2011年8月17日水曜日

もうひとつのBook Fair





MOTOYAで今日から開催の「もうひとつのBook Fair」に参加しています。9/11まで、月・火お休みですのでご注意ください。どうぞよろしくお願いいたします! 以下はMOTOYAのHPからです。


リトルプレス・小規模出版本を中心に、自由な発想で制作した本、自己表現としての本、好きなものを追求した本などを集めました。

あなたのお気に入りの一冊を見つけにいらして下さい。


Art-Phil / アトリエ ノワイヨ / アラタ・クールハンド / 歩きながら考える編集部/いずみかわこうじ(旅人の木 編集室) / 懐中雑誌ぱなし / かくたみほ / 季刊誌「日々」/saji /サルビア / SunREOR / SPORE / たけのこスカーフ / はなうた / pieton / 福本浩子/BOOKLUCK / BOOKLORE / BonAppetit / mille books|ミルブックス /やまさき薫/大和ちさ / 山元伸子(ヒロイヨミ社)


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夏は毎年山に行きます。今年はちょっといそがしいような気もするのでどうしよう?とも思いましたが、やっぱり、えいっとばかりに登ってきました。<山ガール>ではなくて、ごくたまーに山に登る女(もうすぐ40さい)なので、下山の翌日と翌々日は足の筋肉痛がひどくてうまく歩けません。壊れかけのRobotみたいな動きになります。カクカクカクカク……。立ち上がるときは「は、どっこいしょ」って、なんだかおばあさんぽいんです。


山から下りて泊まったへんな宿(動物の剥製はやたらあるが、お風呂場の蛇口とシャワーがすべて壊れている)の本棚で見つけて手にした本は、島と灯台が舞台の物語でした。なんてタイムリーな。しばらくは山に出かけず、そのあたりでいろいろとがんばります。



追伸 写真は加藤大道さん(1896-1965)、絵はがき部に入ってもらいたいですね…

2011年8月10日水曜日

本は崩れず





 草森紳一写真展「本は崩れず」、森岡書店にて開催中です。

蔵書の写真や本を読む人の写真、そのほかおびただしい数の写真が、テーマ別に箱に入っていて一枚一枚見ることができます。


 とりわけひきつけられたのは、鏡やガラスに映った自分を撮ったセルフ・ポートレイト。これが、かなりの数、あるのです。室内の鏡、街角のショーウィンドウ、道路のカーブミラー、喫茶店や洗面所の鏡などなど。これがもし他の人だったら、ナ、ナルシスト? と思ってしまいそうですが、草森さんの表情はそうした甘さとはまったく無縁で、あくまでクールな観察者の面持ち。さながら自分の幻影を捕獲するハンターのようでもあり……。ようするに、かっこいいのです。

 それにしてもなにゆえこんなに自分を撮ったのかしら……と気になりつつ手にした草森さんの本の目次には、「私は誰なの」という言葉が。


よく考えてみれば、自分とはなにものなのだ、どういう顔をしているのかも、よくはわかってはいないことは確かだ。それ故わかっていないのだから、自分の顔写真を見てもわからないのが、当然なのに、これが自分だとは、やはり思える。このわからなさとわかることとの幽冥感。


「私は誰なの ルイス・キャロル/その『中有』の刑」(『悪食病誌 底のない舟』昭文社出版部刊)


 こんな文章をお酒を飲みながら読んでいたら、酔いがまわりすぎてしまって、「不可解な気分の中に浮かぶ自分」をただ持てあましました。


 写真展では、『草森紳一が、いた。 友人と仕事仲間たちによる回想集』も販売しています。搬入のお手伝い中、草森さんの顔をじいーっと見つめていたら眼の中にその姿がくっきりと焼きついてしまって、家に帰って熱に浮かされたようにこの本を手にしました。草森さんの過剰摂取であたまに血が上り、眠れなくなった夜です。


翌日の矢崎さん南陀楼さん対談も、愛と笑いに満ちていてたいへん愉しい思いをしました。生前お目にかかれなかったのは残念ですが(ほとんど著書を読んだことがなかったし……)、物書く人との出会いに遅すぎるなんてことはないでしょう。

 ということで、こんにちは、草森さん。ようやくお会いできました。



追伸 かまくらブックフェスタに参加します! くわしくは、追って…

2011年8月6日土曜日

ヒロイヨミ制作中です





 ヒロイヨミ社、などと会社みたいな名前がついていますが、じつは、当方は会社ではありません。ヒロイヨミ者です。(だれも勘ちがいしませんか?)


 まるで一人遊びのように、著作権が切れたテキストを好き勝手に組んで冊子を作り始めたのは4年前のことです。われながら妙なことを始めてしまったなと感じつつ、ひたすらプリントゴッコのランプをピカッピカッと製版してはインクにまみれて印刷しつづける、楽しいけれどもつらく孤独な制作の日々でした。

 できあがってから、さてどうしよう、と途方にくれ、とりあえず好きな本屋さんに見本を送ってみたけれど、返事はなしのつぶて。つぶれゆくこころを支えてくれたのは、感想をくれた友人知人の言葉だったように思います。取り扱います、とはじめて本屋さん(百年)にいわれたときはうれしさで舞いあがってしまって、もう売れなくてもいいや……と思ったくらいです。あのときに一喜一憂しすぎて疲れてしまったので、いまではあまり評価とか売れ行きとかは気にせず、自分のペースで作りたい(見たい)ものだけ作っています。


 さて、そんな心もとないはじまりの冊子でしたが、いまは一人だけで作っているわけではありません。新しい「ヒロイヨミ」は「机上の灯台」展にあわせて灯台を特集するのですが、本文は活版刷りのため、活字屋さんと印刷屋さん(写真)のお世話になっています。ずいぶん開かれた気がします。出版社みたい。

 さらには、掲載許可をいただくために、ある詩人の息子さんにお手紙とバックナンバーをお送りしたら、どうぞ自由に舞台を設置してみて下さい、とのありがたいお返事をいただき、なんだか力がわいてきました。と同時に、心地よいプレッシャーも感じます。ただ、そうした圧力のようなものは、どんな作品を扱うときにも感じます。


あたかも印刷機が差し延べる鏡に映し出されでもしたかのようなかたちでそこに著者の精神が覗かれる。紙とインクが調和し、活字が鮮明で、構成に気が配られ、行揃いも完璧で、そして刷り上りも見事であるときは、自分の言葉と文章が著者にとってまるで新しいもののように思えだす。


ポール・ヴァレリー『書物雑感』より(生田耕作訳・奢灞都館刊)


 見るための版面と読むための版面は別のものだ、とはじまるこのエッセイを読むと、あらためて、人の言葉を扱う、ということが、おそろしいことのように思えてきます。

 しかし、著者にとっても、自分の書いたものが読みやすく、美しい活字になることはときにおそろしいことでもあるようです。弱々しいところや独りよがりな部分までも大きな透りすぎる声でしゃべりだしてしまう、それは「たいそう有益な、たいそう恐ろしい審判に身をさらすことである」。……ヴァレリーのことが急に好きになりました。


 そのテクストがどのように組まれるべきか、正解はないのかもしれませんが、書かれた言葉への信頼と畏れはいつでも持っていたい、と思いながら、きょうも、悩んだり迷ったりしています。



追伸 ふと窓をみると、蟬がよたよたと網戸の上を歩いていました もうすぐ立秋…


2011年7月26日火曜日

机上の灯台





どこにも出かけずだれとも会わず、ただひたすらに家で作業しなければ、という日、せめてお昼には外の空気が吸いたい、と人恋しいようなそうでもないような気分でぼんやり近所を歩いていて、学校がえりの小学生の小ぜりあいなどに出くわすのは、なんとなくゆかいなものです。

「うるさいデブー!」と素っとんきょうな甲高い声を残して逃げ去る男子。「デブじゃないからー」と低い声でつぶやく(すらりとした)眼鏡女子。声の低い女の子ってみょうに気になります。背中のランドセルと大人びた雰囲気がちょっとアンバランスで目が離せないかんじ。あのばかっぽい男の子のこと、じつは好きだったりして、などと妄想するのもまた愉しいことです。……ああ、娯楽が足りてないのかもしれません。

8月から10月にかけて活発に活動しますので、いまはそのことであたまがいっぱいです。


さて、9月上旬にみずのそらでグループ展があります。「机上の灯台」、くわしくはこちらご覧ください。二年前の「水の手紙/空の余白」につづいて、活版印刷でつながった友人たちとの展示です。現在DMを制作中ですので、できあがったらまた写真など掲載したいと思います。


それから草森紳一さんの写真展「本は崩れず」、森岡書店にて開催されます。縁あってちょっとお手伝い(お店番とか?)することになりそうです。

「本は崩れず」はこちらの帯文から。100回に1回はいいコピーを書きますね、と編集者にいったら「いや10回に1回だ」と。毎回書けばいいのに。『本が崩れる』と『本の読み方』、合わせて読んでからご来場いただくと、より楽しめるかもしれません。


写真は数年前に行ったジュネーブにて。

遠くに見えるもの、あれは灯台? 撮ったときは気がつきませんでしたが。



追伸 最後はみんなで「岬めぐり」合唱しますか

2011年7月20日水曜日

とりとめもなくなにもかもが





夏なら、うちのまわりには、よく、しまいわすれたくまでとか、バケツ、うっかりおいたままのぼうし、ねこにやるミルクのおさらなど、とりとめもなくちらかっていて、見るからにたのしくなってしまうものなのに。なにもかもがほうりだされたまま、あしたになるのを待っているなんて、のどかで、人のすんでいる家らしくて、いい気持ちのものなのに。


トーベ=ヤンソン『ムーミン谷の十一月』(鈴木徹郎訳・講談社青い鳥文庫)



家の中が片付かなくたって、まあいいじゃないですか。スッキリしすぎた部屋なんて、おもしろみがないです。(人も。)


写真は香港のキンコーズ的なところ。とりとめもなくちらかっていて、のどかな気持ちになりました。あのパイナップルは、なんだろう……。



追伸 なんだかいまひとつ仕事に集中できないのは……はっ片付いてないから?

2011年7月6日水曜日

再会の夜





 ひとりの夜、仕事をすませてシャワーを浴びて、なじみの大きな本屋さんに出かけ、黄色いお花が咲きみだれた楽しそうな本を一冊買って、それからちょっと一杯ビールをひっかけたあと、あやしげなネオンをかいくぐって、いそいそと映画館へ向かいます。大人になって、東京に出てきてよかったなと思うのはこんなときです。


「動くな、死ね、甦れ!」と「ひとりで生きる」を観て恋をしたパーヴェル・ナザーロフに、「ぼくら、20世紀の子供たち」で16年ぶりに会えました。息がつまりそうなほど蒸しあつい日、池袋の文芸座にて。


 なんにも見ていないような目をして、風に吹きとばされそうなうつろな佇まいでギターをつまびく彼、その顔のまわりの蒼い空気は子どものころとまるで同じで、胸がきゅうと締めつけられました。そして、かつて共演したディナーラ・ドルカーロワとの再会のシーン。塀の中に入ってきて婉然とほほえむ彼女を前にして、思わず顔をそむける彼。そのかすかにゆがんだ目元と口元。内面の激しさと弱さとやさしさがあふれ出るように露わになったその瞬間、性懲りもなく、また彼に恋をしてしまったようです。なにかを堰き止めているかのように、低くおさえめの声も好き。


 映画は、みる、というより、仰ぐ、浴びる、浸るという動詞がぴったりです。わたしにとっては、電子ブックが「本」でないのと同様に、テレビやパソコンでみるものは、「映画」ではなく、別のもの。「映画」には、なにより、暗闇とスクリーンと他人の気配(知人でなく)、もしできれば、そのあとは余韻にひたりながら珈琲かビールをたのしむ時間が必要です。家を出るときから帰るまで、映画を観るまえ観たあと、その一瞬一瞬の心の揺れまでもすべて含めて、「映画を観る」ということに含まれています。


 カネフスキーの映像には、身も心もガッサリと持っていかれていいようにされてしまうので、家に着いたらもうよれよれに疲れていました。闇の中で聞いた、たくさんの歌を耳の奥にかすかに感じながら寝床に倒れこんで、家人に「(灯りが)まぶしい!」「(音楽が)うるさい!」「眠い!」(じゃあ眠れば?といわれた)と大声で文句をいっていたら、いつのまにかなるほど眠っていました。



追伸 今までで一番おいしいビールだ、とアナちゃん(緊急来日)。再会の表参道にて

2011年6月29日水曜日

なずな





堀江敏幸さんの『なずな』(集英社)を読んでいたら、今から約十年前、ほんのわずかだったけれど、この世にやって来てまもない人とともに過ごした時間のことを、とても生々しく思い出し、気づけばなずなちゃんが描かれたところばかりを目で追って、くりかえしくりかえし読んでしまいます。頭のほうから伝わる「もわん」とした熱、ミルクをどんどんどんどん飲む勢い、耳元のゲップ、甘い汗の匂い、不思議な音楽のような声、愛嬌(あるいは迫力)たっぷりの放屁音。ちなみに、自分の子のことではなく、甥っ子のことです。

日一日と変わりゆく愛する者、その一瞬の生をあますことなくとらえようとした言葉は熱と粘り気を帯びていて、読むわたしの身体の中に入りこんでぺったりくっつき、内側からつよい力で五感を揺さぶります。いつのまにか自分も、なずなちゃんと菱山さんをはらはらしながら見守る、親戚でもないのに親戚みたいな周囲の人たちの一員になって、二人の別れが近づくあたりでは、せつなすぎて胸が痛くなりました。菱山さんの愛情が、どんなに深く濃やかでも、けして度を越さない、節度をなくさないものだから、よりいっそう。


思い出したのは、石垣りんさんの『詩の中の風景』(婦人之友社)で知った山本沖子さんの詩です。


 紺色の制服を着て、カバンをさげ、中学校へ行こうとする娘に、私はかたりかける。


 いってらっしゃい、気をつけてね。

 赤ちゃんだったあなたを抱いて、ママは待っていますよ。


              山本沖子「朝のいのり」より


「赤ちゃんだったあなた」には、どんなに会いたくても会えないけれども、『なずな』を開けば、いつでもあの時間に戻って、あの瞳に、あの指に、あの声に会える。絶え間なく流れて、過ぎ去って行くものの四隅をいつまでも留めておく、やさしい重しのような物語です。実際、この本はなかなかに分厚く重いので、とても片手では持ちきれません。

「あ、お、あ」「はー、うー」「へぷ」という、多彩で表情ゆたかなななずなちゃんの声をそのまま線にしたかのような装画は、堀江さんの娘さんが子どものころに描いたものだそうです(『クロワッサン』情報)。

「なずな」というカバーのタイトル文字は、書体デザイナー今田欣一さんが設計した「くれたけ」という文字。すっきりしているけれど、ほどよい丸みがなんとも愛らしい文字です。とくに「な」の、くねんとしたあたりが、赤ん坊の輪郭、そのしなやかな曲線を彷彿させます。カバーに使われた紙の名前は「マーメイド」。やわらかい凹凸が指に心地よく、赤ちゃんのほっぺたをすりすりするみたいに、いつまでも撫でまわしていたいような手ざわりです。



追伸 というわけで今田欣一さんの講演があります! そして三浦しをんさんの『ふむふむ』(新潮社)に大石さん登場。

さらには「新宿わが街」。(くわしくはすべてこちらに。もりだくさんです)