本をひらいてよんでいて、ふと文字列から目がそれて、自分の手が目にとまり、その老化におどろくことがある。こんなにしわが多かったかと。日に焼けて、みずみずしさもない。つかいこまれた道具にもみえる。これはほんとうに自分の手なのか、と思いつつ、こんなことを思うのはどうしてだろう、とか、そもそも手とはなになのか、とかんがえたりもしている。
小長谷清実の「指はイモ虫」という詩をよんだ。窓辺で椅子に座り、何かを思い出そうとして混乱し、カーテンをつかんだ指が、イモ虫になぞらえられている。イモ虫が「寒天状のカーテン」のなかでうごいている。
寒天のなかで無意味にのたうつ
その背その腹のいやらしさ
無意味さといやらしさのみ
指の先からジンジンひびいてくる
わたしは少し疲れているのだろうか
気にかかるのはイモ虫だけだ 自分のことだけだ
イモ虫なんか一匹もいない
椅子にすわってカーテンをいじっている中年のおじさん
この最終行に、とても惹かれる。指という「もの」、あるいはイモ虫という他者にこころをうばわれていたのが、ふと我にかえって、その「我」がまた他者としてあらわれる、といえばいいのだろうか。
目を落とすと、不恰好な自分の指が目にはいる。イモ虫の指。それらがもぞもぞうごいてキーボードを叩き、文字があらわれる。イモ虫が無意味に本のうえを這い、紙をめくる。いいことではない、いやらしいことをしているのだ、と中年のおばさんが、かんがえはじめている。