2011年8月6日土曜日

ヒロイヨミ制作中です





 ヒロイヨミ社、などと会社みたいな名前がついていますが、じつは、当方は会社ではありません。ヒロイヨミ者です。(だれも勘ちがいしませんか?)


 まるで一人遊びのように、著作権が切れたテキストを好き勝手に組んで冊子を作り始めたのは4年前のことです。われながら妙なことを始めてしまったなと感じつつ、ひたすらプリントゴッコのランプをピカッピカッと製版してはインクにまみれて印刷しつづける、楽しいけれどもつらく孤独な制作の日々でした。

 できあがってから、さてどうしよう、と途方にくれ、とりあえず好きな本屋さんに見本を送ってみたけれど、返事はなしのつぶて。つぶれゆくこころを支えてくれたのは、感想をくれた友人知人の言葉だったように思います。取り扱います、とはじめて本屋さん(百年)にいわれたときはうれしさで舞いあがってしまって、もう売れなくてもいいや……と思ったくらいです。あのときに一喜一憂しすぎて疲れてしまったので、いまではあまり評価とか売れ行きとかは気にせず、自分のペースで作りたい(見たい)ものだけ作っています。


 さて、そんな心もとないはじまりの冊子でしたが、いまは一人だけで作っているわけではありません。新しい「ヒロイヨミ」は「机上の灯台」展にあわせて灯台を特集するのですが、本文は活版刷りのため、活字屋さんと印刷屋さん(写真)のお世話になっています。ずいぶん開かれた気がします。出版社みたい。

 さらには、掲載許可をいただくために、ある詩人の息子さんにお手紙とバックナンバーをお送りしたら、どうぞ自由に舞台を設置してみて下さい、とのありがたいお返事をいただき、なんだか力がわいてきました。と同時に、心地よいプレッシャーも感じます。ただ、そうした圧力のようなものは、どんな作品を扱うときにも感じます。


あたかも印刷機が差し延べる鏡に映し出されでもしたかのようなかたちでそこに著者の精神が覗かれる。紙とインクが調和し、活字が鮮明で、構成に気が配られ、行揃いも完璧で、そして刷り上りも見事であるときは、自分の言葉と文章が著者にとってまるで新しいもののように思えだす。


ポール・ヴァレリー『書物雑感』より(生田耕作訳・奢灞都館刊)


 見るための版面と読むための版面は別のものだ、とはじまるこのエッセイを読むと、あらためて、人の言葉を扱う、ということが、おそろしいことのように思えてきます。

 しかし、著者にとっても、自分の書いたものが読みやすく、美しい活字になることはときにおそろしいことでもあるようです。弱々しいところや独りよがりな部分までも大きな透りすぎる声でしゃべりだしてしまう、それは「たいそう有益な、たいそう恐ろしい審判に身をさらすことである」。……ヴァレリーのことが急に好きになりました。


 そのテクストがどのように組まれるべきか、正解はないのかもしれませんが、書かれた言葉への信頼と畏れはいつでも持っていたい、と思いながら、きょうも、悩んだり迷ったりしています。



追伸 ふと窓をみると、蟬がよたよたと網戸の上を歩いていました もうすぐ立秋…