本に、くりかえし読む言葉に似てくるものだ。顔に書いてある。顔が書いている。以前は、そう思っていた。しかし近ごろは、「顔が書いていない」人も多いみたいだ。
 だから、わかった気にならないで、気になる人には、たずねてみようと思う。ねえ、どんな本がすき? 本を読むのって、どんな気持ち?

2026年8月3日月曜日

あおむけの蟬


 ドアを開けて外に出ると、階段のまんなかであおむけになっている蟬がいた。「あんた……なんでこんなところで……」。つい声をかけてしまう。あとからかんがえると、蟬に「あんた」はへんだったし、なんだか、よっぱらって家にたどり着けずに階段で寝てしまった人に対する口調みたいだった。誰かに踏まれないように、羽をつまんで端に移動させようとすると、びびびびといって動き出し、飛び去ったので、うわあっ!と声が出た。しばらくのあいだ、動悸が止まらなかった。
 「わたしたちが身体を持っているのは、〈いまここ〉によりいっそう付着するためにではなく、場を変え、時間を変え、空間を変え、形態を変え、物質を変えることができるためである。」(エマヌエーレ・コッチャ『メタモルフォーゼの哲学』) ねむっていた蟬は、めざめて、どこへ向かったのか。やみくもで、ふらふらしていて、まるで、あれは、自分をみるようだった。よわよわしいけれど、たしかにそれは、ひとつの生命の力であって、その変化のエネルギーが、指のさきから一気にながれこんできたせいで、まだ、どきどきしている。

2026年7月31日金曜日

拾い読み日記 374


 本を読んでいて、何かを感じる。思う。思い出す。かんがえる。読んでいることと読んでいないことの絶え間ないせめぎ合い、それが本を読むということなのか、「読んでいない」がいつも「読んでいる」を圧倒してしまうのは、感覚が、つよすぎるからだろうか。
 
 ラルフ・ジェームズ・サヴァリーズ『嗅ぐ文学、動く言葉、感じる読書 自閉症者と小説を読む』を読んでいる。「自閉症的読み方」、ゆっくりと、濃く、ふかく読むこと。言葉に憑かれたり、言葉にとらわれたりすることを、おそれなくて、いいのだと思った。

 はやく読めなくていい。たくさんの本を読めなくてもいい。感覚にのみこまれて、何を読んでいるのかわからなくなってもいい。感じたことがすべて、いずれ、「本」を豊かにすることにつながっていく。妄想かもしれないが、そんなことを、寝そべって本を読んでいて、すこしねむって意識がもどったときに、思った。

 黄昏どき、一羽の白い鳥が、北のほうに向かって飛んでいった。川に来ていたシラサギだろうか。あの鳥のかたち、はばたきかた、ゆったりしたリズム。それはやわらかな啓示のように、とつぜん胸におりてきて、このことを、だれかにつたえなければ、と思ったのだった。

2026年7月25日土曜日

拾い読み日記 373


 まちがった方向に進んでいたらどうしようかと、ときどき不安になりながら、作業を進める。まちがっていたら、指摘してもらえばいいのだから、今は、先に進むしかない。

 このところ、ほとんど本が読めなくて、淋しい。しんそこ、たよりない。だから今日は、本棚に手をのばして、『クレーの日記』を、少しだけ読んだ。
 
 記録され分類されたものは、生気を失う。いつまでもこんな環境に身をおくことは不可能だ。こんなことでは、自分を失ってしまう。
 いつか、何もない場所に跪き、不在に深く心を奪われなければならない。

2026年7月24日金曜日

わたしのオバケ


 形象であたまがいっぱいになる。さまざまな色やかたちや線が、それらがつくりだすイメージが、つかのまくみあわさって、はなれて、うかんで、ながれていく。またすぐにやってくる。うごいて、おどって、うたっている。たわむれている。それを、ずっとみている。きいている。ついていこうとする。ふれようとしてみる。つかれる。なにも、きめられない。ことばはまったくあたまにはいってこない。それでもことばとはなれたくない。それらはすべて、ことばによってあつまってきた形象だからだ。ことばのようで、ことばでないもの。それはわたしを、ことばの外へ、つれだしてくれる。ことばによるかんがえの外へ。
 
 「絵は描く人それぞれのオバケ」(清宮質文)。わたしのオバケは、このあたまのなかの漂流状態から、ぶじに、ぬけだすことができるだろうか。

2026年7月21日火曜日

拾い読み日記 372

 
 愛は「与える」ものでも「受け取る」ものでもない。それは、関係の中で起こり、私たちを変え、揺さぶり、境界を超えさせる事象である。そこには安心だけでなく、不安も含まれる。理解と誤解、近さと距離、支えることと支えられることが、絶えず入れ替わる。その不安定さを抱えたまま、共にあろうとすること。そこにこそ、愛の現実がある。(稲原美苗『障害と生きることの現象学』

 この本は、ロマン主義なんだよ! という國分功一郎の声が、よかったなあ、と思い出している。実感がこもっていた。ロマン主義者に、ぜひ読んでほしい。ひとを愛するとはどういうことか、考えずにはいられないひとに。ひとを愛しすぎてしまうじぶんを、どうしたらいいのか、わからないひとに。
 稲原さんを目の前にすると、その透き通った、愛にあふれた「気」に、ふれられて、涙が出てしまった。人の「気」に感応しやすいので、ときどきは、そのせいで、ねこんでしまう。

2026年7月20日月曜日

拾い読み日記 371


 500ページ近い小説のゲラを、10日間ほどかけて、読み終えた。毎日、あと何ページ残っているか確認しながら、遠い目的地までゆっくり歩いていくように、読んできた。読み終えた瞬間、ある感慨があった。感動していた。とてもいい小説だったから。そして、それが終わってしまったから。同時に、一枚のペラペラの紙(ゲラ)をもって感動している自分が、なんだか、おかしいなと思った。手応えのあるものを受け取った。その手応えがほしかった。小説を読み終えることにとって、本を閉じるという行為が持つ意味は、おおきいのではないかと思う。そして、小説を読むことにとって、ページをめくるという行為が持つ意味についても、考えてみたい。ものがたりが「もの」であることのよさ。

 昨日、本のしごとをしているともだちとのんでいて、装幀の話になり、松浦寿輝『巴』(講談社文芸文庫)のカバー表1の画像をみたその人が、「ロボットパルタじゃん!」といった。え、何それ。みてみると、確かに、ちょっと似ていた。「巴」がフリーズしたロボットにもみえてくる。この文字のかたちと、小説世界は、どうかかわっているのか。まったく関係がないのか。たしかめてみたい気もする。ひょっとしたら、読みすすめていくと、この「巴」の文字が、目覚めて、うごきだすなんてことが、あるのだろうか。

 せっかくなので、ロボットパルタのアニメをみた。カクカクしたかたちでカクカクうごき、不明瞭なことばを話すパルタが、すっかりすきになった。主題歌も、よかった。「きみのためなら こわいことでも たのしいことに なんでもかえちゃう」。ともだち思いの、けなげなパルタ。


2026年7月17日金曜日

むげん


 数年前に知って、ふしぎな曲だ、と感じ、もう何十回も聞いている「むげん」(崎山蒼志 with 諭吉佳作/men)の歌詞を、眠る前にぼんやり思い出していたら、ふと、これは胎児の歌ではないか、と思った。「くらい せまい あたたかい 顔を洗う水 踊る 踊る 蹴る きづいて ほしい」。お腹のなかにいるいきものが感じていることは、何だろうか。じぶんは何を感じていただろうか。どうして忘れてしまったのだろうか。というか、ほんとうに忘れてしまったのだろうか。

 昨日、プールで泳いでいるとき、水底いっぱいにひろがってゆれる光のもようを見ていたら、とつぜん、意識はつながっている、と感じた。つながっている、もしくは、溶けあっている。意識、しかし、誰の? わたしと「あなた」の? 人間と世界の? いまとむかしの? よくわからないままに、こわばっていたものが、やわらかくほどけていくようだった。意識のなかに、他者がすでに存在すること。そしてたましいのなかにも他者が、いや、たましいそのものが他者であること。

 私が魂を持つのではなく、私は魂の保管所なのである。(西郷信綱『古代人と夢』(下線部は傍点

 ステージで、ここにいないひとの声と歌う崎山蒼志の孤独。この世にひとりとりのこされた人間の(身体の)、癒やしようのない淋しさをみているようで、胸がくるしくなる。

2026年7月15日水曜日

球とたましい

 
 はじめての場所で、はじめてのひとたちと球を打ち合う。
ちいさな声で話す白髪の女性がいた。20歳ほど年上だろうか。その中身、なんですか? 水筒の飲み物についてほかのひとにたずねられて、緑茶です、とこたえると、横から、お茶の色とユニフォームの色が合っていますね、と、ちょっとおもしろいことを、その女性は言った。趣味のよさと品のよさを感じさせる、ひかえめな口調だった。すこし言葉を交わしただけで、そのひとがどういうひとなのか、わかる。それはたぶん錯覚だけれど、ある程度、あたまのなかに、その人物像ができあがる。

 彼女と打ち合ってみると、いきなりバックサイド深いところに速いロングサーブが来て不意をつかれる。そのサーブでバック側に意識を向けさせて、フォア前の短いサーブでこちらを揺さぶろうとする。相手にまったく隙をあたえない、勝つための卓球だった。そして少しでも球が浮いたら、びっくりするくらい力強いスマッシュが飛んできた。ラケットの振り方に、殺気すら感じた。さっきまでのあのやさしいひとは、どこにいったの? 人間の多面性におどろきながら、初対面の相手にこんなにも「全力」をぶつけられることのよろこびを、全身に感じた。強打を決められてうれしくなったのは、はじめてかもしれない。

 それは、おそらく、身近な者たちには見せることのないはげしさであるだろう。球によって、奥にひそむものが飛び出してきたのだ。あの球にこめられていて、わたしを強く打ったものは、彼女の「たましい」だったのではないか。そんな気がしてならない。わたしには、まだ、あのような球を打つことができない。