というのも、体験された出来事は有限であり、少なくとも体験というひとつの領域に包みこまれているのに対し、追想される出来事は、その前後に起こった一切の事柄に対する鍵にほかならないがゆえに、限界をもたないのだ。(ヴァルター・ベンヤミン「プルーストのイメージについて」)
追想される出来事の無限性。エドワード・ヤン「海辺の一日」に、ここまでこころを囚われるのはどうしてだろうかと、ふいによみがえるワンシーンとたわむれるように日を過ごしながら、かんがえるともなくかんがえつづけていて、偶然よんだ言葉を手がかりに、この状態から抜け出してみたいと思った。
追想という行為の終わりのなさ。彼女は、その女性と別れてから13年のあいだに起きた出来事を想起して、語ることで、それらと、ふたたび、出会いたかったのかもしれない。彼女の兄は最期にいった。「僕は心からこの世界ともう一度知り合いたい」。
「それから?」とうながすひとのまなざしの優美なこと。口をつぐんで遠くをみているようなひとの睫毛が、かすかに震えていたこと。
回想のなかの回想のシーンがはじまったとき、からだにちいさなしびれがはしり、わずかにこみあげてくるものがあったが、自分でもその意味がわからなかった。少女に愛おしさのようなものを感じた。彼女がのちに味わう痛みを知っているから? あるいは、追想の果てしなさに、その迷宮性に、ただ、打ちのめされていただけのようにも思える。
映画をみおえて、彼女たちが生きた時間と、自分が生きた時間を重ねて、終わりのない追想の時間がはじまる。あの日は、映画をみたあと、にぎやかな中華料理屋で、Mと興奮して話しつづけ、ふたりとも、のみすぎ、たべすぎた。隣では若い男女が大勢で飲み食いしていて、うるさいので、わたしたちは大声で話しあった。それら前後に起こったこともふくめて、のちの日に、さまざまに、くりかえし、「海辺の一日」を思い出すことになるだろう。
